議事録

国語分科会(第29回)議事録

日時 平成17年5月16日(月)
10:00 〜 12:25
東京會舘「ゴールドルーム」

〔出席者〕

(委員) 阿刀田分科会長,阿辻,井田,市川,岩淵,内田,大原,甲斐,金武,蒲谷,菊地,小池,陣内,杉戸,東倉,西原,林,前田,松村,山内各委員(計20名)
(文部科学省・文化庁) 加茂川文化庁次長,寺脇文化部長,久保田国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 文化審議会国語分科会(第27回)議事要旨(案)
  2. 国語分科会で今後取り組むべき課題について(案)

〔配布資料〕

  1. 文化審議会国語分科会委員名簿
  2. 文化審議会国語分科会運営規則(案)
  3. 文化審議会国語分科会の議事に公開について(案)
  4. 文部科学大臣諮問(平成17年3月30日 平成17年諮問第15号)
  5. 文部科学大臣諮問理由説明(平成17年3月30日)
  6. 文化審議会国語分科会報告「国語分科会で今後取り組むべき課題について」

(平成17年2月2日)

  1. 7−1. これまでの「敬語に関する議論」について
  2. 7−2. これまでの漢字政策について(付:人名用漢字・JIS漢字)
  3. 8. 文化審議会(第39回)総会で出された意見の概要

〔参考資料〕

  1. 文化審議会関係法令
  2. 文化審議会運営規則
  3. 文化審議会の議事の公開について)

〔経過概要〕

  1. 前回の議事録(案)について確認した。
  2. 文化審議会令に基づき,委員の互選によって,阿刀田委員(文化審議会会長)が国語分科会長に選出された。
  3. 事務局から,配付資料の確認があった。
  4. 事務局から,資料2「文化審議会国語分科会運営規則(案)」及び資料3「文化審議会国語分科会の議事の公開について(案)」の説明があり,了承された。
  5. 第4期国語分科会の発足に当たり,加茂川文化庁次長から,あいさつが行われた。
  6. 事務局から,配布資料4,5,6,7−1,7−2,8についての説明が行われた。説明に対する質疑応答の後,配布資料を参考として意見交換を行った。
  7. 次回の国語分科会は,各委員の日程を調整した上で,事務局から改めて連絡することとされた。
  8. 質疑応答及び意見交換における各委員の意見は次のとおりである。
○ 市川委員
先ほど,常用漢字表制定の際に人名用漢字については法務省にゆだねたというふうに説明されたが,現在もやっぱりこれは法務省の管轄なんですか。
○ 氏原主任国語調査官
はい。人名用漢字については現在も法務省の管轄でございます。
○ 市川委員
そうすると,これは法務省が決めるということになるわけですか。
○ 氏原主任国語調査官
はい。そうです。
○ 市川委員
そうですか。そうすると,国語分科会はどういう立場になっているのでしょうか。
○ 寺脇文化部長
おっしゃるとおり,法務省が漢字を決めるというのは,普通は「変だな」というふうに思われる。国民の皆さんもそう思っておられると思います。本来,漢字の使用については,文化庁が国語審議会,現在の国語分科会の御決定に基づいてやっていくということでありまして,今の説明を要約いたしますと,国語審議会で決めている常用漢字表がずっとこの間変わっていないので,「新しい字を使いたい,こういう字を使いたい」というような要望が出てくることについて,人名用漢字という例外を作っているということでございます。
原則は国語審議会で決める。例外として,常用漢字表にないもので人名に使いたい漢字が国民の間から出てくるというようなことにこたえるために,人名用漢字というシステムを作って,それで人名を管理する,つまり戸籍を管理する法務省がやってきたというような最初の成り立ちがあります。
ただ現在では,それが必ずしもそぐわないのではないかという声が国民の中からも出てきていて,その法務省が担当する人名用漢字というのが,「なるほど,こういう字はみんな使いたいだろうから常用漢字に入ってなくても使っていいではないか」という字が入っているときには,みんな納得するわけですが,「ええ,こんなの人名にどうして使うんだろうか」というような字が入っていたりするようなことが昨今出てまいりまして,「いかがなものか」というような御意見も国民の皆さんの中にある。
そういうことの中で,それでは本来,つまり例外ではなくて原則として漢字政策を考えていく国語分科会として,漢字の問題というものを,これはなかなか難しいので人名用漢字表のように簡単に変えるということができませんでしたけれども,改めてきちんと議論をしていただきたいというのが,今回の諮問の趣旨でございます。
○ 阿刀田分科会長
今の説明でも相当歴史的にいろいろな経緯をたどっておりまして,いろいろねじれているようなこともあったりして,今この分科会に,敬語についての指針,そして漢字政策について何か答えを出せと言われているので,これは相当大変なことを諮問されているんだなと考えております。特に,諮問がこの二つでございましたので,今回の委員の方々は,比較的それぞれ敬語,漢字等にお詳しい方々にお集まりいただいたというのが実情だと思います。今回は第1回目でございますので,皆さん同士顔なじみになるということも含めて,自由に御発言を願いたいと思います。
○ 阿辻委員
今,御指摘があった人名用漢字の問題は,実は,今日,御出席の委員の中には私を含めて3名の方が,昨年の春から秋まで開かれました法制審議会人名用漢字部会に加わっておりました。法務省民事局が主催する人名用漢字追加の委員会がありまして,行政や法律の専門家に,私ども国語あるいは漢字をやっている者がそこに加わって,審議をいたしました。
賛否両論あった人名用漢字の最終結論だったとは思いますけれども,その会議を通じて非常に印象深いことがありました。先ほど御説明があった,JIS漢字と常用漢字と人名用漢字,これはかつての文部省と法務省と通産省で,役所間の縦割り行政が完全に貫かれていまして,横の連絡というのはほとんどなかったと思います。その結果が,様々な矛盾やひずみというのをもたらしたのではないかというふうにかねがね思っておりました。
しかし,昨年の法制審議会,あるいはその前のJISのX0213という規格を作るときぐらいから,何となく感じていたんですが,昨今は,漢字の問題がやっぱりクローズアップされてきたこともありまして,一つの省庁だけで問題を処理するのは恐らく不可能になりつつあるという気がいたします。私が申し上げることではないんですが,霞が関の中でもかなり横の連携というのが最近は取れてきているんではないかというふうに,個人的には感想を持っております。今回の審議に当たりましても,その傾向を大事に様々な方面に目を配って,国民全体の財産あるいは文化遺産としての文字,あるいは敬語というのを,広い視野から眺めていきたいなと思うのが,今日ここでトップバッターに指名された者の感想であります。
○ 井田委員
人名用漢字については,そうしますと,この会に法務省の方が御出席にならないのはちょっと不思議な感じがいたします。是非法務省の担当の方に,次回からはおいでいただく方がいいのではないでしょうか。
それから,恐らく私は,漢字ではなくて,アナウンサーは話し言葉の仕事でございますから,敬語の方でお呼びいただいたのではないかと思います。
敬語に関しては理屈の本を読むと,もう私も嫌になってしまうんですね。新入社員に敬語の研修をしようとして,敬語の基本を書いた本を読み出すと,何でこんなことをという感じで,もう拒否反応が…。私自身これまで言い間違いもしてきたでしょうけれども,それほど敬語が怖いとか人と話すことが嫌で嫌でたまらないという人間ではないのに,文字に書かれた敬語の指針というのを読むと途端に嫌になってしまう。
ということは,これから一般的に広がりを持つ敬語の指針というものをどういう形で発信していくのか。もちろん基本的なところは文字にまとめていくのでしょうけれども,それをそのまま文字として国民の皆さんに提出して,「さあこれですよ。」と言っても,恐らくは思うように願うようにはなっていかないでしょう。そうすると,決め方,まとめ方と同時に発信の仕方を,特に若い人たち子供たちが関心を持ってくれるような形にしていくということが大事なのではないかと,これは出口の話で随分先のことになるかと思いますが,感じております。とにかく,ここで立派なものができても使ってもらわなくては何にもならないという気がしておりますので,そのために私も何かお手伝いができればと思います。
○ 市川委員
私も同じような意見だと思いますが,前期には,話す言葉,書く言葉等々をもっと比較対照して,論理的にやらなければいけないのではないかという御意見もあったと私は解釈しております。けれども,今回の敬意表現という言い方,あるいは敬語という言い方でもよろしいかと思いますけども,大多数の方々,90何%の方々が必要だとおっしゃっているのは,やはり話し言葉の在り方ではないかなと,私も考えている一人でございます。  このことは今御説明がありましたように,もうさんざん論議をされていて,在り方とかそういうもの,また,間違い等々いろいろ検討されております。昨年度の報告でもやはりそういう在り方について論議というのはもうございました。中には,敬意表現自体要らないという御意見もあるけれども,やはり大多数は,敬意表現というのはやはり人間というつながり,あるいは「潤滑油」として必要だということを認められていると思います。今年度の,この敬意表現あるいは敬語,論議はあるとは思いますけれども,その在り方ではなくてどう実践すべきかということを是非答申の中に盛り込むという方向で論議しなければいけないのかなというふうに感じております。
それから漢字の方ですけれども,法務省でという不思議な決め方もございますし,また拝見していると,実は当用漢字で使いたいものを人名用漢字という言い方をして逃げているのではないかというふうに感じる部分がございます。やはり人名といっても,普通に固有名詞に使うだけの字ではありません。それを何か人名ということで,難しいところをこう逃げているようなふうにもちょっと私は感じております。難しい字,ややこしい字を人名だけに使えるという考え方,今回是非検討していただきたいと思っております。それから,文部科学省と文化庁とも同じようですけれども,ちょっと決定機関とかそういうものが違う。やはりこれは,国語や何かも二立てになっているわけですね。一立てではないわけですね。文部科学省としての方向と,文化庁としての方向との間に多少ずれはないんでしょうか。
○ 寺脇文化部長
文化庁は文部科学省の中にある機関でございますから,考え方は全く同じでございます。ただ,文化庁は国語そのものを担当していく立場で,文部科学省はその国語,つまり文化庁で定めた国語というものを,どの段階でどういう形で教育していけばいいのかという国語教育の方を担当しているという区分けがございます。その国語に対する考え方は,もう全く同じでございます。あるいは漢字とかそういうものに対する考え方も全く同じでございます。
○ 市川委員
でも,やはりお役所というと,先ほどちょっと指摘がございましたけれども,若干のずれというのは否めないところはあるんではないでしょうか。
○ 寺脇文化部長
寺脇文化部長 法務省や経済産業省は違う役所でございますので,漢字一つとってみても,文化庁は「日本の漢字」という考え方で総合的に考えますけれども,法務省は人名のこと,戸籍に使われる漢字のことを考えるという観点になるので,ずれというか違いが生じてくることはございます。しかし,文部科学省と文化庁というのは,文化庁がそもそも文部科学省の中の外局でございますので,全く考え方に違いはございません。
だけれども,確かに法務省や経済産業省とのことについて先ほど御指摘がございましたように,従来から省庁間の縄張り争いとか縦割り行政の弊害というような御指摘を受けているというのは十分に承知をしておりまして,このことを今回,この諮問・答申を機会に正していく方向でやってまいりたいという気持ちでございます。
○ 岩淵委員
平成12年に「現代社会における敬意表現」という答申が出ましたころから学生たちと話をしている中で経験しましたことを,感想を交えて御紹介したいと思います。
まず敬語についてですが,平成12年の答申に盛り込まれている考え方は非常に優れたものだと思います。御関係の方がこの中にたくさんいらっしゃるので失礼に当たることがあるかもしれませんが,この考え方は,一般の人にとっては非常に難しいものだと思います。したがって,いろいろなところで問題が起きるのではないかと思いまして,この案が出ましたときに,大学から意見があったら申し出るようにという話がありましたので,大学を通じて意見書を出しました。その中に「この答申をそのま世の中に示したときには,少なくとも教育の現場では混乱してしまう」こと,「これでは教えることができない」ということを書きました。そう考えると,「これからの敬語」というのは,古いものですけれども,優れたものだと言えます。考え方としては非常に優れたものがその中にあるのではないかということです。私のところには公立,私立の小中高の先生方が長期研修で在籍しております。答申が出ましてから,私の大学院におりますそういう人たちの中から,仲間同士で敬語の問題について話合いをしてみたけれどもどうしても分からない,どういうことなのかという質問がありました。そこで,その答申がどういうことを言っているのかを説明しましたところ,それなら分かるということでした。こういう具合ですから,答申は,かなり詳しい解説を付けませんと,容易には分かってもらえないものでなのではないだろうかということが感じたことの一つです。
資料7-1の2枚目の,アンダーラインが引いてあるところは,かなめの部分でありながら,理解されにくいことが記されているように思います。こういうものは敬語だから,ここでは,敬語ではなくてもっと広く敬意というふうになっていますけれども,敬語の問題だから難しいということではなくて,どういうものであっても,専門的な立場からの考え方は,一般の人にはなかなか理解しにくいものだと思います。少し古い話になりますが,私が大学院の学生のころに,さる高名な先生から伺ったお話があります。この先生は東大の御出身ではなかったので,東大で橋本進吉博士が「連文節」の論について講演をなさった後に,その内容を学会誌で御覧になったものの,理解しにくいものであったそうです。しかし,東大の人たちはよく分かっているようだったというお話でした。これは,ふだんからよく聞いている考え方,常にそういう考え方に触れている人には分かりやすいけれども,そうでない人たちにとっては難しいものがあるということです。答申については,この点をよく考えなければいけないのではないかと思います。
次に,漢字についても一,二,申し上げたいと思います。人名用漢字が出ました昨年の9月のことですが,私のところの女子学生が,「「苺ちゃん」という名前はかわいい。だけど,自分がその名前を付けられるのは嫌だ。」と言いました。50,60歳になったときに「苺ちゃん」では嫌だということです。その当時,こういうことについては,何ら,新聞その他に出てきませんでしたが,実際には名前についてどういうことが大事なのかということが,書かれていなかったように思います。漢字を扱うについては,こういう点に配慮する必要があるのではないかということと,既にJIS漢字が1万字を超えているということが大変気になってきました。不必要な漢字使用や誤った漢字使用が氾濫してくるように思うからです。私が1994年に刊行されました印刷物9種類について調べたもの,日本文芸家協会その他で編さんされたアンソロジーと,週刊誌その他を使い調査しましたところ,そこに出てきた漢字は全体で約3,700字でした。そのうち,JIS漢字,すなわち,第1水準と第2水準に含まれていなかったものが19字ありました。19字のうちの,18字は時代小説の中に使われたもの,1字は週刊誌の中に使われたもので,いずれも固有名詞を表記するために使われていたものです。
一種類の印刷物にはおよそ2,300字程度の漢字が見られました。実際に使われたのは,常用漢字の1,945字に近い数字だといってもよい数字です。今もその数字は余り変わっていないのではないかと思います。それにもかかわらず,その5倍もの漢字がJISとして定められるということになってくると,漢字は使用の目的やジャンルを明確にしておくことが重要だと思います。先ほどの「苺ちゃん」ではありませんが,悪いことや,欠点については,いろいろな人たちが気が付きますからいいのですが,「苺」という漢字であっても,名前としては嫌っている人たちもいる。そうなると,名前にふさわしい漢字,中国や韓国で女の子が生まれたときに付けていた漢字のように,人名にかかわらず広く漢字使用において,目的に合わせてはっきりした意識を持つことが必要ではないだろうかと感じております。
今のJIS漢字,第1水準,第2水準の漢字の中にも,地名や人名にしか使われていない漢字が入っており,それらには意味や発音が分らないものもあるはずです。しかし,昨年の暮れに出ましたある出版社の小型の漢宇辞書には,1万4,000字以上の漢字が収められており,そのすべてに意味と読みとが入っています。字書として,これで大丈夫なのだろうかという感想も持ちました。
この何年間かの国語施策に関連して感じましたことを申し述べたいと思いまとまりのない話を申し上げましたが,なお,もう一言付け加えますと,国語施策を普及・徹底させるために一番大事な場所の一つが小学校と中学校であるはずです。ですから,小学校や中学校で指導に当たっていらっしゃる先生方に分かるような答申を作ることが必要なのではないかということを,申し添えたいと思います。
○ 内田委員
言葉というのは人々の生活の必要を満たすように変化,増殖してきた,その歴史を繰り返してきたわけです。「ゴイ」というのはボキャブラリーの意味の「語彙」と,ワードミーニングの意味の「語意」があり,その両方とも変化してきたし,敬語も変化してきたわけです。その中で,特に敬語というのは,人間間あるいは対人関係を反映している。そうやって変わってきたように思うんです。
留学生が日本語の敬語を習得していく過程なんかを調査いたしますと,韓国から来られた留学生というのは一番うまく習得できる。日本人の男子学生よりもずっと上手なんですね。韓国語の敬意表現というのは6段階ぐらいあると言われていますから,非常にうまく習得できます。
中国から来られた方というのは,最初は教科書どおり一生懸命習得するんですが,慣れてきて,日本語がうまくなってきますと,謙譲語それから尊敬語というのは使わずに,丁寧語によって相手との距離を取ろうとするようになる。つまり人間関係,人間には上下がないという価値観に立ちますと,非常に抵抗が出てくるということで,やっぱり価値観がどう変わったかということを考えないといけない。敬意表現が崩れてきたというのは,現代の日本で人間関係が崩れてきたということの反映であろうかというふうに思います。
特に,マスコミで使われている若い人たちの敬意表現,これが非常にめちゃめちゃなように思われて,とても残念です。いい年をしたタレントが「うちのお母さんは」「うちのお父さんは」というようなことを言われて,それが広がっていくというようなところで,マスコミで使われる言葉というのが,やっぱり非常に影響力が大きいんではないかという気がいたします。それで先ほど資料4にありましたけれども,その1段落目の「言葉の持つ豊かさとしてとらえることができる一方で,コミュニケーションを円滑化し,人間関係を構築していくことを一層難しくしている要因ともなっている」。ですから,人間関係とそれから敬語,敬意表現というのが表裏一体となっていて循環している。どっちが先で,どっちが後ではないという関係でとらえた方がいいんだろうと思います。
配布資料7−1の「1」に書かれているように「新しい時代の生活に即した新しい作法の成長とともに」表現の仕方ということを見直していくということが必要であるし,やはり言葉というのは実践活動を通して習得されるということがあります。ですから,その実践活動の方というか実生活の中でどういう対人関係を持っていくかというようなところで,やはり幼児期,児童期での親,教師の言葉遣いというのは,非常に重要になってくるのではないかなというふうに思います。
○ 大原委員
私はドラマの方言指導という仕事をしております。ドラマというのは社会を映す鏡というふうに思っております。作家の先生が方言でお書きになられた場合はいいんですが,共通語で脚本をお書きになった場合は,それぞれの方言指導者が方言に訳していくわけですね。そのときに,やっぱりその役柄,登場する人物によって言葉を全部書き分けていくわけです。そのときに,とても悩むわけですけれども……。
それと言葉は次第に変わっていきます。私の名前を御覧いただきましたらば,ある時代をお感じになられると思うんですけれども,私は1935年生まれで,両親が最初届けに行きましたら,それは却下されまして,「実る」という意味で今の名前になったわけです。けれども,そういうふうに,名前だとか字だとかそれから言葉遣いだとかというのは,時代によって変わっていく。それから,登場人物の役柄,その人がどういう環境に生きているかということでも変わっていく。そういうことで,私は,今回ここで私の意見をというよりは,先生方の交わされる意見を学んで,またドラマに,この社会に言葉を生かしていきたいというふうに思っています。
それから,もう一つ,今とても気になっているのは地名なんです。私が担当しています方言は大阪,京都,広島弁なんです。広島へは疎開したわけですが,「洗う」+「谷」(洗谷)と書いて,「アロウダニ」と読んでいたのが,近々帰りますと「アライダニ」と漢字どおりに読むように変わっている。それから,今住んでいます川崎の麻生区なんですが,そこにお餅の「餅」の「坂」(餅坂)というところがあるんですけれども,私たちが40年ほど前に住んだときには,「モチイザカ」と言っていたんです。それが今,「モチザカ」に変わってきている。
そういうふうに読み方も変わってきているし,方言のなまりも少しずつなくなっている。ですから敬語なんかも,私の母の年代の人が集まって話していてとても印象に残っているのが,「だんな様がさかつべをこきなさった」ということで,みんな笑っていたことなんですね。「さかつべ」というのは仰向けに転ぶということなんです。「こく」というのは,卑語というか私たちの悪い言葉なんです。「なさって」というのは敬語なんですね。「さかつべをこきなさって」と田舎の人はそういう言葉を使って敬意を表現してたわけですけれども,それがおかしいということで大笑いしてたのをいまだに覚えています。ですから,方言の場合の敬意表現というのをどういうふうにしていったらいいのかということも学んでいきたいなと思っております。
○ 甲斐委員
敬語は第21期の審議経過報告に出ていた,「具体的な敬意表現の標準を示す」というところができたら,本当に有り難いと思っております。
今日は主として漢字のことを申し上げようと思うんです。先ほど常用漢字とJIS漢字と人名用漢字が省庁による違いがあるということが出たんですけれども,私はもうここでは常用漢字を,とにかく文化庁としては大事にして主張していくということを考えたいというように思っております。
JIS漢字というのは,全国のいろいろな地名とか,あるいは古い人名とか外国の人名なども含めた上で,どうしても必要なというところがあると思うんです。日本の漢字というのはいわゆる資財とも言われるような言語文化を持っており,10万とも言われておりますが,それは一つの財産であるということだと思います。その中で,どういう形で日常の言語生活で大多数の国民が読み書きできるかというところで,常用漢字を考えていくと,固有名詞をどう考えるかということがあるんですけれども,大変難しかろうと思います。新聞や雑誌などの読み書きができるということは,他方ではこれは,先ほど委員がおっしゃったんですけれども,学校教育でどれだけ教室で指導できるかということだろうと思います。したがって,学校教育ということを一つの頂点とし,言語生活をもう一つの頂点とし,それから豊穣な言語資財を頂点とする三角形の中で,我々はどう考えていくと良いかということかと思っております。
最近,新聞には,日本が国連の常任理事国になるということが大分話題に出ているんですけれども,そうすると私などはすぐに,こんなことを思います。国連の公用語に日本語がなれるのではないか,もしなったとしたら,国連に職員が登用されるときの試験に日本語を出題することができる。あるいは,議事録として日本語を使用するときに,どういうような日本語というものを採用できるのか。こう考えると,漢字を含めた語彙等の選定ということを,私は文化庁が是非とも理事国になった後では遅いから,できるだけ早めに考えていく必要があるのではないか。そのときには,やはり常用漢字というものをどう考えるか,あるいは学年別漢字配当表の1,006字をどう考えるかというところが必要になってくるのではないかというように思っています。
○ 金武委員
そういうことだと思います。点・棒・筆画ですね,それの一つの目安を示しているとか,読みの範囲という意味の正しさを示しているとか,そういった日常的に言う正しさとは違ったというか,もうちょっと幅の広い意味の正しさを示していると解釈し直さないと,この選択肢で使われている「正しい」というのはまずいのではないか。
常用漢字表のときに「目安」という言葉が随分議論されたと伺っていますけれども,そこのところをもう一度確かめ直しながら,議論は進むべきだと,今,指摘した二つのアンケートの項目を見て思ったわけです。
○ 阿刀田分科会長
普通の方は「漢字の正しい使い方」と言われたら,「常用漢字表」のことをまず頭に浮かべてしまうのではないでしょうか,そうでもないのでしょうか。よく分からないのですが,確かにおっしゃられてみて,「漢字の正しい使い方」というのは本格的に正しい意味を問われたら,随分難しいことまで出てきそうな気がするのですけれども,一般の方はそこまではお考えにならないだろうなと思いますね。
○ 金武委員
今の常用漢字,現代仮名遣い,送り仮名の付け方,これらの表記体系を,教科書や公文書を除けば新聞界が一番忠実に実施してきたと思っております。それは戦後の国語改革の方針が国語を易しくするということで,新聞社としては義務教育修了者に辞書を引かなくても読めるような記事にしたいという,そういう方針が一致したから実施してきたわけです。
私は新聞協会に来る前,新聞社に定年までおりました。若いころ,ちょうど新聞が「当用漢字」と「現代かなづかい」を実施しようとしたころに,当時の文芸家協会の福田恆存さんとか中村光夫さんが,ちょっと新聞界とお話ししたいということで私も席に出ていたんです。「国語を易しくすることは結構だし,難しい漢字を新聞が使わない方針には文芸家協会としても反対はしないけれども,当用漢字の範囲に絞るのはどうか,それよりプラスが少しあっても,むしろ新聞がそれで教科書がわりに教育になるわけだから,少なくともその辺は余り制限色を強めないでほしい。」と言われまして,私もなるほどと思ったんです。
それと前後して当用漢字に,新聞がよく使う漢字が入ってないということが新聞界でも分かってきました。例えば,当時洪水が多かったとき,さんずいの「洪」がないとか,新聞で常用的に使う漢字が幾つか入ってないということで,新聞界独自で11字ばかり増やすことを国語審議会に提案して,その替わり,制限色の強い時代ですから同じ11字だけ削るということになって,当用漢字の数は増やさないで新聞界の要望を国語審議会に上げたところ,補正案と言われております形で,「今度当用漢字を見直すときには,これを正式に決定しよう」ということになりました。その後,補正案のまま,新聞界はそれを実施したんですが,教育界ではつまり教科書では正式ではないということで実施しなかったんです。
それで,当用漢字を増やして常用漢字が制定されたときに,その新聞界が要望した補正案というのは全部入りました。入りましたけれども,削る要望の字は,当時もう常用漢字は目安ということで削らないでそのまま残したということです。その中で,一番残しても意味がないと思ったのは,天皇の自称の「朕」ですね。「朕」なんていうのはもう天皇御自身がお使いにならないし,常用漢字の中にどうして入ったのかよく分からないんです。新聞としては今でも「朕」とかそういう,当時削ることに決めた当用漢字で常用漢字に残ったものは,そのまま使わないでおります。
ただし,その常用漢字の見直しというのが,その後ずっと長くされませんでした。そのため,やはり新聞界内部から,常用漢字になくても易しい漢字がかなりあるのに縛るのはおかしいということで,四,五年前から新聞協会の中で加盟各社,放送も含めまして,用語のことを審議する新聞用語懇談会というのがございますが,月1回ぐらい会議を開きまして三十数字,常用漢字並みに扱う漢字を増やしました。これはそれぞれ各社独自の判断も加えて,多少の違いはありますけれども,基本的には今実施しております。したがって,現在実情に合わなくなったその常用漢字というものを見直すということは,新聞界としても歓迎しているということです。ただ,初めに申しましたように,新聞が義務教育修了者程度に読めるということを目指しているわけですから,義務教育で教え,学んで,読み書きできる漢字を新聞としても使う標準としたい。したがって,その常用漢字をやたらに増やすということは,今の若い人の漢字の読み書きテストなんかを見ましても非常に心もとないので,その点は非常に慎重にしなければいけないのではないかと思っております。
それから,人名用漢字との関係ですが,人名用漢字といえども漢字という日本語の表記手段を使っているわけだし,社会的に他人が使用することが多いものですから,やはり国語表記の一環として考える必要があるので,それを法務省にゆだねるということはちょっと問題があったと思っていました。このゆだねた時の国語審議会の要望として,「法務省にゆだねることにする。その際,常用漢字表の趣旨が十分参考にされることが望ましい。」という,そういう意見を出しておりまして,法務省の人名用漢字部会もそれに沿って人名用漢字を増やしてきました。つまり,常用漢字の例えば旧字体である「瀧」のようなものは増やさなかったわけです。
ところが今回,私も実は人名用漢字の委員になりまして,今回の人名用漢字の増やし方を見てきたわけですが,最初は同じように,従来の法務省の方針というのは国語審議会の方針に近い形で,ただ要望のあった人名漢字を増やすというふうに進行してきたと思っておりました。ところが最後の段階になりまして,例えば,この「滝」という字の旧字体「瀧」が突然6月に人名用漢字に追加されたました。この時は,人名用漢字部会の会議が開かれている時であるにもかかわらず,部会には一切諮らずに,法務省はこの「滝」の旧字体「瀧」をふわっと入れてしまいました。そして,しかもその最後の段階では許容字体195字,つまり常用漢字の旧字体,先ほど説明がありました文化庁の「廳」とかそういうものの旧字体をすべて人名漢字に入れてしまいました。私は,最後の段階で強く反対したんですが,もう既定の事実のように決められてしまいました。
つまり,常用漢字の旧字体は,今までは当分の間名前に関しては使用できるということで許容されているので,名前に付けたい人が,例えば,秋篠宮の眞子様の「眞」が,「真」という字の旧字体ですけれども,これは許容字体に入っているから,名前に付けることは構わない。それで全く実用上差し支えないわけですから,国語施策の方針から言えば,飽くまで常用漢字の字体が標準であって,旧字体は名前に関しては付けられるという許容にしておけば,国語政策とも矛盾しないし,名前を付けたい人にとっても問題ないというふうに思っておりました。しかし,こういう事態になってしまったので,法務省が国語施策の方針と全く無関係に人名漢字をこれから増やすというのであれば,やはり文部科学省の方にまた戻すことが,むしろ国語全体の政策からはいいんではないか。この前の2月の国語分科会の報告では,法務省あるいは経済産業省との連携が望ましいということを言っておりまして,それはそれに近いことだと思っております。
そういうわけで,敬語の問題もありますし,難しい問題が山積しておりますので,どういう形になるのか。非常に問題が多いのですが,できる範囲でお役に立てればいいかと思っております。
○ 蒲谷委員
最初ですので,敬語に関する基本的なことをお話ししたいと思います。
一つ目は,敬語というとどうしても,「いらっしゃる」とか,「申し上げる」という敬語そのものについつい着目してしまうということがあるかと思うんです。しかし,これは言うまでもないことですけれども,それはやはり表現の中で考えていくということで,私自身も敬語表現というような言い方を使っておりましたし,また敬意表現というとらえ方に広がっていくんだろうと思います。
更に言えば,敬語だけ,あるいは敬語表現だけを見ていても見えてこないものがあるということで,これは用語の問題がまたいろいろあると思いますけれども,「待遇表現」というとらえ方,敬語を更に広げていく,敬語表現を更に広げていくとらえ方として「待遇表現」という考え方,これは,研究の領域ではかなり一般性の高い用語として出ております。
さらに,今度は表現だけを見ていても見えてこないものがあります。表現することとともに,やはり理解することという点が非常に重要であるということ,それは言い換えれば,コミュニケーションとして考えていくということになると思います。これも用語の問題はまた言い出すといろいろですけれども,現在,私が大学院で担当している,研究室名としても使っているんですが,「待遇コミュニケーション」というようなとらえ方をしております。それはどういうことかというと,表現だけではなく理解の行為を重視するということ,それはまた言い換えると,「いつ,どこで,だれが,だれに,だれのことを」表現し,そして理解していくのかという,そういう観点ですね。ですから,コミュニケーションにおける敬語という,そういうとらえ方が大事であろうということが1点目です。
それから,2点目ですけれども,これはどなたもお気付きのように,敬語に関する知識の問題であるとか,敬語に関する様々な意識であるとか,コミュニケーションのとらえ方というのは本当に一人一人が全く違うと言ってもいいくらい違うんですね。何が丁寧であって,何が失礼であるかというようなことのとらえ方も,一人一人かなり違いがある。それは当然,世代差による違いもありますし,また地域差による違いなどもあるということで,非常に個別性が高いものだというように思います。ですから,まず,基本的にはその個別性が高いというところから始まるわけですけれども,その中で何らかの共通性であるとか一般性というものを探っていかなければいけないということが2点目になるのかなと思います。
要するに,コミュニケーションにおける敬語というものの,その共通性,一般性をいかに探っていくのかということが,この会の目的なのではないかなというように私は認識しております。
漢字については私は専門ではございませんので,特に触れることはありませんけれども,基本的な考え方としては同じように,コミュニケーションにおける漢字というものの共通性,一般性をいかに探っていくのかということが課題になるのかなというふうに認識しております。本当に基本的なことですけれども,そのような考えで臨みたいというように思っております。
○ 菊地委員
言葉の研究者として,特に日本語の文法,敬語,あるいは外国人に対する日本語教育などをやっております。大分前に敬語についての本を2冊,1冊は講談社の学術文庫に,1冊は丸善ライブラリーというのに入っておりますが,研究書兼啓蒙書のようなものを書きました。研究者の気持ちとして,ただのマニュアル本のようなものにはしたくないというスタンスで書いたものです。その中で,当時の国語審議会についてもやんわりと私は批判したつもりだったんですが,当時の国語課の方からお電話をいただきまして,これはしかられるのかなと思ったら,何か会合があるので出てきてほしいということで,なかなか懐が深いなと思いまして,以来「外野」という立場ですが細々とお付き合いをさせていただいておりました。「外野」でしたから,先般の「敬意表現」につきましても,「このようなものを表に出すんですか」などということも申し上げたことがございます。で,私はずっと「外野」として一生過ごすつもりでおりましたが,このたび説得されまして,この中に入ってしまいまして,これはしかし大変なことだと思っております。
どうして大変なのか,根本的なことですけれども,結局言葉は一人一人のものであるということと,こういう分科会とがどう向き合うのかということに行き着くであろうと考えています。「お上」として別にコントロールしたいと思ってやってるわけではなくて,よかれと思ってやるわけですが,それがおせっかいだと思う向きもあるでしょうし,一つ間違えると言葉を誤らせてしまう。私は1951年の「これからの敬語」というのはかなりの失敗だったのではないか,と実は思っております。
一方,言葉は一人一人のものというのは大変響きはいいんですが,これがまた大変なことでして,その一人一人の中には,漢字の例で申しますと,漢字を何千何万と御存じという作家の先生あるいは有識者の方もいらっしゃれば,もう今日,明日の勉強も分からなくて困っているという,いわゆる落ちこぼれまでいるわけでして,それら様々な「一人一人」と,この分科会がどう向き合うかというのは本当に難しい問題です。そして,いかに私どもが知恵を絞っても,そもそもやっていいことと,いけないとの境がまず見えにくい。それから,できることと,できないことの境も見えにくいと思います。何かするなら,形にとどまらず,もっとコミュニケーションとか意味とか,役に立つことをやりなさいという御意見がいろいろあるようで,それはできたらどんなにいいかと思います。けれども,ひとたびそこへ踏み込もうとすると,これはやけに空虚なことしか言えなくなったりして,「敬意表現」につきましても,「あれを一生懸命読んで分かった部分は,結局当たり前のことだった」というような声が聞こえてくるという面があるわけですね。
そういうことで,曲がりなりにも専門家の一人として,お役に立つことがあるとすれば,こういう難しさというのをありのままに,必ずしも御専門でない学識経験者の方々にお伝えして,逆にお知恵をいただいて,何か考えていく手掛かりにするという上でお役に立てればというぐらいに思っております。
一つ,二つ要望も申し上げたいと思います。もう既に出てることですけれども,一つは,やはり教育というものを離れて国語施策というのは考えにくくなってきているということです。先ほどの御発言に,同じ文科省の中でという言葉がありましたけれども,JISの業者の協力を求めるのであれば,それ以前に,ここに初中局なんでしょうか,その教育担当のセクションの方もいらっしゃって,一緒に向かっていかないとこれは難しいのではないかと思います。もう一つは,やはり,もう既に出てますが務省ということです。国民から見るとみんな同じお役所,それぞれ一生懸命やっていても,何かバラバラにやっているように見えてもいけないしということで,これはもう是非本当に動き出さなければいけないところへ来てるのではないかと思います。
○ 小池委員
まず全体を通して,私がこの分科会の中で議論できたらいいなと思っていることを申し上げます。今,教育の問題とのかかわりを御提示いただきましたが,もう一つ,表現をする側の人間,送り手の人たちの問題というのが,先ほど,マスコミでいろいろな,俗に言う乱れた言葉が飛び交っているという問題が提起されました。
やはり,その影響というのは,ある面,教育以上のものがあるだろうというふうに思います。これは,私は元アナウンサーですが,アナウンサーも例えば鼻濁音が全然出ないアナウンサーというのが,今たくさんいます。「〜たり,〜たり」の法なんていうのは全く無視して,原稿そのものがもうそういうふうにできている。それを最終チェッカーとしてアナウンサーも指摘できない。そのまんま「〜たり,〜たり」の法も整えずにニュースを読んでいるというふうに,送り手の自覚というのが非常に低くなってきてるのではないかなというふうに思います。それは,いわゆるタレントと言われる人たちも表現者であり,世の中に言葉を発している,そういう仕事をしているんだという自覚に立てば,もう少し違う言葉の在り方というのが考えられてもいいのではないかなというふうに思っています。
そういう意味で,漢字や敬語やそのほかの国語の問題について,送り手,表現者がどういうふうに言葉に向き合うべきかという,そういう提言を分科会として何らかの形で出せないかなというふうに一つは考えております。
それから,敬語の問題に関してでありますが,私は以前NHKの日本語センターというところで,これはアナウンサーが作った財団法人で,一般の放送の視聴者,俗に言うNHKのファンの方々に言葉についての様々な教材を提供しながらメッセージを送るという活動をしている,アナウンサーの団体でありますけれども,そこで敬語についてテキストを書くとか教材を作るとかという形でかかわったことがあります。
いわゆる啓蒙書なども随分読みました。一応の記述はそれなりにできるのですが,最終的に引っ掛かるのは,知識はある種の規範として示すことができても本当にこれで実践できるのかなという気持ちが,いつもつきまとっていました。それは,私自身のことを考えてもそうですが,実際の言葉をやり取りする場面では,これはこういう場面だし,こういう言葉を使うべきだからということを考えていると,間に合わないんですよね。敬語の表現というのはもう瞬時に,ほとんど0.何秒の間に,各自判断してやっている。それは知識と言えるのかなという疑問を持ちました。
もちろん知識を得て,それがある種のイメージを作り上げていくというそういう回路もあるでしょうけれども,私はむしろ人間関係の中で,私なら私という個人が相手に対して,どういうコミュニケーションの関係をその場でイメージするかということが,言葉を選び出すときの極めて大事な生命だろうというふうに思うんですね。つまり知識もさることながら,敬語に関してはイメージをどういうふうに持つか,またコントロールするか,運用するかということが大事なんだなというふうに感じました。でないと,瞬間的な判断というのがその場でつかないということです。
ところが,この相手との距離の取り方というのは,今の若い人は非常に難しくなっているのも一方で事実だろうと思います。これは若い人だけではなくて,大人も相手との距離の取り方が,社会がこういうグローバルスタンダードの時代になってきますと,昨日まで部下だったのが上司になったりしまして,大人ですらよく分からないというような事態が今起こってきている。相手との距離の取り方,敬意表現なら敬意表現に事寄せて言うと,適切なイメージの取り方というのが,大人もそれから若い人も子供もみんな難しくなってきている。つまり,規範というものが,あるいは知識というものが,知識として,規範として機能しづらい状態,時代になってきたのではないかなというふうに思うんですね。そこに私は,敬意表現という考え方が登場したことの時代的意味があるのではないかなと思います。さっき突き詰めていくと当たり前のこととおっしゃいましたけれども,やはりイメージの取り方ですから,その意味では当たり前のことなんですけれども,もう一回イメージの取り方,相手との距離のつかみ方,その辺りから再構築していかなくてはいけない時代になった。その実践論としてどういうふうにして敬語,敬意表現についてこの分科会で提示できるかということが,極めて敬語については大事なのではないかなというふうに考えております。
あと漢字については,明治以降だと思いますが,特に大正,昭和と漢字についての考え方があって,それが終戦直後に,そういう経緯を踏まえて当用漢字が出てきたという御説明がありました。事実関係はそのとおりでありますけれども,何が考えられてきたかというと,一風変わった考え方のように聞こえるかもしれませんが,漢字という表現世界の効率化というのがずっと追求されてきたのではないかなと,私は個人的に思っています。「効率化」というキーワードで私は理解してるんですけれども,いかに漢字を社会生活の運用面において効率化していこうかという中で,当初は当用漢字,そして常用漢字と漢字の選定整理がなされてきたと思うんですね。
これは表現世界における,私はある種の「計画経済」だったのではないかなというふうに思います。表現というのは,基本的には非常にクリエイティブに,制限なく何の制限も加えられず自由闊達にいくというのが大事な要件でありますけれども,漢字に関しては効率化ということを前提にしながら,ある種の「計画経済」が表現世界の中で行われてきた。「計画経済」ですから,ある時点までは極めてそれは効を奏し,国民の知的レベルがそれによって上がったという面が確かにあると思います。
ところが,昨今様々な面で価値観の多様化が起きている。それからワープロの普及というものもある。キーボードをたたくと,自分が知らなかったような字まで,JIS漢字が1万字を超えているという時代ですから,そういうものも出てくる。あれ,何かこれいいなというふうにみんな思い出している。そういう中で,そう言えば固有名詞,地名,一体どうなんだろうかと,もともと私たちの中に眠っていた漢字というものに対するある種の,漢字がまとっている身体性のようなものが,何かこう気持ち良く,使ってみたい懐かしいものに感じられて,では使おうかな,それが今の意識,マインドを作り上げているのではないかなというふうに思います。今回の議論の中にも手書きの問題がありますけれども,私はやはり,どうやって身体性を確保していくかということが,議論の一つの柱になっているように思います。どうも「計画経済」でやってきたんだけれども,それが表現ということの自由度というのをある面で奪ってきた。そこで,情報機器の発達ということから挑戦を受けている,あるいは国際化ということから挑戦を受け始めた,そういうことだろうと思うんですね。そういう,時代的なとらえ方というのを私はしたいというふうに考えております。
あと,一言だけ申し上げますと,先輩の柳田邦男さんの最近の本を読んでなるほどなと思いました。これは手書きの問題ともかかわりますが,柳田さんはちょっとだけ非効率の勧めというのを今やってらっしゃいます。私もちょっとだけというよりは,漢字に関しては,あるいは敬語に関しては,ある面,非効率的な人間関係,身体性というものを,どういうふうにしてこれから取り戻していくことができるのというのが大きな課題ではないかなというふうに考えております。
○ 陣内委員
敬語の議論の方の要員として,多分呼んでいただいたと思うんですけれども,私自身は敬語とかその待遇表現を専門にやっている人間ではなくて,むしろ方言とかそれから外来語とか若者言葉とか,具体的に言えばそういうことを専門にやっています。ただし,これは根っこで,敬語とか待遇表現ともつながっている部分です。
一番これから考えないといけないなと思うのは,日本人全体としてのコミュニケーションの姿勢というのがどういうふうになっていくのかなということです。やっぱりきちっととらえておかないと議論が空回りするのではないかなと思うんですね。そこら辺の我々の方の共通意識と言いますか,それがまずは要るのではないかなというふうに考えています。
相当日本社会が変わっていますし,そこに暮らす人間の意識も,価値観も確かに変わってきているんですが,そこには変わっている部分と変わってない部分とがあると思っています。一つは,外来語委員会の方の話なんですけれども,外来語フォーラムというのが昨年関西でありまして,そこでちょっと話したことです。外来語が日本語にこれだけ増えてくるというのは,一つは欧米化というのが当然あるわけですけれども,もう一つは,日本人が昔から持っていると言われる,「あいまい化」とか「ぼかし表現」とか,そういうものがやっぱり背景にあって,その相乗作用ではないかなというふうに私は思っています。「ぼかす」というのは推察を要するわけで,そういうふうなコミュニケーション姿勢というのは,昔から日本人の美徳でもあったわけですよね。だから,外来語というのも一つの待遇表現であって,ずばりと言わんとするところにではなくて,ちょっとぼかした形で言っているというのが非常に受け入れられやすい。その二つの要因で,これだけの外来語が日本語に入ってきているのではないかなというふうに思っています。だから,そういう「ぼかす」とか,「あいまいに言う」とか,そういうふうな国民性は相変わらず私はあると思うんで,そこを無視した敬語論議というのはあり得ないだろうというふうに思っています。
ただ,一つ私自身が感じることで,もうそろそろ形から内容の方にと言いますか,要するに何か意見を言う,あるいは会話するときでも,形にこだわった表現に行くんですが,それはそろそろ少し横において,「何を言っているんだ」,「何を言いたいんだ」ということをしっかり伝えられるような,そういう方向を向いた方がいいのではないかなと思っています。よく言われています国際対話能力とか国際交渉力とか,そういうふうなことを考えたときに,余りその形にこだわっていたのでは言いたいことも言えなくなるわけです。そういうふうな,今の日本の置かれている位置と言いますか,そういうところから考えても,もう少し「何を言いたいんだ」というところをしっかり伝えられるような,そういう表現の仕組みを作っていくべきではないかな,まだまだ抽象的ですけれども,そんなふうな気持ちを持っています。
○ 杉戸委員
国立国語研究所ということから申し上げたいのは,今回の御審議のきっかけになったというんでしょうか,17年2月2日の分科会報告の4ページと7ページに,国語研究所の名前が2か所出てまいります。今回の二つのテーマ,敬語のところでも,信頼すべき実態調査や意識調査の結果を踏まえるべきである,そのために,その調査については国立国語研究所の協力が不可欠であろうとあります。漢字の方にも同じような表現で,不可欠であろうと言っていただいています。
不可欠であろうと言われて,それを読む当事者の気持ちは,若干不思議な気持ちはしないではないんですが,ふだんの仕事が,国語の現状を,その現状に遅れずに付いていってきちんと見詰める,つまり調査研究をする,そして,その成果をもって国語の行き先,将来に光を当てることであります。この国語分科会のお仕事に役に立てていただくという,そういう仕事であると認識しておりますので,例えば,現段階で申し上げれば,敬語については,ちょっと古くなりますが,『学校の中の敬語』ですとか,あるいは地域社会における敬意の表現の実態調査をこの春もまとめたりしております。また漢字についても,戸籍あるいは地名に用いられる,1度しか世の中で使われていないようなそういう文字も含めた,電子政府という大きな政府レベルの仕事がありまして,それに役に立てていただく,その文字のデータベースの仕事もしております。あるいは雑誌の200万字調査というのも今まとめつつあります。
そういった新しいところの仕事の成果をもって,「不可欠であろう」とこう書いていただいたことにこたえていく,その計画あるいは覚悟を定めておりますと,立場上最初に申し上げたいと思います。
それから,一人の委員として申し上げるべきことを三つほど,やや抽象的なことになります。
これも先だって3月30日の大臣からの諮問の中に,これは資料4で今日も改めて拝見したんですが,敬語の指針の作成についての中で,「敬語が必要だと感じているけれども,現実の運用に際しては困難を感じている人たちに対して」,こういう人たちに対して指針を作成することが必要である,そういう構造に読める諮問の理由説明がございます。このことは審議会で,敬語あるいは漢字を考える上で非常に大切な,少なくとも今回大切なポイントに関係すると思っています。つまり,どんな範囲の敬語について考えるか,これが必要だと思いますが,どんな人を意識して提言なり報告なりを出していくのかということを絞り込む必要があるのではないか。これは意見がもう入っておりますが,そんな提言になりますか答申になりますか,いずれにしてもその呼び掛ける相手を意識した議論が必要だろうと感じております。
それからもう一つ,昭和27年の「これからの敬語」。これは,私なりには非常に姿勢が凛とした画期的な内容であったと思っておりますが,使い分けとか多様性とかという言葉が使われておりません。それから,基本的な記述の中にもそれを意識したところは非常に少ない。「わたし」と「わたくし」というところで,使い分けが意識されているというような例はありますけれども,今回の諮問の基本にある多様化する言語生活社会という,そういう多様性ということを前提とするのであれば,使い分けとか多様性を意識した具体的な敬語の議論が必要であろう。そこがむしろ一番難しいポイントであろうと,そんなふうに考えております。
漢字については専門外ですが,字種あるいはその字体とともに,読みの方向からの光を当てるということが更に必要になってきてはいないかという感じがします。あるいは用語,語,単語の中での文字の働き,それは読みが関係します。そういった方向からの光の当て方も更に必要になってきているのではないかと思います。このことは研究所の調査研究でも,一文字一文字のことを見ている段階では分からないことが,次の単語,語彙を扱い始めると見えてくる,文字についての情報が増える,そういうことは繰り返し経験しております。ですから,常用漢字表を検討するということに関しても,文字からもう一つ上の言葉の単位の語,そこにつなぐところが読みの問題が関係すると思うんですが,そういった検討が必要ではなかろうかと思います。
○ 東倉委員
私は情報科学技術ということを随分長くやっておりまして,その方面から幾つか簡単に考えをお話ししたいと思います。
今,情報化社会というのが非常に進展していまして,この動きというのは恐らく止めることはできないだろうと思います。携帯やパソコンというもののない世界をこれから作ろうということは非常に無理がある。したがって,情報化社会ということは,もう我々の社会構造,それから生活,大きく言えばコミュニケーションにも非常に大きな影響を与え,それによって敬語あるいは漢字というのもかなり影響を受け始め,これからもその影響というのはいろいろな形で多様性を持ってくるだろう。そういう中で,漢字や敬語の問題というのも,とらえなければならないのではないかなというふうに思っています。
ネットワークの中のコミュニケーション,いわゆるネットコミュニケーションというのを見てみると非常に面白いところがありまして,ネットコミュニケーションの中で,敬語の是非というのはかなり活発に議論をされているということが調べてみるとよく分かるんです。ネットコミュニケーションの中で,あるコミュニティーでは「ここでは敬語禁止」ということがうたってあって,ネットコミュニケーションが始まったころにはそういうことが多かったわけです。しかし,そのうちに,そういうコミュニケーションを通じた人間関係に大きく影響を与え,人間関係を損なうというような結果というのがいろいろなところで出てきました。その反省に立って,最近のネチケットの中では,「できるだけ敬語を使いましょう」というのが一番に出てくる。このような形で,敬語のことが現れているというのは非常に面白いなと思います。
そういうふうにネットコミュニケーションの占める割合というのがかなり大きくなり,これからもそれはますます大きくなるというふうに思うんですけれども,そこで大事なのは,ここはネットコミュニケーション,ここは現実のコミュニケーションというような区分けというのがだんだん難しくなってくるだろうという点です。我々が考えなければいけないのは,そういう二つのコミュニケーション,あるいは二つの社会というのが,これからは融合していくんだということです。その中での敬語や漢字というのをどういうふうにとらえるかということで,いわゆる敬語や漢字というのを文化遺産という形にしてしまわないで,生きた敬語や漢字というふうに情報化社会の中でしていくには,どういうふうにしていけばいいかなというような大きな枠組みでの考え方というのが必要なのではないかと思っています。
それから,敬語や漢字というのを使うことを強いるということは,さっきのネットコミュニケーションの例でもそうですけれども,ある程度コミュニケーションの束縛というふうにとらえられるわけです。これはちょっと,余り当たっているかどうか分かりませんけれども,我々が英語を話すときに,発音や文法にとらわれるとなかなか言いたいことも言えない。ところが,そういうものを気にしないで話すと,かなり言いたいことが言えるというようなことがあります。余り敬語や漢字ということを厳しくルール化すると,それに似たような現象が起こるのではないかなというふうに思われますので,非常にそのバランスというのが重要だなということを感じております。
○ 西原委員
皆様がおっしゃったことはすべて受け入れた上で,この期の私たちの課題とされていることを再確認したいと思っております。つまり「どうなっているか」という議論ではなく,「どうしたらよいか」ということを答申せよと言われているというのが,この期のとてもつらいところではないかというふうに思います。
ですから,例えば敬語について,前期の総会で,前に出された敬意表現はとっても立派な報告書ではあったけれども,教科書を読まされているようでこれは使えないというような御指摘がありました。その,これは使えないというのは分かるけれども,これはだめだというところを,この期が検討するのだという,しかも,非常に短期間でというのがつらいところなのかと思いました。そして,いろいろ御指摘があるように敬語のすべてとか漢字のすべてとかというふうにしてしまうと非常につらいので,課題の選択というのをこの期として賢くやった上で,例えば,敬語につきましては,先程ちらっとまとめていく先のメディアを選ぶ方が良いということでしたけれども,実際にそうなるかどうかということは別にして,アニメの脚本,台本を敬語について書いていくような精神というか,そこまで収斂されたところで報告ないし指針なりを出していくということを協力してやっていかないと,この期として,何をどうすべきかとか,どうしたら良いかをまとめていくというのが非常に難しいことになろうかと思っています。
○ 林委員
今日の名簿を見せていただきまして,一番変な名前が私であります。こんな変な名前の人間が,姓名の人名用漢字などを論じていいのかといういささか後ろめたい思いはありますが,自分で付けたわけではありませんので,親のせいにして,人名用漢字のことをちょっと申します。
日本語というのは不思議な言葉だと思うのは,アナウンサーが声に出して読むというお話が先ほどありましたが,同じニュースでも,新聞を本当に声を出して読もうとしますと,100パーセントは読めないことですね。引っ掛かるのは,固有名詞です。仮に読んでみたとしても,本当にそれでいいのかというと確信がない。そういうことに,皆さんは余り気持ちをそがれないで,読めないことをへっちゃらで新聞を読んでいらっしゃいます。固有名詞が一番難しいわけです。固有名詞の中でも人名がやはり一番難しいと思います。地名というのは変えていくこともできますし,変わった例もありますが,人名というのはなかなかそういうことはできない。ところが,今,人名と一括しておりますけれども,人名の中でも姓と名は大違いでありまして,姓の方はこれは先祖代々で使っているものですから,なかなかこれは変えていくというわけにまいりません。ところが,さっき説明されましたこの資料の中に,子の名という言い方がございました。これは本当にそのとおりだと思うんですが,新しく生まれる子供に付ける名前はこれから付けるわけでありますから,これは,何か基準や方針があればそれに従って変えていくことができる。そうだとしますと,最後に,姓名の姓の方に問題が残るとしましても,子供の名前に付ける漢字については,漢字全般に対する基本的な方針や考え方というのをやっぱり共通に持っていた方がいいだろう,と私も思います。仮にどこの省庁が主としてそれを議論するかは別にしまして,やはり固有名詞について,省庁を通じた基本の考え方というふうなものをしっかり踏まえる必要があるだろうというふうに思っております。
敬語ということで何を申し上げようかと思っているうちに,ちょっと変な話を思い出しました。何年も前,楽しく大学院生と過ごしているころのことですが,その時に,一人の院生が私の研究室に駆け込んできました。「先生,先生,えらいことが起こった。」と,何とか収まったけれども,実はこうだと言って話してくれた話があります。
その学生は韓国からの留学生でございまして,とてもよくできる学生だったものですから,韓国からある大学の学長が,私どもの大学の学長のところに表敬訪問した時に,通訳として同席いたしました。めでたく表敬訪問が終わりまして,エレベーターのところまで筑波大学の学長が送っていき,エレベーターのドアが閉まりそうになったので,筑波大学の学長が「では,お気を付けて。」と言ったら,韓国の大学の学長が思わず「気を付け」をしちゃったわけですね。
年齢から言いまして,やはり昔日本語を勉強させられた年代でございます。お気を付けてというのは,「気を付け」の丁寧表現だというふうに知識で理解されたわけです。それで,その院生にちょっと話のできるところはないかと言うので,院生が喫茶店へ連れていったところが,もう青い顔をして指を震わせて,「君のところの学長は何だ。君は教え子だから,君に言うのは分かるけれども,自分にまで気を付けを強要するとは一体何事だ。」と言ったので,一生懸命,「お気を付けて」というのは非常に相手をいたわった言葉であるということを説明しても,なかなか分かってもらうのは大変だったということです。
これは,笑うに笑えない深刻な話でありますけれども,敬語の一面を伝えておりまして,敬語というのはまず,さっきの御発言にありましたように,知識だけではだめだということでございます。やはり,自分たちの暮らしている言語の,その社会の中で自然に使われているものを身に付けていくわけでありますから,やはり習得のプロセスというのを,これは学校に限らないで習得のプロセスをしっかり考えた敬語の在り方ということを議論していかなければいけない。
それから習得のプロセスで,敬語というのはかなり年齢が上になってまで,新しい習慣や言い方を覚えなければいけないという面がございます。例えば高校生の敬語,大学生の敬語,それから社会人になった最初のころの敬語,それから何か付き合う人が変わってきて,役職になっていろいろ偉い人たちと付き合うようになった敬語と,これは必ずしも同じでないわけであります。それをしっかり,言語運用のその場面にきちっと収まる言い方をちゃんと身に付けていけるような,そういう知識というよりはむしろ,言語的な感覚あるいは考え方というものを含めた,そういう考えに立った敬語の議論を私どもはしっかりしていく必要があります。ですから,敬語のようなものは生き物だというのは,そういう正に言語運用,語用論的なレベルで,非常に大事な重要なテーマをたくさん持っているというふうに感じております。
○ 前田委員
今日も総論的な話でよろしいかと思うんですが,最初の時から問題となりましたようにJIS漢字とのかかわり,あるいは人名用漢字の問題と,いずれも国語審議会の時代から受け継いできているわけです。どちらも先を越されてしまって,後で何とかその始末を付けようかというふうな感じに,どうも追われている感じがいたします。そういう点で,実際それが可能かどうか難しいところですけれども,少しでも将来を見越した日本語の在り方というものを考えて,その中で位置付けることができればいいというふうに希望しております。
それから,ほかのいろいろな分野,JIS漢字を決める,あるいは法務省で人名用漢字を決めるというふうな場合に,そういうところで参考にしていただけるようなこの分科会としての方針,その核となる部分が分かってもらえるかどうかというところが非常に重要で,私個人の漢字の許容などから申しますと,例えば,字体についての考え方などが,どうもあんまりよく分かっていただけてないのではないかというふうな気がしますので,そういうところが気になっております。
それから,この分科会で出したことが説得力がある,皆さんに理解してもらえるという点で言えば,一つは分かりやすく,それからもう一つは,具体的な例をもってということになります。これがなかなか難しいわけですけれども,調査などは,先ほど国語研究所の方でもお考えいただけるような話もございましたので,大変力強いことと思っております。言葉の使い方についての意識調査とか,あるいは実際に使われている使用状況の調査とか,そういったことなどを基にしながら,ここで判断を加えていけば,それなりに説得力が出るんではないかなというふうに期待しております。
○ 松村委員
若い人の言葉があるいは敬語が大変乱れているというような話が先ほどございましたが,そう社会一般から思われているだろう中学生が学校生活を送る現場からこの委員会に私は出させていただきました。ということは,実際の中学生の言葉遣いはどうなんだ,どんな言葉遣いがなされていて,どのように今後改善がなされていけばよいのか,を検討する材料としての学校における中学生の言葉遣いや,言葉の問題の実際についてお伝えする,その橋渡しのような役割を担っていくのかなと思っております。
敬語について言えば,中学生でも必要だとある程度は意識しているけれども,実際には「敬語なんか難しくて使えないよ」と思っているのが大半の生徒の現実だと思います。そんな中で,私自身は人の心と心をつなぐ言葉の大切さと,敬語は相手を尊重する大切な表現であるという押さえ方をして話をしております。
具体的な例を申し上げます。中学3年の後半,受験前に入試のための面接練習というのをいたします。ふだんから,教員室では,あるいは先生と話す時はきちんとした言葉遣いをという指導はしていますが,本格的な実践練習としては多分初めての経験になるのでしょう。慣れない敬語を必死で使います。そのために自分で何を言っているのか分からないというような言葉やあやふやな言葉遣いがたくさん出てまいります。「あなたの出身中学校の一番良いところは?」と質問すると,「生徒さんが皆きちんとあいさつをします。」などと返ってくる事もありますし,「お父さんお母さん」もよく出てきます。それから志望動機を尋ねると「貴校は…」「貴校の生徒さんが…」と語り始める生徒も多いです。これは使わなければいけないと必死で編み出したのでしょうが,どうしてもぎこちなく,後の言葉が続かなくなってしまう。私は,あなた自身がどうしてこの学校に行きたいのか,話す中身が相手に伝わるように自分の言葉で話せることがまず大事,というようなことを言います。何度か繰り返しますと,少しずつ滑らかになって,ある程度までは思いを伝えられるというところで送り出しています。
いろいろなことをやってみて思うのは,国語教育の中で敬語についても,漢字などの問題もそうなのですが,学習する時間は限られています。限られた時間の中で学んだことを身に付けていく実践の場が少なくなっているのだなということです。実践する場が少ないということは,結局は言語生活そのものが貧しくなっているということです。家庭環境そのものの変化や生活環境の変化,例えば地域の方と交わって何かするということもなくなったかもしれない,また,携帯電話の普及で子供たちは直接友達と話ができてしまう。普通の電話なら,多分友達に電話しても最初に親や家族が出るので,話し言葉を整えなければならないということもあるかと思うのです。そういうところがどんどんやせてしまって,学んだことを実践する場がだんだん少なくなっている,その辺のことが大きな問題だと思っています。そんな中で,豊かな言葉の環境をどうやって学校の中で作り出していくかが一つの課題であると思っております。
先ほどのお話の中にも,やはり実践をする場,あるいは話す内容をいかに伝えるかとか,そういうお話が幾つかありまして,心強い思いがしております。ここで出される答申が施策として生かされていくとなると,まず第一に学校で,どうそれを具体的に指導していくかが大問題になりますので,できる限り,学校の実態,子供たちの現実を皆さんに知っていただけるような努力を今後していきたいと思っております。
○ 山内委員
今回サービス業という立場で,特に敬語に関しましてはとても耳の痛いお話でございます。一つの言葉遣いの影響で本当にお客様が嫌な思いをしたり,御不快な思いになったり,要は私どもとそのお客様とのコミュニケーションがたちまち崩れてしまうというとても重たいテーマで,企業としてもこれは教育していかなければいけないと思いつつ,なかなか十分な教育ができていない現状がございます。今回こういう分科会に参加させていただいたのも,「現場しっかりしろよ」と,こう言われるのであろうということも覚悟しながら,皆さんの御指摘もいただきながら参加させていただきたいというふうに思っております。
日本語を正しく使って,お話ししている人を拝見していますと,「やっぱり日本語は美しいな」と思う場面が多々ございます。私どもも教育の中で,特に新入りの時に集中的に教育をするんですけれども,やはり実践でこういう言葉遣いということで,丸暗記して覚えさせるんです。けれども,なかなか覚えたことが出てきません。実際にロールプレーをやるんですけれども,やはり,まず知らない,そして使い慣れていない。それから日常的に耳にする機会,そういう環境がないというのが,二十歳以上で入社してきた社員をもってしても,やっぱりそういった影響は出ているなというのはつくづく感じます。
ただ,今後彼女たちに伝えていきたいことは,やはり日本語というのは美しいんだということです。それからやっぱり使ってみたいなと思ってもらえるような,そしてそれが分かりやすかったり,使いやすかったりという提案であれば,割とスムースに若い人たちでも入っていくのではないかなというのを常日ごろから感じております。
そして,できれば日本人としての誇り,この美しい日本語というのは日本人としての誇りなんだというところまで気持ちが醸成できれば,今回のこういった提案もすごく効果があるのかな,意味があるのかなと思いますので,現場の立場で皆様の御指摘も伺いながら,今度は逆に現場にそれを生かしていくという立場で,参加させていただきたいというふうに思います。
○ 寺脇文化部長
本当に貴重な御意見をありがとうございました。この分科会をどういうふうにやっていくのか,何をやるのかについてのお話も随分ございました。また,これを運営していく体制,各省庁との連携等についての御指摘もございました。今後とも,会議の席に限らず,私どもの方に何なりと御意見,御質問を頂戴いたしましたら,それぞれに御説明あるいは御回答,あるいは御意見を受けて運営の仕方を改善していくということで,努力をさせていただきたいと思っております。
幾つか御指摘いただいたことについて申し上げておきます。何人かの委員から御指摘がございました関係省庁との連携につきまして,今日も実は,経済産業省あるいは文部科学省の初等中等教育局の者も来ているんではございます。御指摘の筋は,要するにテーブルに着く着かないも含めて,きちんと皆が議論に責任を分かち合って運営していこうということでございましょうから,それにつきましては,次回以降またどういう形にするかを検討させていただきたいと思っております。
それから,敬語の方の議論の仕方につきまして,諮問の中でちょっと言葉が,取りようによっては対象を限定しているというような御指摘がございました。これは別に最初から縛っているつもりは全くございませんので,社会全体が敬語は大事だと思いつつ,使い方がよく分かっていないというような人が割と多いということを前提に,社会全体に発信していくということでございますので,その範囲に限定を特に掛けているわけではございません。
また発信の仕方につきましては,前回の答申にも御指摘がありましたように,硬いと言われないように,できるだけ大勢の方に御理解いただけるように,中学生なんかが読んでもある程度は分かるようにというようなことも心掛けたいと思います。
さらに,型にはめるうんぬんというお話もございました。今回様々なお立場の方に委員をお願いいたしましたのも,一通りの考え方でなしに考えていただきたい,方言にお詳しい方々に入っていただきましたのも,共通語に限定せずに,敬語というものを考えてもらうということがあってもいいのではないかということでございます。 そういう意味で,皆様方の闊達な御議論がいただけますよう,事務方としては最大の努力でカバーをして参りたいと思いますので,今後とも,どうぞよろしくお願いをいたします。
○ 阿刀田分科会長
恐らく,この先どこかの段階で,敬語と漢字とそれぞれ部会などに分けてやっていかなくてはならないだろうなとは考えておりますが,その辺を,どの段階でどういう体制を採るかも,事務局と相談しながら進めていきたいと思います。これをもって,本日の会議を終わります。

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