○概要
旧軽井沢の愛宕山に向かう狭隘な道筋のひとつに「もみの木の家」と名付けられた「足立別邸」は建てられた。設計者アントニン・レーモンド(1888-1976)(以下、A・レーモンド)は、1919年フランク・ロイド・ライト(1867-1959)とともに帝国ホテル建設のため来日し、それより後、現代芸術精神の洞察を深め伝統的日本建築を洗練し結晶化した数多くの建築物を日本に住んで設計した。A・レーモンドの弁護士ジェームズ・アダチの夏の別荘として1965年頃から基本設計が行われ、1966年竣工した。
○特徴
暖炉のある居間、食堂、寝室などの主空間は、全体を南下がりの地形に合わせ、既存のもみの木に対する眺望に配慮して食堂を中心に扇型に居間、食堂、寝室を20度ずつ三つに折り曲げて構成している。次に、厨房、ユーティリティ、使用人室棟、浴室棟、玄関、便所棟のサービス空間は、北側に独立した三つの生活機能を配置し機能を有効に分け、それに伴って屋根の形状も厨房は切妻、浴室は入母屋、玄関は寄棟としそれぞれの機能に呼応させている。南面は「芯外し」による外部建具の連続性の表現によって幅広くガラス戸がとられており、大きな庇やバルコニーの張り出しによってどこからでもベランダに出られる、縁側のような空間を表現する工夫がなされている。内部は、トラスや母屋材に和風の丸太架構技術を使い唐松の磨き丸太の主体構造や鋏状の梁などによるあらわし構造により、ゆるやかに屈曲する食堂と居間の一体化した空間構成や寝室において表現されている。
○評価
<作家性> A・レーモンド自身は、「足立別邸」に対する評価を『自伝』(参考文献5)において「(省略)おそらく最も成功したのは、軽井沢のジェームズ・アダチの別荘であろう。家そのものが劇的な環境とうまく融けあっている。」(参考文献5,7)と述べている。次に、A・レーモンドの許で建築設計に携わりその著書(参考文献2,5)の翻訳者三沢浩は、住宅設計について「戦前の関東大震災後における耐震建築家としての出発に始まり、「モダニズム建築」のはじまりともいえるライトのスタイルを脱ぎ、近代への極端な接近を「霊南坂の自邸」で試みて成功したのが1924年。さらに日本風の習慣にあわせた「モダニズム建築」をつくり始め、(中略)幾多の小型の家では、「夏の家」のように新しい地域性のある技術と材料をもった形態を追求し、アメリカでさらにそれらを発展させた。そして、戦後の日本ではアメリカ生活を平面の上でそのまま紹介し、しかも木造和風+洋風といった、「レーモンド・スタイル」に昇華させたのである。」(参考文献7)と述べている。「足立別邸」は、1960年代に入り従来のスタイルを超える新しい平面計画への模索や「環境との融合」という主題に基づいた実験を、軽井沢の「劇的な環境」に対峙して従来のスタイルを最大限有効に活用し最良の空間を生み出しながら、さらに、それ以上の何かを自ら問い試みた顕著な展開を示す作品ということができる。
<地域性> 軽井沢は、避暑のための保養地として1887年宣教師A・C・ショーがこの地を訪れたことを契機に外国人避暑地を起源とした完成度の高い別荘建築を生む基盤となる環境を育んできた。一方、A・レーモンドは、昭和初頭から日光より軽井沢に移り別荘を購入し避暑に訪れており、避暑地のアトリエ兼スタジオとして、戦前は「夏の家」(1933)を戦後は「軽井沢の新スタジオ」(1962)を建てた。軽井沢をこよなく愛しその地域性について熟知した設計者が、「劇的な環境」を根底の主題として風土や地域性に係わる「全体の環境への配慮」を考慮した地域的な特色を明らかにする作品となっている。
○現状
建物は所有者である企業の保養施設の敷地内にほぼオリジナルの姿を留めて現存している。この場所の自然と一体となった貴重な「文化遺産」として大切に管理されている。今後の保全や継承を考えるにあたって、A・レーモンド設計の「旧赤星鉄馬邸」を対象とした既往研究を参照とされたい。
文責:佐野孝太郎