長野県018

北斎館[小布施町並修景計画]

  • 1976年竣工
  • 設計/宮本忠長建築設計事務所
  • 施工/北野建設株式会社
  • 構造形式/木造および鉄筋コンクリート造 地上2階 桟瓦葺、S形瓦葺
  • 用途/住居建築、文化施設、商業・事務所建築
  • 所在地/長野県下高井郡小布施町

○概要
「北斎館」葛飾北斎(1760-1849)は高井鴻山の招きにより小布施を訪れ多くの肉筆画を残した。貴重な肉筆画が町外へ散出するのを防ぐために、集めて保存するための収蔵庫として新築(Ⅰ期工事・1976竣工)された。その後の来館者の増大に伴い、ホール・展示室等の増改修(Ⅱ期工事・1991竣工)を行い美術館機能の充実を図り、さらに展示室等の増改修(Ⅲ期工事・2015竣工)を行い小布施の文化・芸術の拠点施設として昇華させた。さらに住民や観光客が小布施の農業生産者やアート作家と繋がる場として、カフェの増築(Ⅳ期・2023竣工)を行った。
「小布施町並修景計画」 北斎館の開設に伴い多くの観光客が訪れることとなり、それまでの風景が壊されつつある危惧を感じていた。古きよきものを残しつつ「新しい場」を創り上げることを志し、「ソトはミンナのもの、ウチはジブン達のもの」という共通理念のもとで町並み景観・環境整備が進められ、全国から注目され続ける町となっている。
○特徴
「北斎館」新築時は収蔵庫として計画されたため、2つの土蔵が建つイメージによりつくられた。その後、来館者の急増を受け美術館へと増改修を行う。収蔵庫、展示室などの機能を持った5つの和瓦の寄棟屋根の間をフラット屋根でつなぐ構成とし、当初と同じ土蔵のイメージとし増築改修を経て現在に至る。瓦の屋並が連なる景観の一部となっている。
「小布施町並修景計画」(1975-1996) 北斎館の計画を期に、建築家:宮本忠長、小布施町:唐沢彦三(当時の町長)、町民代表:市村次夫・市村良三、宮本忠長建築設計事務所:久保隆夫の5人が一致協力しての修景プロジェクトが始まり、1975年から1996年にかけて約100m×120m、5地権者(町・民間企業・個人)において事業が推進した。
「小布施町並修景計画」は初めからのマスタープランなど無く、エリア内奥部の条件の悪いところから居住性を改良することから始め、良質な既存建物は手を入れて残し(保存建物7棟、改修・曳家14棟)、その繰り返しにより徐々に内懐から外表へと町の様相を新たに生まれ変わらせていった。また、既存敷地割を等価交換により私的外部空間から公的外部空間へと再構成することで新たな価値を生み出し、エリア全体を散策したくなるような町並空間へと昇華させていった。
○評価
<作家性> 宮本忠長は1927年須坂に宮本茂次の長男として生れた。祖父長作は長野で一二を争う建設会社を興した人で、父茂次は逓信省の営繕課で勤務した後、須坂に設計事務所を創設した。宮本は1945年に早稲田大学専門部建築学科に入学、1948年同理工学部建築学科を卒業。大学では教授の佐藤武夫に私淑し卒業後、佐藤武夫事務所に務めた。佐藤武夫は近代建築の推進者として活躍し多くの劇場や庁舎建築の設計で知られている。その後、1964年郷里の家業を継ぎ、宮本忠長建築設計事務所とし独立。同年、長野市庁舎を佐藤武夫の監修で宮本の設計とし長野での設計活動がはじまる。1981年長野市立博物館が建築学会作品賞を受賞により、宮本は全国に知られる存在となり「小布施町並修景計画」をも広く知られることとなる。当時、東京中心の建築単体が評価される時代において、地割を含めた「間」をもデザインした「修景計画」は衝撃をもって知れ渡ることとなり、宮本は地域に根差したローカルアーキテクトとして注目され続けることになった。
<革新性> 「北斎館」をきっかけに始まった「小布施町並修景計画」においては、計画的な進め方ではなく、次から次へと依頼された増改築や新築を関係者と共に試行錯誤を繰り返し、小布施の良さを増幅する形でつくり上げた。建築単体の設計を行うだけでなく、エリア全体の地割を含め再構築し、建物と建物の「間」をも併せて計画したことは他に類のない事例となり、日本の町おこしの火付け役になった。「毎日芸術賞」などを受賞し高い評価を得ている。
<地域性> 宮本忠長は普遍性を求めたモダニズム建築の精神を踏まえたうえで、その地(リージョナル)の社会環境や風土性、経済的クライテリアをも含めた建築のあり方を追求した。さらに地元産の材料や職人の大切さを考えたことから「信州名匠会」を設立するなど、リージョナル・アーキテクチャーの世界を展開した。小布施町は今も「ソトはミンナのもの、ウチはジブン達のもの」を共通認識として展開し続けている。

文責:池森梢