資料8

文化審議会(第39回)総会で出された意見の概要

平成17年3月30日10:30〜11:45
東京會舘本館・ゴールドルーム

1 敬語の指針作りにかかわる意見

  • 敬語の問題も非常に重要で,マニュアルを作ると言っても,言葉を正確にするだけでは不十分である。言語的な部分だけではなく,非言語的な部分を含めた文化としての言語というものを考える視点を出していってほしい。
  • 「敬意表現」とは,何かよく分からない言い方である。敬語も話し言葉と書き言葉ではかなり違うものである。話し言葉においてはコミュニケーションを円滑にしていくために必要なものであるだけに,「敬意表現」というものをもう少し膨らませて書いてほしい。
  • 「敬語」というのか「敬意表現」というのかという言い方の問題はあるが,その背景となる敬意というものを全部ひっくるめてとらえていく必要があるというのが分科会の意見であった。また,前の敬意表現の答申についてはそれを受けて考えていく必要があろう。
  • 世界的に見ても,敬語的な配慮をしないという言語はない。日本語の敬語の悩ましいところは,絶対敬語でなく,その時々の状況や相手に応じて言葉遣いを決めていく相対敬語の体系を持っている点にある。指針を出すときに,この相対性をどのように出していくかが難しい。日本語の敬語をどういう仕組みで人間関係の中で使おうとしているのかを解き明かして,最低限のマニュアル化ができるかどうかが課題であろう。
  • 敬語の問題は,自分の客観化ができれば分かるのではないか。結局のところ自分の能力の中で感じ取るしかなく,感性を鍛える必要を感じる。
  • 敬意表現は,文字というよりしゃべる言葉に重要性がある。単なるマニュアル化ではいけないもので,これは間違いだと指摘すればいいというものでもない。敬語はいきなりは使えないもので,訓練が最も大切である。訓練で次第に身に付くもので,演劇や討論会,発表会などを通して,敬語を啓発していく必要がある。幼稚園や保育園では「おはようございます」ときちんと言えているのに,それがあっという間に崩れてくる。家庭や社会にその原因があるかもしれないので,きちんと調べる必要がある。働く意欲のない,また働けない若者たちの問題も,自己表現する能力が欠落していることが問題ではないか。
  • 言葉遣いにはその人の人格なり,品格なりが現れるものである。また,余り「これからの敬語」や22期答申のような言語学的な見地からの「〜べき論」は適当でなく,生きた敬語が身に付けられるような,自然に敬語が訓練されるようなものが適当である。
  • 敬語にしても,使うこと,使えること,理解できることは,それぞれ違うものであり,また,言語を規範的なものとしてとらえるか,社会学的あるいは認知的に変わっていくものとしてとらえるかについても区別して考えなければならない。その意味で,自分たちの考え方や立場をはっきりとさせるべきである。
  • 社会を構成するグループによって様々な考え方を持っており,敬語の使用についても,それが正しいと思うグループとそうではないグループとがある。そのような社会の多様性にも考慮する必要がある。事務局の方で,問題点の次元を区別して整理すべきであろう。
  • 敬語のマニュアル化は難しい問題で,一律にマニュアル化したものがどこまで通用するのかということが問題である。余り一律形式に取り上げられると困るなと感じている。

2 常用漢字表の見直しにかかわる意見

  • 漢字を読みやすく書きやすくしたいという当用漢字表制定の趣旨は,時代が変わっても変わらないものだろう。日本人が漢字習得に費やす労力は大きく,覚える漢字の量を少なくすべきだという議論も随分あったと覚えている。検討に当たっては,そういう面に対する配慮も当然なされなければいけないと考える。
  • 漢字の問題は国際的な問題にもなっており,日・中・台でそれぞれ字体が違う漢字を,どのようにバランスをとっていくかなどの話も絡んでくるかもしれない。
  • 教育の現場に多くの漢字が持ち込まれることに対する懸念がある。
  • 多くの漢字を覚えることで記憶の回路が増え,頭脳の訓練にもなる。自分の経験に照らしても,漢字を覚えるという努力は大事である。
  • 脳生理学的な見地から,漢字を繰り返し手書きすると,脳の発達にもプラスになるというようなことも言われている。
  • 漢字というものは,歴史的には中国で生まれたものだが,日本に入ってきて漢字仮名交じり文ができるなど,日本独自の文化として考えていく必要がある。現在ばかりを考えると過去を否定することになり,逆に過去ばかりでもだめなので,どういう形で文化を受け継ぎ,どの辺りで一般の人々が納得するのかを考えるのが難しい。字数を多少増やすという方向も考えられるが,分かりやすい伝達ということも同時に考慮しなければならない。
  • 日本は漢字,平仮名,片仮名,ローマ字と多様に書き分けているが,戦後の日本を見て分かるように,そのことが発展の妨げにはならなかった。
  • 文化審議会ということで,日本文化全体の問題としてとらえなくてはいけない。漢字を制限したり,増加したりする場合,明治以前は別として,近代日本が生み出した文学作品や思想家の論文を受け継いで読めるという観点も必要であろう。
  • 最近ではパソコンで多くの漢字が打ち出せるが,学校教育では自分できちんと書くという方針がほしい。情報の時間以外は自分の手で書くというようにしてほしい。
  • 法律は保守的で,「慰藉料」も「慰謝料」ではなく「藉」の字を使ってきたが,国民に分かるように簡単な言葉に書き換えられていっており,これからは使えなくなる。正確な表現を目指すと,漢字の制限を緩めてもっと使えるようにしてほしいと思うが,教育上の問題もあるので,どんどん漢字を増やせばいいというほど単純な問題ではない。教育の中ではどの程度の負担ならば耐えられるのかという視点も入れて検討をお願いしたい。
  • 言葉の問題は文化的なもので,昔のものが読めなくなることには危機感を覚えている。漢字にしても敬語にしても,教育の場で必要なことは,実用的な面と文化的な面の両面を考えていくことである。
  • 手書きの問題については,学校教育の中では,現在も手書きがきちんと行われているという指摘があった。今の分科会の議論の流れとしても,手書きを大切にする方向である。
  • ワープロで書くことと手で書くこととは区別する必要があり,そこを一様に扱うことはできないのではないか。
  • 漢字は制限するよりも,最低限昔のものが読める程度にはすべきであろう。文化継承という意味から,やたらに制限するのは問題であろうと感じる。

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