長野県007

辻別邸

  • 1964年竣工
  • 設計/中原暢子
  • 構造形式/木造およびコンクリートブロック造 地上4階 鉄板葺
  • 用途/住居建築
  • 所在地/長野県北佐久郡軽井沢町

○概要
「辻別邸」は、中軽井沢南原地区の別荘地にある。設計は1961年から開始し、1964年竣工と長期にわたる。施主は辻二郎。理化学研究所出身で当時理研計器株式会社社長を務めていた。辻氏がなぜ中原暢子に設計を依頼したかは定かではないが、辻氏の娘とその夫が桑原デザイン研究室の出身であり、林雅子との繋がりがあったことから中原への依頼に繋がったと思われる。増改築については竣工後5~10年の間に台所以外の水周り、階段の位置変更、南側テラス増築が行われている。1階はカーポートとしてのピロティーとコンクリートブロック造の物置。2階は玄関、LDK、和室2室及び女中室と水廻り。3階は洋室、4階はロフトのような納戸。
○建築の特徴
「辻別邸」は、木造を主構造とする混構造の別荘建築である。丸太柱を斜材として合掌に組んだA型トラスとし、その柱脚からV型の柱を両サイドに水平梁で固定することによりW型のトラスとし、構造体を外観として露わにした構造表現主義的な建築となっている。梁間方向のW型トラスを固定させるための水平材は、合わせ梁を基本とするが、部分的に換気窓を確保するため一般的な梁としている。そして、中央のA型トラス内の2階LDKの床はW型トラスと構造的に完全に切り離されており、1階のコンクリートブロックと床束によって構成されている。構造のみを優先させることなく、居室の環境をも配慮し、無理をしない構造計画をベースに大胆かつ繊細な設計となっている。
○評価
<時代性>「辻別邸」は、戦後のモダニズムの流れを汲む構造表現主義的な建築のひとつとして、また、「林・山田・中原設計同人」(1958-)の設立者及び主宰として女性建築家の確立の先駆けとなった中原暢子(1929-2008 79歳没)の初期の作品として評価すべきと考える。中原は1929年埼玉県生まれ。1948年東京家政専門学校(現・東京家政学院大学)保育科を卒業、労働省婦人少年局に入り、そこで読んだ濱口ミホの「日本の住宅の封建性」に衝撃を受け建築を目指す。1952年武蔵工業大学(現・東京都市大学)短期大学部建築科を卒業し、1958年3月まで東京大学生産技術研究所の池辺陽研究室技術研究生、広瀬鎌二建築技術研究所の門下生として学んだ。池辺と広瀬は住宅を主として戦後のモダニズムをリードし、構造技術において生産性も含め最先端を目指した建築家である。同年6月、「林・山田・中原設計同人」を、林雅子(1928-2001)、山田初枝(1930-2021)らと女性のみのグループで設立した。事務所の運営は設計活動や営業は3者独立して行い、事務所のスペースと所員を共有するかたちであった。当時、女性のみでの独立はとても珍しく女性建築家のパイオニアの一人とされる。先駆的な存在で、のちの女性建築家に多大な影響を与えている。
<作家性> 中原暢子は、1985年東京家政学院大学家政学部住居学科助教授、1988年教授となる。自邸を「茶室のある家」と名付け茶三味の日々を送りつつ、2002年に初代会長を務めた国際女性建築家会議日本支部の名誉会長に就き、2008年79歳で亡くなった。中原の建築は、構造表現主義的なHPシェルの「長覚院」(1962)でデビューし「辻別邸」へと続く。その後、大高正人や山名元を中心に設立された「農協建築研究会」に参加、農村住宅改良に取り組むこととなり、住み手に寄り添う和風住宅へ作風を変化させる。その後、茶道を学び直し26室に及ぶ茶室の設計を行う。「辻別邸」は構造主義的な作品でありながら和風住宅の要素が見られ、中原の初期の作風を顕著に表現した作品として評価できる。
<地域性> 「辻別邸」は中軽井沢南原地区の別荘地にある別荘建築である。1931年に軽井沢出身の早稲田大学教授である市村今朝蔵(1898-1950)が自分の所有地を分譲し「友だち村」を発足させ、賛同した学者らが別荘を構えた。この活動は1955年に「財団法人軽井沢南原会」に改称され、今日まで続いている。
○現在
所有者の辻氏の娘、そして孫夫婦へと引継ぎ継がれ、丁寧に管理されている。未発表作品である「辻別邸」は、杉本茂(東京家政学院大学名誉教授)による中原暢子の遺作整理の作業、及び深石圭子(東京家政学院大学准教授)の博士論文により見いだされ、所有者へアプローチしたことにより価値をさらに理解され、今後も良好な状況が続くと思われる。

文責: 池森梢