議事要旨

国語分科会第24回議事要旨

平成16年11月25日(木)
10:00 〜 13:00
東京會舘「カトレアルーム」

〔出席者〕

(委員)阿刀田分科会長,内田,甲斐,小池,坂本,東倉,西原,前田各委員(計8名)
(文部科学省・文化庁)加茂川文化庁次長,久保田国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 文化審議会国語分科会(第23回)議事要旨(案)
  2. 文化審議会国語分科会委員名簿
  3. これまでの分科会で出された国語をめぐる諸問題(論点整理)
  4. 平成15年度「国語に関する世論調査」に見る日本人の国語に関する意識
  5. 今後の国語分科会の進め方について(案)

〔経過概要〕

  1. 事務局から国語分科会臨時委員の紹介があり,加茂川次長からあいさつがあった。
  2. 事務局から,配布資料の確認があった。
  3. 前回の議事要旨を確認した。
  4. 事務局から,配布資料3,配布資料4についての説明があった。
  5. 各国語分科会臨時委員から自己紹介を兼ねた意見発表があった。
  6. 配布資料3,配布資料4に基づいて,意見交換を行った。
  7. 事務局から配布資料5について説明があり,「今後の国語分科会の進め方について(案)」が了承された。
  8. 次回の国語分科会は,12月8日(水)14:00から開催されることが確認された。開催場所については,事務局から改めて委員に通知することとされた。
  9. 意見交換における主な意見は次のとおりである。
    (○は委員,△は事務局を示す。)
価値観や対人関係を表すものとして見ると,現在の敬語は乱れていると感じているので,国語分科会で敬語を取り上げることは良いと考える。資料4で,年齢の高い層に敬語を支持する意見が多いが,これはテレビが普及する前のラジオ世代が敏感なためではないか。
 漢字使用については,文化審議会答申「これからの時代に求められる国語力について」でルビの積極的活用が言われているが,ふだんよく目にするものについては,むしろルビなしで提示した方が良いのではないか。というのは,漢字は認知面での手掛かりが仮名などより多く同定(identify)しやすいので,そのまま使ってもよいと考えるからである。
 資料4によると,常用漢字表以外の漢字使用について,年齢が高いほどルビ付きでの使用を支持している人が多いが,これは教育を受けた年数が影響しているように思う。高等教育を受けている人の割合や,青年期までにどのくらい漢字を目にしてきたかがかかわっているだろう。また,情報機器の影響については,生まれた時から情報機器に触れているか,途中から触れ始めるかといった情報機器との接触の度合いが,年代によって異なることも大きく関係する。学生のレポートを見ても,100名ほどの学生の中で手書きのものを出してくるのはせいぜい1,2名であり,ほとんどはワープロ打ちであるのが実情である。ワープロ打ちの方が読みやすいので,最近はそれにすっかり慣らされてしまっている。情報機器の使用については経験の差が大きいように感じられる。
言葉遣いや敬語については,規範を立てていきたいという思いを持っている。ただ,地域による違い,世代による違い,場面による違いなどがかかわってくるので,飽くまでも緩やかな規範ということになろう。
 人名用漢字を検討する委員であったが,法務省の審議会と文化庁の審議会では随分異なる印象を持った。漢字施策については各省庁がバラバラに扱うのではなく,文化庁が一括して検討する形が良いと思う。常用漢字表の検討をする場合には,新聞界の影響が大きいと思うので意見を十分聞くことが必要であり,常用漢字表を改定することになれば,人名用漢字も含んだ漢字表にできると良い。最近の日本人の名前は,漢字でどう表記するかと同時にどういう音かも問題となっていて,ルビを付けないと読めない状況が生じている。
 9月に日中韓合同で漢字施策のシンポジウムが開かれた。それぞれの国における漢字施策が報告されたが,韓国では国立国語研究院の初代所長から5代所長までは「漢字復活論者」であったが,現所長は「ハングル専用論者」であるということが話題となっていた。日本では漢字制限に伴って言い換えが行われてきたが,現代においても,この観点が必要かもしれない。漢字以外の表記については,学校教育を考えると,より良いものはどれかという標準を示す必要があると思う。また,句読点の問題については,独立行政法人国立国語研究所で種々のデータを集めて提供していく形にしたい。
 さらに,その他として,国語辞典,日本語の言葉辞典というものは,民間以外で作る必要があるのではないかと考えている。
韓国でも,都市部の初等学校では,漢字をある程度教えていると聞いたことがある。歴史的なものに触れる場合,漢字が必要となるということから行われているようである。
放送現場でアナウンサーとして言葉にかかわった後,現在は,広報誌の編集に携わっている。今は,書き言葉の世界に身を置いているのであるが,句読点の使い方をとても重視している。良い文章であれば,句読点がそれほどなくても理解されるのであるが,若い人たちには意識的に句読点を打つように指導している。それは,どうすれば読者が理解しやすいかということを意識させるためである。理解しやすい文章にしようという意識の人は,句読点を適切な所に打つが,読み手への意識を欠く人は,句読点の位置もおかしくなっている。
第22期の国語審議会答申で「敬意表現」ということが言われた。敬語という形式以前に敬意という心の問題のあることが,「敬意表現」という用語で明確に示されたことは,大変に意味のある重要なことである。最近,若い人が「スゲー細かい」と言っているのを聞いたことがあるが,雑な印象の「スゲー」とデリケートな印象の「細かい」とを平然とつなげる感覚に驚いた。単語を選ぶ意識が雑になってきていると感じている。こうした事例に触れると,「敬意表現」ということで意識の問題が問われ出したことは良いことであると思う。
以前,関西のある高等学校の演劇科を取材したことがある。学校に入ると,明るく大きな声であいさつをされたが,尋ねてみると,特別にあいさつの指導はしていないということであった。演劇を通して人とコミュニケーションをとることの楽しさを経験しているから自然とそうなるということであった。あいさつだけでなく,授業中も自分の意見を述べる楽しさを知っているので,活発に意見を述べていた。このようになっていった理由は書かれたものに対する演劇的アプローチ,山崎正和氏の提唱した「立体的言葉の教育」にあるということであった。一般に,読書は黙読であるが,これは寝ている状態(フリーズ状態)での言葉との接触ということで,そこでは分かったような気になっているだけである。寝ている状態でない,言葉を立ち上げる読み方が必要なのに,今までの教育では,言葉を立ち上げる読み方が指導されてこなかった。文脈やメッセージに意識を向ける言葉を立ち上げる読み方を経験することで,コミュニケーションの楽しさを理解できるようになり,そこから,読書のやり方もあいさつや敬語についても,子供たち自身も変わってくる。言葉の力を身に付けることで,すべてが変わっていくことを示していきたい。
私は敬語の研究者で,留学生に日本語を教えてもいる。第22期の国語審議会では「現代社会における敬意表現」の答申にかかわった。この答申では,考え方として新しいものを出せたと思っている。敬意と言うと「敬語」にのみ意識が行ってしまうが,もっと広げる必要があるということから「敬意表現」という言葉が選ばれたという経緯がある。相手だけではなく自分自身も大切にするという考え方を示しているが,世の中に広まっていないのが残念である。資料4の「国語に関する世論調査」の結果は興味深く感じた。特に年代による違いがあるものの中で,敬語の必要性の理由について,実社会で活躍している世代である30代や40代が「人間関係を円滑にする」という理由を多く選んでいるのが興味深い。必要性を感じている人が多いということは,それだけ敬語が使われていないということではないか。10年前と比べても,敬語を聞く機会は少なくなっていると思う。
答申では「敬意表現」として出したのだが,この分科会の議論の中で「敬語」という言葉に戻るのは残念だ。やはり,一般の意識としては「敬語」としか見ていないのだろう。国語分科会で,表記の標準を出すことは必要であろうが,言葉遣いの規範を出すことについてはそれができるのかどうか疑問に思っている。そういうものを出すと,それが一人歩きしてしまうおそれがあり,どう受け止められるかも含めて難しさを感じる。
現実問題として,今の敬語には誤用が多く,誤用を誤用と思わない人が増えてきている。それだけに,どこかで「これは誤用である」ということを知らせた方が良いとは思う。敬意表現という考え方が世の中に広まっていないのは,「現代社会における敬意表現」で方向性は示したが,それだけでは十分でなかったためであろう。ここで何とかしなければならないだろうとも考えている。
私は,情報科学の分野の研究に従事している。30数年,音声,言語を対象とした研究を行い,それが広がって現在では,人間の音声言語を含む認識の問題が人間とコンピュータとではどう違うのかなど,ITと人間との関係を扱うようになってきている。
敬語に関しては,今の御発言に同感である。敬語の必要性を感じるということは,それが使われていないからであろう。敬語の意識が高まったと考えるのは楽観的過ぎる。逆に乱れていると思った方が良い。若い人は乱れたから何とかしなければいけないと思っているのではなく,立場をわきまえているからこそ形としての敬語を求めているのではないか。最近,会社名に「さん」を付ける例が多いが,これは形だけ丁寧にすることの現れであろう。
また,ネット上のエチケット,いわゆるネチケットの問題も話題になっている。現実にないものをネット社会に求めていて,その中では人格も変わってしまう。それがネット社会の言葉遣いにも影響しているように思う。ネチズン(ネットワーク・シチズン)という言葉もあり,ネット社会の中でのマナーを改めて求める動きもある。
漢字の問題も情報化と関係している。以前,大学のレポートをワープロ組と手書き組に分けて時間内に書かせるという非公式の実験を行った。ワープロ組の方が漢字を多く使う傾向にあり,手書き組ではあり得ないような間違った字を選ぶということもあった。技術が新しくできると,ある部分が変化する。ある時は何かを失うこともある。例えば,人間が石器を使うようになり,手の器用さが退化したという面がある。ワープロの使用によって今は知的方面に影響がある。だから,道具を使うことにより失うものがあることを事前に理解させることも大切であろう。漢字については失われてよいものでなく,文化として守っていくべきものであると考えている。
方言をはじめ話し言葉というのは,きちんと保存していかないと時代の変化の中で残っていかない。その保存記録やデータベースは重要な資源である。各所でそれぞれ別個にやるのではなく,国のレベルでやらないと現状を打破できない。それは重要なことである。
新しい委員がこれまでのまとめに対し反応してくださり,新しい観点の導入になったことに感謝したい。いろいろな問題が挙がっているが,どのように焦点を絞っていくかが大変である。まずは,優先順位をどう付けるかが今からの課題であろう。
日本語教育や言語学を専門にしてきた立場から言うと,日本語が世界の言語に対してどうなっているかを認識することが必要である。最近,小泉首相が中国の首相とチリで会談したことがあったが,その時,靖国神社の参拝問題を持ち出された小泉首相は,中国原潜の領海侵犯の問題を持ち出さなかった。このことに対して,中国の首相は恩義に感じたであろうとする報道があったが,それは逆で,恩義にも何にも感じていないと思う。相手の痛みを突かないことを崇高なことだと日本人は感じているが,この考え方は相手もそう思うときにのみ機能するのであって,どの国の人たちもそう思っているわけではない。中国語は謙譲を崇高と考えるような言語ではない。世界とコミュニケーションしていくときには,伝達の仕方を変えていかなければならない。変えていく必要があるときに日本人のコミュニケーションがどうなっているかが大切な問題である。
中国原潜の領海侵犯について,中国の「遺憾に思う」という発表を「陳謝」と日本のマスコミが報道していたが,これもそうではないだろうと思う。
中国と日本はよく言われるように同文同種ではない。翻訳や通訳によって,誤解を生んだりすることもあり,大きな問題である。
通訳者で翻訳家でもある米原万里さんが話していたが,結局,外国人とは通訳者の言葉を通してやり取りするので,その通訳者の言葉によって全く違ってくるそうである。それも,大きな問題であろう。
新しい臨時委員の方が人名用漢字にかかわったことをお話しになったが,それを聞いて,文化審議会国語分科会として,人名用漢字について強く意見を表明してもよいのではないかと思った。戦後,国語審議会が当用漢字表,常用漢字表を答申してきたが,その中で,人名用漢字についても考えられてきた経緯がある。これまで人名用漢字の枠を大幅に緩めなかったのはそれらの漢字表に対する配慮があったからである。ところが,今回は500字以上と大幅に増やし,常用漢字表の趣旨や考え方に対して全く配慮していない。全体として漢字を日本文化の中で,どう位置付けるかが大きな問題である。
漢字の問題については調査を踏まえてやる必要があろう。まずは,言葉遣い,特に敬語の問題について考えることが必要ではないか。敬意表現について考えるという意見が出ていたが,敬語ということなら,ある程度イメージできるが,敬意表現を考えるにはどういう方法があるのか。また,敬意表現を世の中に訴えていくにはどのようなことができるのか。
第22期国語審議会で「敬意表現」という用語が示されたが,広まっていないという状況が続いている。伏流水のようになっているので,それを地表に出す必要がある。敬意表現をもう一度世の中に示して,その意義をPRしていくことが必要であると思う。
敬語の習得について調査をしたことがある。韓国・中国・欧米からの留学生と,日本人の学生とを対象にした。留学生については滞在期間が3年未満の留学生と3年以上の留学生とに分けて調査した。
滞在期間が3年未満の留学生の中では,韓国の留学生の習得状況が最も良かった。中国の留学生は日本語が上達するにつれて,尊敬語や謙譲語ではなく,丁寧語で心理的距離を取るようになる。自分を低めるような言葉を使いたくないという意識があるようだ。欧米の留学生は敬語をうまく使いこなせなかったし,日本の男子学生も余り使いこなせていなかった。
敬語の習得は,相手に対してどういう敬意を持つ文化か,対人関係をどのような枠組みでとらえる文化であるかにかかわるところが大きい。使う人がどのような価値観を持つかで,表現が選ばれたり捨てられたりする。大事なのは,言葉づらではなく心(中身)である。
第22期国語審議会の「敬意表現」の答申は,昭和27年の建議「これからの敬語」を,21世紀にふさわしいものとして,どのように作り替えていくかということで始まり,敬意が大切だということでまとめられた。その時に教育界からは理念は分かるが,具体的な言葉の問題として,どのように指導すればいいのかを示してほしいという要望があった。「敬意表現」を踏まえた上で,具体的なところへ持っていく,そういう新しいものを提案したい。学校で教えることを示し,社会に出たときに使えるというものが欲しい。国立国語研究所には職場や学校の敬語に関する調査があるので,資料提供が期待できる。
これまでの議論で,敬語について,国語分科会として何か発言する必要があるということは合意が得られたと思われるが,言葉遣いの規範について具体的に示すことはできるのか。
「ポライトネス」という用語が「敬意表現」に当たるものなのであろうと思う。日本語は自らを低めることで相手を高めて敬意を表し,中国語や欧米の言語では相手を高めることで敬意を表す。事柄の重要性や相手との距離が大切な要素となって選択される表現が決まる。こうした分析を踏まえて,年齢・性別などの違いなどに関して,幾つかの実例が示されていけば,何らかの形の規範につながっていくのではないか。
配慮についての例は,第22期の国語審議会答申でも挙げているので,それらの具体例を示すことはできる。
学校教育では,尊敬語・謙譲語・丁寧語という3分類は不動のものとして教えられているが,これは古文には有効であるが,現代語では余りうまく機能しないように思う。尊敬語や謙譲語は尊敬や謙譲の念がなく使っているという現状があり,尊敬語・謙譲語という用語の使い方にも問題がある。「いたします」「申します」は改まりを示すものとして,謙譲語から切り離すことが必要である。それに,「お天気」の「お」などを美化語として加え,敬語を5分類するのが学会では一般的になっている。敬語の用語や分類の見直しも必要であろう。今は,分類に引っ張られて,敬語の実態が見えなくなっている状況があると思う。
総論から入って,具体的なパンフレットのようなものまで作るというところまで踏み込んでいくべきか。また,1年くらいでできるだろうか。
第22期の国語審議会で答申が出されていて,理念が示されている。それを受ける形で,具体例や理念を追加していくことは自然な流れである。審議期間については,どこまで踏み込んでいくかによって変わってくると思う。
敬語の分類から立ち返って検討していくということは確かにあるだろう。22期の答申についても新たな目で見直していく必要があろう。
答申の「敬意表現」は規範ではなく,運動論であるととらえている。小さな敬意であっても良いところを見て,それをめでていこうというものである。言い方はおかしくても,そこに敬意があれば,それをめでていこうという運動論である。そういう運動論を規範ではない形で示したものである。そのことが各自の中で意識されれば,敬語の規範や分類もおのずと出てくるであろう。教育界の求めは短絡的であり,マニュアルを求めているように思う。
敬意表現の答申にも書かれているが,仲間同士で敬語を使わないということも敬意表現の一つの在り方である。「こうすべきである」という規範ではないということが,確認される必要があるだろう。
マニュアルを示すのではなく,敬意表現として広く提示していくということで,敬語への展望が確認できたかと思っている。
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