議事要旨

国語分科会第25回議事要旨

平成16年12月8日(木)
14:00 〜 16:00
霞が関東京會舘「シルバースタールーム」

〔出席者〕

(委員)阿刀田分科会長,甲斐,金武,小池,坂本各委員(計5名)
(文部科学省・文化庁)久保田国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 文化審議会国語分科会(第24回)議事要旨(案)
  2. これまでの国語審議会における「敬語に関する議論」
  3. 国語審議会報告に見る「国語をめぐる諸問題」について
  4. 現代社会における敬意表現(第22期国語審議会答申冊子)

参考 官報(平成16年9月27日)抜粋

〔経過概要〕

  1. 事務局から,配布資料の確認があった。
  2. 前回欠席の金武委員から,自己紹介を兼ねたあいさつがあった。
  3. 前回の議事要旨を確認した。
  4. 事務局から,配布資料2,配布資料3,配布資料4についての説明があった。
  5. 独立行政法人国立国語研究所でこれまでに実施された「敬語に関する調査」の結果について,甲斐委員から説明があった。
  6. 配布資料2,配布資料3,配布資料4を基に意見交換を行った。
  7. 次回の国語分科会は,12月20日(月)10:00から東京會舘「カトレアルーム」で開催されることが確認された。
  8. 意見交換における主な意見は次のとおりである。
前回の分科会では,敬語そのものについて,ある程度の標準を考え,提示する必要があるという御意見と,せっかく答申で「敬意表現」という示し方をしたのに,また敬語に戻るのは残念であるという御意見とが出された。確かに,敬語ではなく,「敬意表現」というとらえ方をして,その理念を訴えていくことは大事である。しかし,同時に理念だけでなく,具体的にはどのように考えていくのかということも求められている。調査を踏まえて,具体的なものを出すことは大変な仕事であるが,その必要はあろう。ここでの議論が,次期国語分科会の方向性を示すものになると良いと思っている。
第22期の答申を受けて,学校現場を中心に「敬意表現」に対して,これだけでなく敬語を具体的に整理したものがほしいという声が上がったということであるが,それはそれで正論であろう。しかし,実際は,具体的な敬語の使い方というところだけを求めているのではないか。「敬意表現」というものを本当に理解しようと考えての求めではないように感じる。敬語というのは,「その使い方は間違っている」ということが言いやすい部分なので,そのように言うことで,自分は言葉に関心があるということを示したいという心理も働いているのではないだろうか。
大前提としての「敬意表現」は大切なものであると位置付けながら,並列させて敬語のことも扱っていくということで良いのではないか。「敬意表現」の答申を生かすためにも,具体的なものにまで踏み込んで言わないといけないであろう。
学校教育の中で,文法を系統的に学習する機会は必要である。「敬意表現」についても段階を踏んで,系統的に学ぶことが必要であろう。「敬意表現」の基礎知識を学習することは意味のあることである。ただ私としては,敬語についても,答申の「8 敬意表現の習得の場」の「(3)学校教育」において,「(学校教育で)敬語を含む敬意表現を習得するための指導を充実させることが期待される。」と書かれている,その場合の敬語とはどのようなものなのか,具体的に検討する必要があると考えている。
敬語の知識が失われている現実がある。それだけに,敬語を教育の場で取り上げることは一つの対策となろう。しかし,「敬意表現」の理念を理解することなく,「敬語だけ扱っていれば良い」という考え方をされてしまったら,かえってマイナスである。
言葉の問題というのは,無限にシミュレート(想定)していかないといけないものである。敬語の問題も当然同じであろう。それだけに,一人一人が自分で考える力をどう付けるのかが問題で,個々人の言葉に対する感覚や見方を,「敬意表現」という運動論を通して身に付けていってもらうことが大切である。そのように考えると,第22期の答申に欠けているのは実践の部分である。以前,ある本に書いた私の「言葉遊び」の例を紹介したい。家族が帰ってきたときには,普通は「おかえり」と言うが,私は「おかえリンゴ」や「おかえリスボン」,今日は家族が疲れているなと思ったときは「おかえリリーマルレーン」などと言葉遊びをしながら迎えている。こう言うと互いにニヤッとできる。こういうやり取りの中で,「おかえり」というねぎらいの言葉の原点に立ち返ることができたと感じている。要は,マインドやエモーションに乗せて言葉が出てくることが大切なのであり,「敬意表現」はそういうことをやることだと思っている。
新聞では敬語は余り使わないと思うが,どうか。
新聞で敬語を使うのは皇室関係だけである。しかし,放送ではいろいろな場面で敬語が使われる。そこで,新聞用語懇談会の中にある「放送分科会」では,敬語の知識がない新人にマニュアルを示す意味で『放送で気になる言葉−敬語編−』を作成したが,放送関係者には好評で売行きもいいようである。
「敬意表現」の理念は前提として大切であるが,現場で要求されるのは,どれが正しくて,どれが間違いなのかを○×式ではっきりさせてほしいということである。学生にしても新聞社の新人にしてもそういう要望が強い。学生に言わせると,敬語は敬意があるから使うのではなく,社会に出て目上の人と話すときに使えないとまずいから使うのだという意識を持っているということである。アルバイトのときには,敬意を持たなくても敬語を使っている。そのような敬語の使い方を教えてほしいという要望が多い。
具体的にこれは間違いであるというような例を示した方が分かりやすいと思う。学者が書いた敬語の本の中でも,例えば,「花に水をあげる」という言い方が正しいのか,間違いなのかはボーダーライン上にあるようだ。様々な敬語の本の中で,以前は間違いであったが,現在は受け入れられているとされているような言い方に対して,どのように考えたらよいのか,その手掛かりを与えてほしいという声も多い。
先ほどの御意見にあった「おかえり○○」のような具体性が,22期の答申にもあった方が良かったと思う。今回は,もう少し踏み込んで,具体例も出すべきではないか。 そうしないと,一般の人にまで答申が浸透していかないと思う。「敬意表現」については,実は小説家は大変意識している。登場人物間の距離を正確に読者に伝えないといけないので,「敬意表現」を無意識のうちに使っている。「敬意表現」については,具体的なものも示さないと,高いところから理念を言っただけになってしまうだろう。
第22期答申ですべて言い尽くしているということであるならば,この国語分科会での議論は意味がなく,我々は辞任するしかない。しかし,例えば,第22期の答申冊子13ページに出てくる「過剰な敬意表現」の「過剰」とは何か,また,「いわゆる商業敬語」とあるが「商業敬語」とは何か,そういったものをもう少し具体化するような検討が必要である。さらに,答申冊子の12ページに「その場その場で選ばれる具体的な言葉遣いや敬意表現」とあるが,「選ばれる」ならば,そこに判断があるはずである。その判断を国民にすべて任せるのであれば,国語分科会など要らないことになる。判断として選ばれるとしたら,具体的にどのような判断かを示すべきである。同じページにある「選択する配慮」にしても,もっと具体的に提案できないかと考えている。
新人が社会に出る時期には敬語のマニュアル本がよく出版されるそうだが,その内容がまずく改善の余地があると考えられるのか。
改善の余地はあると思う。また,マニュアル本でも同じ敬語について意見が分かれているところが問題である。
今までの国語審議会の答申を見ても,絶対こうでないといけないという言い方はしていない。こうあるのが望ましいという程度であり,それ以上は踏み込めないであろう。
若い人は丁寧にするために,敬語を多く使えばいいと思っている。しかし,それを過剰敬語だと不愉快に感じる人もいる。そのことを若い人に理解してもらいたい。それから「させていただく」を何にでも使う現状もあり,気になっている。
敬語の正しい使い方を教えてほしいという要望が若い人にはあるようだが,その意識自体を変えなければならない。敬語を使っていれば丁寧というような意識でなく,相手に対する配慮を持つようにするという,意識改革を求める意味で,「敬意表現」の答申が出ているのである。そのことが理解できるような形で,今回も示すべきであろう。
例えば,体の弱い人に対する配慮のような意味合いで,「敬意表現」ではなく「配慮表現」と言ってもよいか。
「配慮表現」という言葉も候補として出ていたが,答申では,最終的には自分自身をどう表現するか,自分の言いたいことを相手に配慮しながら,どう表現すべきかという観点から,相手にどう向かうかだけを表す「配慮表現」という言い方ではなく,「敬意表現」という言い方になった。具体的なものを示すことはいいことだと思う。
自分のことを表現するということは相手に対してなされるものであり,その意味で,やはり配慮の一つと考えられる。根源的には敬意ではないと思う。ただ,配慮には「ずるい配慮」というのも考えられ,ベクトルが逆の場合もあるが…。
小学生でも,休憩時間中は友達を呼び捨てにしたりあだ名で呼んだりするが,授業中は「君」付けで呼ぶ。場面や聞き手に対する配慮は小学生でもやっている。敬語が過剰であったり少なかったりするということは何か適切な基準があって,初めて言えることである。答申を踏まえて,そこを明らかにできるようなものを出すべきであろう。
22期答申の理念を踏まえつつ,うまく具体的に示すという方法があるのかどうかはよく分からないが,過去に随分蓄積があるのだから,それらを踏まえないといけない。飽くまで,これまでの継続の中でやっていきたい。22期答申のように理念だけでは次になかなか進まない。現場ではそれで止まってしまった。「敬意表現」の理念をはっきりと国民の心に響くように訴えていくことと同時に,実際に困っていることに対する手掛かりになるものを出していかなければいけないと思う。理念と具体性の2本立てでどううまくやっていくかだが,今までのものにない新しい方向性を打ち出して,はっきりと皆さんの心にしみるような形で示したい。
昭和27年の建議「これからの敬語」では,二人称について「あなた」を標準の形として示しているが,現状を見ると受け入れられていない。個々の言葉の変化や社会変化を考えて,具体例を示すのが現実的であろう。
そういった具体例を挙げ,それを支えるのは敬意や配慮といった一人一人の心であるということを強調する必要がある。敬語は単に語法だけの問題ではない。
最終的には,確かに一人一人の心配りの問題だが,例えば,1000人いる場合に,1000人の心の配り方について,そのおおよそのところを具体的に示したいと思う。
心配りをしたくても,どうすればいいのかが分からないという現実もある。
22期の答申を出発点として,それを広げていくという方向に対しては異論はない。具体例を示す必要があるということについても,そのとおりだと思う。
具体例を示すときに二つのことを提案したい。一つは,一般の人たちに対して「敬意表現」の精神,すなわち「敬意表現」はラングではなく,パロールであるということを分かってもらうことである。答申で示すときにはラングと見られがちであるが,「敬意表現」とはパロールだということをどう分かってもらうか。具体例を示しつつ,運動論として出していくべきである。
その場合のパロールとは,状況などを含めた言葉と理解していいか。
そのとおりである。また,二つ目として,マスメディアの影響が大きいことを考えて対応していくことである。私自身は,言葉の送り手に対しては,例えば,個人的な会話の中では構わないが,放送では「ら抜き言葉」を使うべきではないというような態度で臨んでいる。言葉の送り手に対しては,言葉の規範を発信する必要がある。一般の人たちに対するものと,送り手に対するものとの2面性で考えていく必要があろう。
今の御意見に賛成である。それぞれの個性によるということで結構である。その上でまず規範的なものとして,何があるかを整理する必要がある。それをどのように出していくか,どのように料理するかは,その次の問題である。
また,パロールの前提としてラングがある。それは何かを整理してみる必要もある。「これからの時代に求められる国語力について」の答申でも,国語力を2層に分けて考えている。一つは,「言語を中心とした情報を処理・操作する領域」であり,もう一つは,その基盤となる「国語の知識や教養・価値観・感性等の領域」である。そして,この基盤の部分が分厚くて大きければ,上のパロールに当たる部分の言語活動も活発になると考えた。パロールを支えるものとしての基盤の部分を整理し,そこから何を出すかを検討していこうということである。
新聞の読者は,新聞で使われる言葉に対して規範性を強く求める面がある。
規範を出すことは必要であるし,そうすべきであろう。ただ,表記については規範を出しやすいものであるが,話し言葉の場合は,規範を出した途端に,一般に適用される規範となってしまい,これさえ使っていれば良いのだと考えられてしまうことが怖い。そのようにならないように,どのように規範を出していくかを考える必要がある。
検討するに当たって,そういうことを我々の意識の中心に置くということだろう。
今までのものとは違う方向性を出していく必要があると思うが,それができれば大変すばらしい。
規範について検討しないというのは逃げである。「企業の中の敬語」の調査を見ると,会社の社員は,それぞれの判断で動いている。現在の社会人がどのような規範で動いているか,それをすくい取り料理する必要がある。大変だが,規範を出す必要はある。
自分の意識の中では,規範を示すことに慎重であるべきだと思っているが,実際に,外国人に日本語を教える際には「こう言いなさい。」と言っているのが現実である。ただ,このような分科会という場で規範を作ることの怖さがある。
答申として出す限り,何か新風を吹き込む必要がある。今のような問題を頭に置いて考えていけば,新しいものが出せるような期待はあると思う。何とかやっていけるのではないだろうか。
私自身は現場では規範論者である。どうして,そういう考えが定着したかというと,9時間にも及ぶ大阪弁のラジオ番組をやったことがあり,その時から,方言が大切にされる時代が来るだろうし,また来るべきだとも思った。ただ,それと同時に,共通語の規範性があいまいになっていくと感じた。共通語は,共通語としての規範性を持つ必要がある。だれがその規範性を維持・発展させていくかと言えば,それは言葉の送り手であろう。共通語の規範性を維持・発展するために言葉の送り手を鍛える時期に来ているのではないか。そういう方向への発信も意識すべきである。
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