議事録

第39回国語分科会日本語教育小委員会・議事録

平成23年7月20日(水)
10:00 〜 12:00
旧文部省庁舎5階 文化庁特別会議室

〔出席者〕

(委員)
西原主査,杉戸副主査,伊東,井上,岩見,加藤,金田,小山,嶋田,西澤,春原,山田各委員(計11名)
(文部科学省・文化庁)
舟橋国語課長,鵜飼日本語教育専門官,仙田日本語教育専門職,山下日本語教育専門職ほか関係官

〔配布資料〕

  1. 第38回国語分科会日本語教育小委員会・議事録(案)
  2. 教材例集について(案)
  3. 能力評価に関する基本的な考え方の論点整理

〔参考資料〕

  1. 日本語教育小委員会における検討内容の大枠とそのスケジュール
  2. 日本語教育小委員会における検討内容とそのスケジュール

〔机上配布資料〕

  1. 国語分科会日本語教育小委員会における審議について―今後検討すべき日本語教育の課題―
  2. 国語分科会日本語教育小委員会における審議について―日本語教育の充実に向けた体制整備と「生活者としての外国人」に対する日本語教育の内容等の検討―
  3. 「生活者としての外国人」に対する日本語教育の標準的なカリキュラム案について
  4. 「生活者としての外国人」に対する日本語教育の標準的なカリキュラム案 活用のためのガイドブック
  5. 能力評価に関するヒアリングの取りまとめ

〔経過概要〕

  1. 事務局から配布資料の確認があった。
  2. 前回の議事録(案)が確認された。
  3. 事務局から配布資料2「教材例集について(案)」について説明があり,教材例集の様式や取り上げる内容について意見交換を行った。
  4. 教材例集について日本語教育小委員会で出た意見を反映させた後,日本語教育小委員会ワーキンググループ協力者を中心に教材例の作成作業を行うことについて了解を得た。
  5. 事務局から配布資料3「能力評価に関する基本的な考え方の論点整理」について説明があり,意見交換を行った。
  6. 次回の日本語教育小委員会は9月上旬を予定していて日程調整の上,改めて日程・場所について後日事務局から連絡を行うことが確認された。
  7. 質疑応答及び意見交換における各委員の意見は次のとおりである。
○西原主査
ただ今から文化審議会国語分科会日本語教育小委員会の通算第39回,今期の3回目の会議を開かせていただきます。本日は気候の不順なところ,そして夏休み直前でお忙しい方も大勢いらっしゃると思いますけれども,御出席いただきましてありがとうございました。
本日は二つ議事がございまして,教材例と,それから後ほど能力評価について,御意見を頂くことになっております。両方とも6月29日の第26回日本語教育小委員会ワーキンググループ,それから7月11日の第27回日本語教育小委員会ワーキンググループにおいて,前回日本語教育小委員会で御検討いただいたことにつきまして検討を行いました。
まず,これから御意見を頂く教材例でございますけれども,教材例は主として様式について修正を行いました。それを反映させたものが本日の配布資料2「教材例集について(案)」ということになっております。能力評価につきましては,先ほど御確認いただいた配布資料3「能力評価に関する基本的な考え方の論点整理」になっております。
配布資料2「教材例集について(案)」,教材例集についてですけれども,様式につきましては,先回の日本語教育小委員会で御了承いただいていると思いますけれども,その後,日本語教育小委員会ワーキンググループの中で修正を加えたところがございます。ですから,今後は本日の御意見を頂いた上で,後ろの方にいらしてくださっている日本語教育小委員会ワーキンググループ協力者の方々にその結果を踏まえて教材例の作成をお続けいただくということになると思います。
それから参考資料1「日本語教育小委員会における検討内容の大枠とそのスケジュール」に色別にスケジュール表が出ております。トップがサーモンピンクと言うか,ピンクと言うか,「教材例」というところでございますけれども,大体9月末,10月初めというところを目指してこれを完成させるというスケジュールになっております。本日が7月 20日でございますので,様式等について御指示を頂いたり,修正案をお出しいただいたりする機会というのは,恐らく本日が最後ないし,最後から2番目ぐらいになるのではないかと思います。
そして,先ほどこの配布資料2「教材例集について(案)」のトップページのところで御覧いただきましたように,「今,ここに90ページある」という説明があったのですけれども,ページ数が入っているところが六つあり,それが今回お出ししている教材例ということになっています。そして,「今後作成予定」というところが確か13あると思うんですね。ということは,90ページの倍数,180ページないし200ページがこれから書き足されるということになります。この配布資料2「教材例集について(案)」の様式に従ってこれから日本語教育小委員会ワーキンググループ協力者の手によって―もう着手はしていてくださると思うのですけれども―完成される,それが8月,9月の2か月でそのことが行われるというようなスケジュールで動いていることをまず御了承いただきたいと思います。
そのようなことでございますけれども,本日が最後のチャンスとおぼしめして,これは是非という御意見を頂きたいと思います。
先回の日本語教育小委員会の際,フォントについて,一番最初に説明がありましたが,教科書体というのが分かりやすく,それからフォントのコントロールがしやすく,ルビも打ちやすいというようなことで御指示があり,全部を教科書体に変えたらこうなったということです。その結果として,漢字一つの上にそれぞれの漢字のルビが配置できるようになったというような改善がフォントについては加えられております。
その他のことでいかがでしょうか。
○春原委員
細かい確認なんですが,ルビというのは,一つは上か下か,二つ目が総ルビなのか,三つ目が片仮名にルビもするのかという辺りはどうなんでしょうか。
○西原主査
私の記憶では,下ルビというのは検討はされませんでした。総ルビかどうかということは,指導ノートを御覧になっていただくと,ルビがないことに気が付かれると思うんですけれども,学習者と共有するであろうと思われるところについては総ルビ,及び片仮名にもルビを振るになっていたと思います。片仮名にも平仮名ルビを振る,それから,例えば文書作成ファイルでルビをしようと作業をすると,複数の文字の上にばらけるような形でルビが散らばってしまうのですけれども,このように操作をした結果,一つの漢字の上にその漢字のルビが乗るというようなことになりました。そういうお答えでよろしいでしょうか。
○春原委員
はい。
○西原主査
技術的なことが多くて恐縮なのですけれども,そのような段階に入ったということで,細かい作業がいろいろ日本語教育小委員会ワーキンググループの中でも続いております。
○嶋田委員
今の上ルビと下ルビのことは検討されなかったということになりますか。
○西原主査
下ルビという可能性については検討されませんでした。
○嶋田委員
その下ルビの良さってありますよね。漢字の学習者からしたら…。
○西原主査
下を隠して…。
○嶋田委員
できるだけそうしたいと思いながらも,やはりいろいろな事情があるので,その上で作業にかかることもあると思いますが,可能性としてはいかがなんでしょうか。春原委員もその意味でお尋ねになったと思うのですが…。
○春原委員
はい。
○西原主査
前に下ルビになったこともあるんですが,なぜ下ルビが検討されなかったのでしょうか。誰からもその意見はなかったということだと思いますが…。
○西澤委員
ただ,配布資料2「教材例集について(案)」の39ページでは下にルビが振ってありますけどね。
○西原主査
これはルビではありません。これは括弧内読み,ルビではなくて読みです。そのようになっているところは,実はほかにもございます。特に「◆」になっているところで,ルビはないけれども,リストの中で表現等に括弧内で読みが付いている。そして分かち書きはされていないというところがございます。特に「◆」のところです。
○山田委員
配布資料2「教材例集について(案)」の56ページにあります。
○西原主査
はい。これはどういう違いでしたでしょうか。事務局,覚えていらっしゃいますか。
○山下日本語教育専門職
「◆」のところは「ことば・表現」で,「ことば・表現」のところについては,ルビではなく,個々の表現や単語の横に括弧で読み仮名を記すということになっています。ここは少し統一感がないですけれども,たまたま下に来てしまっているというだけで,ルビという考えでこういう形になったのではないです。
○西原主査
配布資料2「教材例集について(案)」の42ページ,43ページを見てくださると,これが片仮名ルビの典型でございます。片仮名に平仮名のルビが付いています。
○井上委員
例えば先ほどの56ページの「駅のことば」は,要するに普通に町を歩くと,「改札口」とか,「新幹線」とか,「切符」とか書いてあるのが全く分からないと困るので,当然これはどう読むのかということが分かっていてほしいということですよね。
○西原主査
こういう形で普通に漢字表記が世の中に出回っているということですよね。
○井上委員
まずそれを理解させるための表記に近いですよね。
○西原主査
そうですね。実はJR等では韓国語,中国語,英語が併記と言いますか,上から下へ並んでいるということが結構あるのですけれども,トップのところは漢字になっています。
○井上委員
しかも,その併記がないところもまだ多いですよね。
○西原主査
そういうことで,こういうものを目にするだろう,そして読みはこうですよということを示しています。
○井上委員
実際の写真やイラストを付けて一致させるということですね。
○西原主査
そういうことになっています。著作権等のことがありますので,日本語教育小委員会ワーキンググループ協力者の方が自ら撮ってくださるということになっています。それは日本語教育小委員会ワーキンググループ協力者の方御自身なのか,そのアルバイトの人なのか,事務局本人なのか,私たちなのかということはまだ決まっていないんですけれども…。
○春原委員
今の話で,もしできたら下ルビでやったらどうかなと思います。
○西原主査
はい。
○山田委員
これ,できないという前提だったんではないかと思います。一つの漢字に,その漢字だけのルビが付くようになるべく工夫してやるけど,字の間隔が空いてしまうとか,そういう技術上の問題の話があったと思います。
○西原主査
それは広く世間で利用されている文書作成ファイルを使用するとそうなってしまうということでしたけれども,位置について下付けも可能なのでしょうか。少し検討してみます。下の方がいいという御意見があったということですね。
日本語教科書,つまり日本語教育の中で使われる教科書類の中には,下ルビが多いです。それは学習者が読んでいくときに,上を隠して読むよりも,下がっていくので,下を隠して読み進める方が親切だという考え方で,そういうものが多くなってきています。それに基づいての御指摘だと思います。
○杉戸副主査
先ほどから話題になっていた「◆」の項目で,配布資料2「教材例集について(案)」の71ページの「タクシーのことば」での今のルビとか読み仮名の付け方がほかのところと少し違います。71ページですと,上の方に四角で「写真・イラスト」,左上だと「タクシー乗り場」となっています。これには下の読み仮名が付いていないですね。その四角の下に,「運賃」,「おつり」というのが並んでいますけれども,「運賃」には括弧して「うんちん」が付いている。これはほかの同じ「◆」の項目とは統一しなければならないと考えてよろしいでしょうか。
○西原主査
そうですね。これはまだ修正が行き届いていないということになりますかね。
○杉戸副主査
統一すべき形というのは,71ページで言えば,上の四角の「写真・イラスト」に付いている,例えば「タクシー乗り場」に関しては下に括弧で「たくしーのりば」と付けるのでしたでしょうか。「のりば」と付けるのでしたでしょうか。
○西原主査
はい,そのはずです。
○杉戸副主査
それと同じようなことで,83ページでまた見付けたのですが,「家族をあらわすことば」にも,イラストの下に「祖母」とか「祖父」とか付いていますが,これに対するルビも上に付いています。漢字の下に括弧付けて読み仮名付けると,非常にうるさい図になりそうなんですが,原則と言えば原則でそろえるということになりますね。厳密に言わない方がいいのかもしれないですね。
○西原主査
そうですね。これは下に括弧を付けてその中に読み仮名を入れるべきなんでしょうか。
○杉戸副主査
余り厳しく統一原則というのを徹底しない方がいいのかもしれません。例えば配布資料2「教材例集について(案)」の83ページはこのままの方が見やすいように思います。あるいは下ルビに変えるだけ,括弧は要らないというページもあっていいぐらいにしておいた方がよいのではないでしょうか。
○西原主査
そうですね,括弧に入れてそこに読み仮名を入れることにしますと,ルビはフォントが小さいですけれども,括弧に読み仮名を入れる場合はフォントサイズを変えていないんですね。そうすると,この表はかなり下に延びてくることになります。恐らく2ページにわたってしまうだろうというようなことになります。そのことを考え合わせた上で要検討ということですね。表記の不徹底は,7月11日から本日までの間の作業があって,進んだつもりでしたけれども,少し抜けていた部分があったということだと思います。
○杉戸副主査
あと一つ,別のことですが,これはガイドブックを検討する段階でも話題になったことですが,参照するページをどう表示するかということです。これが「P.(数字)」というところがあります。それから,それぞれの教材例の最初のページ,例えば今,見ているのは,たまたま配布資料2「教材例集について(案)」の34ページを見ていたんですけれども,34ページで言うと,最初のページの「取り上げる生活上の行為の事例」,その次,「教室活動のねらい」,その後ろに「(○ページ参照)」とあります。ここが片仮名で「ページ」になっているんですね。このことに関しては,教材例の最初のページでここに当たるものはこうなっているという意味で,今,統一は取れています。それをそのままにしておくか,それとも同じ34ページの上の四角の中の一番上,例えば「イラスト・写真シート」「買物しよう」うんぬんで,最後に「P.X」となっている。そういうようにページを示すときは全部そうするか。この件については,ガイドブックのときは全部そうしようという,そういうことでやったと思うんですけれども。
○西原主査
編集上の考慮としては,統一した方がよろしいですね。
○杉戸副主査
それから,どこかで見たんですけれども,「何ページから何ページ」という複数のページを区間として表すときに,「P.(数字)〜(数字)」という形もあります。
○西原主査
同じページの指導ノートのところの表記が,「P.X〜」となっています。これが「P.X〜X」であるべきだということですか。
○杉戸副主査
いえ,「P.X〜X」であったところもどこかにあったような気がしますし,それから「P」が2回出てきて「P.X〜P.X」となっているところもあるので,それもどれかに統一するのがよいと思います。
○西原主査
本日御欠席の中野委員から,全体的なお約束としては「P.数字〜数字」というのがお約束なのではないかという御指摘があったかと思います。
○杉戸副主査
ガイドブックでそれを選んだのなら,このシリーズはそれで行くという,そういうことで,どれかを選べばいいということです。
○西原主査
はい,では,その表記については統一するということですね。
○井上委員
一つ一つの言葉に関しては,もちろん私も全部,プロフェッショナルとして把握しているわけではないのですが,例えば今,配布資料2「教材例集について(案)」71ページでタクシーのことを取り上げていますけれども,実はタクシーの運賃,これ,「料金・運賃」と書いてありますが,実は「運賃・料金」と書いた方が適切かなと思います。運賃と料金の違いというのは,タクシーとかJRとかでそれぞれ使い方が少し違うのです。
運賃というのは本来の運賃で,例えば新幹線なんかですと明らかです。これは日本人でもちゃんと理解してないと思うんですが,例えば東京から名古屋までの普通の乗車券は運賃で,特急は料金なのです。
恐らく,タクシーは普通に乗った代金は運賃だけれども,例えば迎えに来てもらったりとか,それから深夜に乗る場合などは料金のはずです。そこまで外国人が経験をするかどうかは分からないけれども,日本人でも迷うものがあります。それをどう教えているのかということは,もちろんそれぞれの現場によって違うのかもしれませんけれども,やはりこの文化審議会国語分科会日本語教育小委員会が作るものであれば,その辺りはある程度はしっかりと見ておいた方が良いような気がします。少なくとも私は「料金・運賃」というよりも「運賃・料金」の方がタクシーの場合には自然かなと思います。
○西原主査
逆転させるということですね。
○井上委員
はい。
○西原主査
運賃メーターと言いますね。
○井上委員
普通は運賃メーターなんです。ですから,乗った距離に関するものは運賃なんですが,迎えに来てもらったり,それから割増しになった場合など,いろいろな付帯的なサービスの場合は料金と呼ぶのです。
○西原主査
例えば22:00過ぎると2割増しとかになりますよね。
○井上委員
あれは運賃に加えられると思います。迎えに来てもらう,「送迎」なんかありますよね。
○西原主査
300円取られるとか,そういうことですね。
○井上委員
あれは料金なのです。新幹線の場合には,特急が料金なので,運賃ではないんです。付加サービスが料金で,本来の距離をベースにしたものが運賃と言うようです。
○西原主査
そうすると運賃が最初に来るべきだということですね。
○井上委員
そうです。
○西原主査
ありがとうございます。私も知りませんでした。
○井上委員
恐らく医療などでは言葉の使い分けはもっと複雑ですよね。
○西原主査
そうですよね。
○井上委員
初診料という言葉がありますね。それから薬価。このような言葉まで覚える必要はないと思いますけれど,日本人でも混乱していると思われるものに関しては,少なくともここに出ている教材例集としては正確に把握しておいた方がいいと思います。
○西原主査
分かりました,ありがとうございます。
○杉戸副主査
配布資料2「教材例集について(案)」の73ページの上から10行目ぐらい,第3パラグラフでしょうか,「そのほか,シートベルトをすること」,その後に今のお話に関係するようなことがあります。
○井上委員
料金メーターではないですね。
○杉戸副主査
運賃メーターですね。それから,「初乗り料金」は正確ではないんですね。
○井上委員
初乗りも運賃ですね。
○杉戸副主査
その次は深夜料金なんでしょうか。
○井上委員
こういうところを完璧に理解しているわけではないのですが,調べれば出ています。
○西原主査
分かりました。タクシー業界に問い合わせたり,国土交通省の何かを見て,ちゃんとするべきだということですよね。
○井上委員
配布資料2「教材例集について(案)」の72ページの上の方には,「運賃を聞き取り払う」と書いてあるんですが,これは間違いではないです。混在してしまっている感じがするので,そこは統一してしまった方がいいのかもしれませんね。
○西原主査
これは今,タクシーのことをおっしゃいましたけれども,乗り物に乗るというのの,四十何ページから始まる部分についても,同じような混乱があるとすれば,それは解決しておくということですね。
○井上委員
そういうことですね。特に新幹線に乗る場合には,料金体系でいえば,グリーン車に乗る方は少ないかもしれませんけれども,グリーン車まで入れると三つあるわけですよね。それはそれぞれに運賃と料金の違いがあります。
○杉戸副主査
先ほどのパラグラフ(paragragh)は私が書いたので,勉強になりました。
○西原主査
では,それは調べた上で訂正いたします。医療についても,例えば医療機関から出てくる領収書がありますね。あの領収書に書かれていることも専門用語に値することが随分多くて…。
○井上委員
点数は具体的に何かと言うと,私も正確に言えません。
○西原主査
分からないですよね。とにかく最後の数字だけを聞いて払うという…。
○井上委員
それから保険の種類によって,1割負担,3割負担と違いがあります。
○西原主査
1割の人と3割の人がいて,そうですね。
○井上委員
そこまで言ってしまうと,本当に教科書の域を超えてしまいます。
○西原主査
ただ,恐らくそれがいわゆる文化的情報の常識の範囲,どこまでが常識の範囲かというところでしょうね。ありがとうございます。
○春原委員
「Ⅰ」から「Ⅹ」までの並べ方なんですけれども,これは「Ⅰ .健康・安全に暮らす」とか「Ⅲ .消費活動を行う」,「Ⅳ .目的地に移動する」,それから一番最後の「Ⅹ.情報を収集・発信する」って,結構日常的な私たちの生活に関わりますよね。「Ⅱ .住居を確保・維持する」って,一部の不動産屋さんを除けば,そう毎週はしないですよね。あと,「Ⅶ .人とかかわる」とか,「Ⅷ .社会の一員となる」とか,「Ⅸ.自身を豊かにする」とか,この辺りのことは本当にクオリティー・オブ・ライフ(quality of life)とか自己実現とか社会参加とかに関わってくるもので,その辺り少し順番が,自己実現的なものというのを最後に持って行き,情報収集をもっと前に持っていってもいいのかなと思ったんですけれども…。
○西原主査
実はそれに近いことが何回か話題になったんですね。それで,そのたびに行き着いたのが,机上配布資料3「「生活者としての外国人」に対する日本語教育の標準的なカリキュラム案について」の12ページ,13ページにある「Ⅰ」から「Ⅹ」の順番なんです。
○春原委員
今,私もそれを広げて,ここにあるんだなと思ってみていたんです。
○西原主査
それを反映し続けているので,この順序になっているという事情があります。そして,それはそもそも,金田委員,どうしてこのような並びになったのでしょうか。
○金田委員
もう随分前です。
○西原主査
国立国語研究所の調査に,日本語教育小委員会の独自の調査も加えたんですけれども,そのときのカテゴライゼーション(categorization)がこのような順序になっていました。
○金田委員
こういう順序にしてあるのは,本当に生活のベース,生きていくためのものを最初の方に持ってきていて,だんだん社会が広がっていくということで,このような順番になっていました。その「Ⅹ.情報を収集・発信する」というのも,一つ一つのいろいろな事柄はもっと手前のところで出てくる可能性はあるんですけれども,でも積極的に何か自分がやりたい,学校に行きたいとか,何かを得たいとか,あるいは自分で何か発信したいとかというのは,やはりかなり豊かさのところにつながっていく部分ではないかというような感じで,後ろの方に来てしまっているという事情があったと思います。もちろん,宅配便を受け取るなんていうのは,もう住んだ翌日ぐらいからあり得ることではあるなとは思うのですが…。
○西原主査
確かに「Ⅱ .住居を確保・維持する」というのは,これは例えば多くの人たちは派遣業者,仲介業者がやってくれることで,または誰かがやってしまってくれることで,自らこのことに関わるというようなことではないんではないかという意見が繰り返し繰り返し出てきていたことは確かなんです。項目数が減っていって,「Ⅱ .住居を確保・維持する」のところで実際出てくるのは「04 住環境を整える」というところが実は「Ⅱ .住居を確保・維持する」の中には入っており,そこでは住んだら翌日から始まるようなことも入っています。
○杉戸副主査
もう一つ,この今御覧の細かいリストの基になった考え方ですが,カリキュラム案の2ページに「1 「生活者としての外国人」に対する日本語教育の目的・目標」というのが並んでいて,「(2)目標」の4項目があります。カリキュラム案ではこの順番で目標を掲げたわけです。これをより具体化すると,カリキュラム案の12ページ,13ページにある一覧表になるという考え方です。カリキュラム案の2ページの「(2)目標」の二つ目に「○日本語を使って,自立した生活を送ることができるようにすること」とありますが,これは具体的には住居確保や,あるいは消費活動ということになります。「Ⅸ.自身を豊かにする」とか,「Ⅹ.情報を収集・発信する」というのは「(2)目標」の一番最後の「○日本語を使って,文化的な生活を送ることができるようにすること」に当てるという解釈です。だから「生活者としての外国人」に対する日本語教育の目標をどういう順番で並べるかという議論とつながってきていると解釈しています。
○西原主査
3年前からとか,4年前だか5年前からの経緯でこうなったというところなんです。
これで大体今,90ページあるものに,あと180ページを足しますと,かなりのページ数になるんですね。これだけにしてしまうことについても,何かいろいろ議論があったのですけれども,実際には冊子として配布に関わるようなものと同時に,ホームページにデータとしてデータベースを置いて,そこから好きにダウンロードして組み合わせて使ってくださる,要らないものは要らない人もいるわけだし,それから,今,御覧の机上配布資料3「「生活者としての外国人」のための日本語教育の標準的なカリキュラム案について」の12ページ,13ページの中から,この学習者分,また学習者個人については,絶対ここにはないものが必要だという場合には,このようにして作り続けてくださいよというメッセージも含めて,これで完結という形ではないことは強調したいと思います。
そうすると,参考資料も含めると大体300ページを超す可能性があるんですね。今は最初の「1.はじめに」の部分は全く計算されていません。ここにも,カリキュラム案で書いたようなことも含めて,もう一度繰り返しておく必要があるであろうと考えています。教材しか読まない人もいるということもあり,枚数はそれ以上に膨らんでいくであろうということが予想されます。繰り返し日本語教育小委員会ワーキンググループでも,課長をはじめ事務局に,「これで出せますか,お金はありますでしょうか」といったことは随分しつこく言っていて,さらに「できればカラーで出してほしいのですが,大丈夫ですか」ということは言っているのですが,冊子体でだめな部分もデータベースではフルカラーであろうというようなことに希望をつないで,今,これだけのものになっているという事情があります。
本日が最後と実は大見えを切ったんですけれども,これからでも,本日頂いたような御意見で,これはどうなのか,あるいはこれはこうしたらいいんではないかというような御意見がありましたら,遠慮なく事務局の方に御連絡いただけたらと思います。
実は,本日は評価の論点の方が大きなところで御議論いただきたいことでございますので,日本語教育小委員会ワーキンググループ2回でまとめたところを配布資料3「能力評価に関する基本的な考え方の論点整理」としておりますので,それにつきまして御意見を頂きたいと思います。
前回日本語教育小委員会で皆様方から頂いた御意見を論点別に整理して,そしてそれを基にして日本語教育小委員会ワーキンググループ2回,さらにその論点について内容等を検討した結果がこの配布資料3「能力評価に関する基本的な考え方の論点整理」ということになっております。
まず,論点と言うのが五つに整理されていますけれども,このような整理の仕方でよろしいでしょうか。お読みくださっていただいたところで,相互に矛盾する,つまり論点の中がすっきりきれいにまとまっているというわけではなく,その論点に基づいて,まだいろいろな御意見が存在するという状況でありますけれども,論点の数というのがこのようなことでよろしいかどうかを伺いたいと思います。
それから,また参考資料1「日本語教育小委員会における検討内容の大枠とそのスケジュール」に戻っていただきますと,評価ということに関して,先ほど冒頭に取り上げるべきとされた意見ということの2番目の「・」ですけれども,ピンクの教材例というのは9月末ないし10月初めにまとめ,そして「能力評価」―これは学習者評価に当たると思うんですけれども―学習者評価は本年中,12月末を目指してまとめるということになっております。さらに,その下に,「指導力評価」という項目,グレーで囲まれたところがありまして,これも,今度は10月半ば及び10月末頃から始まる形で指導力評価というものも行われます。そこはきれいに切れるようなものではないですけれども,まず学習者評価というものが先行し,その後に指導力評価というものが検討されるということであるということだけをお心得いただいた上で,御意見を頂きたいと思います。
まず,この五つ以外に何か含めるべき論点があるか,またはこの論点は適当でないというようなお考えがあるかどうかをお聞きしたいと思います。その上で,論点の中身について御検討いただくという順序でいきたいと思います。
○伊東委員
まず,論点をどうするかということなんですけれども,これを読んで感じたことは,やはりどこかで,どういう目的のために評価はされるべきかというところの論点があってもいいかなと思いました。「論点[1]「生活者としての外国人」にどういった評価が求められるか。(だれのための評価とするべきか,どう活用されることを期待するか)」がそれに近い内容かなと思いました。論点[1]は「生活者としての外国人」にどういった評価が求められるか,じかに「どういった評価が求められるか」になっていますが,ここに含めるかどうかは別として,どのような目的で評価されるべきかということの論点があった方がいいかと思いました。それは,その後に続く「(1)学習者が自身の日本語学習状況を把握し,学習を継続させていくための評価」とか「(2)支援者等が学習者をより適切に支援するための評価」,「(3)学習者の社会参加を支えるための評価」というのがある意味では目的に言及した部分なので,何らかの形でどこかに目的という言葉が論点の中に入れてあるといいかなと思いました。
○西原主査
ありがとうございます。これは総論の中に含まれるべきことではなく,「論点[1]」に書き加えられるべきことだという御意見でしょうか。
○伊東委員
はい。
○西原主査
はい,分かりました。そうしますと,「論点[1]」の(1),(2),(3)とは別に,大前提として学習者のための評価とすべきであるということのさらに前に,あるいは後に評価の目的という項目が加えられる方がいい,どちらでしょうか。その場合の評価の目的と伊東委員がおっしゃったことは,どういう内容,どういうことを目的とするという御意見でしょうか。
○伊東委員
なにゆえに「生活者としての外国人」を能力評価するかということです。
○西原主査
なぜ評価をするのか。
○伊東委員
はい,そこを少し押さえておきたいなというところです。
○西原主査
分かりました。それは総論の中にも書き加えられるべきことでしょうか。そもそも評価はなぜ必要なのかということですね。
○伊東委員
はい。
○西原主査
それは,能力評価にする報告書の最初の部分で,評価に関する総論というもの,評価についてどういった考え方があるのかと言う以前に,そもそもなぜ評価が必要なのかということが書かれるべきだという御意見にも取れるんですけれども,どちらでしょうか。
○伊東委員
なぜというところはやはり…。
○西原主査
なぜ評価が必要なのかということを,論点を挙げる前の総論の部分に書くという御意見でしょうか。
○伊東委員
はい。なぜかと言うと,私自身がこのプロジェクトに関わる前から,「生活者としての外国人」に対しての日本語能力の評価って本当に必要かどうかというのを感じていたことがあったので,そこを述べておかないと,私のような人間がこれを見たときに,なぜ評価をするかというところに疑問を持つのではないかと思いました。私たちのスタンスとして述べておいた方がいいかなという点で少し申し上げました。
○西原主査
なぜ必要なのでしょうか。伊東委員の御意見は,能力評価は必要ではないのではないか,必要なのかということに疑問を持つという御意見でしたけれども,そもそもこの能力評価ということを取りまとめることにしたのはなぜだったでしょうか。
○伊東委員
もう少し言わせていただければ,私は論点[1]で取り上げられていますが,学習者の動機付けとか,あるいは自己の能力を測って更なる学習意欲を高めるということであれば,とてもいいと思います。そうなると,評価の方法もおのずと変わってくる可能性もあるので,最初に何のためにというところをぶれないようにしておいた方がいいのではないかと思いました。評価の手法だけが先行していいのかなという,それだけです。
○西原主査
なぜ評価ということがそもそも必要であるのかというところですね。その場合に,大きなところで言うと,社会統合ということについて,評価するということが矛盾を含むのではないかという疑問がありますが,そこまで行ってしまうのでしょうか。
○井上委員
西原主査がおっしゃったような点は最初にこれを読んだときにも感じました。ですが,よく読んでいくと,もっとシンプルに考えてもいいのではないかと思いました。何らかの動機で日本にやってきて在住している外国人の方,もちろん留学生で大学院に通いたいとか,卒業したいというのは全く別の世界かもしれませんし,研究者として日本の大学で,主に英語で研究をし,論文を書くという人もまた別だと思うのですけれども,普通の動機付けとしては,日本で働いて生活基盤を盤石なものにしたいと考えたときに,必要な日本語をどこまで自分が習得できたのかということは,他者の評価も含めて確認をすべきであると思いました。
それが結果的に,生活基盤を盤石にするだけではなくて,様々な就業機会につながっていって,所得につながっていきます。私は産業界の人間なので,日本語ができないがために外国人の能力が最大限発揮できないということは非常に不幸なことであると考えます。ですから,そういう動機付けの面でシンプルに考えてあげれば,「あなたはこれだけ学習をして,ここまでできるようになりました」ということが分かりやすくなっていれば,なお良いのではないかという思いがします。
○西原主査
ありがとうございます。ヨーロッパの各国のいわゆる労働資格あるいは永住資格につながるような評価というものは,今,おっしゃったような考え方を基盤にして存在しているということですね。そのことをどの程度はっきり,この報告書の中で書くべきなのだろうかということに関しての御意見で,そういうことを余り大前提にしないで,日本で生活するということに関して,コミュニケーション上の期待があるというような形でおさめておくというような御意見でしたね。
○井上委員
そうです。極論すると,「日本にいるのだから,日本語をしゃべれ」という乱暴な議論が出るわけです。
○西原主査
私が矛盾と申し上げたのは,そういうことになってしまうのではないかということです。
○井上委員
極端なことを言うと,隣に座っている人が違う言葉をしゃべっていると不安になる民族なのかなと思います。
○西原主査
そうです。私は言語純化主義とそれを言うんですけれども,そういうことがありますね。
○井上委員
この日本語教育小委員会がそのような大前提を置いて,「我々はこういう立場に立ってこの評価を考えます」と書く必要はないのではないかと思います。
○西原主査
伊東委員はいかがでしょうか。
○伊東委員
私のイメージは,ヨーロッパなんかで行われているランゲージパスポート(langage passport)のようなもので,正にここの学習者の学習履歴が見えたりとか,自分の来日時期,学習期間,それからどのような教科書を使ったかということが記録できるようになっていて,それで自己評価でき,それを第三者が見たときに,どんな学習をしてきたのかということが見える程度でいいのかなと思います。しかしながら,せっかくなので,そのパスポートの中にはもし,日本語能力試験を受験して書きたい人がいたらN1からN5について書くスペースもあればいいのかなと思いました。評価というところでは柔軟に対応できて,その1冊があれば育児手帳のようにいろいろなことがぱっと見えるような形になっているといいかなとルーズな感じで私は考えていました。その程度です。
○春原委員
恐らく能力評価という言葉を見ると,「生活者としての外国人」に関わるのは,日本語教師であれば恐らく日本語教育の中でいろいろ評価があると思うのですが,「生活者としての外国人」に関わるのは「生活者としての日本人」であったとすると,能力評価と聞くと,恐らくテストを思い浮かべると思います。TOEFL(Test of English as a Foreign Language),TOEIC(Test of English for International Communication),日本語能力試験みたいなものです。配布資料3「能力評価に関する基本的な考え方の論点整理」に書かれてあることもそうですし,今,伊東委員がおっしゃったこともそうだけれども,評価には幾つかの段階があります。学習奨励とか,学習喚起とか,学習動機とかに関わる緩やかなと言うか,そういう自己評価的なものがあり,さらに社会統合に結び付いていくようなもの,これはヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR:Common European Framework of Reference for Languages)で示されている「C2」や「B1」といったこともそうだろうし,ポートフォリオ(portfolio)的なこともそうだろうと思います。そうすると,恐らく評価には幾つかの階層があって,これでなければいけないというものではないわけですよね。日本語教育小委員会で評価に関する報告書を出す一番大きな目的は,文化庁が出すということを考えると,かなりのシグナル(signal)効果,波及効果が生まれますよね。そのときに,「評価にはさまざまな段階,階層で必要で,それは一つである必要はないんですよ」ということをやはりきちんと読み手に伝えるということが必要なんではないかという気がします。
○西原主査
そのことは総論とここに書かれているようなところで明確に記述されるべきで,それは今,伊東委員から始まって井上委員,春原委員とおっしゃってくださったのは,全てなぜ評価ということに文化庁が関わるのかということは言わないまでも,なぜ「生活者としての外国人」のためのコミュニケーションという考え方の中に「評価」という項目が一つ加わるのかということですよね。それは,これからどういう形になるかは分からないけれども,在留資格に関わらず,日本に滞在して,そして短期間であれ,長期間であれ日本の社会生活を送ろうとする人たちで,かつコミュニケーション上の必要から日本語の必要度を感じている人たちに対して,それを奨励する目的で「目安としての評価」というものが必要になるであろうというところでしょうか。
そして,それは単一なスケール(scale)状のもの,または単一な方法,手段によるのではなくて,いろいろな側面を持つものであるということも総論に書くということですね。
その上で,しつこいようですが,論点が五つ並んでいますけれども,それはどうなのでしょうか。どこまでこの日本語教育小委員会の報告書に書くかということなのですけれども,カリキュラム案に始まって,教材例に落ち着いて行っているように,「そもそも評価とは…」に始まり,「例えば…」ということになるはずですよね。その「例えば…」というところに関わってくださる日本語教育小委員会ワーキンググループ協力者の方が後ろに今,いらっしゃって,それぞれ評価については御見識も専門的知識も持っていらっしゃる方々なのですけれども,その方々に「配布資料3「能力評価に関する基本的な考え方の論点整理」に論点を示してあるから,後は適当にやっておいてください」とは言えないですよね。ですので,具体的なこととして,この五つの観点と言うか論点が枠組みとしてあるということで落ち着いてよろしいでしょうか。
○春原委員
伊東委員が先ほど言ったように,目的を論点[1]に入れてより明確化するということでよろしいかと思います。
○西原主査
あとはこの五つの論点でよろしいということでしょうか。
○小山委員
「論点[5] 評価の手続き,方法について」で評価の手続,方法ということで書いてあります。内容を見ると手順について書いてあるんですけれども,これは最終的な表示形式も含むという理解でよろしいのでしょうか。単純に「1」,「2」,「3」と数字で表すのかといったことも含め,評価結果の表示形式についても議論する必要があるという理解でよろしいんでしょうね。
○西原主査
では,評価をまとめる際の形式というものもここに加えておくということですね。
○小山委員
はい,いかがでしょうか。
○西原主査
これも矛盾する考え方になってしまうかもしれないですけれども,形式が決まりますと,またはポートフォリオの形式を例えば日本語教育小委員会で提案するということになると,評価を受けることは任意なのかどうなのかということと関係してくると思います。そもそも評価というのは受ける側にとっては任意になるのでしょうか。
○井上委員
先ほど私が申し上げたポイントで言えば,伊東先生がおっしゃった,何か手帳のようなものを持っていて,その人の評価が示せるようにする。
○西原主査
母子手帳みたいなもの。外国人手帳みたいな…。
○井上委員
これだけの学習をして,どういうところまで勉強できていて,今はこのぐらいまで話せたり,聞けたり,書けたりできるようになった,というのが一目瞭然で分かると,必ずそれを持っていた方が得になるということにはなります。それが就業機会につながっていく,所得増加につながっていくということであれば,おのずとそれをみなが取得するようになる。ただ,それは任意で良いと思います。
○西原主査
任意でいいということですね。
○井上委員
ええ。それはいろいろな外国人の方がいらっしゃるので。
○西原主査
ですから,動機付けにつながるような評価の方法であれば,たとえ任意であっても,随意であっても,それは持っていた方が得,また評価を受けた方が得という言い方はおかしいですね。より良い社会参加を保証するということになるだろうということですね。
○井上委員
そうですね。できれば,せっかく国の審議会でやっている議論なので,共通フォーマットを作ることも考える,どこがその手帳を発給するかは別の問題かもしれませんけれども,共通フォーマットでこういう能力のそれぞれの評価がなされて,最後に証明する印が押されていれば本人にもメリットがあるのではないかと思います。
○西原主査
小山委員,そのようなことでしょうか。
○小山委員
まず目的的なことで,社会統合とかいろいろありますけれども,行政から見て,もしそのように一人の人間について言語的なバックグラウンド(back ground)が全部整理できるようなものを作るということになると,議論の前提からして少し考え直す必要があるのではないかと思うんですね。標準的なカリキュラムについて,これも日本人の生活者としての外国人に対する日本語というベースでカリキュラムを組み立てられていますから,それをベースにして議論するという限りにおいては,そこまでのことを目指した場合に,前提から少し考え直す必要があるのではないかと思います。例えば,日本国民としてどれだけ理解しているか,それを国民として認める前提として,その判断基準となるようなものを作るとなると,知るべきことも,単純に地震になったらどうするかという問題ではなくなると思うんですね。社会制度とか法制度について理解しなければいけないとか,労働について基本的な理解をしなければいけないということまで入ってくると非常に大ごとになると思うわけなんです。
私として,ここに参加させていただいたのは,むしろ現場で今,苦労されている方が多い,そういう方たちにとって指標となるようなもの,それから勉強している本人たちにとっても,ただ闇雲にとにかく教材に取り組むのではなくて,何か指標が与えられて,それに向かって自分たちも努力できるようなもの,その結果,もちろん生活水準の向上だとか,能力の発揮ということは期待されるわけですけれども,より現場に近い,そういった文字どおり「生活者としての外国人」として必要な日本語レベルを習得して,それがただ勉強しただけでは不安でしょうから,本人にとってもどれだけできたというようなことが判断できるようにするというのを基本的な考え方にするのでよいのではないか思いますがいかがでしょうか。
○西原主査
市民手帳ではないというお考えですよね。
○小山委員
もしそうだったら,もう少し別なことを考える必要があるのではないかと思います。
○西原主査
例えば母子手帳ですけれども,これは日本で作られている,恐らく日本独自で作られて,日本人の幼児死亡率と言うか,乳児死亡率を本当によく管理して下げたと言うか,今,日本は1,000人に1人も死なない国になっています。そのことが非常に良いというので,今,世界中に広がりつつあって,この母子手帳の考え方というので,健康管理というような基準で世界に広がりつつあります。これももしかしたらコミュニケーション管理,コミュニケーション能力手帳というような範囲を逸脱してはいけないだろうという御意見だったと思います。
○小山委員
そうですね,いけないと言うか,それを超えようと思ったら,もう少し違う議論をしなければならないと思います。単純に手帳と言っても,その内容がよく分かりませんが,要するにコミュニケーション手帳ですよね。コミュニティーパス(community pass)みたいなものでもいいかもしれないですね。これを持っていれば普段の生活はオーケーですよ―それを開いたら,どういう表示になるのか少し分かりませんけれども,善良な市民として活動できるかどうか分かりませんけれども―ぱっと見て,本人も,「ああ,自分はここまで来た」とか,「もう少しだ」とか,もし新しいところへ行って,新しい団地なりに行って周りの人と話しているときに,「実は私はこんな授業を受けたんですよ,見てください」って言ったり,「結構いいでしょう」とか,「まだまだ今一なんですよ」といった感じで,コミュニケーションの一つのきっかけにもなるという意味で手帳ということでしたらよいのかなと思います。
○西原主査
手帳という言葉が先行してしまって,それぞれイメージをお持ちかと思うんですけれども,恐らく言語教育関係者がよく使うのはポートフォリオという言葉で,そのポートフォリオというのはまた片仮名語で申しわけないんですけれども,イメージとしては,それらの項目を含むようなファイルということだと思うんです。そのことで,イメージしているものが手帳になってしまうというのはいかがでしょうか。
○井上委員
例えば手帳と言っても,非常に統一的なものを作るというのは,恐らくそこまでできないと思います。極端なことを言えば,白紙のページがあり,例えば日本語教室に通ったら,「あなたはこれだけのことをやりました」と切り取って貼るだけのものでもいいのですよね。その中である程度統一的なものがあって,日本語教室の方がそこを参照できるようにする。「あなたはこの時点ではここまでできている」ということが分かるようにする。例えば日付を付けてはんこでも押してあげれば,それでも十分ではないかと思います。
○西原主査
独立行政法人国際交流基金が作成したJF日本語教育スタンダードの中のポートフォリオというのは,恐らくものにはならない,ものと言うか,紙にもならないようなものだったと思うのですが…。
○西澤委員
まさにファイルです。
○井上委員
ファイルだと思います。貼ったり,とじたりするようなものですね。
○杉戸副主査
やはり手帳とポートフォリオ的な情報の固まりというのは区別すべきだと思います。けれども,その前に,そういうものを持っていることで何らかのメリットが生じるということが先ほど来,議論があったんですけれども,その逆で,持っていない人が不利になるようなものになってはいけないと思うんですね。もう少し広げて言うと,ここで考えようとしている評価を受けたことがない人が生活者として認められないというように展開するようなことではいけないと思います。道を歩いている非母語話者らしい人を捕まえてきて「少し…」という,そういうことにつながるような評価ではいけないというのが大前提だと私は思います。
それを防ぐと言うか,そうならないためには,やはりこの日本語教育小委員会が続けてきていますが,標準的なカリキュラム案からガイドブックで扱った生活上の行為の場面,これを教材例にするところまで作業を行っているわけですから,それについて,例えば生活者の中でもある場面について困った経験があって,勉強してみようと思ったことがある。あるいは,ある場面について格闘している,実際もう困ってるんだというような経験を持った人が,自分はどういう位置にいるんだろうということを教えてもらえるような評価がいいのではないでしょうか。あるいは日本語学習の教室でそのことをお互いに共有できるような,そういう情報が生み出されれば,ここでやるべき評価の議論なり,その評価についての成果物というのは必要かつ十分な内容を備えたものだと考えるべきだと思います。
少し言い方が悪いんですけれども,先ほど来,議論を伺っていて,何かひょっとしたら,先ほど例に出しましたが,道を歩いている外国人を捕まえてきて評価できるような,そういう基準に悪用されかねないということを感じました。危険性として,そういったことを含んでしまう,これはもう前々から議論されていたことだと思うんですけれども,改めて思います。
繰り返しますと,教材例に即して,しかしここで論点として掲げられているいろいろな角度から多様な評価の実例を示す,これは前回日本語教育小委員会ワーキンググループで使った言葉かどうか,忘れてしまいましたけれども,教材例があるのと同様に,評価例集というものを作るというのがよいのではないかと思います。これまでのカリキュラム案からのつながりを実現していくという枠を極端に言えば自己規制的に掛けた方がいいのではないかと思います。そうでないと,小山委員がおっしゃったような根本的な議論をもう一度した上でないと踏み出せないところがあるのではないでしょうか。その自己規制の枠がすぐそこにあるという形にした方がよいのではないか,そんな気がします。
○西原主査
ありがとうございます。今の御意見についてはいかがでしょうか。
○加藤委員
おっしゃること,とてもよく分かります。悪用されるのはどうかと思うんですけれども,ただ,現状として本当に評価,例えば個の能力評価となっていますけれども,その人が今いる地域にいる人たちの評価ということがどこまでされているかというところを考えると,こういった形で評価を受けたから,あるいは受けていないから差別されるのではなくて,評価されることによって自分たちがより良い社会生活に参加していけるのだということが見える指標になればいいのかなと思います。また同じものを別の方向から見ると,今のことはそのことです。
もう一つ,今,ここに五つ論点が上がっていて,私も「論点[1]」の内容が何かなというのがあります。論点[2],論点[3],論点[4],論点[5]と「評価者」,「内容」,「基準」,「方法」と続いていきますが,論点[1]のところでやはり「目的」を入れるべきだと思います。
あともう一つ,配布資料3「能力評価に関する基本的な考え方の論点整理」の2ページの真ん中辺り,「⇒」の部分に「「学習者のための評価」とすることを大前提とした上で,あわせて以下のような評価の視点もあるのではないかという意見が出された。」とあり,そこのところを再度押すのですが,「評価」,「能力評価」と書かれると,学習する人の能力というように限定されるように聞こえます。評価という言葉が非常に難しい言い方になりますが,教材例を作り,カリキュラムを作る段階や,それを支える地域の人,それからそれらを作ってきた人,その関わる社会そのものに対して,見直すきっかけになるようなものになれば,悪用も防げると思います。私たちは常に外国人と一緒にいるので,常にその意識でいますけれども,普段から外国人と接するわけではない人や今の社会に対しても,これが振り返るきっかけを与えるものになればよいのではないかと思います。そういう意味で,評価となる対象は何なのかということもどこかで触れた方がいいのではないかなといます。
○西原主査
今,杉戸委員が最初におっしゃったこと,つまりこれは教材例までができた,このプロセスの到達点として評価というのがあって,そして評価されるべき内容というのも,そこに限定するということがいいのではないかという御意見,杉戸委員はこのことを何度かおっしゃっていると思いますけれども…。
○山田委員
私もそういう考え方でいいと思ったので,そうするのか,それともそうではなくて,この標準的なカリキュラム案の全体に対する評価なのか,この標準的カリキュラム案を作成した理念と言うか,ポリシーに従った評価はこうだということを示すのか,そういう質問を何度かしたと思います。
一つ,杉戸委員のおっしゃっていることの危惧と言うか気になることを申し上げると,評価があると,その評価そのものが何らかの形でその人間の存在価値みたいなものを判断する材料にされます。ただ,それはどんなことがあってもされます。この教材例に限定したとしても,そこに評価が出ていれば,それはそう使われると思うんです。そういうことを,まずいことだと私も思っていますけれども,そう思うとすれば,それは「この評価はそういうことではない」ということを何らかの形で強調して,そういうものを込めた形で作成しない限り,どんな評価であろうとも,使われ方は幾らでも評価した時点でもう出てくると思うんですね。だから,そこを工夫したらいいと思うので,それがポートフォリオなのか,あるいは何か点数を付けるなのかは分かりませんが…。
その中で,そういうことが一番できにくいようなものにしていくというのが大事だと思います,私はこの日本語教育小委員会の場でのゴール,評価についての我々のまとまった意見としてのゴールは,余りかちっとやって,「これがひな形です」というのを作ることなんだろうかと考えています。そうではなくて,もう少しそれぞれの現場で,この標準的カリキュラム案の理念を実現させるときにはこういう評価の視点で,こういうことを盛り込んで,こういうようにしたらいいというようなもの,それぞれの現場に合わせた形でできるような枠組み,それも枠組み例でしょう,そういうのを提示すること,それぞれの地域や現場は,それぞれに自分たちもこの枠組みを検討してみて,合わなかったら変えて構わない,そういうものなのではないかと思うんですね。
○西原主査
一番好ましくない形というのを勝手に想定するとすれば,配布資料2「教材例集について(案)」にあるように教材例が18例示され,それを期末テストのような形で何か試験して,その結果に応じて学習者に「5」,「4」,「3」,「2」,「1」と点数を付けてしまうということが一般的に想像されるとしたら,それはそうではないということを強く言わなければいけないのではないかと思います。そのことを避けるために,私が教材例集と同じように評価例集ということに少し躊躇(ちゆうちよ)しています。大賛成と言えないのは,そのことが頭に引っ掛かっています。やり方としてはそれが一番ストレートではあるけれども,どうなのかなと思うんです。ただ,実際問題として,「例えば」というときには,恐らくこの教材を使って学習した後に行われる評価というものも当然評価されるべき基準の一つにはなるでしょうか。
○山田委員
なると思います。それは現場でやってもらったらいいし,やるときにこういう視点を盛り込んだらどうでしょうかという提案はもうされているので,それを使おうと,使うまいと構わないけれども,一つの材料として,たたき台としてこういうことがありますよというのはここでやるべきことなのではないかと思うんです。
○嶋田委員
今,ポートフォリオのことがいろいろ出ているんですけれども,確かにそれも評価としてはとてもいいことだと思いますが,杉戸副主査がおっしゃったような,確かに学校でもなるべくポートフォリオを取り入れようとしているけれども,なかなか全てのクラスではできないとか,いろいろありますよね。これも取り入れるけれども,やはり別途,それがどうできて,細かく点数化するということは全く考えていないんですが,やはり何らかの評価というものは必要だと思います。
そのときに,例えばOPI(Oral Proficiency Interview)なんかでも,この人は「中級中」と評価されているところだけ見られてしまうのですが,実はそうではなくて,私たちがOPIを生かしているのは形成的評価であって,この人は「中級中」だけれども,何がどのようにできないか,どうすれば次に上がれるかということをシートに明記するわけです。
「この人は何ができるんだけれども…」とか「この人は大体できる」とか,そういうことに意味があるというよりは,その課題となっているところがうまくできるようになることがあれば随分違ってくるのかなと思います。評価の中でどういう付け方をするのか,自己評価的な学習者のポートフォリオ的なものなのか,支援者が行うものなのか,誰が行うものなのかは分かりませんけれども,そういうものがあれば,それが厳密に点数化を行うものではないですが…。
山田委員がおっしゃったように,厳密なものではないけれども,ある指標があって,それはどう使われてもいいということにしないとやはり見えませんよね。それから,ポートフォリオでも,やはりそういう危惧の念はゼロではないかなと思っています。
よくOPIの批判で,「とてもアバウト(about)であって,主観的で,「中級中」と言っても幅があって,どうするんだ」とよく言われるのですが,そもそも能力ってそういうものだと思うんですね。だからこそ幅があって,それをどんどん厳密にすると数値になってしまうというところがあるので,私たちはそうではないんだというところは絶対的な理念として持っています。でも,やはり「見える化」することは大事かなと思います。
○西原主査
それは評価の過程と言うか,こういうようにして評価されたのだという,その評価の観点というものを…。
○嶋田委員
ただ,最終的なものがシートか何か分かりませんけれども,評価の何かがあったときにも,「できた/できない」ではなくて,何かそこにコメントがあるような配慮があるものだといいのかなと思っています。
○加藤委員
それらがその場,その場でできていくことと言うのは,それはその場,その場だからこそできたということだと思うんですが,それについての先ほどの評価例集というところにやはりつながるのかなと思います。それについて,私もどうなんだろうかという思いがあるのですが,例えば学校現場だと,「こういう目的がある」ということがある程度明確に見えるわけなので,評価をしたいものというのをこちらも持てるし,相手側もそこがほとんどずれることなく受け入れられます。ただ,地域における日本語教育ではその地域地域,住んでいるところ,それからその人の置かれた状況,それからその人の目的としていることということも本当に違うと思うので,それに対して,「このような評価をしたらどうですか」ということを提示すること自体が非常に難しいと思うし,何か形を作ることによって,それに向かうことの怖さというものがあります。ポートフォリオは,それはその人にとっての成果物なりしてきたことであるので,それをどう評価するかということは先の話であって,「その材料を出しましょう」というところまではいいのかなと思いますが,そこを何ができた,できないという項目を挙げること,それを日本語教育小委員会が挙げることの難しさというのはとても大きいのではないかなと思います。
○嶋田委員
それは教材例集の中で挙げたこと,例えば,全体評価はまた別として,生活上の行為の事例を取り扱ったものも要るんではないかということですよね。
○西原主査
例えば,そこのカリキュラム案の12ページ,13ページに,とにかく行為の羅列と言うか,こういうものが市民生活でできることの基本でしょうという行為がありますよね。そのことに関連して,この日本語教育小委員会がその評価ということについて何か提言をするということについてはいかがでしょうか。
○井上委員
御存じの方も多いと思うのですが,来年,出入国管理法が変わります。2009年に法律が通っていて,3年以内に施行ということなので,来年の4月に新制度に移行すると思うのですけれども,そうすると,今まで法務省と自治体でばらばらで行っていたいわゆる在留管理が一本化されてきます。これは一つのインフラだと思うのですが…。それは法的な保護という意味でのインフラです。今回,私たちが考えていることも,外国人の人たちが生活をし,働いて,本当に能力を発揮できる,そのためのインフラだと思うのです。だからこういう教材例も作って,それを各現場に参考にしてもらうというわけです。
そういう意味で考えると,この評価方法も外国人の皆さんが生活をし,働くために役に立つ形にして仕上げていかないといけないです。自由にということになるとインフラにはならないと思います。今まで外国人の在留管理は,要するに全部ばらばらだったわけです。極端なことを言えば,法律は一つしかないけれども,学生と研修技能実習生,日系人も高度人材も全部ばらばらだったわけです。そうでなくて,ある一つのインフラの上に乗って,法的にも,それからこの日本語学習という面でも,日本にはインフラがあるから,そこに乗れば安心して自分の能力を発揮できる,法的にも保護されるという形にするのが本来の姿ではないでしょうか。
ただ,いきなり完璧なものができるかと言ったら,それはできないわけなのです。少なくとも今,お話があったように,ここで示す教材例に基づいたものをベースにして学習をしてもらった後の評価の方法は最低限書いておかなければいけないと思います。そうして,それで十分かというところをきっちり議論すればいいのではないかと思います。確かにその人がどういう能力を持って,細かく,英語のTOEICのように点を付ける必要はないと思います。しかし,落としどころとして日本語能力を数値的に表すのではないとしても,能力評価を行うことは必要なインフラであると思います。
○嶋田委員
私はどういうものを作るかということもとても大事なんですけど,そのデータと言うか,ものをどう読み解くと言うか,使う側の姿勢だと思うんですね,それが大事だと思います。同じものを見ても,「だからこうだ」というように評価すると言うか,その人をこう決まった形で見るのではなくて,飽くまでもこの人の過程と言うか,そういうものを気を付けて見るんだとか,そういうことがあれば違うのではないでしょうか。
○西原主査
そういったことが,ここまで論点整理されていると思います。
配布資料3「能力評価に関する基本的な考え方の論点整理」を書くだけでも,評価の報告書は書けるんです。ですが,先ほど,杉戸副主査がおっしゃったように,何か例示をする必要があるとすれば,どこから例示するかと言うと,この日本語教育小委員会としては少なくともカリキュラム案で示された12ページ,13ページのところから全く違うことをするということではないわけですよね。それはよろしいでしょうか。
今,井上委員がおっしゃったことについては,私は,社会がこの日本語教育小委員会が出すものをどう使うのかというところに間接的に影響を与えるということは否むことはできないと思うのですけれども,もし本小委員会が出す報告書を他省庁に対して,「さあ,どうぞお使いください」というようにはできない,そういうものを作ろうとしているのではないと思います。そうすると,インフラの基の考え方を示すということでしょうか。それでよろしいんでしょうか。
○井上委員
むしろ自治体あるいは自治体の下に置かれている国際交流協会などで行われている日本語教育の現場で使ってもらうための指針のようなもので良いのではないかと思います。これだけしっかりとカリキュラム案を作っているわけですから,それに基づいた評価の方法というのがあれば,こういう方法で評価をしていけば良いんだというのが分かってきて,例えば違うカリキュラムを持っていたところが,それはある特定の外国人を対象としたものだとしても,そうしたら同じような流れ,プロセスでこのように評価をすればいいんだということが分かると思うんですよね。
ですから,そういう意味での活用の仕方は最終的にはあるんですが,私が申し上げたインフラというのは,どちらかと言うと,飽くまでも外国人にとってのインフラではないかと思うんです,例えば在留カードを持っていなかったら不法ですよね。例えばポートフォリオを持っていなくても不法でも何でもないんだけれども,チャンスを得る可能性は出るというものに最終的にはしていければと思うんですけれども,どうも本日の皆さんの御議論だと,そこまではまだ煮詰まっていないという気がします。
○西原主査
私,幾つかの外国,とりあえずオーストラリアの場合は教育省と移民省がくっ付いているので,外国人というのは教育省の範囲になってきます。
○井上委員
そういうところが多くなりましたね。
○西原主査
そこで作っている宣伝ビデオと言うか,プロモーションビデオを見たことがあるんですね。それは,「英語をあなたが学ぶことによって市民生活がどんなに豊かになるか。だから識字と言うか,リテラシー(literacy)ということに関連して,リテラシーを得ればあなたの生活はこんなに豊かになる。だから英語を学びなさい」になるんですけれども,いきなり学びなさいではなくて,こういういいことがあって,あなたはリテラシーを得るんですよというのがあるんですね。結局インフラってそういうことですよね。
○井上委員
そういうことです。私もオーストラリアは少し産業面から研究しましたけれども,それでいて別にそれぞれの持っている民族的背景とか文化的背景を否定する国ではないです。だから多民族国家だと言われています。
○西原主査
だけど英語は共通語ですね。
○井上委員
ですよと。それは正に日本語に関しても,日本語というのは非常に特殊な言葉だから,余計にその辺がクール(cool)にできないんだけれども,少なくとも日本語をここまで学習をし,ここまでできるようになれば,このぐらいのチャンスがあるというのは目に見えてくることが多いです。最終的な目標ではないかと思うんですけれどもね…。
○西原主査
そういうプロモーションは恐らく別に存在するようになるということでありましょうけれども,何かそういうようなことはありますでしょうか。
○井上委員
それはここでやることではなくて,ほかのところでやることかもしれませんね。例えば大学だったり。大学入学に当たって,こういうものが最低限できてくるとこういう学部でこういう勉強ができますとなるのかもしれません。
○西原主査
そうですよね。ですから,それぞれのセクター(sector)がそれぞれ独自の基準,つまり私のところに来てくれる人にはこういう基準というのは必要ですよということはもちろん言うわけですよね。
○井上委員
早稲田大学で新しく作った国際教養学部は,入試のときは英語しか問わないんですよね。中国人でも韓国人でも英語だけなんですよ。その代わり日本に来た瞬間に,半年日本語を徹底的にやるというのが条件になっています。彼らは本当に1年以内にほぼかなりの,生活で困らないぐらいの日本語を習得してしまいます。それはもちろん大学というレベルですから,少し違うのかもしれませんけれども,それが正にインフラだと思うんですね。システムと言い換えてもいいかもしれません。
○西原主査
評価のシステムという言葉がここには出てきていますけれども,少し時間が押してきましたけれども,このことについて,さらに何か御意見がありますでしょうか。金田委員,先ほどからうなずいていましたが…。
○金田委員
私自身はこの能力評価に関しては,能力評価と言ってしまうので,あたかも今ここにいる人の能力を非常に客観的な基準をもって公平なやり方で測定をしてというようなイメージになりがちだと思うんですけれども,私自身はもともとそうは考えていませんでした。教育なり,学習なりの目標設定をし,「今,どの位置にあるのか」とか,「本日やったことは果たしてどうだったのか」ということを評価するというのは非常に当たり前の行動であろうと思いました。それがない限りは,教育の方法は改善されていかないと思っています。
なので,評価は適切な方法で,どんな教室でも取り入れていく必要があると思います。私も少ない経験ですけれども,地域の教室とかの様子を見させていただくと,評価の意識が全くないところというのがあります。逆にそれは目標もないということだったりするんですけれども,とにかく学習者が来たら「これをやりましょう」とか「今日は何がやりたいですか」と聞いて,「では,それやりましょう。」と。そして,1時間が終わったところで,「はい,さようなら」となります。そこには目標の意識も評価の意識もないというのがあり,それでずっと続いている人もいるんですけれども,そのことに満足感が得られなくて,どんどん辞めていく人たちもいます。辞めていく原因の中に,私は目標設定とか評価の観点がないことというのが少し影響しているのかな,評価の観点がないから教育の方法に関してもなかなか改善が行き届かないのかなというようなことを考えていました。ですので,どういう形で今回その評価についてこの日本語教育小委員会がまとめていくかというのは難しいんですけれども,何らかの形で現場の中に評価の意識というものを入れていくということは大事かなとは思っていました。
それから,もう1点なんですけれども,いろいろパスポートのこととか出てきた関係で,外国人にとってのインフラということが先ほど井上委員の方からも出てきました。私もそれは同じ思いで,外国人はよく国内を移動するわけですね。例えば大田から浜松に来たとか,浜松の中でもかなり細かく移動して,教室も変わるわけですね。変わるたびに,また一からやり直しということになる人たちがいるわけなんですね。移動した先で「あそこで日本語教室をやっていることも知っているけど,行ったらどうせまた,「おはようございます」からさせられるだけだから,もう行かない」というようになっている学習者もいるわけです。
でも,そういう人たちがもし,例えばこれに基づいて,「今までに何をやったか」というものがはっきり分かるものとか,「何ができるようになっているか」が分かるものを持っていさえすれば,次に移動した教室はそれに基づいて,「では,この人はこうしましょう」ということを判断できると思います。そういう点で地域の教室,教室をつないでいく,学習者が移動してもモチベーションを下げることなく勉強が続けられるものをこれから作っていくことが可能なのかなと思っています。少し難しいとは思うのですが,そういう意識で作っていきたいというようなことは少し思っていました。
○西原主査
日本の公立学校,まあ,私立学校もそうでしょうけれども,転校する学生と言うか,子供たちはいっぱいいるわけですけれども,そのときに,学校から学校へ持ち歩かせるものがありますよね。そういうファイルと言うか,いわゆるファイルだと思うんですけれども,それはそういうイメージでしょうか。
○金田委員
そうですね。それがやはり,例えばですけれども,大田に1か月しかいなくて,すぐ浜松に移動してしまっても,その1か月の間にやったことはまだこれっぽっちだけれども,でも次のところに行ったら,大田でやったことを踏まえて次に行けるというようになっているといいかなということです。
○小山委員
いろいろあるんですけれども,行政として,このカリキュラムの内容を見て,何か活用するということは,私としては考えていないし,考えられないと思うんですよね。例えば理屈として,修了者については県営住宅の入居を認めるとか,そういうことをやるということは,それは不可能ではないかもしれませんが,現実的にはあり得ない話ですから,そういう意味で行政として活用するということは全く考えていないわけなんです。
それで,先ほど留学生の話をされましたけれども,留学生みたいに日本語を3か月勉強することを義務付けるとか,研修生の中でもそういうことをやっている会社もあるということも聞きますけれども,そういう人たち以外に,完全にフリーな人たちが大勢いるわけです。日系ブラジル人の人たちのように,取りあえず生活はできる,日本語を勉強しても,しなくても別に生活はできるという人たちが,いろいろなところにいて,残念ながらいろいろ摩擦が起きたりしています。そういうことを解決するために日本語ということは,我々の現場として非常に重要なことであると思っています。そういった人たちに対して,日本語を勉強し続ける,日本語のレベルを上げていく,それから自分たちの日本語のレベルがどこにあるかということを知ることは非常に重要だと思うんです。その人たちが自分たちの自主的な気持ちで勉強を続けていくにはどうしたらいいかということが一番重要になってくると思うんです。そういう意味で,この生活者としての日本語というのはとても重要なことだと思うんです。
私としては,その評価について,評価を利用するということではなくて,金田委員と共通するとは思いますけれども,やはり本人たちが,「ここまでやれた」,「ここから更にどうしようか」と思えるかどうかが大事だと思います。場合によっては,住む場所が変わったときにまた勉強を続けるために,いい一つの指標になるというようなものがあれば,それはそれで役に立つのではないかと思います。
ただ,確かに何か評価をすれば,必ずそれを何かに活用しようと思う人が出てくることは疑う余地がないものですから,それが善意であろうと,悪意であろうと,ですからその活用するという視点から見るとほとんど意味はないけれども,本人たち,それから先生方にとってもそうだと思いますけれども,自分たちの指導が一体どれだけ効果があったのかということを客観的にと言うか,論点整理でもありましたけれども,客観的にという言葉は簡単ですけれども,なかなか客観的というのは難しいんですけれども,客観的にどういうレベルか分かるということも必要ではないかなと思います。
ですから,表示の仕方ということもあるかもしれませんけれども,私としては,行政の側から見て,これをどういうように見ているかと言うと,今申し上げたように見ているということです。
○西原主査
ありがとうございました。
○西澤委員
総論のところで書くべきことなのかどうかということを先ほどから考えているんですけれども,金田委員の発言とも関係して,やはり学習のプロセスとか中身を良くするため,改善するための評価という観点をしっかりと踏まえておく必要があるんだろうと思います。そのことを明示した方がいいんではないかなという気がしました。
○西原主査
論点[1]に「「生活者としての外国人」にどういった評価が求められるか。(誰のための評価とするべきか,どう活用されることを期待するか)」というところに,「(2)支援者等が学習者をより適切に支援するための評価」とあり,支援者がより適切に支援するために使われるであろうということが書かれています。
○西澤委員
ということも含め,ただ,それは学習者自身にとってもより良く学ぶための道しるべになり,かつ教える側にとっては,支援する側にとっては,その支援の方法や何かについて改善する目標がなぜ達成できなかったのかというようなことを顧みて,反省する材料になるような,そういう評価ということの観点をきちんと示しておくことが大事だと思います。
○西原主査
総論に書くか,論点[1]のところに書き加えるか,どちらでしょうか。
○西澤委員
そういう意味で言えば,杉戸副主査がおっしゃいましたが,「標準的なカリキュラム案の範囲で勉強していく,そしてそれをより良くするための評価」ということをきちんと示すということにつながっていきます。また,「それ以外のことをやっていなかったらだめですよ」というような話にはならない,否定的な形には使われないようなものにするための一つの安全装置として,やはりそういうことをこの日本語教育小委員会としてはとても重要視しているということを明確に示しておくこと,それは今,小山委員が言ったことともつながってくるんではないかなという感じがします。
○西原主査
一つ伺いたかったのは,国際交流基金も今,スタンダーズの中で評価のこと,ポートフォリオのことも書いていらっしゃるし,評価のこともお書きですよね。やはり国に関連するところがやるわけですから,余り遠く離れたことをお互いに書いて進めるというのはよくない気がするんですが,その辺りについて何か御意見はありますか。
○西澤委員
ただ,そこはやはりJF日本語教育スタンダーズそのものはヨーロッパ言語共通参照枠にかなり引き寄せられて議論をしています。ヨーロッパ言語共通参照枠の枠組みでどの能力を達成しようとしているのかという考え方で組み立てられていますし,逆に言えば評価というのは,どこを達成したのかということを見たいという,そういうことにつながっているので,若干この生活者としての日本語に関わる評価とはやはり違うのかなという感じを持っています。
○西原主査
そうですね。ただ,ヨーロッパ言語共通参照枠もそもそも生活者としてのヨーロッパ人に関することですよね。コミュニケーションに関する限り。共通参照枠なので。
○金田委員
生活者というように言ってしまうのは,少し語弊があるかもしれませんけれども,あらゆる…。
○西原主査
あらゆる人々を枠に入れてということですね。ここが出す評価というのが,アメリカにもスタンダーズはありますけれども,そういう世界で話されている評価の枠組みから余り外れたことを言うというのは,この世の中で良くないんではないのかなと思う,そういうことです。それはどうなんでしょうか。伊東委員,どうでしょうか。
○伊東委員
そうだと思います。もう時間も限られていますので,金田委員の話を聞いたり,西澤委員の話を聞いていて,私はこの「論点[1]「生活者としての外国人」にどういった評価が求められるか。(だれのための評価とするべきか,どう活用されることを期待するか)」の「(1)学習者が自身の日本語学習状況を把握し,学習を継続させていくための評価」,「(2)支援者等が学習者をより適切に支援するための評価」,「(3)学習者の社会参加を支えるための評価」とありますが,このためだけでいいかなと思っています。先ほどの金田委員の話のように,人は移動する,それは正にヨーロッパと同じで,今,私たち,国際連携ということでアーティキュレーション(articulation)の話をしていますけれども,学習がうまく継続できたり,また支援者もうまくこれまで勉強してきたことから引き続いて支援できるように,そして社会参加をより一層促すために,どう日本語支援の中でやっていったらいいかという,正に学習の接続や社会とどう接続していくかというところに焦点を当てた評価でいいのではないかと考えます。だから私は,この三つがもう既に今回の文化庁のプロジェクトの評価に尽きるかなと思っています。
○西原主査
分かりました。それで行き着く先と言うか,日本語教育小委員会ワーキンググループ協力者の方々にこれから作業というものをしていただくわけですけれども,そのときに,私たちが何を評価するかというときに,何の部分は,学習者の学習を評価するのでしょうか。それはいいんでしょうか。
○春原委員
そこって,恐らく配布資料3「能力評価に関する基本的な考え方の論点整理」の1ページの「2,論点」の「論点[1]」の下の「⇒」以降に「大前提として,学習者のための評価とするべきであり…」というところですよね。恐らくここは,この文章でいいんだと思うんですが,正確に言うと,その上,「1.総論で取り上げるべきとされた意見」の中に書かれている「日本人の支援能力の評価」というのも入ってきますよね。そうすると,これでいいんですけれども,正確に理解すると,大前提として当事者のための評価であるということなのかなと思います。
○西原主査
当事者でしょうか。
○春原委員
当事者,つまり学習する人と,それを支援する日本人,恐らくその双方が含まれているということなのかなという気がするんです。
○西原主査
学習者及び支援者のための評価とするべきであるということですね。
○春原委員
そうだと思います。それと,もう一つ言いますと,評価の独り歩きって,先ほど山田委員が言いましたけれども,用語の独り歩きというのがあると思います。用語がそこにいる人たちの関係を決めていくというのもあると思うんですね。ここで恐らく揺れているのだと思うんですが,日本語指導者の「指導力評価」というのが出てきて,2ページ目の(2)では,「支援者等が」とあり,次の行は「指導者」がとあります。恐らくこれ,揺れているのだと思うのですが,その辺りが,ここで生活者として関わる日本人が指導者として関わるのかという辺りというのが,結構,言葉としては指導能力評価というのと強く関わると思います。
○西原主査
指導能力評価は,実は参考資料1「日本語教育小委員会における検討内容の大枠とそのスケジュール」の下のグレーの部分として別途立てられるべきレコメンデーション(recom-mendation)になるんですね。ここの能力評価のところでは,支援者という言葉の方がよろしいでしょうか。指導者,支援者のどちらでしょうか。
○春原委員
そこが難しいですね。
○岩見委員
何か区別をしている前提があるのかというように私は受け取っていました。指導者というのは専門家として,将来的に地域の日本語教育の専門家が育ったときに,その人を指導者と言っているのかと。支援者というのは現実的に関わっている全ての住民を含めて,ボランティアの人というようなことで区別をしているのかと思いました。これはどれを目指しているのでしょうか。
○西原主査
参考資料1「日本語教育小委員会における検討内容の大枠とそのスケジュール」の下にグレーで示されている部分は恐らくもう少し,コーディネーターも含めた方々を目指しての指導力評価,指導者,支援者も含めて,どういう資質を持っているべきかという議論が下の議論になります。上の「能力評価」に関する議論のときに,「支援者」とか「指導者」と言っているのは,関わる人ぐらいの意味ではないでしょうか。ですので,支援者と言おうが,周囲の人と言おうが,どちらでもいいかなと思います。「指導者」と言ってしまうと,かなり限定的になるのかなと思いますが,ただ,そこは固まっていません。
○春原委員
その辺の用語の…。
○西原主査
統一が必要ということですね。
○春原委員
はい,定義と統一が必要です。
○西原主査
はい,使い分けが必要ということですね。そして,私たちが何かを評価するというときに,大枠として考えられるのは,一番最初のカリキュラム案の12ページ,13ページにあるような生活上の行為と,それをもって社会参加の基礎とするという,その辺のところに関わる学習者及び支援者,周囲の人たちにとって評価って何なのというところでよろしいですね。それはよろしいでしょうか。
(⇒了承)
ありがとうございました。では,これにて第39回日本語教育小委員会を閉会とさせていただきます。御協力ありがとうございました。
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