(第4回)議事録

メディア芸術の国際的な拠点の整備に関する検討会(第4回)議事録

1. 日時

平成20年12月24日(水) 15:00~17:00

2. 場所

文部科学省 東館16階 特別会議室

3. 出席者

(委員)

安藤委員,さいとう委員,中谷委員,浜野委員,林委員,古川委員

(オブザーバー)

阿部氏,石川氏,岡島氏,甲野氏

(事務局)

髙塩文化庁次長,清木文化部長,清水芸術文化課長 他

(欠席委員)

石原委員

議題

(1)メディア芸術の国際的な拠点の整備について

【ヒアリング(3)】

○松本 徳彦氏(社団法人 日本写真家協会専務理事)

○妹尾 堅一郎(東京大学特任教授)

○高野 悦子氏(岩波ホール総支配人)

(2)その他

○浜野座長

 それでは,ただいまからメディア芸術の国際的な拠点の整備に関する検討会を開催いたします。本日は,ご多忙のところお集まりいただきまして,ありがとうございます。本日は,有識者として,社団法人日本写真家協会専務理事の松本様と東京大学特任教授の妹尾様,岩波ホール総支配人の高野様にお越しいただいております。ご多忙のところをご出席いただきまして,誠にありがとうございます。松本様,妹尾様,高野様には後ほどお話をお伺いしたいと思いますので,本日はどうぞよろしくお願いいたします。
 会議に先立ちまして,事務局よりお手元の配布資料の確認及び説明をさせていただきます。よろしくお願いします。

○清水芸術文化課長

 <配付資料の説明>
 それでは,少しお時間をいただきまして資料4についてご説明をさせていただければと思います。まず資料4,本年度のメディア芸術祭賞の決定について,12月9日に記者発表したものでございます。メディア芸術祭は平成9年度から毎年開催をしておりまして,アート部門,これは静止画からインスタレーション,インタラクティブとさまざまございます。
 エンターテイメント部門,ゲーム部門,アニメーション部門,マンガ部門という4つの部門を設けて,各部門ごとに大賞,優秀賞,奨励賞を決定するとともに,長年の功績を讃える功労賞も選定をして顕彰をすることとしております。今回,この12月に受賞作を発表いたしまして,来年の2月に六本木の国立新美術館において受賞作品の展示,上映,シンポジウムなどを行うこととしているところでございます。
 配布資料の1枚目に応募状況等を書いているところでございますが,平成20年度につきましては過去最高の2,146作品の応募があり,うち約25%,500件を超える海外からの応募があったというところでございます。
 あとはそれぞれの賞の説明でございますが,アート部門につきましては,各部門の受賞作品について画像,写真等も入れたものがあります。アート部門につきましては,今年はブラジル人のマルシオ・アンブロージオ氏のインスタレーションが選ばれたところであります。
 エンターテイメント部門につきましては,ゲーム機のようにインターフェースで音と光を遊ぶという「TENORI-ON」が選ばれたところであります。
 次のアニメーション部門につきましては,こちらは15分ほどの短編作品でありますが,「つみきのいえ」,すでに国内外のいくつかのアニメーション・フェスティバルでも入賞を果たしている作品でございます。それから,マンガ部門では「ピアノの森」という音楽をテーマにした作品でございます。
 そして最後,功労賞の中谷芙二子さんについてですが,霧の彫刻シリーズなどのアーチストとしても知られる方でございますけれども,原宿に開設したビデオギャラリーでの活動などで多くの映像作家の育成を支えた活動が評価されて選ばれたところでございます。
 なお展示会につきましては,チラシを入れておりますけれども,来年の2月4日から15日まで六本木の国立新美術館において開催されることとしておりますので,お時間がございましたらごらんいただければと思っております。
 それからもう1点,シンガポール展というものでございます。今年11月21日~12月14日まで文化庁メディア芸術祭のシンガポール展を開催いたしました。青木文化庁長官と同行して私も行ってまいったところでございます。こういった日本のメディア芸術の全体像を海外で紹介するという取り組みは平成14年に一度北京でやったことがありますが,そして昨年は平成19年に上海で行いまして,今回3回目ということでございます。会場はシンガポール美術館が新しく新館をオープンするということに合わせて,それが日本のメディア芸術が新館のコンセプトに合うということで,受入れ側も非常に積極的に対応していただいたために開催期間も24日間とかなり長期になったところでございます。
 趣旨等については,文化庁メディア芸術祭の歴代の優秀作を中心にしておりますけれども,日本のメディア芸術の源流ということでマンガ表現の先駆けとなった「鳥獣戯画」等の絵巻物,またロボット,フィギュアなどにつながるようなからくり人形など,そういうものも併せて展示をいたしまして,日本文化発信の効果を深めるような工夫もしたところでございます。
 そして,併せてシンポジウム,上映会などを行いまして,またシンガポール側でもかなり熱心な街頭でのバナー広告や真っ赤なラッピングバスなど,いろいろな形でやっていただいた結果,来場者数としては,2万4,401人ということで,期間も長かったわけですが,海外展としては過去最高の水準になっておりまして,こういった日本のメディア芸術が海外でも注目されていると言われているわけでありますが,私も現地に行ってシンガポールの受け止めを見て,このメディア芸術といういのが日本文化の海外発信に向けたコンテンツとして非常に強い,大きな可能性を持つものだということを実感したところでございます。

○浜野座長

 どうもありがとうございました。
 それでは,ヒアリングを行いたいと思っております。本日お越しいただいた有識者の先生方を改めてご紹介させていただきます。社団法人日本写真家協会専務理事の松本徳彦様,東京大学特任教授の妹尾堅一郎様,岩波ホール総支配人の高野悦子様でございます。よろしくお願いいたします。
 本日は松本様,妹尾様,高野様からご意見をお伺いしたいと思っております。各先生方からそれぞれ20分程度ご意見を伺った後,それらの意見を踏まえて討議を行い,審議を深めたいと思っております。
 それでは,松本様,妹尾様から20分ほどご意見をお伺いしたいと思います。よろしくお願いいたします。

○松本氏

 社団法人日本写真家協会の松本でございます。本来は会長の田沼が出席してご意見を述べるわけでございますが,所用がありまして,代わりに私が発言させていただきます。
 そして,私どもがただいま行っております写真フィルムの保存センターに関しましては,妹尾氏に補足をしていただくということになっております。
 それでは,お手元の資料5をごらんいただければと思います。すでにアニメ,マンガ,ゲーム,メディアアートなどの方々がそれぞれの現状と将来展望がお話しされております。国際的な拠点作りに向けての考えが披露されていることを資料等から伺っております。ここで写真分野における考えを述べさせていただきたいと存じます。
 まず,検討されておりますメディア芸術の国際的な拠点の整備に関しまして,基本的に私どもは賛成いたしております。これまで私たち日本写真家協会が要望してまいりました日本写真保存センターの構想,これはお手元にございますこの小冊子にすべて書いてございます。
 まず戦後の日本で活躍されてきた写真家の残したフィルムを長期に保存するための施設を設立することで,収集したフィルムを整理して利活用することを目的といたしております。というようなわけで,できることなら写真単独での拠点整備についてもぜひご検討をいただければと思っております。
 ご提言いただいております我が国におけるメディア芸術拠点の現状ということでございますが,我が国は東京都写真美術館のような写真専門の美術館は東京以外に酒田市の土門拳記念館,奈良市の入江泰吉奈良市写真美術館,鳥取県岸本町の植田正治写真美術館がございます。そのほかには美術やその他の分野と併設される形で常設展示を設けているところが東京国立近代美術館,横浜美術館,川崎市市民ミュージアム,島根県立美術館など,全国に約10か所ございます。しかし,これらの美術館は写真作品の収集と展示が主でございまして,現在,私たちが設立要望しているような写真原板,いわゆるフィルム等の収集・保存については個人美術館を除いてはほとんど行っておりません。また,東京都写真美術館を除けば海外との写真文化交流がほとんど行われていないというのが現状かと思います。
 社団法人日本写真家協会は平成19年度から文化庁の委嘱を受けまして,我が国の写真フィルムの保存・活用に関する調査研究を行っております。この調査は第1期として敗戦直後から昭和30年代にかけて活躍された写真家が撮ったフィルム,写真原板ですが,モノクロネガやカラーフィルム等が現在,どのような状態で保存・管理されているかを写真家の遺族の元を訪ねて調査をいたしております。
 遺族の元に残されております写真フィルムには原爆の惨禍や空襲で被災した焦土の中からたくましく生きてきた人々の日常,次々と変貌し成長していく都市の光景,著名人の肖像,農漁村などの風習や催事,自然景観など,さまざまなものが写されておりました。こうした日々の記録した写真の多くは貴重な歴史資料として新聞・雑誌・テレビ放送などのほか,学術論文や教科書,事典などの媒体によく使用されております。
 最近では海外のメディアなどからもこの時代に撮られた写真について撮影者に関する消息や写真の存在などの問い合わせと資料提供の要請がまいっております。こうした歴史的な写真の利用がどんどん増えているといってよろしいかと思います。
 撮影者が存命の場合は比較的早くフィルムの存在や撮影時の情報を引き出すことができますが,撮影者が亡くなられますと著作権者の連絡先はおろか,写真の存在すらつかめなくなるケースが結構ございます。利用したいといった要望があるにもかかわらず,写真の存在が分からないといった事情から利用できなかったケースもございます。
 そこで私たちは写真家が撮影された写真フィルムの所在確認と収集を行い,同時に散逸を防ぐことが大事であると考えています。そして,収集したフィルムを整理したり,保存する施設としてアーカイブの設立が急務であると考えております。
 写真フィルムは大変デリケートな性質のものであります。我が国のように高温多湿の環境ではフィルムを長期に保存することは至難です。ましてや木造家屋での個々人における保存は大変です。空調設備の設置費用やランニングコスト等も大変なことから,常温のままで保存に終始しているのが現状です。この状態が続きますと,現在保存されているフィルム類の大半がダメージを受け,使用不能になる恐れがございます。このことは調査した結果でもはっきり分かっております。写真家の写真フィルムは想像以上に劣化が進んでおりました。これはフィルムの組成からくる経年劣化もございますが,それ異常に問題だったのが保管場所の問題です。ご遺族が住まわれている家屋の多くが木造家屋です。しかもフィルムの保存場所があまり空気の流れのよくない閉め切った納戸や押し入れ,高温多湿の影響を受けやすい物置といったところでありました。その上,大事なフィルムということもあって,フィルムの束を缶に詰め込んで,厳重に封をしたり,ビニール袋にシールして保存されているといったありさまでした。こうした空気を遮断するような格好で保存されているものに劣化がたくさんありました。特に高温多湿の環境で長期にわたって保管されていたフィルムの束が詰まった箱を私どもが出かけて缶や箱をあけた途端,酢酸臭が鼻をつきまして,劣化が進んでいることを教えてくれたわけです。
 この酢酸臭のことをビネガーシンドロームと申します。酢酸セルローズフィルムの劣化に伴う特有の臭いです。このビネガーシンドロームは高温多湿による加水分解で発生し,ひとたび発生いたしますと劣化を止めることができないやっかいなものです。フィルムが変退色するだけでなく,支持体が脆弱化しボロボロになっているものもございました。木造住宅はいうに及ばずに鉄筋住宅においても一部に劣化が見られました。木造家屋でも2階以上で空気の流れがよい場所に保管されていたフィルムやこまめに利活用されていたフィルムについては概ね良好な状態でした。ということは風通しがフィルムにはいかに大事であるとかということが分かったわけであります。
 現役時代から撮影済みのフィルムを収納する特性の桐箱やタンスを作り保管されていた著名な写真家のところでは24時間の空調を施していながら,没後,ほとんど収納箱を開けることがなかったために密閉された空間で保管されたフィルムにビネガーシンドロームが起こっていました。
 私たちはそうしたフィルムを一刻も早く温湿度の安定した施設に移し保存することを提唱しております。さらに劣化が始まったフィルムについて早急にデジタル化と,高品質のプリント等を作っておくことで画像の延命を図るなどの対策をとる必要を感じております。これが現状における写真のフィルムの状態を示すものといってよろしいかと思います。
 次に海外における芸術メディアの現状についてでございます。これは文化庁への報告にも詳しく書いてありますので,そちらをお読みいただければよろしいと思いますが,簡単に申し上げますとフランスは写真発明の国であります関係で,非常に古くからのものを保存いたしております。最も古いものはもちろんダゲレオタイプがありますけれども,それ以外にフランス政府が,歴史建造物委員会というのが1851年にできておりまして,そこで撮影された写真原板が約60万点残っています。これはサイズとしては新聞の半裁程度の全紙といわれる大型のガラス板が残っているわけでございます。そのほかに大変有名なポートレートギャラリーのナダールスタジオの1850年以降の乾板やフィルム類が16万点,あるいは皆さんもご存じのアッジェの乾板が4,000点などがございます。
 それらは温度17℃~20℃,あるいは湿度40~50%で保存されています。それ以降の20世紀のフィルムに至りましては数百万点以上あるということで正確な数はつかめないということでありました。それらも17℃から,45%の収蔵庫で保存されています。
 それから,1950年以前に製造されました硝酸系のフィルムがございます。これは発火の恐れがありますために現状では3kmほど離れた別の収蔵庫に低温で保存をいたしております。それが約200万点です。そのように非常にたくさんのものがここでは保存をされているということをまず申し上げたいと思います。
 次にアメリカのワシントンDCで調査したものでは,皆様よくご存じのライブラリー・オブ・コングレスというものがございます。これは米国議会図書館でございますが,ここには書籍等を含む1億3,000万点の収蔵品を持っているわけですが,中でも写真は約1,400万点ございます。そして,1,100万点がネット上で閲覧,検索ができるという形になっております。
 ここで私たちが注目したいのは20世紀になってからのものではアメリカの農業安定局が調査依頼して撮影したドロシー・ラングやウォーカー・エバンスのフィルム,これが17万点,そしてルイス・ハインという,児童労働委員会の委嘱でとったものが350枚の乾板と5,100点のプリント。それから,アンセル・アダムスが第二次大戦中に撮影したマンザナ日本人収容所の中で撮りました240枚のオリジナリルネガなどが含まれています。
 図書館とはいえ,歴史的に著名な作家のものをたくさん保存しております。タルボットのカロタイプであるとか,フェントンのクリミア戦争のソルトプリント,あるいはピクトリアフォトのスティーグリッツやスタイケンの作品,そして現代ではアーバスとかアヴェドンなどの作品を集めています。これらはそれぞれ先ほど申し上げたような低温で保存をされております。
 このほか,アメリカでは非常に多くの方からの寄贈をたくさん受けております。「ヴォーグ」や「ハーパースバザー」で活躍したファッション写真家のフィルムであるとか,あるいは「USニューズ・アンド・ワールドレポート紙」が撮ったもの,あるいは「ルック」が撮影したもの,そういったものが何百万点という数にわたって収蔵されているということでございます。
 これらの一部,約110万枚程度がデジタル化されております。そして,ネットを通して検索でき,そしてそこには利用許諾のフォーマットもできておりまして,それを通して私たちが写真を借り出すことが簡単にできます。現在,我が国で発行されております占領時代に撮影された写真を掲載した書籍がたくさん出ておりますが,これらは皆ここから借り出したものでございます。
 それから,イギリスにはブラッドフォードの国立メディアミュージアムというものがございます。ここはすでに岡島先生などが調査をされて,もうご存じかと思いますので割愛させていただきます。
 あと,新しいところでは2003年にできましたオランダ,ロッテルダムのネーデルランドフォトミュージアムというのがございます。これは写真家の側から写真のフィルムとか作品を寄贈して始まったもので,現在では20万点ぐらいのものがすでにコレクションされているというふうに聞いております。
 そのほか,カナダの国立公文書館であるとかワシントンの公文書館,あるいは写真の殿堂でありますジョージ・イーストマン・ハウスなどには非常にたくさんのものが保存されています。
 それとつい最近,今年の夏ごろでしたが,NHKのハイビジョンでご紹介されたパリにあるアルベール・カーン博物館,ここは20世紀初頭のオートクロームの写真を保存している場所ですが,7万2,000点のものがここにあります。映画もたくさん保存されております。
 次に我が国のメディア芸術の拠点の在り方につきましてでございます。このように欧米では早くから写真の記録性,芸術性について評価をして,歴史的,文化的な写真を大量に収集,活用しております。フィルムの収集,保存をするだけでなく原板の修復や劣化したフィルムの再生作業なども行っております。保存や収集,修復といった専門技術者の養成や画像を通しての歴史研究あるいは広範な分野の研究者を育てる機関としても有名でございます。
 こうしたアーカイブ機能を我が国にも設立することで,欧米をはじめアジア諸国との文化交流を促進し,メディア芸術にかかわる人材の育成,技術支援などを行い,メディア芸術におけるアジアの中心的な拠点になるよう,国を挙げて取り組む必要を感じております。
 次にフィルムは保存するだけはなくて,利活用することに意味がありますので,その点につきましては妹尾さんに詳しく説明していただこうと思っております。以上でございます。

○妹尾氏

 それでは,いただいたお時間が大分迫っておりますので,その次のパワーポイントをプリントしている資料をごらんいただければと思います。
 今,ご説明にありましたとおり日本写真家協会さんとしては今のような保存の状況をやっておりますけれども,文化庁から委託を受けましてJPS(日本写真家協会)が事務局をやっている調査が昨年度より進んでおります。それが一番最初の上書きに書いてあります我が国の写真フィルムの保存活用に関する調査研究ということであります。私が委員長を拝命して写真団体はほかに2つあります。日本広告写真家協会と文化写真協会,文協と呼ばれています。すなわち営業写真の皆さんと広告写真の皆さんと,報道,作家の写真の皆さん全員がこれに関与して,我々のようないわば写真関連の有識者が集まってこの調査研究を進めさせていただいている,こういう具合です。
 現在は2年目の真ん中に来ておりますので,そこまでにおける話をコンセプトと機能についてご報告し,メディア芸術の国際的な拠点整備にご参考になればということでお話をさせていただきます。1ページの下の方に書いてありますが,これがとりまとめの我々の考え方であります。写真保存活用センター設立の意味は一体何なのか。ここに7点順番に挙げています。現在,日本政府は科学技術立国,文化立国,知財立国,観光立国を,4つの立国政策を押し進めていらっしゃいます。私も知財立国の委員としてずいぶん政策を押し進めている1人です。
 日本は世界有数の写真文化を持っておりまして,優れた写真家,これは営業写真,商業写真の方皆さん入れればおそらく1万人近い数になります。それから,写真愛好家は1,000万人というふうに俗に言われています。それから,最近の携帯の写真の文化を入れると1億総写真家という大変珍しい状況に来ている。世界の中で珍しい状況に来ていると思います。
 それから,もう1つは日本が世界有数の写真産業を持っているということだと思います。これはご存じのとおりカメラ,フィルム等でありまして,銀塩フィルムカメラが昨年度2007年度で79万台,デジタルカメラが1億37万台,これは日本が輸出した数です。輸出総金額が1兆8,000億円となっていますので,大産業です。
 写真を発明し,それを発展させたフランス,英国は非常に熱い写真文化に関する保存活用のセンターを持っております。また,イーストマンコダックを介する米国が非常に大きな写真文化に関する施設を持っているのですが,一番写真で儲けているはずの日本が写真に関して一番遅れているというのが実情ではないかと考える次第であります。
 この1,2,3を統合して考えますと,日本が写真文化によって文化立国,知財立国等に資すること,また世界の文化に寄与することは当然ではないか,こういうふうに考えるわけであります。
 写真は非言語表象文化でありますし,また「元祖」と入れさせていただきましたが,元祖現代メディア芸術ではないか,こういうふうに思うわけです。それからパフォーマンス文化もありますし,あるいは近世の複製メディア芸術もありますが,現代のメディア芸術というのはやはり写真がまず1つあるわけで,これは日本の文化の発信に極めて有効であるというふうに思います。
 ただ,写真は無形文化としてのイメージ自体の文化的な価値と,それから有形文化のイメージメディアとしての稀少価値の両方がありますので,その両方を文化財として見ていただけたらいいと思います。また,その保護活用は日本の文化度を示すものとして極めて重要ではないか,こういうふうに考えます。
 よって7番目,ここで結論ですが,ここに写真の保存(活用)拠点を設立することは日本にとって極めて重要な文化政策であるというのが我々の基本的な考え方であります。
 次のページを見ていただきますと,写真分野というのは,これはなかなかご理解いただけないのですが,実はいろいろな分野があります。今,写真家協会さんから話があった報道ないしは作家の写真だけではなくて,営業写真,全国かつては3万件ありました営業写真館というのはそれぞれ町の地域文化を全部撮っています。普通の方が撮るまでは報道関係者と営業写真関係者以外写真は撮れなかった。これは昭和40年代まで続いたわけです。
 例えば営業写真館に残っております幕末,明治の写真はほとんどボロボロになりかけています。これを全部収集してウェブサイトに載せれば,日本の大変なる地史資料,すなわち歴史と地史,地理の資料です。ご参考までに申し上げますと例えば明治期の青森の七五三と大分の七五三を比べるとどれだけの文化が理解できるかということかと思います。あるいは戦前,日本の庶民が写真を撮ったのは結婚式と出生,そのときの状況が撮られているというのがこういう営業写真館に残っています。
 商業写真はご存じのとおり雑誌あるいはコマーシャル関係です。これも日本の文化の高さを示すものとして,特に戦後の商業的な写真のレベルの高さはみんなご存じだと思います。
 それから,もう1つ学術写真というのがあります。これは例えば地理に使われる写真,地理教育に使われる写真なんていうのがありました。これを見るだけで日本の自然景観がどれだけ変動と多様化をしているかみたいなものがすべて分かる。こういうように写真は多方面にわたって存在するということであります。
 ここから我々が引き出すのは,基本コンセプトの1番は文化遺産から文化資産へというコンセプト転換をやるということを考えています。こういう写真を保存しましょうというと,遺産として大事にしましょう,こういうような話になりますが,しかしそうではなくて次世代へ活用していただく文化資産だということなので,そこへ持っていきたい。
 そこで保存センターは特にデジタルになる前のアナログである写真が非常に高度でありますが,それがなくなってしまうことを防ぐために,いわばバトンゾーンとしての保存活用センターの設置を考えたい。こういうふうになります。
 ただ,このコンセプトはいわゆるコーパス,死体置き場としてのコーパス,あるいは公文書館としてのアーカイブ,あるいは著名写真家だけのHall of Fame,あるいはリソースプールといういろいろなタイプで世界の写真保存センターがありますが,これらの意味の融合化を図って日本独自のスタイルをとるべきではないか,こういうことを今議論している最中であります。
 その次の基本コンセプト,保存ということに関しては,物理的経年劣化ということですが,これの遅延をするということが一方であります。その間にデュープ化,デジタル化を進める。
 ただ,もう1つは文化的に意味があるのは文化的経年有価,価値が出てくる,経済的な価値が出てくるということだと思います。記録写真ですので,今は価値がないかもしれないが,30年後にはとんでもない価値を持つというのがこれであります。文化財,特に記録文化は現在の価値付けが難しくて,そのときどきに判断が行われるべきものでありますので,たえず判断可能な状態にしておいておくことが現在の責務であるというふうに我々は考えます。
 現在,写真を有名作家の特定の写真ではなく,後で出てきますチャンクというコンセプトで我々は考えているのはそこにあります。今ある作品だけではなく,今ある作品の周辺にあるものがとてもない価値を持つということが考えられますので,そこを押さえておきたいと思っています。
 その下にあります写真保存センターの機能については,世界各国との文化交流を促進し,メディア芸術にかかわる人材の育成,技術支援等を通じて写真というメディア芸術に関するアジアの中心的な拠点になる。もちろん世界の拠点になるわけですが,そこで求められる機能は,ここに書いてありますように原板の収集保存。それから原板の修復や再生作業とデジタル化ないしはデュープ化。それから,アーカイブの構築と利活用向けの発信です。インターネットを通じた日本の写真文化の展示・啓発・普及ということがあります。
 それだけではなくて人材育成的には保存や修復等の専門技術者の養成や写真専門キュレーターの育成,あるいは現在ほかの方のキュレーターをやられている方が写真にどう対処していいか分からないというお問い合わせがたくさんありますので,そういう方々への写真対象の研修等を行う機能を持つべき。それから次世代写真家育成への学習拠点であるというふうに考える。
 さらに先ほど例を申し上げたとおり,実はこういう写真というのはほかの分野,ほかの学術分野にものすごく影響力を持っている。例えば歴史を研究している方だとか,あるいは地史をやられている方だとか,そういう研究者への資料提供として非常に意味があるというふうに思っております。
 先ほどの話から今度は保存活用センターの事業を3事業,今のところ考えております。収集,保存,活用の3事業です。収集に関しては物理的経年劣化の防止ないしは遅延。文化的経年有価の可能性を保持すること。これについてまず収集事業をやろうということです。
 それから,下に書いてあります保存事業,これは劣化遅延,復元,それからより安全で可能なメディアへの移行ということをうたっております。特にデジタル化においてウェッブインデクスをやって,それのダウンロードその他については現在,利活用の権利,著作権関係からみて,イメージとしては皆さんよくご存じのフリッカーの最新のバージョンをさらに写真文化用に合わせてみる,それをイメージしています。
 もう1点,デューク化というのは不思議に思われるかもしれませんが,先ほど松本専務理事がお話しされた米国の国会図書館等が実はデジタル化だけではなくて,こういうデューク化も行われ,すなわちハンドリングの関係ですね。写真というメディアからいうとデジタル化だけでは難しいというのが彼らの意見なので,その辺も考慮に入れながら我々も学習していきたいと思っています。
 次のページに活用事業があります。これは当然,ここでご議論されているのと同じで,国際的な発信をしていこうということであります。ネットを通じたデジタル素材の展示,利用促進。それから原板等を活用してリアルメディアに持っていく場合とバーチャルメディアに持っていく場合と両方ありますが,この活用事業を単独でやるべきなのか。あるいは皆さんと歩調を合わせながら他のメディアと一緒の共同利用センター的な構想にするのか,その辺はいくつかのオプションをつけながら現在,調査委員会の方で検討を進めている状況であります。
 それから,実際保存必要量はどのぐらいなのかという予測です。これは保存必要量を算定中でありますが,今のところ1945年,戦後のゴジュンバンチャンクを想定しております。チャンクという言い方は作品1点,ネガ1枚という話ではなくて,先ほど申し上げましたように経年有価の考え方をとりますと我々はその作家のその作品をすべてチャンクという塊として認識すべきではないかというふうに置いております。寄贈を前提に考えておりますけれども,この辺はご質問があればお答えしたいと思います。
 最後のところでございます。整備は現在のところ経営・運営の形態の可能性と法的整備,技術的整備それぞれで調査研究が進んでおります。途中経過については昨年度の報告書があります。現在,今年度の報告書の整理に入っておりますが,それをごらんいただければと思います。
 また下に書いてあります海外におけるメディア芸術拠点の現状というのは,先ほど松本専務理事から報告があったようなものもありますが,いずれもごらんいただけると分かるとおり映像といいますか,写真の先端を走っていた国々がすべて写真文化であります。写真産業,大変なるものを持って,それから写真文化,携帯写真も入れれば1億総写真家であります日本において写真のメディア芸術としての位置づけをここにご認知いただければありがたいなというふうに思います。
 最後のページでありますが,公的支援の必要性ということで文化立国・メディア芸術としての国際文化発信の一環として,またコンテンツ振興のリソースとして,そしてそれらが個人保存,民間事業としては困難であることから公的事業として設立を支援していただきたいというのが我々の現在の考え方です。メディア芸術の国際的な拠点の整備にぜひ写真を認知していただければということでお話をさせていただいた次第です。
 少々長くなりました。申し訳ございません。以上です。

○浜野座長

 どうもありがとうございました。それでは,引き続きまして高野様から20分ほどご意見をお伺いしたいと思います。よろしくお願いいたします。

○高野氏

 高野でございます。松本様は,写真団体を代表してご発言されましたが,私は全く個人の資格で,私の考えを述べさせていただきます。
 1997年のことですが,時の文部大臣の秘書の方が突然おいでになって,私にフィルムセンターの名誉館長になれというお話がございました。内容がよく分からなかったのですが,一応考えさせていただくことにしました。私は岩波ホールの社員ですので,社長の岩波雄二郎に相談に行きました。体調を崩している時期でしたので,外部の委員のようなお仕事は社長から断るようにと言われておりましたから,これも社長の許可が出ないと思っておりました。ところが,「フィルムセンターはあなたが一番気にかけていたところでしょう,やったらどうですか」と言われました。私はびっくりしまして,そう言われてみるとフィルムセンターに私は長いことこだわってきたことを思いました。
 1958年のことですが,私はパリの映画大学に入学して監督の勉強をしました。いろいろなことを学びましたが,重要なことの1つとして古今東西の名画を毎日毎日学校で見せてくれました。そして,日曜祭日になればシネマテーク・フランセーズというところで友人たちはまた古い映画を観ているのだと聞き,行ってみますと,中学生ぐらいの学生から大人の方までたくさん詰めかけていました。子どもが多いのに驚きました。そして,そこで昔の日本映画も日本では観られものを観ることができたりしましたので,シネマテークというものにとても興味を持ちました。
 すべての芸術は骨董と同じように本物を観ていると偽物が分かるのだそうです。だから,何でもいいから優れた先輩のものを学ぶ,観る。そして,すでに実験がされている技術や表現方法を模倣してはならない。芸術にはその人の個性が大切だから,まず自分のものを探さなければならない。そういうことを言われながら私もたくさんの映画を観ました。
 1958年というのは日本映画が注目をされている時代でした。1951年に「羅生門」がベネチアで最高賞を取り,また54年,「地獄門」がカンヌで最高賞を取りという日本映画が大変話題になっていました。そういうことは日本で知っておりましたが,日本におりましたとき,映画は尊敬されるような芸術ではなくて,非常に大衆娯楽的なものでした。ところがフランスでは映画の地位があまりにも高いこと,作家の地位が高いことに驚きました。
 しかも,その中で日本映画が高い評価を受けているということは,私にとって信じられないぐらいにすばらしいものでした。そして,戦後,まだ日本が貧しく,フランス人には地の果てに行くような遠いところが東京でした。そういう田舎からわけの分からない女性が来てと私は好奇の目で見られていたようでしす。しかも監督科には女性が私1人しかおりませんでした。
 ところが彼らの日本映画に対する尊敬は本当のことのようです。そして,日本であまり評判のよくなかった黒澤監督の「虎の尾を踏む男達」とか「白痴」「蜘蛛巣城」,私も退屈な映画と思っていたのが一変します。シネマテークでシェークスピアの特集があり,「蜘蛛巣城」が上映されました。能の手法を使った『マクベス』の日本化は強烈なもので他の作品を圧倒しました。「虎の尾を踏む男達」もすごく魅力的な作品に感じられ,「白痴」はドストエフスキーの原作の他の作品の中で輝いていました。それで,私は日本映画に対する尊敬と自信を持ったわけです
 フランスでは映画は第7の芸術と呼ばれておりました。人間の考えついた踊ったりリズムをとったり,絵を描いたり,文章を書いたりというそういう次元と違う,映画には全部の人間が考えついた芸術を総合し,そして科学と結びついたもので,それはすべての一流の作家たちには興味深いものだったということです。作家は作家,音楽家は音楽家,みんな自分の分野として一流の芸術家が集まって討論し,新しい芸術の誕生を喜んでおりました。
 日本におりましたときには映画は興行師が見せ物として輸入したもので,町,村のお芝居の興行,そういうものに最初使われていたので香具師と呼ばれる,非常に映画興行は低い位置からスタートしております。そういうせいなのか,日本では欧米の映画は日比谷とか中央の立派な映画館で上映され,入場料も少し高く,日本映画は場末の映画館でおせんにキャラメルという大衆的な雰囲気の上映,扱い方をされていたわけです。
 私は自分が好きで選んだ職業なのでだれを恨むこともないのですが,映画は非常に地位が低いということは悲しかった覚えがあります。
 そういうわけで4年間のフランスでの生活は日本映画に対する誇りと,そしてそういうものを直に勉強ができる,保存する,そして上映するという,そういうシステム,すなわち向こうではシネマテークと言われて,日本ではフィルムセンターですが,そういうものに興味を持ったわけです。
 特に中学生ぐらいの私から見たら子どもたちがいっぱいいるということは驚きで,みんな将来映画に進むような子どもたちですかと聞くと,とんでもないと。普通の子どもです。彼らは将来財界に入ったり政治家になったりするだろう。政治の討論の合間に政治家たちは今週の映画はどうか。何が面白いか。超党派で映画を話し合うから,だからいろいろな映画に関する法案はさっさと通るし,予算もたくさんもらえるのだ。だから,あそこにいる子どもたちは映画人になろうとしているわけではなくて,みんな好きだから映画を観ていると言います。なるほどという,それがフィルムセンターに関心を持った私の第一歩です。
 その時代にフランスのシネマテークではラングロアさんという"名物男"がいらっしゃって,フィルムライブラリー的な考えを進歩させました。日本人でこの運動に感銘をなさった方がいました。川喜多かしこさんです。私はかしこ夫人と東京国立近代美術館の中にある名ばかりの日本のフィルムセンターを,もう少しなんとかしなくてはいけないと話し合ったものです。
 映画大学の卒業論文に日本映画の無声映画時代について書くようにと私の指導教授のジョルジュ・サドール先生から言われました。彼は有名な映画史家です。私は日本映画ならチャップリンやエーゼンシュタインをフランス語で書くよりは簡単だろうと思い,引き受けました。ところが私は有名な日本の無声映画を1本も見たことがないのです。私の責任ではなくて,古い名作を観るところがなかったからです。
 そういうことで日本に帰ってきて,岩波ホールの仕事をやることになったとき,第1回の企画を日本映画史研究にいたしました。無声映画から始めようと思っていろいろ探しましたけれども,上映ができるものは1本もありませんでした。仕方なく戦後日本映画史というのが岩波ホールの最初の企画です。そして,企画が成功し,3年半続きました。上映作品は各会社の倉庫に行って調べて,在庫の中から次の1年間のプランを立てましたが,1年たって,また倉庫に行ってみるとリストアップしていた作品がなくなっている。全部焼却してしまったのです。1年間ブッキングの申込みがないと捨てるという規則があるのだそうです。フィルムを保存するのは大変なことで,場所もとりますから,売れないものはどんどん捨ててしまうというのが現実でした。こんなもったいないことを何とか食い止めなければならない。しかし民間の力ではどうすることもできないのです。それこそ何とかフィルムセンターが大きくなって収集をして,これを助けてもらえないかということで,私は機会あるごとにフィルムセンターの重要性を語るようになりました。そのうちにフィルムセンターに火事という不幸なことが起きました。あれも保存庫が,今ある相模原の分室が1年早くできていたらと思います。燃えないはずの16ミリのフィルムが自然に発火したわけです。そういう不幸なことをきっかけとして私どもは募金活動をしたり,いろいろな政治家にお会いしたり,何遍も映画議員連盟の方たちのところで演説をしたり,大臣のところにお伺いしたりしました。そのときに時の大蔵大臣だった竹下さんが「京橋ではなくて東京郊外にもっと広い土地をあげる」がどうかと言われました。今思い返すと,くださいと言った方がよかったのか。でも,京橋は地の利のいいところです。映画を広く観てもらうというときには地の利がいい方がいいと思ったので,それをお断りして,何が何でも今あるフィルムセンターを復興してくださいということで建て直していただきました。
 そして,第2回目の「映画の振興に関する懇談会」を赤松良子文部大臣の時代に開いていただいて,私は座長代理を務めました。そのとき一歩前進したこともありましたが,絶対にだめだったのが職員を増やすことでした。今,11人ですか,そのころも11人だったと思います。相模原の分室ができたとき,私も見学に行きましたけれども,立派な建物の中にポツンポツンと人がいました。嘱託というのか,3年契約の,フィルムの専門家の方でした。私なら1週間で逃げ出すお化け屋敷,立派なお化け屋敷のようなところでした。
 そして,機会あるごとにフィルムセンターのことを叫んでおりますと,予算が少しずつ増えるようでした。またアルバイトの方は増員されたようです。だから,ときどきパーティーなどをするとずいぶん人がいるのではないのかと思いますけれども,それは3年ごとに変わらなくてはいけない人だそうです。3年間というのは人を教育する時間でいっぱいという感じだと私は思います。慣れた方がお辞めになって,また新しい方が来るというようなことを繰り返しているという感じを持っておりました。
 そういうわけで私にフィルムセンターのお話があったときに,映画界の方もびっくりなさったようです。私もわけが分からず,そしてきっとフィルムセンターの方たちもなぜ私が来て名誉館長室に座っているのか,おかしく思われたことでしょう。しかし私はわずかながら何かが起きるのではないかという期待,つまりセンターの独立という夢を心に抱きました。何かが起きるときには映画界にもご理解をいただき,私の友達の文化にご理解のある方たちにも,財界の方にもというようなことで,いろいろな方のところに行ってお願いしました。
 映画関係の方はあまり積極的ではないご返事で,ときには何もフィルムセンターに映画を預けなくても,私のところには立派な倉庫があるからとおっしゃった社長様もいらっしゃいました。しかし,1年後に映画界を挙げて私に頑張れというパーティーを開いてくださいました。フィルムセンターの方たちもすごく努力をなさって,著作権を守りながら,フィルムを守りながら共に日本映画を守っていく,そういう趣旨を映画関係者の皆さんに理解していただき,最近,特にこの5年間はそろそろ相模原の分室の倉庫がいっぱいになりそうです。いま5万本近くの日本映画を収集することができたそうですが,その半分以上はこの5年間だということで,現在は映画界を挙げてフィルムセンターにとても協力的だそうです。
 第7の芸術と思っていた私にとりましては,文化芸術基本法で決まったこのメディア芸術,それから芸術,芸能という区別についてはあまりなじめないところがあって,どうして映画は芸術から外されたのかと思いますが,ともかく映画は常に科学とともに歩いてきたので,ある意味ではすばらしいことであり,あるときには迷惑なことであるというその科学。科学には進歩という言葉があり,進化がありますが,芸術にはないのです。成熟とかそういう言葉です。だから,ギリシア悲劇よりも,シェークスピアよりも,日本なら近松よりも超える人間ドラマが現在ないというのは,それが芸術の問題です。科学は芸術に関係なくどんどん進みますので混乱が起きることがあります。一番の混乱は無声がトーキーになったときのことのようです。そういうふうに科学が進み,大転換があるときに貴重な資料が散逸するということが歴史上に起こっております。
 だから,今無声がトーキーになるよりももっと激しい大転換のときが訪れています。映画はすべての映像メディアの父であり母であるということを私どもは言ってきましたが,科学の発展とともにこれから映像メディアがどのようになってゆくのか,私の頭もまだ混乱中です。映画制作,映画上映そして配給にフィルムを使わないという時代が来ました。しかしビデオテープができたとき,「これからはビデオテープだ」ということで,フィルムを捨ててビデオテープに保存を切り換えた国もあったそうです。それが5年もたたないうちに劣化したというので大騒ぎになった。
 だから,今デジタル化というのも私どもは保存に便利ですから興味のあることですが,フィルムで撮ったものはフィルムで保存するというのが世界のフィルムアーカイブの原則です。何しろフィルムには100年の歴史があるわけですから。
 また映画がメディア芸術になるのも仕方がないことかとも思います。2003年,河合長官のもと,≪映画振興に関する懇談会≫が開かれ私は座長を務めましたが,その中で人材教育,制作支援にとても力を入れてくださったので,各大学でいろいろなことが行われるようになりました。フィルムセンターは保存,普及,上映ということをしっかりとしていくところとなるのでしょうか。
 大体私の話は最後に愚痴っぽくなりますけれども,70年代,80年代,日本が景気がよかったあのバブルの時代にフィルムセンターに思いっきりの予算と人員をつけて独立していれば,このメディア芸術をこれからどのようにしようかということなんか一挙に解決するのに。外国並みに200人,300人,500人の職員がほしいというわけではなくて,せめて20人ぐらいの方がいればというささやかな願い。だけど,11人のままで問題は後に残してきた。河合長官のときに何か新しいものが生まれるととてもハッスルしました。だけど,その流れが止まってしまったのがとても残念です。
 ここに,参考として資料を差し上げましたが,後でどうぞお目通しください。フィルムについては散逸させないことを最優先にしてください。そしてもしもフィルムセンターがメディア芸術の拠点というお考えが先生方から出る場合は,世界に向かって国立であるという,国立という名前は残していただきたい。映像の元は,さっきおっしゃったように写真です。だから活動写真といって動く写真というのが日本で使われていたわけです。しかし第7の芸術である映画はメディア芸術の基本です。映画という言葉はぜひ残してください。日本のメディア芸術が大きく世界に羽ばたくことを祈って私の発言を終えます。
 大変オーバーしましたけれども,失礼いたします。

○浜野座長

 どうもありがとうございました。それでは,各先生方からのご意見を踏まえて意見交換を行いたいと思います。どなたからでも結構ですのでご発言をお願いいたします。

○安藤委員

 今,高野さんの話を感動して聞いておりました。僕が何年も思っていることを20分間にまとめられて,端的に,非常に確信を持った形で,今日学生たちを連れて来なかったのは残念だと思うぐらいに,本当にそう思います。
 僕もこの席でも何度も申し上げているのですが,映画というものはある意味で映画3本観ればその国の文化が分かるというぐらい,非常に文化を代表しているもの。政治も経済もすべてを。ですから,いろいろな束縛があったりするところは,それに対するある種の言論的な意味合いも持ったりとか,そういう意味で非常に貴重なものであります。それを今,高野様の方から非常にきっちりとした形でお話しいただいたのは非常にうれしく思います。
 僕たちはどのぐらいそのことに対して一緒にやっていけるか。あるいは僕もその中にどっぷりいるわけで,それを今まで引っ張ってくださった高野さんのお力,それからお気持ちが非常に強く感じられたお話でした。
 特に今おっしゃられていたフィルムセンターのこと,つまり写真というものと,今写真が元にあって,それがムービングピクチャーに変わっているという形の事柄は,まさにそのとおりなのですが,おそらく映画というものは1枚のものではないものですから,今,高野様からあったように保存するにも1本というものが非常に大変な形で,費用的にもかかるということがあります。それを展示すると言っても壁のある適当なところにというわけにはなかなかいかなくて,上映するという形の施設が必要になる。そういうような形の中で,これは本腰を入れて,ちゃんと保存していただいて,それが今高野さんがおっしゃったように古いものを見せるということからいろいろな意味での教育とか研究とかが始まるというような気がします。
 僕も今まで映画をやっていてよかったなと思うし,高野様の今の1958年のパリの留学の話を聞いていて,僕もちょうど学生で,大分高野様より後ですけれどもパリに留学していて,僕も映画が大好きだったのですが,小津安二郎の映画というのはよく分からなくて。フランスに行って,フランスの小津安二郎のレトロスペクティブをやっていて,フランス人の学生に一緒に行って解説してくれと言われて,僕は2本ぐらいしか観ていなくて,向こうで観て,小津安二郎というのは東京で観ていたときには,「何だ,これは」みたいな感じで,小津安二郎というのは本当にかったるい,つまらない,じいさんの映画だという感じで思っていたのが,フランスで観たときに初めて,これはすごいのかもしれない。要するにフランス人に自分で説明する段になって説明できないところがたくさんあって。あのときは「秋刀魚の味」を観た。日本でも観ていたのだけど,そんなに感動していなかったのですが,観直したら涙が出るほどよくて。しかも,その中でハモを食べるシーンがありました。ハモは非常に上等な魚だから中学だったか小学校の先生は,東野英治郎さんがやった役のあの方は「これがハモというものですから,うまい魚ですね」と言って切り身を食べるわけです。フランス人が僕に「ハモってどういう魚だ」と聞く。僕は食べたことがなくて,そのころ学生で東京育ちだった。「じゃあ,お前のところは貧乏だったな」と言われた。つまりある種の高級魚でぜいたくができない人には食べられないという象徴の意味だったという形があったものですから,そんな形のことを今,高野さんのお話を聞いているとグルグル思い出して。やはりそういう形の事柄を小学生,中学生たちにも教えていきたいというふうに思うわけです。
 つまり今,日本のゆとり教育から,また何か違う形の,英語で全部教育しようとか,いろいろな話があるけれど,どうして日本をちゃんと教えようとしないのかというようなことを思います。日本の映画をちゃんと観せることが始まれば,おそらく日本というものが分かるでしょうし,日本だけではなくて人間というものがどうあるべきかというものが,そして外国の映画を観れば,それで外国の文化,宗教にもある意味での理解ができるような人間が育つだろう。今,そういう人間が不足しているために,ですから国際的なメディア芸術の拠点という事柄というのはむしろ自分たちの内の中から始まるのではないかなということを強く感じました。
 すみません。高野さんに対するリスペクトになってしまったような気がするのですが,そんな感じを持ちました。今おっしゃったような形でのアーカイブ上映,そういうところの部分を強く求めるとともに,フィルムセンターというところを独立した,きちっとした形へ進めていくべきだろうという気を持ちました。
 すみません,以上です。

○浜野座長

 安藤先生の今のご発言で関連ですが,高野さんのご意見の中ですごく重要なことが2つ入っていました,かなりシビアな。それは先生がおっしゃった独立。今,フィルムセンターはミュージアムの下にございます。高野先生のおっしゃった独立という意味はどういう意味の独立かということと,国立というのが,今は法人でしたか。国立というのはどういう意味の国立なのか,2点お聞かせいただけないでしょうか。

○高野氏

 フィルムセンターの世界組織がありまして,ほとんどの国が独立の存在です。近代美術館の中に映画が包括されているというのはアメリカの特徴なのです。アメリカはフランスと一緒に映画の発明国ということになっていて,フランスのリュミエール兄弟が考えついた劇場で上映するということをエジソンは考えなかったから遅れをとったわけですが,原理としては大変な貢献をしている。アメリカは若い国ですから伝統がない。美術館とか博物館の展示物はお金に任せてヨーロッパやいろいろな国から買ってきたり,第一次,第二次世界大戦で傷つかなかったという漁夫の利があって,世界中から集めたものです。だけど,映画だけは自分たちが発明したという大きなプライドがあります。だから,近代美術の中に大きな地位を示している。予算もものすごい金額をもっているのです。
 だけど,日本の場合は小さい国ながら伝統があって,文化庁の予算もそうですけれども,あれにもこれにも使わなくてはならない。それで映画は小さな存在でしかない。日本の国民に対してもフィルムセンターが日本にあるのですと知らしめるためにははっきりと独立して,日本映画はここにありと名乗りを上げた方がいいという意見が映画界にずっとありました。
 でも,私が名誉館長をしておりましたとき,11人しか職員がいないはずなのに,事務所で一生懸命働いている方が何人かいるのです。それは全部近美からの助っ人です。だから,フィルムセンターが独立するというのは人員も一人前に,予算も一人前にということを考えていけば,11人ではやっていかれないのに,今何とかやっていられるのは近美に所属しているおかげで,近美の力があるからフィルムセンターが存在していることが私にも見えてきたのです。
 それで,政府の方で独立法人になって民間にという流れになったときに,そんなに独立したいと大騒ぎするならばどうぞと言われたならば,こんな11人の職員とわずかな予算で道に放り出されるような独立を望んでいるわけではないので,そうした流れを警戒しました。だから,今独立する時期ではないと,私はだんだん独立には保守的になりました。
 世界的には圧倒的に独立型が多く,フランスのように自分が発明したと思っている国,イギリスのように百科事典をつくる国で何でも集めてくるのが好きな国,ドイツのようにヒットラーが政争の道具に使ったところ,社会主義もそうですね。彼らは,ものすごい力を映画に注いでいます。ロシアも,ソビエト時代の遺産があって,学校から何からそろっている。中国も共産主義ですから,映画大学を建て,資料館など立派なものをつくっています。文革という残念な事件があったときに壊滅的になった中国映画が立ち直ったというのも,前に建てた立派な学校のおかげです。
 劇的に変わった国として,1990年の後半,韓国の金大中大統領は,大統領選の公約に文化政策を掲げ,当選後,それを実行したことによって韓国映画界が劇的に変わりました。
 1950年代に世界的に認められた日本映画はアジアで最も進んでいました。しかし追い上げられてきたときに底力がなかった。国が力を注いだ中国や,また国のトップが決意した韓国に追い上げられました。だから,私が座長を務めた河合先生のときの日本映画復興のための提案は,その2つの国をすごく意識したものだったし,映画に予算をずいぶんつけていただいたのも,東アジアの情勢の変化によるものでした。
 だから,独立とは何ですかと言われますと,人材,教育といろいろありますが,やはり映画の収集・保存というフィルムアーカイブ運動です。フィルムセンターはくどいようですが,いろいろなチャンスを逃がしてきて今日に至ったのです。少し前まで,政治家の方がいまに映像の時代が来る,マンガだとか子どものものだというようなアニメーションが世界的になるという見通しはきっとおありにならなかったのだろうと思います。
 だから,お答えにならないかもしれませんが,独立というものは多角的に映像が文化という名の下に国の1つの政策となって出てくることです。今までいろいろな会合に私が出席したときに,庁ではいやだ,省にしてほしいというところが2つありました。1つは防衛庁,もう1つは文化庁でした。ところが防衛庁は省になったのですが,文化庁は文化省にはならない。世界的には多くの国で文化は1つの大きな省です。私は戦後60年間生きてきて,今とても歯がゆい。戦後日本は文化国家として再建したはずなのに,文化というのは文化鍋とかすべてのものに文化がついただけ,本当の文化に日本は注目をしなかった。トップの誰かが金大中さんのように決意すればできたはずだと思うのです。
 国は自分たちの文化に対して,それだけの責任を持っているということは常識なのです。だから,国際的な活動をするときに国が全面的に国民の文化を大切にしているのだということを示すために国,国立というものがあったほしいと私は願っているのです。

○浜野座長

 どうもありがとうございました。

○古川座長代理

 いろいろ伺いまして,私も60年代半ばぐらいから自分のアニメーション,僕の師匠の久里洋二さんのところにはその当時ラングロアさんがいらっしゃいまして,私も付き合ってお話しした経験があります。その当時,若造でしたから溝口,小津の映画をラングロアさんが盛んに言われました。僕らはさっきの安藤さんのお話と同じようにちゃんとそういうものを知らないでずっと来てしまった1960年代の20代の若者だったわけです。ずいぶん後になっていろいろなことが分かってくるにつけても,先ほど子どもがいるようなシネマテークというと僕もすごく印象的だったのですが,そういう環境で子どもたちが政治家になる人も何になる人も将来いろいろことをやる人たちが集まってこられるような場所が本当にほしいなと痛感いたしました。
 あとはアーカイブや保存について,今日デジタルとかに目がいくのですが,自分のフィルムも結局は,35ミリで作っていた本当に短いものですが,自分は今どうしているかといいますと,ネガをちゃんと保存しなければいけないということで,途中までは現像所に預かってもらっていたのですが,だんだんいっぱいになって返されまして,今はテラダ倉庫ですか,ネガだけ自分で預けて保存している状態です。やはりちゃんとした保管場所が必要だと自分の経験からいっても思いました。フィルムセンターはしっかり核になってほしいなという気がいたしました。

○中谷委員

 お話ありがとうございました。大変興味深く伺わせていただきました。3人の方々がそれぞれおっしゃることはもっともですし,アーカイブの重要性やさまざまなこれからやらなければいけないこと,本当にもっともだと思います。過去のヒアリングを踏まえて国際的な拠点に関するイメージをまとめているところですが,高野さんがいみじくもおっしゃっていた,なぜ映画は芸術に入らないのかというお話,本当にごもっともだと思います。
 私が専門としておりますメディアアートの世界というのは映画や写真と比べたら比較にならないぐらい小さな,もちろん人口もそうですし,小さなことであります。いろいろ考えて,今日お話を伺う前までは映画も写真もすべて含めてこのメディア芸術というものを語っていかなければいけないのかなというふうに思っていたのですが,誤解を恐れずにいいますと,映画,写真というのは,これを取り込むことによって規模が膨大になりすぎるのではないか。話が広がりすぎて収拾つかないのではないかと思えるぐらい写真や映画の文化的,歴史も含めまして,我々メディアアートの世界とは乖離した部分が大きいなというふうに思っているのが本音です。ですから,これからこの話をまとめていくにおいてすごく重要なポイントになったと思います。
 ただ,お三方がおっしゃる課題は,それぞれの分野,マンガにしてもメディアアートにしてもアニメーションにしても全部共通して当てはまることですので,それをベースにしていくのですが,この拠点というものをどういうふうにとらえるかということにおいては,僕の中でまた考えなければいけない大きな宿題になったような気がします。
 また思いついたら,いろいろ質問させていただきたいのですが,とにかく質問したい内容がたくさん浮かんでしまったものですから,追ってお話をお伺いしたいと思います。ありがとうございます。

○林委員

 今日は高野先生のお話を聞いて,私は感銘を受けまして,お話を聞いただけでもこの会に参加した意味が大きくあったかなと思っています。ありがとうございました。加えまして,映画と非常に隣接した関係だと思える写真というものも含めますと,この間アニメとかマンガとかメディアート,CGということをこのヒアリングで聞いてまいりましたが,日本国家というものにとっての歴史とか,あるいは文化とか,社会というものを100年以上にわたって押さえてきた芸術あるいはメディア芸術ということにおいて,いかに重要なものであるかを再認識しなければいけないということと同時に,放っておくとどちらもどんどん劣化が進む。あるいは分散化していることを統合化することが難しくなってくる。これは毎年生産されていくからですが,ということを考えますと,急務として,日本が文化的国家としてやっていくためにはこれらの保存と活用,それから分散化しているものを統合化するということの重要性ということを痛感しております。
 先ほど高野先生は映画が映像芸術の父であり母であるとおっしゃいましたが,私もそういうお言葉を聞いて映画,そして写真というものがメディア芸術という中で,別にほかの分野がどうということではないのですが,原点はそこに,映画と写真というものがメディア芸術の父であり,母であり,そして時代とともに科学的な要素がより加わることによってCGアート,アニメ,ゲーム等に展開されてきているのではないかという具合に思うわけです。やはり原点である映画そして写真というものを,いかに保存と統合化ということを早急にしなければいけないかということを感じている次第でございます。
 この会合も一番最初のときにお話がありましたように,並列的に物事を多岐にわたって考えるととても膨大なテーマになり,問題も多岐にわたるわけですが,振り戻ってみますと,高野先生がさっきおっしゃった,唯一映画だけが今,ナショナルセンターとしてのフィルムセンターを持っているわけであります。そのフィルムセンターの独立化あるいは充実ということについては,映画振興に関する懇談会のときから,平成15年から言われてきて,それがその後の似たようなテーマの会合の中でもフィルムセンターの在り方というものがうたわれてきています。考えますとフィルムセンターをどうしていくかということについては,これからつくっていくことになるのではないかと思われるロードマップ的な計画の中では,まずは起点に置くべきテーマなのではないかと思います。
 ただ,日本の場合にはそうは言うものの文化庁の文化芸術基本振興法もそうですし,また小泉内閣の知財立国宣言もそうですが,映画にとどまらないメディア芸術というもの全般を日本ブランドの戦略発信とか,あるいは文化国家として日本がさらに充実していくために必要だという観点を考えますと,映画だけでは難しいというのも一方の事実ではあるかと思います。
 ですから,ステップとしてはまずフィルムセンターという今唯一ある日本のナショナルセンターをどのように強化,活用していくのか。写真もその中に加わって検討されていくべきものかもしれないという気もします。
 それがまず第一ステップとしてあって,第二ステップでなくても並行してなのかもしれませんが,それ以外のメディア芸術といわれるジャンルの整備をしていくということを並行してやっていく,どこにプライオリティを置いて,どのように国際的なメディア芸術拠点を実現させていくのかということの組み立てが必要なのではないかと思います。
 そしてまた,高野先生のお話を聞いて,いろいろ偉そうなことを言っても最終的にはヒト,モノ,カネというところに着地してしまうのではないか。ヒトというのは運営する体制であり,お金というのは予算であり,モノというのはメディア芸術の拠点というテーマでいけば,この拠点という場ですよね。場には私はリアル拠点とバーチャル拠点があると思っていますが,これらのことについて本当に日本が文化省ではなくて文化庁さんではありますが,どこまでヒト,モノ,カネに対してそれなりの手当てをし,本来の意味での文化国家としてのこれからの日本というものを支えていくかということを本腰を入れて考えなければいけないのではないかという具合に今日は先生方,皆さんのお話を聞いて思いました。本当に貴重なお話をありがとうございました。

○浜野座長

 どうもありがとうございました。まとめていただいたみたいですが。さいとう先生,どうですか。

○さいとう委員

 今日は本当に実りのあるお話ばかり聞けて,私はマンガを描いているだけなので,日本の文化の源は映画と写真というものがすごく重きを置いているというか,お父さんとお母さんがやってきたという感じが今日はしてしまったのです。ですから,写真と映画というものが今日本で置かれている状況が,この前も思ったのですが,なんとかしないといけないということが急務の問題であるというのが今日はお話を聞かせていただいてすごくよく分かったので,マンガのことはちょっと置いても写真と映画のことをまず何とかしてほしいと思うぐらい,とても重要な問題だと思います。
 ただ,これを今回のメディア芸術の国際的な拠点の整備の中で本当に一緒にやってしまっていいのかというのは私も,重要な問題だけに,そこに含めてしまっていいのかなということは思ったのです。
 あと写真の方で,写真保存活用センターというお話の中で,いろいろな人たちに活用してほしいというお話を聞いていて,私もそれは待っていましたという感じです。私もマンガを描いていますので,写真を活用させていただいたり,資料として映画を,すごく昔の映画を観たりすることによって得られるものはとても大きいので,ぜひそういうふうに,もしこの拠点ができたときには国立であまりお金がかからない形でいろいろな人がすぐ活用できるという体制をつくるべきだなというのは非常に思いましたので,ぜひ含めていただきたいなと思います。今日は本当に,まとめをしていただいてしまったのですが,すごくいいお話を聞かせていただいてありがとうございました。

○浜野座長

 どうもありがとうございました。私も感じたところ,複製ができたり,科学技術に依存しているというところで似ていると思うのです,アニメーションも映画もマンガもメディアートも。油絵とか彫刻の専門家と映画の専門家が一緒に働くよりは,そういう方の方が一緒に協調して独立して組織をつくるというのは相乗効果もあると思うんです。高野先生が映画が下にみられているということに対して,非常にはがゆい思いをしてきたのをマンガの方もほかの領域でも今は感じていらっしゃると思うんです。政府がきちっとした態度を示してくれない。中核のセンターをつくってくれないということで。
 映画の方々が長い間感じていたほったらかしにされているとか,せっかくやってきた作品をきちっとアーカイブして保存して伝えてくれないとか,ちゃんと観せる場がないというのをほかの領域でもあるので,一緒にやっていくというのは,今日高野先生のお話を聞いて分かったし,先ほど林さんがおっしゃったようにヒト,モノ,カネで11人だと独立できないけれども,総力を結集すれば何か独立できる形に持っていけたら,やはり映画のノウハウというのは次の別の表現にも生きていくのではないか。そういう意味では逆に私は力強い支持を得たという感じがしたのです。
 高野先生に,もう1つお聞きしたいことがあります。橋本忍さんの著書『複眼の映像』によると,昭和から平成になった頃,一部の映画人が文化庁に働きかけて,国立の映画劇場を建設することで進んでいたものの,城戸四郎氏に反対され,森岩雄氏に厳しい条件をつきつけられて,結局は国立映画劇場の計画は頓挫してしまったということです。映画の関する式典とか,映画祭などの公的な上映など,高野先生がおっしゃったような会場として,橋本氏が書かれている国立映画劇場ができていれば,よかったと思います。

○高野氏

 お聞きしたことはございます。

○安藤委員

 ただアメリカのハリウッドがガタガタになっていますよね。そういう映画だけではないというか,さっき高野さんの独立と国立という2つの意味合いというのが両立していないといけないと思うのです。つまりカルチュラルダイバーシティというか,文化が多様でなければいけなくて,小さなところのいろいろな,高野さんの岩波さんなんかがすごくよくやってくださっているけれども,小さな国はハリウッド映画にすごく,つまりアメリカの商業主義的なWTOの自由貿易みたいな形の中での引き換えに映画に国がお金を出すことに対して,いろいろなことが出てきて,一時韓国でもいろいろあったクォーター制を廃止せよという事柄みたいなことが起きましたが,揺り戻しがある気がします。文化は国がちゃんと支えなければいけないから,国立というところがないと,自分たちの文化を守れないという形の事柄は一方であると思います。だから,小泉政権的な民間の競争でということだけではなくて,国がちゃんと支えなければいけないという部分はあって,ただしそこに一方で今ちょっとアーカイブ的なところばかりに話がいってしまうといけなくて,アーカイブが大事なのは,その後に続く若い人がどうそれを利用して新しい日本の文化を支えていくかというところ。だから,メディア芸術の拠点の整備というものもアーカイブがまず基本にはあるけれども,そこから出発して,どう新しい人たちと古い僕らみたいなのと,先の文化をつくっていけるかという拠点でないといけないと思うのです。だから,そのためにはある種の独立という部分も非常に重要なことだし。だから,国はちゃんとお金を出す。ちゃんとした形で国の新しい文化が自由に育っていくような形の基盤は支えていく。それにはヒト,モノ,カネという部分をおっしゃられたけれども,そこをすることがこれからの日本,世界が経済主義だけではないという動きが全体に来ているという気がするのです。だから,そこのところをいち早く日本がやっていくことを文化省,あえていう「文化省」に期待します。

○浜野座長

 松本さんにお聞きしたいのですが,シナリオ作家協会はライターの方の権利を,全部代行されていますよね。

○松本氏

 著作権関連ですね。はい,写真には日本写真家著作権協会というのがございまして,そこは今12の写真の団体が加盟しておりまして,3万2,000人ぐらい擁しているかと思います。そこでは著作権の普及活動が主で,それから複写権センターの分配をいただくということで運営をしております。ここでは今,インターネット上にウェブサイトを持っておりまして,そこで写真を公開してその利用を図ろうではないかということをやっておりますけれども,我が国は思ったより進んでいない。というのは,ウェブサイトをごらんになると分かりますが,自分の写真を見てもらいたいというのがアマチュアとかで,そういう方は非常にたくさんいらっしゃる。それはお互いのものを見せ合っているというだけで,それがビジネスにどうつながっているのかということは,なかなか把握できていない。そこでは著作権のこともあまり考えないで,ダウンロードされようが,それはよかったなというぐらいの方が多いので今悩んでいるのです。
 本来であればもう少し著作権の普及,啓蒙をして,あなたにも著作権があるんだからもう少し意識を持っていただきたいと言っているんですが,現実はなかなかそうはいかない。

○浜野座長

 そうすると,例えばナショナルセンターみたいなものができたときに,アーカイブが,寄託を受けて,ビジネスはビジネスとして,うまいこと国立になればすごくいいと思いますが,それはまた調整がかなりいるわけですね。

○松本氏

 ほかのジャンルの皆さん方と多少写真というのは違うところがあるのは,言ってみれば,創作しているのが個人なのです。映画は何人か,あるいは監督がいて,そういう形でやっています。ところが写真の場合には一人で何でも1から10までやってしまう。コマーシャルを除けば基本的にはそういうところがございます。それだけに個人の自由な部分はありますが,いざ合同して何かやろうというときには非常に力が弱い部分があります。そのために我々写真家協会のような組織が啓蒙して一緒になってやろうというのが,これからのセンターの役割です。
 そうしないと現実に,多くの写真が破棄されてしまいます。

○妹尾氏

 1点補足をしてよろしいでしょうか。今の話でくると,最終的には個人ベースですから,写真家の場合は。全部相対取引の形になります。相対取引は世界中の国際発信をしたときにどれだけできるかという大変な問題になるので,基本的には先ほど申し上げたフリッカー的なウェブサイトを通じて,少なくとも最小限のパターンによってすべて権利関係が処理できるようにしようという裏側での法的な整備の代案は今つくりつつあります。
 ですので,例えば国立みたいなところになったときに,それはどういうふうにできるかというのは,少なくともサイト関係で処理できるところは全部処理しないと,それこそ何百人という人数を抱えなければいけないというので,自動的にできるような形を今のところ裏側では考えています。ちょっと細かいお話に。

○浜野座長

 さいとう先生がおっしゃったように我々の父親と母親みたいな,常にずっと長い間議論されて我々の共通問題を何度もやって,問題はもう精選されていて今日は大変参考になりました。本当にありがとうございました。これからも継続して映画と写真というのは問題があるたびにご経験を生かしたいと思います。

○中谷委員

 多分お三人はごらんになったことはないかもしれませんが,メディア芸術祭という,この検討会の元になったムーブメントがあります。この検討会もメディア芸術祭が育んで盛り上がりがこういう検討会を生んでいると思います。そのときにメディア芸術祭の中に加わってきている,映画の方は多分誰も入っていらっしゃらないですね。写真もあったかなというレベルの話なのです。ですから,こういう会が持たれて,全体的にメディア芸術を盛り上げていくというときに映画界,写真界には少しこっちを向いていただいて,入ってきていただくと,また違う盛り上がりになっていくのではないかと思います。

○松本氏

 それはもう大歓迎でございます。我々もいろいろな情報を得ないことには個人個人に伝播することが難しいものですから,ぜひお願いいたします。

○妹尾氏

 そのためには文化芸術振興基本法でメディア芸術の中に写真は入れられていないのです。それで動きにくいところもあります。芸術とは言っていただいていますが,メディア芸術,なぜかお父さんとお母さんが分離されております。ぜひ夫婦中をもう一度取り戻していただければ助かると思います。

○浜野座長

 映画も入っていない。

○安藤委員

 声をかけられたことがないです。

○浜野座長

 緩やかに融合して。

○中谷委員

 東京芸大に映像研究学科ができたのです。やはり映画とメディアアート,アニメーションの人は相当意識が違う。語弊があるかもしれませんが,友達ではないと思っている感が若干あります。

○高野氏

 東京国際映画祭はどんどんメディア芸術の比重が大きくなりつつあります。昔からアニメーションは映画の1ジャンルですから,その世界的な成功は映画人にとっても大きな喜びです。お互いに力になり合って成長すると良いですね。

○浜野座長

 それでは,時間となりましたので,本日の検討はこれまでにしたいと思います。松本様,妹尾様,高野様,どうもありがとうございました。
 では,次回の日時につきましては事務局から説明をいただけますか。

○清水芸術文化課長

 <次回の予定の説明>

○浜野座長

 それでは,これにて閉会といたします。どうもありがとうございました。

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