○概要
1959年に発足した更埴市にとって、市庁舎建設は最重要行政課題であった。早稲田大学の吉阪隆正U研究室に在籍していた滝沢健児は、我が故郷における新市庁舎の設計に関わるために独立して、U研究室滝沢事務所(U研究室の分室)を開設した。構造設計は早稲田大学の松井源吾、設備設計は同じく井上宇市が担当している。設計期間は1964年初夏から同年11月で、RC造地上4階・地下1階・塔屋2階、延床面積は3820.5㎡である。施工者は中信建設で、工事期間は1965年2月から1966年1月である。工事費は134,290千円であった。本庁舎に引き続き、北側に厚生棟が建てられた。
○特徴
本庁舎の平面においては、事務空間(東ゾーンと中央ゾーンは16m×16m・西ゾーンは14.7m×16m)が直列に三つ並べられて、その間に二つの階段コアが挟み込まれている。断面においては、中央ゾーンだけを半階ずらしてスキップフロアとし、階段コアで流動させている。二つの階段コアは地下の外壁で結ばれてU字型で地震時に抵抗している。玄関周辺はピロティになって開放されている。東階段コアの階段は踏板を長い鉄筋で吹抜上部から吊るという奇抜なデザインとなっており、揺れる階段とも言われていた。外観はコンクリート打放しが基調であるが、東西壁面には市章や麦穂をデザイン化した壁画レリーフ、事務室窓回りには市章をデザイン化したプレキャストコンクリートピース、階段コア周りにはタイル壁画を用いて変化が付けられている。東西の事務室の窓上には水平のブリーズソレイユ(日除け)が設けられて深い陰影をつくり出している。
○評価
<作家性> 「旧更埴市庁舎」は、滝沢健児の実質的な処女作にあたる。田園風景のなかに忽然とあらわれた可塑的なコンクリートの量塊は威風堂々のシンボルであったと思われるが、見慣れない異形の建築でもあった。「旧更埴市庁舎」は尋常ならぬ気迫をにじませており、隅々まで力の限りを尽くした渾身の力作と言ってよい。滝沢は旧更埴市において引き続き行政庁舎を手掛けているが、一目で同じ設計者とわかる個性的な外観で、旧更埴市の近代化イメージ向上に貢献した。
<時代性> RC造建築は地方部においては珍しい存在で、近代化の幕開けのような存在であった。施工者にとっても「旧 更埴市庁舎」は打放しに近い上に傾斜や曲面の加工を要する特殊型枠製作や仮設作業、新技術導入への対応、人海戦術のコンクリート打設作業など大きな挑戦であった。
<技術性> 滝沢健児は新時代にふさわしい建築表現のために新しい構法や技術に強い関心を持っていた。「旧 更埴市庁舎」では無柱の事務空間を実現するために、1962年に松井源吾が開発して間もない中空ボイドスラブ工法を用いた。プレキャストコンクリート製品等も積極的に取り入れたが、同時に職人による手仕事を活かすことも考えていた。また空間演出効果のために構造を利用することも心得ており、階段を塔屋から吊ったり踏板をブランコ状に吊り下げたりといったアクロバティックなデザインにも挑戦している。
<地域性> 同郷の政治家の後ろ盾を得て取り組むことができた大仕事であったが、滝沢健児は並々ならぬ心血を注いで見事に行政や市民の期待に応えた。「旧更埴市庁舎」の完成直後に国士舘大学で教鞭をとることになったが、「旧更埴市庁舎」を実績として長野県東北信地域で先駆的な建築をたくさん残すことになった。
○現状
本庁舎においては局部的な改修が行われてきたが、外観・階段室・議場等は辛うじて落成時の状態を保っている。駐車広場の南には消防庁舎が、厚生棟の東には新館が、また本庁舎の南脇には保健センターが建てられている。2003年に千曲市が誕生して、滝沢健児が設計した市民体育館、勤労青少年センター、老人福祉センターの跡地に、新市庁舎と新体育館が2019年に落成した。「旧更埴市庁舎」は閉鎖され、2024年から解体工事が着手されている。
文責:関邦則