呉服町商店街に1958年に建てられた共同建築ビル。設計は当時、不燃化設計のリーダー的存在であった市浦建築設計事務所を代表に、野生司建築設計事務所とともに、地元の針谷、福島、磯部の各建築事務所が共同で担った。静岡駅から北西方向に連なる防災建築街区、防火建築帯は延長500mを超えるが、旧東海道に沿う呉服町の防火建築帯が先行し(1956-1958)、続いて駅までの紺屋町に防災建築街区が形成された(1964-1972)。
呉服町では、江戸期から連なる土地区画が、基本的に近代まで継承されている。最も西側(4班南)に建つこのビルは、約60m、4階建てで、帯状の平面形の店舗が軒を連ねる長屋型でありながら、3,4階において街路側に内部廊下を設け、事務所が載る。これは、耐火建築促進法では3階以上の耐火建築物が原則とされたが、もともと木造2階であった商店では3階以上の必要性も薄く経済的負担も大きくなるので、3,4階を県住宅公社の所有とすることで県が出資したことによる。一般に防火建築帯では、低層階を店舗にして、上層階を住居にする形式が多いため、階段が1階店舗の奥にある場合が多く、上階に別の使用者が通る動線を確保するのが困難であった。同ビルは建物1階中央に街路側からの引き込み通路を設け、エレベーターと階段によって縦動線を確保した上で、区画を横断した片廊下型の水平動線をつくり、大きさに自由度のある貸室配置を実現した。
呉服町通りにおける壁面線の間隔は、車道6m、歩道4.5mづつ、計15mであるが、道路境界線は歩道内にあり、壁面線は道路境界線から2mセットバックしている。この後退線は戦前の静岡大火(1940)の復興計画に端を発しており、静岡大空襲(1945)を経て、戦後の防火帯まで継承された。沼津の防火帯の例と合わせ、全国的にも先駆的な事例であった。
田中屋(現伊勢丹)に対抗して「横のデパート」をつくろうと協力体制を築いた商人たちの思いが、現在の賑わいに繋がっている。