文化審議会第2回総会(第39回)議事録

1  日時
平成17年3月30日(水) 10時30分~11時30分
2  場所
東京會舘本館11階 「ゴールドスタールーム」
3  出席者

(委員)

青木委員,阿刀田委員,石井委員,市川委員,上原委員,岡田委員,田端委員,永井委員,中山委員,西原委員,前田委員,紋谷委員,野村委員,渡邊委員

(事務局)

小島文部科学副大臣,河合文化庁長官,加茂川文化庁次長,森口文化庁審議官,寺脇文化部長,辰野文化財部長,吉田政策課長,他
4  議題
  1. (1)「敬語に関する具体的な指針の作成」及び
    「情報化時代に対応する漢字政策の在り方」について諮問
  2. (2)その他

5 議事

○阿刀田会長
 第39回文化審議会の総会を開会します。
 まず,事務局から配付資料の説明をお願いします。

○吉田政策課長 <配付資料の説明>

○阿刀田会長
 第38回の議事録案については,御意見等ありましたら4月6日までに事務局へ御連絡ください。それでは,これから諮問を頂戴いたします。
○小島文部科学副大臣
 次の事項について,別紙理由を添えて諮問します。
  ○ 敬語に関する具体的な指針の作成について
  ○ 情報化時代に対応する漢字政策の在り方について
平成17年3月30日文部科学大臣 中山成彬 <諮問文手交>
○阿刀田会長
 諮問理由について副大臣より御説明をお願いいたします。
○小島文部科学副大臣 
 御紹介をいただいた文部科学副大臣の小島敏男です。
 このたびの諮問を行うに当たり,一言申し上げます。
 平成13年に設置されましたこの文化審議会には,これまでに文化を大切にする社会の構築についてなど,三つの御答申をおまとめいただいたほか,各分科会においても精力的な御審議が行われていると伺っております。
 文化審議会で,御検討いただきます様々な課題は,いずれも我が国の文化の振興にとって重要な事項でございますが,とりわけ,国語,すなわち私たち日本人の母語である日本語の問題は,全国民に直接かかわる問題であり,我が国の文化や社会の基盤にもかかわる極めて重要な問題であると考えております。
 国語の問題に関しては,昨年の2月に「これからの時代に求められる国語力について」の御答申をいただきましたが,その中に述べられている「現在の我が国の状況を考えるとき,今日ほど国語力の向上が強く求められている時代はない」という認識は,そのまま今の私の認識でもございます。
 本年2月,文化審議会国語分科会が,「国語分科会で今後取り組むべき課題について」の御報告をおまとめになりました。国語,言葉の問題は極めて広範にわたり,多様な問題が存在をいたしております。しかしながら,それぞれの問題の緊急性,重要性にはおのずと濃淡があることは申すまでもありません。
 分科会の御報告は,問題の緊急性,重要性から見て,敬語に関する具体的な指針の作成について及び情報化時代に対応する漢字政策の在り方についての二つの課題を今後取り組むべき大事な課題であると指摘されています。様々な課題の中から,これらの二つについて御提言いただいたことに,私は分科会各委員の御見識の高さを感じた次第であります。
 本日の諮問は,この国語分科会のおまとめになった御報告に沿って,二つの課題の検討をお願いするものであります。
 今後,御審議を進めていただくに当たり,二つの諮問事項について,私の考えているところを若干申し述べたいと思います。
 まず初めに,敬語の具体的な指針の作成に関連して申し上げます。
 敬語は,我が国の大切な文化として受け継がれてきたものであるとともに,社会生活における人々のコミュニケーションを円滑にし,人間関係を構築していく上で,欠くことのできないものであります。最初にお願いしたいことは,現在の社会生活に不可欠な存在である敬語を,現時点でどのように位置付け,そして,それをどのように将来の社会にまで引き継いでいくのかという観点を指針作成に当たって大事にしていただきたいということであります。
 すなわち,作成される指針は,現在の人々の言語生活に資するだけでなく,将来の敬語の在り方にも影響を与えるものであるという点を十分に踏まえて検討をお願いしたいということであります。このことは,伝統的な敬語の使い方だけが正しく望ましいという意味では決してありません。むしろ,大切な文化だからこそ,使いやすく,分かりやすい敬語の在り方や使い方をお示しいただきたいというのが私の率直な気持ちであります。
 次に,情報化時代に対応する漢字政策の在り方に関連して申し上げます。
 パソコンや携帯電話等の情報機器の急速な普及によって,人々の文字環境は大きく変化しております。これらの情報機器には驚くほどの数の漢字が搭載されており,その結果,社会生活で目にする漢字の数も確実に増えているように感じられます。
 このような変化に伴って,人々の漢字使用にかかわる意識もどちらかと言えばより多くの漢字を使いたいという方向に動きつつあるように見受けられます。このこと自体は決して悪いこととは思いません。しかしながら,法令・公用文書・新聞・雑誌・放送など,一般の社会生活における漢字使用を考えるときには,意思疎通の手段としての漢字という観点は極めて重要であり,単純に漢字の数が多ければ多いほど良いというわけにはいきません。情報化の急速な進展によってもたらされたこのような社会変化の中で,人々の共通の理念となるような漢字にかかわる基本的な考え方を整理し,提示していく必要があるのではないかと感じております。端的には,日本の漢字をどのように考えていくのか,この点について大局的な見地に立った御判断をお示しいただければ,大変に有り難いと存じます。
 常用漢字表の見直しについても,固有名詞の取扱いにしても,手書きをどのように位置付けるかにしても,正にこの基本理念に基づいて検討されるべき課題であろうと考えます。甚だ難しいお願いではありますが,このことの重要性にかんがみて,御検討のほどをよろしくお願いいたします。
 以上,今回の御審議に当たり,特に御検討をお願いしたい点について申し上げましたが,幅広い視野の下に,忌憚(きたん)のない御審議をしていただけるようお願い申し上げまして,私の御あいさつといたします。
○阿刀田会長
 それでは,ただいま諮問いただきましたことについて,本日の討議に入りたいと思います。
 資料の4から6まで,『国語分科会で今後取り組むべき課題について』。『これまでの「敬語に関する議論」について』。そして,『これまでの漢字政策について』という資料が配付されていますが,それについて事務局から説明をお願いしたいと思います。

○久保田国語課長 <資料4,5,6の説明>

○阿刀田会長
 これから自由討議に入ります。
○上原委員
 昭和21年に当用漢字表が作られたその背景,理由は何でしょうか。
○久保田国語課長
 それは読み書きをしやすくするという目的で,漢字の使用範囲を一定の範囲に限っていくということでして,その後,当用漢字字体表の検討がなされますが,字体表の中でも,画数の多い漢字についてその略体化,すなわち画数を少なくするということも行われています。
○上原委員
 ということですので,その趣旨は時代が変わっても変わらないものではないかと思います。その当時だったか,日本人が漢字を覚えるために費やす能力にはたいへん大きいものがあるので,できるだけ国際競争力をつけるためにも,そのように覚えたりする分量を少なくするべきではないかという議論が随分あったように覚えております。今後の改正にしても,そういう部分に対する配慮は当然なされておくべきではないかというのが意見です。
○阿刀田会長
 その時代,私は中学生くらいのときでしたが,漢字はやはり文化でしたし,駐留軍といいますか,占領政策の中で日本の古典的なものに対して,いろいろな政策的な干渉もあったのかなという気もします。あのときいっそのことローマ字にしたらいいかというような話も出ていたと思いますので,そういう時代の流れも多少はあったのかなという気がします。当然漢字は相当書くことは難しく,習得にも随分いろいろなことが必要だと思います。
 今,これは国際的にも少し問題になっています。中国の簡略体といいますか,簡体字と言われているもの,それから台湾の割と古典的な文字と,その真ん中くらいにある日本の漢字の間で,どうバランスをとっていくかということです。中国ではこんなに簡略化していいのかなと思うほど簡略化しているところもあって,そういう問題と絡んでいるのかなと思いますが,当然,今おっしゃった視点は,歴史的な動きの中で適宜考えていくべきことかと考えております。
○岡田委員
 今の上原委員の御意見は,漢字をたくさん覚えない方がいいという,覚えるエネルギーは削いだ方がいいという御意見ですか。
○上原委員
 いえ,常用漢字として国が定めるものの数が多くなって,それが教育の現場に持ち込まれていくということに対する懸念です。
○岡田委員
 私は逆だと思います。漢字をたくさん覚えるということは,それだけ記憶の回線がいっぱいつながっていくことになり,頭脳の訓練にもなります。私など子供のころには,朝学校に行くと5分間の豆テストがあったので,毎日毎日漢字を覚えました。それを覚えたためにほかのことを覚えたり,考えたりすることのマイナスになったとは全然思っておりません。むしろたくさん漢字を覚えたことが現在の私にプラスになっていると思っています。
 そのようにみんなが努力することを減らしていくことを,ここの場で提唱するのはいかがなものかと思います。
○阿刀田会長
 その問題は,手書きの問題とも絡んでいて,脳生理学的にも手書きの訓練が,漢字をただ覚えるということだけではなく,脳そのものの発達にも大変大きな影響があることも分科会では言われています。そのあたりの両方のどの辺をとるかということですが,少なくとも今の分科会では,ただ簡略化すればいい,便利ならいいという方向には向かっていません。やはり漢字をきちんと,特に手書きを通して習得していくことには,むしろ今岡田委員がおっしゃったような意味合いがあるのではないかと言われているところです。両委員の意見をしっかり承って今後進めていきたいと思います。
○石井委員
 手で書いて覚えることが脳の発達にプラスになる。これは私,何かわかるような気がしますが,それは漢字を書くということに限定された問題なのか,あるいは漢字自体に特有な効果があるものなのか,あるいはそれ以外のことはどうかかわってくるのか,その辺りを何か御存じの方があったら御披瀝いただきたいと思います。
○阿刀田会長
 今まで国語分科会で伺っていることは主として漢字についてのものです。漢字を書くことによる脳の発達と,例えば絵を描くこととそれとのかかわりとなると,両者は少し違う気がします。漢字はその成り立ちからして,六書など文化的な背景に支えられていますので,一字書くごとに,書き手が文化と出会っていく様な要素もあるような話を伺ったりしています。前田委員,漢字の持つ歴史的な意味など,何か関連するところがありましたら,御説明いただけますか。
○前田委員
 漢字の歴史的な意味ですが,中国の文化として漢字が成立したわけですから,その中国文化の伝統を受け継いではいるわけです。ただ,日本に入って,日本独自のものとして新しい日本の文章に漢字を用いることが行われて,これが一般化してきた。ですから,全く中国のものを無視するわけにはいかないが,やはり日本独自の文化として考える必要がある。
 その点で,現代とのかかわりが問題になるわけで,現代の漢字の使用だけ考えれば,これは日本の伝統的な過去の文化を無視することになってしまう。しかし,現在生きている漢字使用の状況を考えずに過去のことばかりで規範を考えるとすれば,漢字がこれから新しい文化を創っていく面もあるわけですので差し障りもある。どういう形で中国のものも含めて今までの伝統を受け継ぎながら,今の私どもの時代において,同時に将来を見通した場合に一般の人々がどの程度納得してくださるかという問題はあります。
 一方では,多少増やす方向が考えられますが,先ほど御質問があったように,なるべく分かりやすい情報伝達の手段としての面もあるわけです。ただ,当用漢字の制定当時,将来の方向として,漢字使用を制限するだけでなく,なくす方向もあったわけです。進駐軍側の考え方として,ローマ字使用を強く奨励したのは,そういう方向への一つの足掛かりを作りたいということがあった。手始めとして漢字を制限する。漢字を制限する場合に,人名の場合に今までの使われている姓名の漢字は,これを使うなというわけにもいかないが,これからつける子供には昔の伝統を受け継いだ漢字を使わせない。ということは,将来の方向としては,人名も漢字使用をもっと制限して,漢字全体を減らす方向だったわけですね。
 ところが,先ほどお話のあった常用漢字のときに,制限するものから目安とするものになったのは,その間にもっと漢字を使いたいという意向もあり,また文化が多様化して,各種の機械も進歩して,いろいろな漢字を使いたいという一般の人々の動きが強まってきたことに応じて,多少緩めたという形だと思います。
 そして,漢字を廃止する方向に持っていこうという考え方は消えたと私は考えています。そのようにその時代の言語生活とかかわっていて,しかも前の時代の文化を受け継ぎながらというところがなかなか難しい問題かと思います。
○青木委員
 アジアの言語の中でもローマ字を採用している言語は,トルコ語を初めマレー語,あるいはインドネシア語といったところです。それから,アラビア文字を使っているところ,もちろん漢字もあります。日本は漢字と片仮名,平仮名,それからローマ字。これで,何か不都合があったかというと,日本は最も短期間に近代化を達成した国ですから,漢字制限とか合理化とかが,我々の発展を妨げたとも思えません。
 私は,この議論は,日本文化全体の問題として捉えるべきだと思いますが,少なくとも近代日本の生み出した様々な文学作品の言葉とか,あるいは福沢諭吉のような思想家の言葉,論文,こういうものを受け継いで読めるという文字意識というか,国語意識が一番必要です。漢字を制限したり,あるいは増加したりということを考える基準としては,例えばシェイクスピアはイギリスの中学生でも読めるけれども,日本の中学生あたりだと源氏物語が全然読めないというような問題とも関連付けて考える必要があると思います。
 それから,敬語も非常に重要な問題で,その使い方ともなれば言語的な部分と非言語的な部分があります。コーヒーショップなどで,「御ゆっくりお召し上がりください。」と,ただマニュアルどおりの言葉を,相手の顔も見ずにいっていることがある。これでは言語的な部分を幾ら正確にしても,実際問題,社会関係にずれが生じるので,そういう文化としての言語を考える視点を出していただきたいと思います。
○田端委員
 まず敬語についてですが,資料に出てくる敬意表現というのがもう一つはっきり分かりませんでした。私の理解では,何とか「なさった」とか,「された」とか,そういう部分を敬意表現とされているのかと思いますが,敬語については,話し言葉と書き言葉ではかなり違う。特に論文などでは,ほとんど敬語を使わなくなってきています。引用する相手の方が何歳なのかがわからない場合も多く,研究所では同一レベルだということもあって,敬語の表現は非常に少なくなってきていて,それはそれで正しいことだと思います。
 話し言葉での敬意表現はコミュニケーションを円滑にするためにも必要だと思いますので,この部分を具体的にもう少し膨らませて変えていただくと分かりやすいのではないでしょうか。
 それからもう一つ,漢字の使用については,パソコンなどでは多種多様な漢字の変換が可能になっていますが,やはり学校教育では漢字を自分の力で書く方針を持っていただきたい。
 最近では中学校からの情報処理教育を始めている県もたくさんありますので,学校ではそういう部分は情報処理の時間だけにして,あとの国語や他の教科では,自分の力で書くという,そういう指針のようなものを出していただいたら納得できる部分があると思います。
○阿刀田会長
 今のお話しのまず前段について。敬語と,それから敬意表現という二つの考えがあって,敬語というときには,幾分マニュアル的な,こういうときにはこういう言葉を使う,いわゆる敬語の本があるような,そういう意味での敬語ということ。もう一つ敬意表現というのは,それをバックグラウンドにして,別に丁寧な言葉を使わなくても,やはり敬意を表明できるし,今あったように丁寧な言葉を使っても,横を向いてコーヒーを出していては,少しも敬意にはならないということもある。
 だから,敬語の問題を扱うときに,その背景や経緯を全部ひっくるめて考えないと,敬語マニュアル的があっても円滑なコミュニケーションはできないという意見があります。ところが,アンケートをとると,皆さんが望んでいるのはマニュアルとしてこういうときにはこう使うというようなものとの気配も感じられる。この二つをどう折衷しながら,これからの敬意表現による,円滑なコミュニケーションを考えていくのかは,とても難しいことであろうと考えています。
 後段のことについては,学校教育の中で手書きを一生懸命にするべきだと言ったら,国立国語研究所の甲斐さんから,そんなことは学校教育で今だってやっていると言われました。手書きという言い方自体がおかしいと。パソコンが出てくる前は手書きが普通だったので,一々手書きと言わなくてもいいと,言葉の規定から御指摘を受けました。学校教育では依然として手書きを非常に重視していて,それは今の分科会の議論の中でも言われている方向かという気はしています。
 西原委員。日本の言語の問題について,比較言語学的な立場からどうですか。
○西原委員
 先ほど青木委員から世界の中の日本語というお話がありましたが,敬語というか,敬語的な配慮をしない言語はありません。敬語がないと言われている言語でも,人間関係について当然配慮していろいろなことが行われています。人が決まると言い方が決まる敬語体系を絶対敬語と言いますが,日本語の敬語の悩ましいところは,その絶対敬語ではなく,人間関係を読んで,その時々にその言葉遣いを決めていく相対敬語と言わる敬語体系を持っていることです。このことが日本の敬語を非常にややこしくしているところで,そのために敬語の指針を出したり,敬意表現と呼んでみたりと。言語,非言語,両方あるのだということを言うときにも,結局私どもはその相対性をどのように指針として出していくかが一番難しいところです。それは言ってみればコミュニケーションの質というか,言葉の質の問題だと思います。
 例えば,阿刀田会長に面と向かって私は「先生,これはいかがでしょうか」と言いますが,私が友達と阿刀田先生のことについて話すときには,「阿刀田高は,小説の中でこう言ってるよ」となるわけで,むしろそこで敬語を使ったらおかしなことになる。相対性について,分かりやすく言えばそういうことだと思います。それが教育の手段としても,規範としてもきちんと明文化できることができれば,単なるHOW TOマニュアルで教えるというのではなく,私たちは日本語をどういう仕組みで人間関係の面で使っているかを解き明かして,それを最低限の基準としてこれから育つ子たちを教育できる。そのことで,美しい,質の高い日本語を話したり,書いたりしてもらえればと思うわけです。日本語の敬語は,そういう点から非常に注目されていると思います。特に外国の学習者が日本語を学びにくいという場合,言葉遣いの型が覚えにくいという表層的なことではなく,日本語を使うということは人間関係をどう読むことに基づいているのかが分かりにくいということだろうと思います。
○渡邊委員
 私も言葉について専門的に考えたことはありませんが,今,西原委員がおっしゃったことは大変よく理解できます。
 実は,昨日,ある美術館でボランティアの方々のための接遇教育的な講演がありました。そのときに強調されていたのは,青木委員からもあったように,無形の部分が必ず言語表現に伴っていることでした。それが今は崩れてしまっている。そこで,相手に対して自分をどう置くかということ,つまり自分の客観化ができれば,そこに言葉もスムースに流れるはずだと思いますが,そこがマニュアルで指導できにくい部分であって,自分の感覚の中で感じ取っていくしかないというところがあるものです。
 だから,言葉による表現は,やはり人間の能力,直感力と結びつかないと。感性といいましょうか,そういうものを鍛えていくような場面がないと,実際に漢字政策も生きてこないのではないでしょうか。
○市川委員
 敬意表現といい,敬語といい,前年度の答申でそれは大事だということが出てきて,本年はより具体的なことを論じなければいけないと伺いました。
 私は,敬語という言葉は書かれた文字よりもコミュニケーション,しゃべる言葉の中に重要性があるのではないかと思います。
 その中で,先ほど青木委員がおっしゃったように,よそを向いてありがとうございますと言うのは,マニュアルによる指導の結果でしょう。こういうときは,こう言いなさいと。だから,日本語のマニュアル化はいけない。ではどうするか。敬語は,いきなりこう言えと言ったってできるものではありません。また,正確じゃないからおまえ違うよと指摘するものでもないと思います。そこにはやはり訓練がされることが最も大切だと思います。
 そのためには,私どもの演劇とか,あるいは詩とか,それから討論会,あるいは発表会,そういうものを通して敬語の啓発をしていく必要性があると思います。そういう訓練の場を多く広げるのが一つではないかと私は思います。
 それからもう一つ,幼稚園あるいは保育園のときに,「先生,おはようございます」と教えられます。また,子どもたちも楽しそうにそういう言葉を使っている。それがあっという間に崩れていく。この原因が家族にあるのか,社会にあるのか,何にあるのかを,調べていただくことによって,敬語のあり方が変わってくると思います。
 それからもう一つ,やはり敬語の重要性ということの中で,20代の若者で働く意欲がない,また働けないという方々が増えているように伺っています。こういう方々の話を聞くと,やはり自己表現,言葉でしゃべるという力が随分欠落しているような感じがします。自己表現をより明確化するためにも適切に敬語を使えるように,その訓練の場をふやす教育をすることが大事ではないかと私は考えております。
○野村委員
 法律の人たちは結構保守的で漢字制限には余りこだわらずにいろいろ使っています。例えば慰謝料という言葉がありますけれども,「謝」というのを謝るという字を書くわけですけれども,どうもすっきりしないので,ずっと「藉」という昔の字をそのまま使っていました。今度は民法現代用語化で全部変わりましたので,これから今までのような用語は使えないと思っていますが,正確な表現を目指すと,漢字の制限をもう少し緩やかにしてほしいという気持ちはあります。他方でやはり法律は普通の人にもわかってもらわなくてはならないわけで,そうなると,教育の問題がかかわってくると思います。漢字をどんどん増やせばいいというほど単純ではありませんので,教育の中でどの程度の負担に耐えられるのか,その辺も視野に入れてぜひ御検討をお願いしたいと思います。
○中山委員
 言葉は,元来コミュニケーションの道具で,実用的なものであると思います。したがって言葉の問題を考えるには,情報化時代にはどういうものがふさわしいか,あるいは使いやすいかということ,これが第一義的に重要だろうと思います。しかし,単なる実用的なものではなく,非常に文化的なものである。特に,昔のものを読んで理解できなくなるということは,恐ろしいことではないか。やはり我々は千数百年の歴史を持っていまして,そこにはいろいろなものがあるわけです。それが読めなくなってしまう,まるで外国のものを読んでいるようになってしまうということに対しては,危機感を持っています。
 やはり,教育の場で何らかの教えをする必要があるだろうと思います。これは漢字だけの問題ではなく,敬語も同じで,敬語がわからなければ昔の文学を読んだって,誰のことを指しているかすらわからないことがある。このように,実用的な面と文化としての面と両方重視していく必要があると思っております。
○岡田委員
 第22期国語審議会のサマリーを読んでいると,言語学の教科書を読んでいる気がして,この先本当の生きた敬語にたどり着けるのかどうか,とても心配になりました。
 それはさておき,この資料で一番得心が行ったのは,敬語を使う人自身,そうした敬語を使うことで人格があらわれてくるということです。だから,相手に対しての敬う気持ちももちろんありましょうが,その言葉遣いによってその人の人格なり,品格なりがあらわれてくるということがポイントだと私は感じました。
 そして,マニュアルを作ったらどうかという話も出ていると伺いましたが,もしもどこかのお宅にお邪魔して,お嬢様が「こちらコーヒーになります」と,そんなところでコーヒーを出されても変だし,やはりマニュアル化するべきことではない。そして,この第1回目の国語審議会で,一人称を「わたし」あるいは「わたくし」,二人称を「あなた」と決めたということだって変なことです。やはり非常にフレキシビリティーのある世界ですので,余りカッチリと言語学的な見地からどうだとか,ここはこういうべきだとかという考え方はせずに,自然に敬語が出てくるような話し方はいかにすれば訓練されるかというところに重きを置いていただきたいと思います。
○石井委員
 今までの皆様方の御議論を伺っておりまして気がついたことを申しますと,法律学というのは,今,野村先生も中山先生もおっしゃいましたが,問題を区別するという性質を持っている学問です。中世のヨーロッパでディスティンクティオというラテン語で表現したディスティンクションですが,このケースとこのケースは違う,それはどういうふうに分けて扱うのかということから法律学はでき上がってきますが,今日御議論になった問題を様々伺っておりましても,やはりディスティンクティオが必要なのかなと。
 例えば,書くことと,あるいは書けるということと,読めるということ,これは別のことです。殊にワープロのようなものが出てきた場合には,書くということについても,実は二つのことを考えなければならない。手で書けるか,機械を使えば書けるか,私も瞬間忘れてしまい,ワープロを打たないと出てこないということがあるので,やはりそういう区別をしないと,何字教えるとか何とかと言っても,やはりそこは一様には扱えないことではないか。あるいは,文字を書くということについても,これは脳の発達にプラスになるらしいということは伺いましたが,それは思考能力を鍛えることに直接関係があるのか,文化的な発想を理解することに役に立つのか,これは私にもまだわからない。漢字のない文化圏で,あの人たちがアルファベットだけ書いていて,じゃあ思考能力が低いかといったらそんなことはない。つまり,もしかすると漢字を書くことを覚えることによって,思考能力といっても,違う性質の思考を育てているのかもしれない。敬語にしたって使えることと,理解できることとはまた違うわけですし,そもそも言語というもの,これをノーマティブなもの,つまり規範的なものとして考えるのか,時代や地域によってどんどん違ってくるという社会学的な,あるいは認知的なものとして考えるかによって全然違ってくるわけです。私は基本的に言語というのはノーマティブな性質を持っているが,巨視的に見れば変わっていかざるを得ないと考えています。平安時代と今とでは違う言葉を使っていることは明らかです。
 これは,紫式部と同じ言葉を使わなければ間違いかといったらそうではない。そうではないが,その瞬間その瞬間ではあれは違う,それは間違いと言える,あるいは言うべき性質を言語は持っているはずでして,だからこそ今ここで議論がなされているわけですが,ではそのノーマティブな態度決定と,コグニティブ,認知的な態度決定とどういうふうに組み合わせたらいいのか。マニュアルを作るということは一体それに対してどういう態度決定をしているのかというような,きちんとした自分たちのものの考え方,あるいは立場を考えませんと,違った発想で違った次元のことをまぜこぜにしてものを言ってしまう危険性が出てくるかもしれない。
 それからもう一つ,やはり社会を構成する人々,あるいはグループというのは,多様なものでありまして,これは近代化し,現代化するにつれてそれがだんだん融合してくることは確かで,例えば江戸時代の長屋のはっつぁん,くまさんは,敬語ができません。できませんから,突然お殿様に呼び出されると「おわたくし様は……」のようなことを言って,それが落語のくすぐりの一つの定番になっているわけです。それは誇張であるにしても,ある種のやはり真実と関係があるから,落語として成り立っているわけでして,敬語というものもそれを使わなければいけない,これが正しいと思うグループと,そうでないグループというのはやはりあるわけです。
 外国人にそれを要求したってそれは無理。だけど,我々は彼らとは敬語をちゃんと使えなくたってコミュニケーションできるわけです。それは,こっちが理解できるから,彼らが使わないということ,使いにくいということがわかるからです。ですから,そういう社会の多様性というものをやはり私は考えてかからないと,問題を非常に窮屈なものにしてしまいかねないのではないかという感じがしますので,できる限り事務局の方にはこういう問題点の次元とか性質を区別して先生方に議論していただけるような配慮をお願いしたいと思う次第です。
○青木委員
 インド人のIT技術者に以前伺ったのですが,インドではどうしてIT技術に非常にうまく適応できてその才能を伸ばせたのかというと,サンスクリットの言語構造とコンピュータの構造が非常に似ていることがあるということでした。インドというのは,ゼロを発見したところで,MITそのほかのアメリカの大学にもインド人の数学者が非常にたくさんいる。
○紋谷委員
 先ほど来お話しを伺っていて,漢字に関しては,やはり制限するという方向性よりも,むしろ文化承継という意味から,やはり読める程度,最低限昔のものは読めないと困るという方向性にあると思いました。私の専門は法律ですが,法律の分野でも今までの法律の歴史の中に日本の法律もあるということからすれば,昔のものも読めないとならない。昔と言っても明治以降ほとんど新しくなったわけですが,そういった意味からも,読んで,ある程度はまた書けなければならない。書くということは,先ほど石井先生が言われた区別するという意味においては,きちんと書けないと困る面があるかと思います。だから,文化承継という面からは,やはりやたら制限するのは問題なのかという感じがしました。
 それと敬語の面ですが,マニュアル化して,「わたし」「あなた」とすることというようなのが,果たしてどこまで本当に通用するのかと思います。私の場合には,ふるさとに帰ると,「わたくし」とか「君」とか言うと,どうしてそんなよそよそしいことを言うのだとなります。「おれ」と「おめえ」でないと言葉が通じなくなってしまう。ですから,余り一律形式的に取り上げられると困るという感じがしています。
○阿刀田会長
 いろいろな意見を賜って,それを踏まえながら今後の分科会を進めていきたいと思います。では,今日はこれで閉会いたします。

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