第3回 国語分科会敬語小委員会・議事録

平成17年10月21日(金)

10:00~12:00

古河総合ビル6階 F1会議室

〔出席者〕

(委員)阿刀田分科会長,杉戸主査,蒲谷副主査,井田,内田,大原,甲斐,菊地,佐藤,陣内,西原,山内各委員(計12名)
(文部科学省・文化庁)平林国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 第2回国語分科会敬語小委員会・議事録(案)
  2. 敬語小委員会における論点の整理-3
  3. 「外部の人への言い方」について

〔経過概要〕

  1. 事務局から,配布資料の確認があった。
  2. 前回の議事録(案)を確認した。
  3. 主査から,ワーキンググループのメンバー(主査,副主査,菊地委員,小池委員,坂本委員,陣内委員)が紹介された。
  4. 事務局から,配布資料2,3についての説明があった。その後,配布資料2に基づいて意見交換を行った。
  5. 敬語小委員会及び国語分科会総会の今後の予定が紹介され,次回の敬語小委員会は,11月14日(月)の10:00から12:00まで開催することが確認された。会場については事務局から改めて連絡することとされた。
  6. 意見交換における各委員の意見は次のとおりである。
杉戸主査
 基本的には2回目までと同じように自由な意見の交換というところを基調にしたいと思うのですが,資料2にある「論点を整理してまとめられた項目」を軸にして,その中でも,二重の四角で囲った(1)と(5)のところは,1回目及び2回目の議論の中で少しずつ全体の方向性や方針が見え始めてきているということを感じております。
  この先,最初に御紹介したワーキンググループを具体的な作業の段階に進めたいと思います。そのときに(1)とか(5),つまり「指針」の基本的な認識とか,あるいは「具体的な指針」のイメージ,そういうものをこの小委員会の方針として示していただいて,それに基づいて具体的な作業をワーキンググループの方で進めていく。そして,いろいろな案を小委員会に提出する,そういう段取りで進めることができれば有り難いと思っていますので,(1)と(5)のポイントについてそういうことを意識していただきながら,御発言いただければ有り難いと思います。
  前回との関係から言いますと,(1)の作成に当たっての基本認識というところをまずは議論の焦点として,2回目以降お考えになった点,あるいは,議事録などを御覧になってお気付きの点などお出しいただけないでしょうか。

陣内委員
 今,整理された中では出てこなかったところ,事前に議事録をいただきましたので,それを拝見して,これはワーキンググループをやるにしても大事な観点ではないかなというものが一つあります。それは議事録の中に,敬語の問題に関して,「正しさ」とか「ふさわしさ」とか,それから「美しさ」とか,それはあったんですね。例えば,どういうふうな指針を書くかというときに,「ふさわしい」とするか「正しい」とするかで随分態度が違うと思います。だから,そこをこの小委員会として基本的にどういう立場で行くかということがある程度了解される必要があるだろうなと思うんですね。
  そのときに,例えば敬語の形式に関しては,見たり,実際に聞いたりできるわけで,正しいとか正しくないとかいう認識ができるかなとか,あるいは,説明するときも「こうだからこれは間違いなんですよ」ということは言えると思うんですね。だけれども,運用に関しては,本当に無限の場面があるわけで,正しいとか間違いとかいうことは言いにくい。つまり,そこはふさわしいかどうかというふうな判断をしていかないといけないのではないかなと思うんです。
  私はどちらかと言うと,ふさわしいかどうかというところ,できるだけそっちの方で判断したい立場なんです。それはなぜかと言うと,前回の「敬意表現」の中で「自己表現」という一つのキーワードがあったと思うんですね。これはこれまでの敬語論議ではなかった一つの立場だろうと思うんです。「自己表現」というのは敬語という決まったものではなくて,自分で材料を使って自分で判断して表現していく,そういう立場ですので,そこでは「正しい」とか「間違い」とかというのがなおさら言いにくくなってくるんです。そういう立場を踏まえると,「ふさわしい」とか,「適切かどうか」とか,そういうふうなものが基本となるのではないかと思います。ただ,形式に関してはある程度,「正しい」とか「間違い」とかも言えるのではないかと考えています。

杉戸主査
 重要なポイントだと考えます。私の理解の仕方では,資料2の中の2ページの(5)に出てきている「評価のゆれている表現の整理」とか,具体的には「とんでもございません」をどのように位置付けるか,そういう例が出ておりますが,今のところに書かれているようなことにも関係する面を持った御指摘だと思いました。2回目までにそれほど議論をする時間を取らなかったポイントですので,追加していくということですね。

阿刀田分科会長
 基本的には「ふさわしい」の周辺というところでまとめていくよりしょうがないのではないでしょうか。「正しい」というのはなかなか言いにくいケースが多くて,むしろ例外的に「正しい」というような言い方,「こちらの方が正しい」ということを言い得る局面があれば,それは「正しい」と指摘した方がいいと思いますけれども,現実的には「正しい」と断言するのが,現在の国語状況と言うんでしょうか,言語状況を考えると難しいのではないかなという気がいたします。

杉戸主査
 「正しさ」という言葉,「ふさわしさ」や「適切さ」という言葉が,どういう関係で議論できるのかということを思いました。「正しいけれども,ふさわしくない」とか,「間違っているけれども,ふさわしい」とか,そういう関係もきっとあるだろうと思います。「自己表現」ということを,どう取るかによりますが,そういうことを考えるとそうなります。

氏原主任国語調査官
 この2月に出た「国語分科会で今後取り組むべき課題について」の中に,「「敬語に関する具体的な指針作成」の検討に当たっての態度・方針」という項目がありますが,ここの3には,「指針を提示するに際しては,全体として,正しい言い方・誤った言い方というような示し方をするよりも,「既に慣用と認められる言い方」「適当と認められる言い方」「適切でない言い方」というような形で示していくことが望まれる。」と書かれています。

蒲谷副主査
 前々回お話した私なりの言い方でまとめると,今のお話は,「形」の問題というのはある程度正しいか正しくないかを言うことはできると思います。ただし,「形」の中でも多少揺れているものがあって,全員が「正しい」と言うものと,意見が分かれるものとがあると思うんですね。「形」の問題は多くの場合は場面と切り離しても論じることができるんですが,中身とか気持ちの問題になってくると,場面と切り離して,正しいとか正しくないということは言えません。
  ですから,その場面にとって適切であるとか,ふさわしい配慮の仕方であるとかということになると思うんですね。同じ「ふさわしい」という中でも,形においても「ふさわしい」と言える場合もありますし,「正しい」と言うことができる場合もあるんですけれども,中身や気持ちについては,正しいか正しくないかというのはそもそも言えることではないと考えますので,陣内委員がおっしゃったような形で,やはり「ふさわしさ」というようなところになると思います。それはこれまでの議論でもそういうことで進んできたというように理解しております。

菊地委員
 1点だけ確認なんですが。今のは議論に当たって共有しておきたいという点で,御意見としては大変有益だと思いますけれども,文言の取りまとめのときはまた改めて議論することになるということでよろしいでしょうか。
  例えば,「よりどころ」とするか「指針」とするかということさえ決まってないわけでして,その「よりどころ」を示していく中で,私も「正しい」という言い方はなるべく避けた方がいいとは思いますけれども,様々な現象に対して,すべて「ふさわしい」と述べて済むことかどうかということは作業の過程で出てくるだろうと思います。そういうわけで,将来,世の中に出すときの文言を「ふさわしい」ということで拘束するわけではない,それは,また改めて世の中に出す前に確認するというようなことは確認させていただけたらと思います。

杉戸主査
 私もそういうことだと思います。そういうところも作成に当たっての一つの基本認識ということに関係すると思いますが,(1)に戻りまして,端的に言えば個別のいろいろな分野での「よりどころ」,手引を作成するときの「よりどころ」になり得るもの,あるいは,個人においても,その個人のいろいろな属性を超えて,共通して「よりどころ」にしてもらえるようなもの,そういったものを目指すんだと,そういう意見が1回目,2回目にあり,方向性が見えてきたというまとめだと思います。
  これを改めて確認していただく。その具体的な姿はその先にありますけれども,基本的な表現としてはこういうものだ,「よりどころ」の「よりどころ」というような構造のものだということを確認していただくと,次に進めやすくなると思うのです。

西原委員
 「よりどころ」の示し方という(5)の方についても,意見を言ってもよろしいのでしょうか。先ほど氏原主任国語調査官から御説明のあった「選択肢を与えて,それに対して答えが出てきている」という形を,もう一つ発展させて,具体的な在り方として,例えば,私はDVDがいいということを言いましたけれども,冊子になるということを考えると,今,コミュニケーションの分野でこの種のコミュニケーションの問題を扱うときの一つのパターンとして,「だれだれさんがこう言いました」っていう,その形を四択問題にして提示するというのがあります。場面を示して,1,2,3,4のうち,「一番ふさわしいのはどの言い方でしょうか」というようなことを言いつつ,「こういうことなので,この場合には,これが一番ふさわしいです。」と言う。しかも,それをかなり用心深く示すという,そういうパターンの示し方があります。そのパターンというのは,示し方として非常に参考になるのではないかなと思います。
  例えば,配布資料3の「外部の人への言い方」で,このような会社の受付の人が電話を取りました。そして,「鈴木は留守にしております。」「鈴木さんは留守にしております。」「鈴木課長は留守にしております。」,それから,もう一つ選択肢を考えて,「どれがこの場合に一番適当でしょうか」という問いをするわけですね。そして,それだけではなくて,「こういうことなので…」という解説がそこについて,この場合には例えば「鈴木は…」と言うのが一番ふさわしいという解説をする。そういうことの繰り返しで,本が一冊できていたりするということです。
  この間示していただいた放送の冊子も,結構それに近いような解説を繰り返すというやり方が示されていたのではないかと思うんですけれども,それが,もう少し具体的に四肢選択として出ていくということだと思うんです。五肢だってちっとも構わないんですけれども,これ,これ,これ,これという具体的な表現の中で,この場合は何が一番ふさわしいのかというパターンだと思います。ちょっと今そういう本を持ってきてないので,言葉でしか言えないのですけれども…。

杉戸主査
 (5)の1)にあります「「前文」と「本編」で構成したらどうか」というところの本編の方ですね。そこの具体的な工夫ということかと思います。

蒲谷副主査
 今の西原委員のお話に少し絡めてですが,「外部の人への言い方」についての問題をある程度抽象的に体系でとらえると,話題の人物の扱いという問題になります。自分がいて,相手がいて,話題の人物が出てきたときに,その話題の人物を「内扱い」にするか,「外扱い」にするかという。そういうとらえ方の問題のときに,内の人物をどう扱うかといったときには,基本的には内の人物は高めないというのが,「内-外」の関係で一般的に言えることだと思うんですね。
  ただ,もう一つ,高めないということと同時に,その話題の人物を個人として扱うわけではなくて,ある立場とか,ある職名を担っている人として扱う場合に,どう扱うかというような問題は出てくると思うんですね。この問題については,この調査自体についてどうこう言うわけではないんですけれども,例えば,会社の受付の場合に,会社の受付の人が外部の人に自分の会社の鈴木課長のことを話すときに,選択肢としては「鈴木は…」「鈴木さんは…」「鈴木課長は…」というのがあります。どれが一番いいかというので,こういう答えが出ていると思うんです。
  もう一つの選択肢は,「課長の鈴木は…」というのがあって,「課長の鈴木は…」という言い方は,「さん」も何も付けないで職名だけを示している。それは,何かというと,高めないけれども,個人ではなく,ある職名として示すという,そういう示し方もあるわけです。こういう状況があれば,そういう選択肢も成り立つというようなことがあると思います。
  それに絡めて,教師の場合は,教師は身内を高めるというような批判もありますけれども,この場合も高めてはいけないということと,教師であるという立場を示す場合の言い方の一つとして,例えば「田中先生は…」ではなくて,「田中教諭は…」というような言い方もある。ただ,それは子供に対して「田中教諭は…」と言うのもおかしいわけですから,その場合には「田中先生は…」という選択肢もあり得る。それは相手が変わるからということですね。同じように,病院の場合であれば,ニュートラルな言い方として,例えば「木村医師は…」というような言い方もできるという選択肢がある。大人の患者に対して,ただ「木村は…」というのもやはり抵抗があるわけです。個人として言っているわけではありませんから。
  というようなことで,大きな前提としては,「内-外」の問題としての抽象的な記述が必要であって,具体的にはそれぞれの個々の場面において,今,西原委員がおっしゃったような選択肢があって,それぞれに理由はあるということだろうと思うんですね。何かそういうところの体系性と具体的なイメージが持てるといいのかなということで,ちょっと先走りましたけれども,そんなことを考えております。

甲斐委員
 2枚目の(5)の1)の最初のところに「大きくは,「前文」と「本編」で構成したらどうか」というのがありまして,その「前文」ですけれども,最初の二重枠の1ページ目のところで,一番大切なところは,最後の○のところの<基本となる敬語の「よりどころ」>ということだと私は思うんです。それは内容を絞り込んでいった,そういう「よりどころ」であると。これがこの国語の部会に期待されている「これからの敬語」に対する新しい提案ということになっていくのではないかと思っているわけです。それをコンパクトにまとめていただけると,私としては非常に有り難いと思っています。
  しかし,「前文」ということになってくると,前文というのは本編を導くための序文ということであります。ただ,「前文」という言葉を,逆に,これを「本編」として,後ろの「本編」というのを「具体編」とか「具体例」というような形に持っていっていただけると,本編はコンパクトで,具体編は大部のものと,両方できるわけですね。「これからの敬語」も非常にコンパクトなものだけれども,具体的なところはお答えしましょうということで,その次に解説編が出ているわけですね。そういうような形に何とかできないかなと思っています。

杉戸主査
 御指摘の「前文」と「本編」,これもまだ決定したわけではありません。それから,前回までの議論の中では別の表現で,「総論」とか「具体編」ですね,あるいは,これは私の意見が混じってしまうかもしれませんが,問題敬語だけを扱う,よく話題にされる,そこにある「際どいところ」にある例を特に扱うようなくだりが要るのではないかと思います。そういった全体の構成については,まだ「前文」と「本編」だけということに決まったわけではありませんし,随分変わってくると思いますので,今の御意見も有り難くいただきながら検討していきたいと思います。具体的な記述のイメージの四択のことですが,さっきの世論調査の結果は三択だったので,四つ目の選択肢を心配していましたが,蒲谷委員からすぐに四つ目も出て,心配はなさそうです。
  また(1)に戻りまして,最初の◎は内容を絞り込んでいくということ。これは,具体的な絞り込みの中身は問題に残りますけれども,絞り込むということに御異存はないだろうと思いますので,○が二つありますが,真ん中の○について,特にその下に書いてある矢印(→)の二つ目,この辺も確認していただけるといいんですが…。個人においても個別性を超えて,属性の違いを超えて基本的なところということでした。ただ,その中に「敬語が必要だと感じているけれども,現実の運用に際しては困難を感じている人たちへの対応」,それは忘れないということですね。そこを,確認というと硬いんですが,そういう線で行こうということを改めて確かめてよろしいでしょうか。
  このことは(2)の「敬語に対する意識のない人の扱いをどうするか」という,次の大きな問題につながっていくことだと思うんですけれども,基本的なところは今のように「敬語が必要だと感じているけれども,…」と,そちらを中心にする。
  それからもう一つの○ですね,これがもう少し議論をした方がいいのではないかと,2回目までの議事録を読んで,私なりに思っているところです。「<基本となる敬語の「よりどころ」>を示していく。(敬語運用能力の基盤となるもの。)」と,そういう性格付けと,矢印(→)で掲げられている「即戦力として,運用能力を高めるようなもの」ですね。基盤となるものというのと高めるようなもの,これは違うものが具体化できると思うんですが,これをどんなふうに考えていくかですね。
  この点についてどうでしょうか。いろいろな考え方があると思います。これは両立というか,背反するものではない,基盤となるものがあって,それを基にして高めるようなものが次にくるとか,あるいは,答申そのものは基盤となるものを示し,次に今日の(6)の「「具体的な指針」の普及方策について」,例えば,そういう段階で運用能力を高めるようないろいろな工夫を凝らしたものを続けていく,そういう段階性もあるのかとか。ちょっと踏み込んで言ってしまいますが,そういうような幾つかの考え方がある。ほかにもあると思いますので,この「基盤となるもの」ということと,「高めるようなもの」,その二つを対して考えて,この関係をAとBとして,そのAとBの関係をどういうふうに考えたらいいのか,その辺で御意見をいただけないでしょうか。

内田委員
 敬語を運用するという,語用論的な観点で見ていったときに基盤になるものは対人関係の配慮と言いますか,どのぐらい対人関係,特に会話の相手の年齢とか,性差とか,社会的な地位とか,職業とか,そういったものについての敏感性と言いますか,それが背後にあって,状況依存的に敬語というのは使い分けるものである,柔軟に使い分けることが必要なのであるというようなまとめ方ができるのではないかと思います。
  特に「状況依存的」と言ったときの状況の中身ですけれども,会話の文脈とか場面,それから,対人関係,親疎関係ですね,親しいか余り親しくないかというような,それに応じて柔軟に使い分けていくということが必要なのだということです。昨今の乱れというのは,対人関係についての配慮のなさというか,それへの鈍さというのが言葉遣いを乱しているのではないかということを感じております。そこの部分をもう少し家庭の中で,あるいは学校でしつけていくという,それが正しいものということにつながっていくのであると思います。

杉戸主査
 今の御意見は2ページの(5)の2)に並んでいる「場面,人間関係,事柄の軽重」など,最初の説明にもありましたいろいろな用語で説明できる枠組みを準備しないといけないだろうということでありました。状況依存とか対人関係とか,そういった言葉でも,2)に並んでいる幾つかの事柄が表現できるという御指摘だと伺いました。

甲斐委員
 前回の議事録を今日拝見したら,菊地委員がここのところを非常に強くおっしゃっていて,私は同感だと思ったんですが,菊地委員はあれだけ言っておられるから,発言をまた繰り返すのは嫌だろうと思うので,私が申すんですけれども,運用能力を高めるというのは,「高めるように教育界で努力すること」とか一言書けば,後は国語教育などではもちろんそれを受けてやるでしょうし,対社会的には,文化庁国語課が国語施策という形でやるだろうと思うんです。
  最初の<基本となる敬語の「よりどころ」>というのは,この審議会できちっと作って提示していくことが何よりも大切だろうと思います。それ以外の何もないというふうに私は考えています。ということで,菊地委員の発言に賛成したいと思っております。

菊地委員
 先ほど杉戸主査がAとBというふうにお分けになって,AとBはもちろん背反するものではなくて,Aの上にBがあるわけですけれども,私が前回申し上げたのは,短期間の仕事としては,まずAが先決ではないか,Bになると余りにいろいろなファクターが出てきて,ボリュームの問題にも関係しますけれども,これを欲張るとAの部分もおかしくなるのではないかということです。その意見をサポートしていただいて,どうもありがとうございます。

阿刀田分科会長
 最終的な発表がどういう形を採るかということと,我々が議論を進めていくときに,どういうプロセスを踏んでいったらいいかというのは少し違うかもしれないなと思っています。甲斐委員がおっしゃったように基本的な理念はこうであるということをまず出して,そして具体例を出していくということですが,その基本的理念というものをどの辺でとらえてどう書いていくかということを考えるときには,私たちの中で相当具体例を挙げていってみて,その上で,基本的な理念というものを示していかないといけないのではないかというように思っております。
  発表するときはまず基本的理念みたいなものがあって,その次に概念があって,それを「前文」というか「本編」というか,その言い方によって内容が少し変わってくる可能性もあるんですが,私はそういう形の方が望ましいような気がしているんです。しかし,いきなり我々がそこに入れるかというと,場面ごとのいろいろな敬語が考えられるという具体例を先にある程度イメージして,それからでないと,全体を総括するような基盤というのは出てこないのではないかなという気がしまして,発表の方法と実際に私たちが議論を進めていく方法は少し違うのかなと,今考えているんです。敬語の理論というのは,非常にはっきりそもそもこうであるという具体的な例を統括するようなものが簡単に出てくるものではないのではないか,ということを考えております。

内田委員
 前回の議論で,帰納的な方法で考えていって,それで有機的な表現にするというようなことが出ていました。そのときの具体例としては,非常に際立ったものを3種類くらい採って,教師と医師と課長の例というのはとてもいいと思うんですが,その提示の仕方は,西原委員のおっしゃったように四択のようなものを示して,その理由をきちんと言って,一人一人がワークブックのようにして学習ができるような形で,それを全部統括するような,例えば状況依存的な使い方が必要であるというような,はっきり分かりませんけれども,そのようなセンテンスを一つ前の方に持っていくと,それが甲斐委員のおっしゃったような本論になるのかもしれません。本編と具体編というふうになるのかもしれませんが,そうやって作っていくということですね。

陣内委員
 私も大体今の意見に賛成なんですけれども,最初に西原委員がおっしゃった発展的なやり方というのは,「よりどころ」というよりも手引みたいな感じがするんですね。私もまずはAの方をワーキンググループできちっと作って,その次の作業ではないかなと思います。もちろん,具体例を考えていかないとそれは出てこないわけで,例えばこういうことがあるんですね。この前配布された『放送で気になる言葉敬語編』で,アナウンサーがホームランを打った選手にインタビューする場面があって,「最初からねらわれていたんですか」とある。あそこで「られる」敬語を使うのはおかしいんだと,放送ではそうなっていると思うんです。
  私は西日本の人間ですけれども,そんなに違和感がないわけですね。放送で言うとしたらちょっと違和感があるけれども,日常の言葉遣いとしては普通である。あれは放送という場面での言葉遣いなわけです。だから,そういうふうに具体例を考えていくと,いろいろな区分けとか考え方が出てくると思うんですね。そういう意味で,「指針」を是非作っていきたいなと考えています。

西原委員
 何でこの期に「具体例」とか,「具体的」という言葉が繰り返されるのかというと,国語審議会第22期の敬意表現に関する答申が非常に立派な指針を示してくれたのだけれども,教科書的で具体例を欠くという反省の下に,その次のステップとしての具体例ということであるわけです。そういうステップの中で,本編というのは,当然のことながら第22期に書かれた答申を土台にして,それを具体的な指針を示すのにふさわしく書き換えていくというか,そういう新しい意味での理論化をしていくということがあるのではないかと思うんです。
  そういう意味で,第22期に書かれたやや抽象的な指針からもう一歩踏み出した本編ないし前文,何でもいいんですが,そういうものが今期の課題かなと,蛇足ながらもう一度確認したいと思います。

阿刀田分科会長
 敬語だけのものではなくて,人間関係を円滑にするために敬意表現とはどういうものであるべきかというようなことも入ってほしいし,それから,ここにあった「敬語に対する意識がない人の扱いをどうするか」という問題も,本来なら意識のない人にどうこう言うことはないんだけれども,人間関係を円滑にするために敬語というのは必要なものなんだよというような呼び掛けもやっておくとか,そういう小さい意味での,敬語以前のような敬意表現とか,敬語に意識のない人に対する呼び掛けとかというのも,まず部分的には入ると思うんですね。
  それと,もう少し本編に対応する演えき的な,敬語はこういうときはこういうふうに使うものだというまとめになる部分と,その辺がみんな入るような前文でしょうか,そういうものがあって,そして具体例があるというような,そんなイメージが考えられるのではないかと思うんですね。

杉戸主査
 資料2の「論点の整理」で申しますと,(3),(4)に関係する御意見が出てきております。それが(1)につながっていくものだというふうに伺っているんですが…。

井田委員
 今言われているところの前文と,具体的な本編,それに加えて,もしかすると後書きというところで,敬意表現とか,意識のない人たちへの呼び掛けという,つまり言い残したことを書く。前文にそこまで含めてしまうと重くなってしまうような気がします。なるべく早く具体例に入りたいと思いますし,前文ではともかく敬語とはということを示して,その後に,本編の具体例があり,そして最後に「でも,実は…」という,これこれこういうことがあれば,何とかなるのだとか,あるいは,意識のない人への呼び掛けとか,そういうまとめ,後書きのある構成が落ち着きがいいのかなと,お話を聞いて感じました。
  もう一つ,基盤という点については,揺れている表現は避けて通れないのではないかなと思います。基盤を作るに当たって,「とんでもございません」をどうとらえるか,「御乗車できません」に対して,こう考えると言いますか,その見方を示すということをしないと,基盤が弱いものになってしまいそうな気がします。
  その際,正しくもふさわしくもないけれども,慣用として認められているものをどうとらえるか。同僚に対して「何々先生は…」と言うのもそれだなと思うんです。「とんでもございません」「御乗車できません」もそうなんですけれども,そういうものをどうとらえ,どう判断していくのか。敬語の本を見ても一つ一つ違うものを,公としてはこう考えますということで示せば,いろいろなところからいろいろな球が飛んでくると思うんですが,そこを示していかなければ,後が続かないような気がします。
  それから,敬語の間違いをしてしまうという人に聞きますと,言っていて不安であったり,「あっ,今違ったな。」ということは気付いたり,正しい答えがすぐに思い浮かぶときもあるというんです。どうして言ってしまったのかということをインタビューしましたら,「何度も聞いていたのでつい出てしまいました。」ということでした。自分も理屈の上では違っていることを知っている,でも,ふだんテレビや公の場所,駅などで耳に入ってくるうちに慣らされてしまうんですね。
  そうすると,基盤のところで理屈から入ることはとても大事なんですけれども,その先の運用能力という点では,自分だけではどうにもならない。それは敬語の意識のない人の言葉も含めて周りの言葉,特に公の言葉をどうしていくのかということが問題になると思うんです。ですから,例えば,この「指針」が示された暁には少なくとも公共,お役所とか駅とか,学校とか,放送もそうなのかもしれませんが,そういうところにはただ示すだけでなく,「あなた違いますよ」と言って回るぐらいの,お節介ですし,やり過ぎ,行き過ぎなのかもしれませんけれども,そのぐらいのことをしていかないと,ちゃんと伝えたいなと思っている人にとっては,相変わらず耳障りな言葉に満ちた光景が続くということになってしまうのではないでしょうか。

佐藤委員
 今のお話を聞いて,前にも私,同じような話をしたと思うんですが,知らず知らずのうちに耳から入ってきていたから間違ってしまうということがあります。それを前回も言いましたが,知らず知らずのうちに耳から入ってくる言葉として正しいものが積み重なっていけば,そういうことにはならないので,なぜ知らず知らずのうちに間違いが多く入ってくるのか,知らず知らずのうちに正しいことが多く耳に入ってくるような持っていき方を早くすべきではないかなと思っています。
  後,これもすごく気になることなんです。「敬語を必要と感じているけれども,現実の運用に際しては困難を感じている人たち」というのは非常に積極的なよろしい人だと思うんですが,敬語の必要性を感じているけれども,現実の運用に際しては一切気にしていないという人の方がはるかに多いような気がするんですね。そういう方に何かを示すためには,先ほどから前文とか本編とか具体例とかありますが,意識を持っていない人に教える「別なもう一冊」を作った方がいいのではないかと思います。
  つまり,敬語というのは,「あんたは関係ないかもしれないけれども,世の中はそういう言い方をすると円滑に行かないんだぞ」と,意識していない人に教える方法も考えておきたいんです。具体例とか,いちいち国語分科会に電話をして聞いたりする人たちにはいろいろなことをやらなくてもちゃんとやると思うんです。何もやらない人に敬語がいかに大事かという教え方と言いましょうか,皆さんの御意見とは全く別に,マンガ本一冊出すぐらいの気持ちで軽いものを一つ考えていった方がよろしいのではないかと思います。

大原委員
 具体例を出して,例えば,放送ではおかしい,それから,こういう場面ではこういう言い方はおかしいと例題を挙げられますね。それを,私たちが日常的にどう取り入れていったらいいのか,その辺のかかわりを分かりやすく,「私は病院の先生ではありません,だからこれは関係ないわ。」「私は学校の先生ではありません,だからこれは関係ないわ。」というような例題ではなくて,ふだんの生活の中で「こういう言い方をすればいいんだな。」ということが分かりやすいような例題というのはどういうものなのかしらと,今思っていたんです。
  それから,使うときには無機質に言葉だけを並べるのではなくて,話す人の気持ちがとても大きな要素になってくると思うんですね。それを取り入れるときに,自分の気持ちとどう合っているか,そういったものを示す,いや示せないかもしれませんが,言葉だけ無機質に並べるのではなくて,何かいい方法があればなと思っています。

杉戸主査
 今日の「論点の整理」で言いますと,各分野の固有性を捨象したもの,言葉は硬くなりますが,今の御指摘はその中の一つのタイプを考えたらどうかと,そういう御指摘だと思うんですね。固有性の捨象の仕方というか,捨象の程度というか,そういうことだと思います。

阿刀田分科会長
 ここで病院の先生の話とか,学校先生の話とか,課長の話というのが三つ出ているというのは,ある特別なシチュエーションであるけれども,日常に関係のあるシチュエーションだと思うんですね。監獄の看守が入っている人にどう話すかという例は,我々は出さなくてもいいんだと思うんですね。だから,全く抽象的ということももちろんあるでしょうけれども,非常に日常性の高いシチュエーションというのもあるわけで,この日常性の高いというところで例はまとめていった方がいいのではないでしょうか。そこまで踏み込まないと,「おれ,先生じゃないし,病院にも行かないし…」ということを余り考えちゃうと,―それは一般でないと言えば一般ではないですけれども―,具体性の見えてこないものになってしまう可能性がありますね。

内田委員
 日常的にあると同時に多様性も探せるというので,3種というのは割にいい選択だなと思いました。よく気になるのが,いい年をしたタレントが「うちのお母さんは」と言うとか,デパートなどで「お名前様をお書きくださいませ」と言う。それがとても気になっているんです。
  以前,「徹子の部屋」という番組を分析したことがあるんですけれども,年齢の高い方,―男性であろうが女性であろうが―,に対しては,敬語の表現,敬意表現を上手に使っていらっしゃるんですね。若いタレントに対しては,丁寧語は使いますけれども,敬語というのは非常に少なくなります。それだけではなくて,割り込みとか沈黙というのが非常に増えてくるんですね。それによって司会の役割として,会話権を発動するというか,取ってしまうようなスタイルに変えておられるんです。そこが上手な運用なんだなと思って,数字の上できちっと出てきましたので,非常に興味深かったんですが。沈黙とか割り込みとか,並行的な同時発話みたいなものも,運用の場面では非常に効果的に相手との距離を表すものなんですが,それは音声言語の特徴ですから,敬意表現の中に入らないのかもしれませんけれども,運用と言いますと,そういったことも要因としては入ってくるのかなと思いました。

山内委員
 使う側,もしくは,私ども教えなければいけない立場としては,例えば,敬語には謙譲語,丁寧語,尊敬語というのがありますと,まず理屈から教えていって,尊敬語はこういう言葉遣い,丁寧語はこういう言葉遣いというのを最初に言ってしまうんですけれども,それが妙に頭の中にこびりついているので,ここの場面は尊敬語で話さなければいけないのかしらとか,これは丁寧語だったかしらとか,そういうのが頭の中で混乱しちゃうみたいなんですね。ですから,私どももトンチンカンな会話をお客様としちゃったりするんですね。
  最初に余りそこを強烈にインプットしちゃうと,また同じことの繰り返しなのかなと思いますので,私どもが自分たちの業界である場面を作ろうと思うときには,それは知識としては必要なんですけれども,そこを余り強調しないで,おっしゃっているような場面,場面で,それから相手に対して,御老人の方であればこういう言い方とか,お子様であればここまでの言い方とか,そういうのが使い分けられるような内容にしたいなと思うんです。そういうものの指針になる内容であってほしいなとすごく思いますね。いつも自分も迷いますし,こんな言い方で良かったのかなと思いますので,余り理屈が頭の中に最初からインプットされるような書きぶりだと,また,同じことの繰り返しになるかなというふうには感じます。

甲斐委員
 私は,中座しないといけないので,ワーキンググループへの期待を申したいと思います。選ばれた方々が幸いにも敬語の専門家ぞろいなものですから,1,000以上の事例は頭の中に入っておられると私は思うんです。帰納的・演繹的な思考をフルに活動して,前文を本編にと先ほど私は申したんですけれども,理論的な組立てというところを是非とも提案する形でお願いしたいと思っております。
  繰り返し申しているんですが,「これからの敬語」という,かつて出たものは廃棄するんだと,これですっかり塗り替えることができるんだというような形のものを,是非ともワーキンググループの方から出していただければと思います。

阿刀田分科会長
 さっき佐藤委員がおっしゃったみたいに,不適切な敬語がどんどん耳から入ってくるということは,大きく言えば,文化庁国語課の責任なのかもしれないけれども,そういうものを世の中にちゃんと具体的な形として出してこなかったかというと,ある程度は出してきたわけで,別に国語課を非難するわけではないんだけれども,何らかの意味で規範となるものが余りきちっと出てこなかったために,世の中が乱れたままでズーッと来てしまったということと関係があるのではないかなと思うんです。
  これを出しても相当喧々囂々けんけんごうごういろいろな理屈を言われて,国語課はつらい目に遭うかもしれません。三択のうちやっぱりこれなんだということを言っても,いや,そこはちょっと違うんじゃないかと言われる。この三つのうち,このくらいのところが一番適切なんだなというようなことが,ある種のコンセンサスとして世の中に流れていくという経過の中で,10年くらいたつと,皆さんが敬語と認められるようなものが使われていくようになっていくのではないかと思います。そういうものなのではないでしょうか。
  一発ですぐにこれは絶対というものも作れないし,常にそういうものを幾らか公的な立場から問い掛けていくことをやっていかないと,皆さん共通のスタンダードというのは出てこないのではないかなと思います。これは出た途端に相当非難を受けるだろうと思う試みではあるんですが,どう作ったって,国語分科会がそういうものを出したけれども,見識を疑うとか,そういうふうに新聞に出てきそうな気がします。それでもやっぱりやっていかねばならない,そういうたぐいのものではないかなと思っております。

陣内委員
 (3)の範囲で,ここには非言語まで含めるとか,それから,先ほど内田委員からは会話のやり方,そういうことも出ましたけれども,どこまで含めるかということが余り議論になっていないと思うんですね。暗黙の了解として,いわゆる敬語ということになっているのかなと思うんですが,相手をどう呼ぶかという呼称は,敬語と切っても切り離せないようなものなので入れた方がいいのではないかという気がするんですね。
  ここにあります非言語まで含めるのかどうかということになると,ワーキンググループの中では作業できないのではないかなという気がするんです。どこまで含めるかということで少し議論していただかないといけないと思います。

阿刀田分科会長
 この分科会では,非言語までは含めないということがある程度了解できているのではないでしょうか。敬意表現というものの中にそういうものがあって,それは,当然配慮しなければならないということは含めるけれども,非言語の中に入っていったら大変だから,取りあえずは避けた方がいいのではないか,というぐらいのコンセンサスはあるのかなと思っております。

西原委員
 私は非言語を強く主張して華々しく討ち死にしたと思っています。

佐藤委員
 非言語を出すということがDVDというお話につながっていくわけですか。

西原委員
 具体例としてそういうもので示せるのではないかというふうに言ったんですけどね。

佐藤委員
 非言語を説明するために言語を駆使するようで,だれも読まないようでは意味がないわけですよね。

蒲谷副主査
 非言語の具体例というのは,どういうものを西原委員はお考えになりますか。

西原委員
 いろいろ考えておりました。DVDで示すと本当に人が動くということになるので,声の調子とか姿勢,それから,おっしゃったように会話の間とか,どの程度ダブっていいかとか,そういうようなこともおのずから示してしまえる。それが,見る人によってはいろいろな見方ができるので,全体を見て全部把握できる人と,ここのところに注目してこれが見える人というのは,教育的な効果というか,アピール度というのはいろいろだとは思うけれども,全体として示せるのはDVDみたいなものかなというふうに,非言語派として思ったんです。しかし,それはまた別のメディア,つまり,別の機会にそのことが,この書かれた「よりどころ」の応用編として,例えば,国立国語研究所が出すビデオシリーズというふうになって出ていくという御説明がありました。ただ,非言語の部分を言語で書くと,言葉をどう尽くそうと本当にややこしいんです。これは不可能だと思いますね。そういう時点で非言語は今回はないのだろうなと,私も何となく了解したということであります。

蒲谷副主査
 最終的に映像の情報を出すか出さないかというところで多分影響が出てきますよね。特別,非言語に関する言語的な記述がなくても,映像で出すとおのずとそれが…。

西原委員
 それが示せてしまうんですね。

蒲谷副主査
 そこを計算しながらやるのか,結果としておのずと示してしまうのかで分かれるのか なという気はしますけどね。

阿刀田分科会長
 このことはズーッと背中に背負いながらこの会議を続けていって,最後の方に行って「指針」としてそれをはっきり展望するか,あるいは,少し引いた形で行くかという,そんな形になっていくのではないでしょうか。この会議を続けていく中では,背負っていく必要はありますね。

内田委員
 私もその点はすごく非言語派だと思いますが,その中間的なものとして,会話の運びのときの「うなずき」みたいなものがあります。例えば国際的なデスコミュニケーションが起こりやすいのは,日本人は話している途中であいづちを打ち過ぎるところです。ところが,日本人同士の会話では,相手がうなずいてくれないと不安になってしまう。全く感覚が違うんですね。余りうなずくと,アメリカ人は発話権を奪われたという感じで非常に気分が悪いと感じます。最後まで私に言わせてほしい,それなのに途中で何度も日本人はうなずく。ところが,日本人同士の会話では,あるいはアメリカ人との会話でも,相手がうなずいてくれないと,自分が言っていることを分かっていただけないのではないかということで不安になる。どうもうなずきによって,自分の発話自体を調節しているようです。
  そういうデータがありまして,うなずきみたいなものも会話の場面では大事で,それは会話をするときの心構えのようなものに属するのかなと思います。だから,総論と言いますか,そちらの方で触れるとすれば,飽くまでも目標に応じた円滑な会話を進めるために敬意表現というのも非常に重要であり,そのときの態度が自分の気持ちを表現するのに重要であるというようなところで触れられるのかなというふうに思います。

井田委員
 映像化するとなりますと,敬意表現に,おのずと場面,気持ちという言葉以外のものが含まれてくる,表現されるだろうと思うんですが,前回の資料の『放送で気になる言葉敬語編』も,私は直接取りまとめてはいませんが,まとめた委員に聞きましたら,単純な絵なんですけれども,あの絵も,例えば顔の向きですとか,しゃべっているアナウンサーの年齢,ゲストの年齢,性別というようなことにも随分気を使ったそうです。
  ですので,映像化するときに役者さんによって表現が違ってしまうと,「あれっ。」というようなものになりかねない,あるいは,私どもが思った以上にすばらしい表現をしてくださる場合もあるでしょうけれども,映像化するとすればそれはそれで大変なことになるのではないでしょうか。それこそ,何回うなずくのかというような話にもなってくるのではないでしょうか。

大原委員
 その人の育ってきた環境とか全部出ますからね。背景から全部書き与えて渡さないと統一した絵にはならないかもしれないですね。それでも違ってくると思いますね。

杉戸主査
 言語から非言語への広がりから,いろいろな言語事象,非言語の事象の例を出していただけました。最初の陣内委員の発言には呼称が出てきて,これは非言語ではなく,言語ですね。それよりもうちょっと,非言語と一緒に起こりやすいというか,例えば今のあいずちとかうなずきとか,また応答詞で,「はい」と答えるか,「うん」と答えるかみたいなものもあるだろうし,それから,呼称の中に敬称,先ほどの「先生」とか「課長」とかいうものもある。つまり,言語から非言語までが広がりを持っていて,その中のどの辺りを今回は扱うのかというようなことは,「背負いながら」と阿刀田分科会長はおっしゃいましたが,確かめながら進んでいく。あるいは,最終的には,この範囲を扱うんだということは明示しないといけないのかなと私なりに思います。
  具体的には,ワーキンググループで言語から非言語までの広がりのリストアップでもしてみて,検討するというような作業が一度は必要だと思います。それをしておかないと,「もう既に華々しく討ち死にした」とおっしゃっていましたけれども,その討ち死にの仕方も,どの辺はということは確認しておかないと,答申なり指針の範囲が明示しにくい,明示できたことにならないように思います。

西原委員
 「日本語教育を含む。」とここに書いてあるので,日本語学習者と敬語の話を何回かしたところをちょっと申し上げたいと思うんですけれども,敬語はとても難しいとみんな言います。敬意表現と言った方がいいのかもしれないんですが…。難しい日本の敬意表現で一番易しいのは言葉の形です。言葉の形を学ぶのはとても易しい,そこまではできる。だけれども,とても難しいのは人間関係をどう読むかで,その言葉の形と読んだ人間関係をどう結び付けるかということらしい。
  それから非言語の問題ですね。どのようなパラ言語的な間で,どのような声で,どのような姿勢で,そして何を言わないかという,その決断というか,そこら辺のところが敬語の中で一番難しい。内田委員が前におっしゃっていた中国人は結果として,「それは社会主義の指針に合わないから,私は中国人だから敬語は使いません。」と言っているという,そういう外国人もいたりするわけですよね。外から見て敬語をどうとらえるかというときには,言葉の形でないところに大きな問題を生み出している,そこら辺りのところも,ここに「外から学ぶ者にも配慮する」というような意味があるのだとしたら,考えてほしいことかなとは思います。

杉戸主査
 整理のポイントの3,4辺りに関係する御意見が続きました。2ページを開けていただいて,(5)の1)から4)に関して,今の段階でいかがでしょうか。

菊地委員
 (5)のところへきたら申し上げようと思っていたんですが,今までの議論の中で既に(5)に関する議論も大分出て,私にとってはちょっと「おやおや」と思うような方向に来ているところがありますので,私の感想を申し上げます。(5)の1)の2行目に「本編では具体例を中心にしたらどうか」ということが書かれてあります。それを既に前提として今日の議論がかなり進んでいるような気がしますけれども,前回申しましたように,私自身はこの行き方はどうかなと思っているところがあります。
  どういうことかと言いますと,先ほど,西原委員が整理してくださいましたように,「敬意表現」というのは極めて抽象的で,余り実践面を益さない,そういうところがあったと考えています。ですから,今回の課題は具体性ということが求められている。ここの認識は私も共有しておりまして,最初から私自身も申し上げているところです。
  ただ,「具体的な指針」を示すということと,具体例を集積するということとは同じではないということを前回申しました。それは,具体例の集積は,仮に1,000集めても,そこから何が分かるのかというところがあるのではないかと思っております。
  敬語の原理というか筋道がそもそも示されていないので,それを分かってもらうように示すことが大事なことであって,果たして具体例を積み重ねることでそれが達成できるのか。それから,個々の具体例の中には相当際どいようなものもあって,評価・解釈が分かれるようなものがあるというような問題もあるわけです。もちろん,具体例が全然なしでいいと言っているわけではないんですけれども,具体例の集積から出発して,「指針」を示すことがどのぐらい成功するのかということに,私はかなり懸念を持っているということは前回も申し上げたところです。
  比が適切かどうか分かりませんが,前回,井田委員が面白いことをおっしゃっていました。食物繊維の取り方ですけれども,例えば,こうすれば食物繊維をたくさん取れますよということを伝えようとする場合,その示し方なんですけれども,何とか線に乗って,どこで降りて,何番目の角を曲がって,どこのレストランに行くと食物繊維がたくさん取れますよという示し方をするのか,もう少し知的に,こういう食べ物には食物繊維がたくさん含まれていますよと言うのか。比喩的に言うとそういうことでして,私は求められているのは後者の方ではないかという気がいたします。
  そういう意味で「体系性」ということを申し上げたわけです。「体系性」という言葉を申し上げてもイメージがはっきりしないという御意見があるとは思いますけれども,この「指針」を見ればこういう敬語はいいのかな,こういう敬語は駄目なんだろうということが分かるということが大事だと思うんです。過度に具体例に寄り過ぎないでそれをやっていく。原理的なことを分かってもらうという方針が大事なのではないかなと思っています。その意味での「体系性」ということです。このことをちょっと申し上げたいと思いました。
  それから,もう一つ付け加えますと,際どいものに踏み込むか踏み込まないかということも前回ここで腹を決めていただきたいと申し上げました。ちょっと誤解があるといけませんので,申し上げますけれども,私は際どいものをすべて避けて通ろうと思っているわけではありません。大事なことについては勇気を持って分科会としての見識を示していくべきだと思っております。ただ,比較的マイナーなことで意見が分かれそうなことについてまで,火中のくりを拾って,「君たちこんなことを言う資格があるのかね。個人差は随分あるじゃないか。」と言われそうなことは避けて通りたいということなんです。例えば「とんでもございません」という例が出てしまっているんですが,これは私もかつて自分の小さな本に書いたことがありますけれども,○とも×とも言い難いものなんですね。こういうものを無理に取り上げて,○だの×だの言っても余り褒めてもらえないだろうという気がします。昭和27年の「これからの敬語」を見た時に,「達(たち)」と「等(ら)」ということでの意見交換がありましたが,あのころはきっと「達」と「等」はとても大事だったんでしょうね。「とんでもございません」が今それほど大事とも思いませんが,そういうことを拾い過ぎていくと,具体例の集積はそれこそ1万あっても足りないのではないかと思います。
  その辺りをどうするかということで,ワーキンググループの先生方の中にもいろいろな御意見があると思いますので,その議論の過程で収束を探っていくことにはなると思うんですが,この時点で具体例中心ということが大前提にあると,限られた時間の中でちょっと作業が進みにくくなる。そういう懸念を持っておりますということを申し上げたいと思いました。

西原委員
 あえて反対させていただきます。具体例ということの意味ですが,どうして具体例というところで合意を形成しつつあったのか。この「具体例」というのは,個々の言葉の使われ方の具体例ということではなくて,もう少し広がりを持った社会的なエピソードというか,そういうことが挙げられないといけないだろうということでの具体例という意味であったと私は理解しております。
  報告書というものがどうアピールするかということを一般的に考えた場合に,私は教師なので学習スタイルをあえて考えると,阿刀田分科会長がおっしゃった演繹的な学習スタイルが合っている,つまり,理屈を言ってもらって初めて「分かった」と言える人と,そうではない,つまり帰納的な学習スタイルが合っている人というのが,世の中には半分ぐらいずついて,その両方,アピールされ方が違う2タイプの人を同時に相手にするとすれば,本編及び分析編及び解析編という形は正しいというか,いや正しいじゃないですね,ふさわしい,文化庁国語課が国民にアピールしていく報告書としてはふさわしいとかなり強く思っております。

内田委員
 私もそのような方向に賛成でございます。具体例の選択の仕方は,阿刀田分科会長が言われたように日常よく出会うような典型的なものとして,少し多様であるというものを示していく。その示し方については,西原委員が提案されたようなやり方で示していくのが良いと思います。それをやりながら,原理的なものが見えてくるということでの本編,どっちを先に持ってくるかと言うと,報告書のような形ではトップダウンに行く方が良くて,枠組みを最初に示しておいて,それはノルム(norm)ですよね,暗黙知のところを具体例から明示知にした形で,「よりどころ」というような形で抽象化できればすごくいいんだろうと思うんです。実際にはそこを読んだときにはまだはっきりしなかったことが,各論を見ることによってはっきりと「これはこういうことを言っていたのか」と分かる。使い方としては柔軟に使い分けられるのが,敬意表現の達人であるというような形でまとめられればいいのではないかなと思います。
  それから,先ほど言われたように学習者のことを考えたときに,言語学習という観点で見ると,西原委員がおっしゃったように,形というのは非常に整理しやすいし,よく分かる。だけど実際の中で使えないのは何かと言うと,一番大事な基礎にある対人関係の持ち方が文化によって違う。それから,日本の中でもサブカルチャーによって違う,そういうところがあるので,そこを結び付ける,対応付けるようなところも総論のところでは盛り込んでいくということが大事なのではないかなと思います。

陣内委員
 具体例の話でイメージされるものが少し違っていたような気がするんですね。結局,具体例がないとなかなかイメージがわかないので,それは必要だと思うんです。しかし「とんでもございません」という具体例と,「あちらで伺ってください」というときの「伺ってください」の使い方の間違いというのは随分違うものであって,「伺ってください」というのは非常に体系的なと言いますか,構造的な問題があるので,そういう具体例を出していく必要があるという気はします。
  それから,余計なことを申し上げるけれども,さっきの菊地委員の食物繊維の話ですが,ちょっと比喩が違うのではないかなという気がするんですね。つまり,お通じが良くなった,それはこういう食物を食べたからだ,その中には食物繊維がこれだけあったからだというような示し方が一番分かりやすいのではないかと思います。店を教えるというのではなくて,そういうふうなコミュニケーションの円滑さが実際に体験できますよというような,そういう比喩の方がいいかのなと思うんですけれども。

菊地委員
 私も,具体例を全然載せるなと言っているわけではなくて,それは不可欠だと思います。ただ,具体例から出発するとか,具体例を中心にという場合に,どのぐらいそれが短期間のうちに達成できるかということの懸念を申し上げたんですね。「伺ってください」というのは載せた方がいい具体例かどうか分かりませんけれども,それぐらいはあってもいいと思います。
  ただ,「「伺ってください」という言葉があります。これは○でしょうか,×でしょうか。」というところから出発していくというのではなくて,これこれこういうことでこういう言い方はできません,例えば「伺ってください」というのは駄目ですというような示し方はあってもいいと思います。具体例の集積から出発することでまとまっていくのかということを懸念として申し上げたということで,絶対載せてはいけないということを言っているわけではありません。
  これは本当に難しいことで,内田委員,西原委員がおっしゃったようなことができたらどんなにいいかと一方で思いますが,短期間でできる仕事ではないと私は思っております。初めにそういう方針が決まっていたとして,これに合わせて作業を進めて,1年半だかたったときに,具体例を1,000集めるつもりだったんだけれども……というようなことになりかねない。それは,ストラテジーとしてどうかなということを真剣に投げ掛けているところです。

杉戸主査
 ちょっと私の意見を言わせていただきたいんですが,この小委員会で今の議論が割に演繹的に進んでいるように思えるんですね。つまり,具体例ということに関して,具体例というものの具体例がないままに議論が進んでいる。これはワーキンググループの仕事として必要ではないかと思うんです。こういう具体例の範囲があると,例えば「伺ってください」という,そういう敬語の問題を含んだ事例がある。それを具体例として示すときのいろいろな示し方の可能性があるだろうと。そういう具体例の具体例ですね。それがここで資料として出されないと議論がしにくいだろうと思います。
  それから,菊地委員が心配される量の問題,一つの具体例の分量,それから具体例の数という,二つの意味の量があると思うんですが,それが1年くらいの範囲の仕事としてどこまで可能なのか,そういう切実な一方の問題とも関係するということです。
  申し上げたいのは,具体例の具体例を議論のために準備するということを,この先できるだけ早いうちに,できるどうか分かりませんが,少なくとも1年の3分の1くらいたつ前にはやらないといけないということです。そんな気がいたしました。

西原委員
 ワーキンググループの下にタスクフォース(task force)というのが付くかどうかということにもかかわってくるのではないでしょうか。それはいかがなものでしょうか。例えば,ワーキンググループの先生方が,こういう範囲でこういう指針をという大方針を提案なさいますよね。そのときに,それをどう書くかとか,それから何を材料とするかというときの材料集めや基本的な資料集め,そういうものがワーキンググループのもう一つ下に付くのかどうか。そういうことによって,どこまで働けるか,ワークできるかということが基本ではないかなと思いますので…。

氏原主任国語調査官
 実は今回の議論に入る前に,敬語の指針作りと漢字政策の在り方の二つの諮問事項を同時並行でやる方向になっていましたので,どのような調査や資料が必要になってくるのかということは,かなり早い段階から国立国語研究所と打合せをしてきました。
  その中で,敬語に関しては恐らくこういう資料が必要になってくるだろうということは整理してあります。現在,この整理の方向に沿って作業を進めている段階ですので,今日話題となったようなものに近いイメージのものも出てくることになるのではないかと考えています。

杉戸主査
 おっしゃるとおりで,タスクフォースという役割を持った存在がいないと,先ほどのワーキンググループの6人のメンバーだけで具体的な作業は,それこそ集積されるためには不足すると思います。国語課でもしてくださっていますし,国語研究所の方でも事前に恐らくこういう資料が必要になるであろうということは準備を進めています。
  さらに,2回目,3回目のここでの議論を伺っていると,予想して準備を始めていない資料集めも必要だなと感じつつありますので,ワーキンググループでの議論,あるいは,ここでの議論を踏まえて,具体的な作業を進める体制が必要だと思います。それを定常的な組織として準備するというのはちょっと無理かもしれません。これは国語課と相談なんですが,国語研究所の研究プロジェクトがそういうことに直結するようなこともありますので,そういう中から資料を提出するとか,いろいろな工夫で必要な作業はしないといけないと思います。

蒲谷副主査
 これから何を記述するかということにも関係しますし,どこまで記述するかにも関係するのですけれども,根拠をどこまで示す必要があるのかなんですね。例えば,先ほど私は「課長の鈴木は…」というようなことを申しましたけれども,実際に「課長の鈴木は…」と言っている会社がどのくらいあるのか,「鈴木は…」と言っている会社がどのくらいあるのか,私は分からずに言っているわけです。それから,学校で,例えば自分の側の教員について「先生…」と言っている人が一体どのぐらいいるのだろうかというような問題もあります。
  本来自分の身内,内外(うちそと)の問題で言えば,家族をどう伝えるのかというのは非常に重要なので,それを「父」と言うか,「母」と言うか,あるいは,今の若い人たちは「お父さん」,「お母さん」と言いますけれども,実態として,どのくらいそう言っているのか。ニュートラルなのものとして,「父親は…」,「母親は…」という言い方があって,それは実際どのくらい言っているんだろうかというのは,その根拠になる事柄がないと,記述として,これがいいとか悪いとか,これがお勧めだと言っても,根拠なしに書くわけには行かないとなると,既に根拠のあるもの,調査されているものもあるんですが,必ずしもそれが調査されていないものもありますので,それをこれから調査しようというわけには行かないですよね。
  だから,具体例の集積というよりは,むしろ記述の根拠になる事柄をどこまで責任を持って示せるか。そこはやり出すと切りがないんですね,非常に時間が掛かってしまうので。その辺りをどこまでワーキンググループが責任を持ってやれるのか,あるいは,これについてちょっと調べてほしいんだというようなことが,この1か月,2か月のところでどのくらい調査ができるのか,その辺が気になるところではあります。

菊地委員
 先ほど甲斐委員が「専門家の頭の中には具体例が一杯入っているだろう,そこから出発したまえ。」とおっしゃったのは,今から資料集めなどに多大な時間を掛けていていいのかというサゼスチョンでもあるのではないかと思います。具体例から始めて,敬語の使い方が分かってもらえるようにするというのは,理想と言えば理想なんですが,重ねて申しますけれども,とても大変な仕事なんだということは認識しておく必要があります。内田委員も西原委員も教育,学習ということを大事に考えていらっしゃるわけでしょうが,私も日本語教育の現場におりますから,個人的にはそれは多大な関心があります。例えば,日本語教育で申しますと,初級日本語教育でどういう内容のことを教えるべきか,それは一応のコンセンサスはあるわけです。細部はまた意見が分かれるところはありますけれども。それを頭の中に置きながら,実際に日本語の教科書を作るというのも,これまた大変な仕事になりますね。それには細部の例文とか,挙げた例が誤解を招かないかとか,それから,「ら抜き」で出すとしたら,「ら抜き」が何パーセント使われているかとか,いろいろなことを調べないと,より良いものというのは提供できないわけです。
  私たちの敬語の仕事をこれに例えて言うと,今,この仕事が置かれている,具体的な教科書を出すという段階ではなくて,どういうことを教えるべきかというアイテムあるいはシラバスを固めるという性質の仕事であろう,と思います。それさえ今はないわけです。そこを固めた上で具体例を提示するのは,次の仕事ではないかなと思うんです。そういうストラテジーを採るのが安全策ではないかなと思っているということです。
  これに関係して,私,学習とか教育というものへの配慮をどこまでするのかと,前回最初に申し上げました。例えば漢字小委員会ではこれが国語教育を益するようにという気持ちはお持ちでしょう。しかし,常用漢字表を示すときに,この順番で子供に教えていったら分かりやすいだろうという示し方はしないわけです。それは次の教育現場の仕事であろうということです。それと同じようなことがここにもあるのではないかと思います。「よりどころ」と称しているものを作って,その具体例はこの分科会でやるか,外郭団体にお願いするか,それは分かりませんが,時間的にも次の仕事なのではないかと,それを申し上げたかったということです。
  そして,杉戸主査がおっしゃったように,具体例がなくて,具体例のイメージがないままに,けんかしていてもしようがないじゃないかというのは,おっしゃるとおりだと思います。けれども,そこからまた始めますと,具体例の具体例を集めるのにどのくらいの期間が取れるのかなと考えます。デッドラインが気になる今回のような場合,お願いしたいのは,具体例を中心にするということをガチガチに定めたところから出発するのではなくて,それが一つの在り方だけれども,ワーキンググループの作業の過程でそれが難しくなったときに,ある程度それをあきらめてもいいような形での合意をしておいていただく方が安全ではないかということでございます。

内田委員
 私は菊地委員とちょっとイメージがずれているように思うのです。考えているところは収束するんだろうと思うんですけれども,一番最初に出てきた「正しさ」「美しさ」「ふさわしさ」のどれを目標にするのか,「ふさわしさ」を目標にするのがいいだろうという議論にもう一度立ち返るのですけれども,「正しさ」というのはエビデンスベースト(evidence based)なデータもあり,かつスタンダードというか,ノルムが明示されないと示すことができない。「美しさ」の方はセンスにかかわることで,解釈が分かれるようなところですよね。関西の子供は小さい子供でも「食べはった」というふうに敬語を使いますよね。「ああ,そうか,食べはった,そんな言葉を小さいうちから使っているんだな」と,関東の人は結構びっくりするというようなところがあるわけです。こういうような報告書に盛り込むということで考えると,個人個人の言葉への熟達度によってそのセンスの部分というのは変わることなので,それはここでは触れないのがいいと考えます。やはり状況依存的に柔軟に使い分けるということは大事なんですよ。だから,こんな場面だったならば,幾つかあり得るんだけれども,これがより望ましいでしょうという形で,理由付けを示すことができるのではないか。それをまとめることによって,総論のところで,菊地委員がおっしゃっているような「正しさ」というか,ノルムをある程度示すことができるのではないか。
  その示し方はこれまでの国語審議会で決めてこられたようなことを土台にした上で,それとすり合わせて,具体例から取り出してきた,帰納的に導かれたものを前に持ってきてまとめていく。セオレム(theorem)と言ったらいいのか,公準と言ったらいいのか,あるいは,ノルムと言ったらいいのか,書かれる言葉は状況依存的に柔軟に使い分けるということが大事なのである,その中身としてはという意味で,ここに書かれているような様々な要素を入れていくというようなことで,具体例,各論のところは非常に重要なのではないかなと思うのです。

杉戸主査
 かなり具体的なイメージがおありのようでありまして,そういうのが目に見える形でこの議論に供されると有り難いと思って聞いた次第であります。
  菊地委員は「具体例の具体例作り」にも時間は掛かろうとおっしゃいました。ちょっと安易だったかもしれませんが,余り時間が掛からないでできる,逆にやらなければいけない仕事だと思って申しました。そんなこともありますし,今の内田委員の御意見も示し方の具体例,記述の仕方の具体例だろうと思います。
  論点の整理3という資料に基づいて,(1),(5)を中心に議論いただきました。私なりに伺って幾つか確認していただきたいところは確認していただけた部分もあったと思います。それから,具体例を中心にするということがこの資料では「具体例を中心にしたらどうか」という段階の表現になっています。これはまだ確定的な結論を得たものではない段階が今日の始まりだったわけですが,今日終わるこの時点でも,具体例の中身が具体的に議論できていないので,具体例を中心にするも何もないというくらいのつもりで私は受け止めております。
  これから先,「2)具体性の持たせ方」というところに,今日の後半の議論を位置付けて,何とか目標を見定めていきたいと思います。繰り返しますけれども,そのためには目の前に資料として,いろいろなものの具体例が必要だと思います。言語と非言語の範囲をどう絞り込むか,これもやはりリストアップしたものを目の前にして,これから議論したいと思います。
  それから,蒲谷委員からは根拠となるデータについて議論が必要ではないかということがありました。また,私は具体例の具体例をタイプ分けしたり例示したりする資料がないと議論が空転するのではないかということを申しました。菊地委員は「シラバス」という言葉を使われましたけれども,もう少し別の言い方をすると,目次と言いましょうか,扱う項目の枠組みといったようなもの,それをまず考えていく,そういうことも作業として必要だろうという御意見でした。
  これらをできるだけワーキンググループで,この小委員会に提出できる「たたき台」というか,資料としてできる範囲の作業を含めての「案」,あるいは「討議用の資料」を提出するということで,ワーキンググループにお願いできないかと思っています。

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