日本語教育研究協議会 第2分科会

テーマ 「生活日本語教育の実践−多様な年齢層への対応(インドシナ難民支援から地域日本語支援へ)−」

趣旨 多様な国籍(母語)や年齢,能力の外国人に対応し,定住外国人にとって必要な「生活日本語」(日本語の言語指導と地域社会の生活指導を融合したもの)のカリキュラムと指導方法について,20年にわたるインドシナ難民支援事業で工夫を重ねた成果を基に紹介し,地域の日本語支援現場での活用について考える。

講師 西尾珪子(社団法人国際日本語普及協会理事長)

発表者 浅井清子(元財団法人アジア福祉教育財団難民事業本部国際救援センター副主任日本語教師)
四方紀美(財団法人アジア福祉教育財団難民事業本部関西支部日本語教育相談員)
内藤真知子(社団法人国際日本語普及協会日本語教師)


西尾:それでは,時間が過ぎておりますので,まだ後からいらっしゃる方があるかも知れませんけれども始めます。そして17:30まで一気にというのはちょっと皆さんもお疲れだろうと思いますので,どこかで喫煙なりトイレ休憩,3分から5分ぐらいとりたいと思いますので,そのつもりでいていただきたいと思います。
まず,今日のプログラム,少し詳しく解説いたしますが,最初のレジュメが38ページからです。私が初め総括のような形で今までの概要をお話いたします。それから,2番手に姫路定住促進センターで御苦労なさった四方先生,今,四方さん,アジア福祉教育財団難民事業本部関西支部でいろいろと活動をしていらっしゃる四方さんです。それから,かつて品川の国際救援センターの年少者クラスを担当され,今大阪へ,ふるさとへ戻られたんですね。で,こちらの小学校で児童生徒の支援に当たっている浅井清子さん。それから,ここがそのプログラムにはありますけれども,レジュメが入っておりませんで恐縮です。後から急遽,東京でしましたときに,大変反響が大きかったので是非と思いまして,内藤真知子さんです。国際救援センターで現在インドシナ難民及び条約難民を教えていますが,年少者クラスと老人,これは初めての試みで高齢者だけのクラスというものを組みまして,その研究をいたしましていろいろ発表しているものでございます。今日特に加わってもらいまして,合わせて4人の報告をまずしたいと思います。
まずレジュメにありますように,インドシナ難民への日本語教育から地域日本語支援で先ほども申しましたが,地域の日本語支援という,いわゆるボランティア活動での日本語支援,外国人への日本語支援は,既に1979年のインドシナ難民の受け入れのときから始まったことだったのです。特に1979年,このインドシナ難民の受け入れ年表抜粋というの,これは大急ぎで走りますから,目だけは追っていっていただきたいのですが。
1975年にサイゴンが陥落してベトナムが一つの国として新しく生まれ変わったわけですね。そのときに,当時の南の人たちが北からの勢力に押されて難民として流出したわけです。そしてそれに対して日本は国連に対してお金はたくさん出していたのですよ。ところが実際に人道的な救援をしていないじゃないかという,今のイラクなんかでも同じようなことですけれども,そういういろいろな突き上げがありまして,そして閣議了解という形で,つまり国会の本会議まで乗せる時間なく,閣議了解という形でインドシナ難民を受け入れるということに決まったのですが,一番初めに受け入れるのを決めた人数は500人だったのです。まだアメリカが5万人やオーストラリアが何万人である,フランスは前の宗主国ですから10何万人だなんて言っている頃に,500人を受け入れるのがやっとだったのです。
そしていよいよその業務を開始しようということで,アジア福祉教育財団といって,かつてベトナム戦争が伝わったときにベトナムで孤児がいるわけですね。親が亡くなって。その孤児のために日本の国が財団をつくりまして,そこが孤児院をつくってたんです。ベトナムの孤児救済の活動をしていたアジア福祉教育財団というのがあったのです。それがインドシナ半島の戦争が終わって共産主義国になりましたときに,一応休眠状態になったのですね。その活動は続けられなかったのです。アジア福祉教育財団というものが休眠状態というとお分かりでしょうか。活動しないままにあったものですから,そこに急遽インドシナ難民救済の事業本部というものを置いて,そして我が国にインドシナ難民を迎え入れようということが決まったのです。
それで本当に急遽なのですが,1979年に兵庫県姫路市仁豊野というところにインドシナ難民定住促進センターというものを置きまして,そこで第1陣の難民が来ましたのが,というか救済を始めましたのが,つまり全国にボートで着いていたり,いろいろ大きな船が東シナ海で救出した人たちを一時的に教会とかいろいろなところに預けてたその人たちを一同に集めて,姫路定住促進センターで日本の適応教育という,適応教育というのは日本語教育を始めようということになって,それがスタートしたのが1979年の11月なのです。
それから3か月たってから,神奈川県の大和市というところに大和定住促進センターという,今度はカンボジアとかラオスの難民たちが近隣のタイ国などに逃げて行って,そこで新しい村をつくって避難していたのですが,その人たちの中から日本に来たいという人たちだけを連れてきて,大和の定住促進センターに入れたんですね。それで姫路は主にベトナム,ラオスがちょっと入りましたけれども,そして大和はカンボジアやラオス,そして少しベトナムというふうに難民に入ってもらって日本語教育を始めたのです。
日本語教育は一番初めは492時間という頃がありましたが,結局3か月で始めたけれども足りないというので4か月になりましたが,カリキュラム,シラバスをきちっと整えて作ったわけです。
それでしばらくしているうちに,やはり言語として日本語を覚えても,実際に日本に定住するわけですね。この人たちは国から逃げて来ていますから帰れないのです。帰ったら危ないわけです。ですから,日本でずっと定住できるためには,日本の生活に本当に慣れてもらわなければならないということで,日本の生活・文化を何としても身につけて,日本で生活する社会適応の生活指導というものをしなければいけない。言葉の問題だけではないということになりまして,それを誰がするかということが非常に問題になりました。そして生活指導を加えた日本語教育が発足したのです。第2の項目です。それは日本語を生活のための日本語のシラバスを作るだけで,大変新しいめずらしいことだったわけです。
当時は留学生とか他のいわゆる日本語という言語を総括して,一つの言語体系として技能も読み,書く,話を聞く,そして体験として段階を踏んで初級からずっと教えていく日本語教育が主流でしたから,それに対してすぐ生活できる,日本人とコミュニケーションをつくれる日本語教育をしなければならないというのは,大変新しい試みでして,本当に徹夜が続くほど皆でシラバスを作り,そしてカリキュラムを作りました。そしてその中に生活指導というものを入れなければならないとなったときに,日本語教育は専門家ができていたわけですよね。ところが生活指導の専門家っているだろうかということになりまして,またいろいろな騒ぎになりました。
いろいろと例えば,今でこそ日本語学校などでは確実に生活指導員という役割があって置きますよね。今はもうめずらしいと思われない状態。当時は一体何をどういうふうに誰がそこを指導したらいいのだろうということが問題になりまして,結局,日本語教育のカリキュラムの中に入れてくれと言われて,そして日本語教育関係者が生活指導というものの指導を,カリキュラムも一緒に考えるようになったんです。これが第2言語教育としての生活日本語教育の概念の成立でした。
そして,これは非常に画期的なことでして,日本語教育と言ったらもう言語学的に考えて,言語を体系的に教えることしか考えていなかったところへ,一体,日本人とコミュニケーションをとるってどういうことだと。どういう言葉がまず教えられなければならないかということが問題になったわけです。いろいろと調査をしまして,生活の現場に行き,それから既にそういうことを少し心がけてらしたAOTSですね。海外技術者研修協会,あちらが少し生活指導ということをやっておられたので,そういうところから学び,そして作り上げたわけです。その時にますますいろいろ参考にしたのが,アメリカとかオーストラリアの移民国ですね,移民国のESLのプロセス,カリキュラムだったのです。ESLというのはイングリッシュ・アズ・ア・セカンド・ランケージの略ですが,JSLというものを私たちは考えなければならない。第2言語としての日本語教育というものを考えなければならないということになりまして,JSLの手法というものを研究したわけです。
それでアメリカがやはりインドシナ難民を非常に大勢受け入れていました。その研修所がフィリピンのバナン半島にあって,何万人という人がこれからアメリカに行くのを待ちながらそこで教育を受けてたんです。それで私は行きまして,ここは皆さん若い方だからバタナ半島と言っても何か,第2次世界大戦を思い出す方はないかもしれませんけれども,非常に第2次世界大戦で悲惨な事態があった半島なのですが,そこに私は行きました。そしたら非常にすばらしい自治区ができていまして,難民だけで自治体ができていまして,幾つも村をつくっているのですよ。そこで英語を一生懸命覚えて,それもESLの専門家が来て教えているわけです。それと同時に働く訓練もしているのですね。
働く訓練を見て私は本当に驚きましたけれども,アメリカ人になりきる先生たちがいるのです。それは既にアメリカに行っているベトナム人たちなのです。その人たちが戻ってきて,そこでベトナム語を使いながら皆にアメリカに行くとこういうことがあるぞと。
本当にそれは,例えばここでアメリカ人には悪いかもしれませんけれども,えらい人がコーヒーをここに置いて,マグを,わりと足なんかこうしてふんぞり返ってこうしていると。どこから来たというようなことを聞くような,ちょっとアジアの民族にとってはとても乱暴に思える質問をするわけですよ。でもこれは君たち怒られているのではないんだ。アメリカの面接はこんなふうにされるんだよということを解説をベトナム語でしながら教えているんですよ。
こういうことに非常にヒント*1を得まして,私たちは生活指導というのは言語だけじゃないのだと。生活言語だけではないのだと。生活様式も生活文化もこれも皆教えていくことがいわゆる定住者,移民とはそのときは言いません。難民の人たちに対するカリキュラムなんだということがよく分かったわけです。

*1 ヒント 暗示。示唆。

  そしてそれでいろいろなことをつくりました。社会適用指導と並立して,やはりどうしても文化が違いますから,初級の日本語を幾ら勉強してもそれでは伝達しきれないことがたくさんあるんです。ここに書きました,給与体系とか銀行預金とか保険とかですね。銀行預金なんていうのは現金をもらわないで通帳だけをもらったら詐欺されたと思うのですよ。現金が見えないじゃないですか。銀行にお金があなたの名義で入っているということだけでも大変難しい初めての文化なのですね。そういうことをどうしても日本語ではやりきれません。それで通訳の人たちにベトナム語なりラオス語なりカンボジア語なりで並行して教えてもらいながら,日本語もそれにできるだけ接近した日常的な生活の日本語を教えるということが始まったのです。そうして対処するのですよ。4か月が終わって。
そうしますと,隣に難民が住みました。うちの子供のクラスに難民の子供が入ってきました。どうしたらいいでしょう。何とかしてあげたいけれども,どうしたらいいのでしょうというので生まれたのが地域の支援ボランティアの一番初めの姿なのです。
ですから兵庫県及び神奈川県はもう1980年代からボランティアグループができました。そして神奈川県など大勢の人間を受け入れましたので,もうすぐに何十というグループができまして,住んでいる町々にできたわけですね。そして今日までずっとその人たちの活動は続いているのです。ですから,本当に発端はインドシナ難民だったな。それからこちらではもちろん大震災というのが,避難所にベトナム人と一緒に避難するんだと。そこでベトナム人はこんなにいるのということを知った方たちが,さっきの金さんの話のようにありましたし,それからいろいろな中国からの帰国者が当時集団で戻り始めまして,所沢に中国帰国者定着促進センターというものができましたので,その人たちもそこを卒業するといろいろな各地に散っていきますね。その人たちに対してまた支援をするグループができたのです。
そうやって1980年代に地域支援ボランティア活動というものが,地域日本語支援ボランティア活動というものが生まれたというところまでをまず筋立てて年次的に覚えておいていただけたらありがたいと思います。
そうして,さて,姫路定住促進センターではどういうふうなことを最初になさったかという,そして今日,今は支部になっていますけれども,やっていらっしゃるかということを四方さんから説明していただきます。

四方:現在,難民事業本部関西支部におります四方でございます。日本語教育相談員をしています。私は先ほど西尾さんが御紹介くださいました姫路定住促進センターにおきまして,ちょうど16年間のうち,後の方の8年間,日本語講師をしておりました。これからお話申し上げます生活指導も全期間ではありませんけれども,ある期間担当しておりました。
それで姫路定住促進センターにおける日本語教育の本当に簡単なことと,生活指導をどのようにしたか,教材はどのような構成になっているかといったことをまず先にお話させていただきます。姫路センターでは1979年の終わりから1995年10月終わりまで日本語教育を実施いたしました。センター閉所自体は96年の3月でございます。まず学習者について御紹介いたします。姫路ではインドシナ3国のうちベトナム人とラオス人が学習いたしました。割合はベトナム人5,ラオス人1の割合です。人数は1期生から102期生まで2,031名が学習いたしました。年齢は学齢期の6歳から79歳の高齢者までございます。ただ,学齢期の6歳から12,3歳までの小学生年齢の子供たちは1か月間はセンターで日本語教育を受けますけれども,その後は少しでも日本の小学校に慣れるようにということで,すぐ近くの小学校へ2か月目以降は通学しております。
先ほど6歳から79歳までと申し上げましたが,世代としては20歳代がやはり一番多うございました。続いて10歳代,30歳代の順でございます。1期から102期までと申しましたが,その1期の平均学習者数は20名から30名です。そしてクラスは平均3クラス。1クラスが7名から10名ぐらいの編成でした。クラス編成に当たってはプレースメントテスト*1を実施いたしました。その結果と民族,学歴,年齢などを配慮してクラス分けをいたしました。
ではレジュメ2の指導内容について申し上げます。日本語指導は皆さんもよく御存知のように聞く,話す,読む,書く,この4技能ですね。これを音声,文字,語彙,文法,文型項目,そしてその後運用という形で進めてまいりました。
テキストですが,これは皆さんは多分御存知ないと思うのですけれども,ジャパニーズ・フォー・ビギナーズという学研から出ている英語版の本がありますが,それを日本語表記したものを使用いたしました。本当にこんな簡単なメインテキストだったものですから,これに付属する教材をたくさん開発いたしまして,それを使用いたしました。今日はこのグロッサリー*2だけしか持ってきておりません。グロッサリーというのは辞書です。各課ごとの新出語彙にベトナム語やラオス語の訳がついております。

*1 プレースメントテスト 能力別に振り分ける試験。クラス分け試験。
*2 グロッサリー 用語辞典。

  その他は,チャートといって絵を書いてあるものもございましたし,もちろん文字練習,それから漢字練習といったものもございます。それから発音練習するためのテキストもございました。本当にそれは順次授業を進めていく中で必要と思われるものを教材開発していきました。
次に学習時間ですが,1日6限,9:30から15:30までです。初めは3か月だったのですが,1988年以降終わりまでは4か月の572時間に増えました。これはもう既にセンターを出た人たちがなかなか地域に入っていって運用ができない,地域の人たちとスムーズに話ができないので,もう少し,例えば方言であるとか,日本人がよく使うような表現,運用を教えて欲しいという要望がございましたので,4か月目にはその運用を重視して指導いたしました。そのために会話教材を出しました。これは場面会話ですね。例えばクリーニング屋さんでの場面会話,お医者さんへ行ったときの場面会話,それを取り上げて4か月目に文型が足りないところなども補いながら指導いたしました。
以上が日本語指導までの全体的なお話でございますが,今日のメインテーマになります生活指導のお話に移ります。ベトナム人,ラオス人の人たちにとっては日本で生活するということは,気候・風土・生活様式・社会習慣が随分違うわけですね。そういう日本社会で生活するということは本当に私たちが想像できないくらい様々な不安があったと思います。気候だってベトナムと日本は随分違いますし,ラオスとも違います。ですから気候が違うということは本当に生活が違うことなのです。それをできるだけ戸惑いなく日本社会で生活することができるようにという情報を姫路センターでは,もちろん東京もそうだったと思いますけれども,日本語教育と連動させて提供するということを心がけました。
この日本語指導は,大和と国際救援センターはもう少し時間数が多かったようですけれども,姫路センターでは週1回の3時間,13週ということで,合計39時間をそれに充てました。センターに入って日本語教育をすぐには始めません。大体3週間ぐらいたってから生活指導を始めました。
教材は『日本の生活』,この教材を使いました。このテキストを作るに当たりましては,センターを退所して,ゆくゆく定住者になる人たちが,実生活で当面するであろうという問題の中から極めて初歩的な事柄を取り上げまして,1983年に作成いたしました。
これは後で少し詳しく御紹介いたしますけれども,内容自体は日本で生活をするときにこういう点が困るであろうなということを想定したり,また既に定住している人たちに意見を聞いたりして,きめ細かく作成されております。
この生活指導と言いますのは,先ほども申し上げましたように日本語教育の一環として実施いたしましたので,次の事柄に留意しながら授業を進めました。授業に際しては,日本語指導との関連を十分にする。既習の文型を使用して日本人の生活習慣を説明する。生活に必要な語彙を補い,場面に基づく会話練習によって日本語の運用能力をつける。また実生活の経験が乏しい部分は,実物教材,視聴覚教材を活用して補足する。以上を気をつけて指導をいたしました。では,資料2,添付いたしました『日本の生活』49ページを御覧いただけますでしょうか。この教材自体は大きく三つの分野に分かれております。?は日本とはどんなところか,?は日本の風土に順応して健康的に生活できるようにする。?は日本の社会環境に適応して,自立した生活が営めるようにする。内容は後で御覧くださいませ。この三つでございます。
次に50ページを見ていただけますでしょうか。これは実際に行いました2課の内容のコピーです。各課はテーマに沿って必要な言葉をできるだけ多く取り上げて,ベトナム語訳,中国語訳,ラオス語訳をつけました。中国語訳は中国系ベトナム人もおりましたので,中国語は理解するけれどもベトナム語は読むことはできないという人もおりましたので中国語もつけております。
そして同じ50ページの下段右側を見ていただけますでしょうか。語彙紹介の後にこのように説明文をつけましたが,それには訳がついておりません。文章を見ていただくと分かりますけれども「これは地図です。日本はここです。日本は島国です。大きい島は北海道と本州と四国と九州です。」といったように,本当に簡単な名詞文から成り立っております。この第2課を学習するときには,既にあいさつ,発音,文字,ひらがななどは学習をしておりますし,文型に関しましても名詞文,形容詞文,動詞文,あります,います,行きます,来ます,帰りますといった動詞文を既に勉強しておりますので,それらを使いながらこの文章をつくっています。まだ学習していない語彙には訳をつけましたので,普通の進度で進めておりますクラスの人たちはこれを読んで理解することができました。
授業自体は1期3クラスと申し上げましたが,大抵はその3クラスが一緒に同じ部屋に集まりまして授業を進めました。第2課は,この日本の地理ですが,これ以外に世界地図も黒板に張りまして,「日本はここです。ではラオス,ベトナムはどこでしょうか」というような質問をして,「ここです」というふうにして学習者に答えてもらいながら進めていきました。その時にもう一つ気をつけたことがございます。それは「日本の気候はこうです」ということを言いますけれども「ではベトナムの気候はどうですか」「ラオスの気候はどうですか」というふうに必ず返しました。そしてもちろん答えられない人もいますけれども,答えられる人は手を上げますので,「ベトナムはこうです。ベトナムの冬はこうです」「ラオスの冬はこうです,地形はこうです」というように,本当に簡単な,それまで勉強した既習文型を使いながら答えてくれました。その中には私たちがそれらの国々に対して知らないこともたくさん出てきました。「ああそうですか」といった,言うなら会話練習もそういう形で取り入れました。このようにして生活指導を進めてまいりました。後のことに関しましてはまたでよろしゅうございますでしょうか。とりあえず私の生活指導に関する説明はこれで終わりたいと思います。また細かいことにつきましては,御質問いただけましたら後ほど申し上げます。

西尾:とりあえず4人,巡ろうと思います。大体,移動クラス,そして現在,実際にこちらでしていらっしゃる小学生の支援をされている浅井さん。

浅井:浅井でございます。国際救援センターでは,私が東京におりました間は全員ベトナムの人でございました。それで1期生から児童クラスが成立しておりました。ほとんど連続的に児童クラスというのがございました。学習者,児童クラスの学習者と言えば御存知のように日本での義務教育ですね,小学生,中学生を対象にしておりました。
この日本語指導に関しましては,ベトナム人児童に関して,もちろん大人もですが,ベトナムで日本語を勉強している機会というものは非常に少なく,ほとんどいませんでした。日本語というものを聞いていないというような状態の子供たちでしたから,私たち日本人の子供の言語の導入と同じように,まず聞くというような姿勢を持って,TPR*1,聞くから始まる導入を行っています。そしてTPRは御存知のとおり全身反応教授法と言われております。この聞く,そして次に話す,読む,書くの一つの流れですが,これを上積に重ねて一つずつ聞くことは聞く,次は話すことということではなく,一つずつ積み重ねで連動的に日本語を学習していくように指導しておりました。文字指導に関しましては,児童には,ひらがな,カタカナは成人クラスと同じように,漢字は小学校1年生から導入し,さらに音訓読みや同時に熟語として取り入れております。なお,文字指導に関しましては,私たちは書き順,それから字形などは非常に厳しく注意しておりますので,地域の学校へ子供を送り出した小学校の先生からは,いつもセンターの子供たちは字が上手だねとほめていただいております。

*1 TPR Total phisical response の略。

  その次に,言葉の壁はもちろんですけれども,先ほどからございます日常の生活の違い,文化の違いなどは大変大きいです。そうして私たちはこの子供たちには日本の小学校,つまり決まりある集団生活ですね,この集団生活がいかに彼らにとって難しいかということを痛切に感じておりました。ですから小中学校へ送り出す前の準備として,例えば校外学習も行います。そして学校見学も行います。学校見学に際しましては,初期では日本の学校で給食を共にしたこともございました。そのようにして日本の学校生活を子供たちが肌で感じます。さらにセンターに帰りましたらその日のうちに,学校の先生にお礼状を出す,そういうような習慣。また尊い体験を経て日本の学校ってどんなところかしらと子供たちは非常に不安がっております。でもその反面,早く学校へ行きたいという気持ちが大いにございますので,少しでも不安を無くして楽しむ,心待ちにしてその日を待つという気持ちを大切にいたしております。
適応手段としては,表の45ページにございますその流れを見ていただければ分かりますが,年齢に関わらず九九を覚える。これは算数の問題との関係ももちろんありますけれども,日本語のリズム,拍,日本語らしい拍を口ならしとしてスムーズに日本語が口から出るというようなことが大切です。また入所の季節が合えば花の種を植えて,発芽することを観察させる。日本語を通じて各教科の指導につなげていくということ。このように日本語指導そのものだけでなく,生活習慣,身だしなみなどは折に触れ指導して,学校へスムーズに行けるよう,橋渡しができるように常に私たちは心がけて子供を送り出しております。
次に,私が地域の小学校で活動し始めた動機について,いきさつを少しお話をさせていただきます。東京から大阪に戻りまして,今までのセンターでの本当に貴重な体験を地域でも生かすことができればなと私は思っておりました。ちょうどその頃尼崎の雇用促進住宅で日本語を指導しているグループがございました。その学習者たちと言いますのは,促進住宅に300戸のうち20戸のベトナム人家庭がありますけれども,その家庭の主婦はもちろんのこと,またODP*1として呼び寄せて日本に来たベトナム人,さらにセンターを出て4か月の学習だけでなく,実社会でさらに高度な日本語を身に付けたいという人たちもございます。育児から少し手を離れたお母さんたちもございました。そしてその人たちと日本語ボランティアとの年に2回のコミュニケーション活動と交流の場を通して,私も家庭事情をかなり知ることができました。初めは子供連れの日本語教室でしたけれども,現在では子供たちが小学校に入学しております。園田北小学校では20年近く外国人児童を受け入れてきました。ですからベトナム人児童が非常に多くて,現在もそうですけれども,遠くから親は職を変わってこの小学校に入学させたいために地域に引っ越してくるというような状況です。

*1 ODP Orderly Departure Program の略。合法出国計画。

  また,現在親たちは生活に追われておりますけれども,5・6年前は,日本人の子供と同じように英語の塾とか学習塾,またピアノの教室に通わせている家庭もございました。その後,日本語力が十分でない児童が入学してきたので,私の方に学校でボランティアとして児童の日本語指導をというような話が持ち上がりました。親も子も学習する場は違っていますけれども,地域に私は足をつけて親と子供と両方を教える場が与えられたような次第です。
少しこの小学校についてお話をしたいと思いますが,その小学校では今までブラジル人もいました。韓国人もいたようです。現在はベトナム人23人です。今年1年生が9人も入ってきました。
この小学校のベトナムの子供たちは,ほとんど日本生まれ,日本育ちのベトナム人ですので,センターのベトナム人の子供と少し状況が違っております。ですからこの子供たちは,友達づきあいは上手にできていますけれども,学習日本語,つまり教科書に出てくる日本語をどのように理解しているか,非常に私として問題でした。
そしてこの学校では,この外国人児童が集まってくる教室をユイ教室といって,ベトナム語では楽しいという言葉だそうですが,このユイ教室ではそれぞれ私たち日本人の子供が家に帰ってきて「ただいま」と言って帰ってくるのと同じように,まずユイ教室を家として考えて,子供の居場所として考えております。教室の入口ではユイ教室に入ってくるときにはまず初めに「ただいま」と言って大きな声で入ってくる。そして学習するというようなことでございます。ユイ教室の具体的な学習の例に関しましては,また後ほどお話する機会があると思いますので,とりあえずここで閉めさせていただきます。

西尾:次は高齢者のクラスです。これはこちらで発表するのは初めてでございます。

内藤:それでは,高齢者クラスについて御紹介いたします。
国際救援センターでは高齢者が最近,非常に増えておりまして,実は4年前の87期から高齢者を意識した新しいカリキュラムに変えまして,高齢者クラスというものを実践しております。
ちょっとすみません。私のハンドアウトはテーブルの上にお配りしている資料の中に1枚入っています。「国際救援センター高齢者クラスでの実践」というものです。高齢者クラスというのはどういうクラスかということですが,87期から91期までのクラス構成を表で示しました。いかがでしょうか。1クラスの人数が大体10名前後。期によっては80歳を超えた方もいらっしゃいます。ただ単に年齢が高いというだけでなくて,このクラスの方たちは高齢に伴って目が見えない耳が聞こえない,聞こえにくいなんて方もいらっしゃいますし,いろいろ健康上の問題を抱えている方が多くいらっしゃいます。それから毎期,母語の読み書きのできない,いわゆる非識字の方が1クラスに数名はいらっしゃいます。こういう学習者の方たちが日本に来て,新しい言語である日本語を学ぶというのは本当に難しい,困難なことなのです。
例えばセンターでの4か月の日本語学習期間を終えても平仮名が全部きちんと読めるという方はむしろ少ない。覚えられません。そういうクラスですから,教師が文型は幾つ,文字はここまでというように到達目標を決めて積み上げていくやり方はできません。結論から申しますと,ハンドアウトの一番下に私が書きましたが,高齢者クラスの目標は,多分,「今ここでこの教室でのこの時間をとにかく目いっぱい豊かに過ごす。それを目指しているクラスだ」というふうに私は思っています。ハンドアウトの同じところに「受け入れることで受け入れられる」と書きましたが,それは覚えられない,書けない,読めないとそういう学習者を教師の方がまず丸ごと受け入れる。とことん学習者に寄り添う。そしてこれは当たり前のことだけれども,尊敬を持って接する。高齢ですから,国でそれぞれの人生があるわけですよね。もちろんあったわけですね。その一人一人の今までの人生を最大限尊重する。そういうふうにしながら学習者と接していく。そういうふうにして初めて,高齢の方たちは,教師に向かって発信を始めてくださいます。そういう関係を私たちはとても大切にして,教師と学習者,それからクラスにいる学習者同士がお互いに分かりあっていく。その分かりあっていこうという時間を重ねていく。それが高齢者クラスだと私自身は思っております。
ハンドアウトに戻りますが,クラスの目的は日本での生活への適応支援です。高齢になって初めて日本という異国にいらっしゃったわけです。子供たちは昼間,外に働きに行っています。するとこのお年寄りたちは,アパートの狭い部屋の中に,とじこもってしまうんです。私たちが願っていることは,彼らが閉じこもらなくてもいいように,せめて昼間リラックスして近所に出られること,そして近隣の日本人に会ったらあいさつを交わすことができ,たとえ日本語の力は少しであっても,リラックスしてプライドをもって暮らせるということです。それが願いですね。すごく小さいことのようですけれども,高齢者クラスにとっては非常に大きな目標だと思ってやっています。
クラスが始まって最初の頃は「先生,今さら日本語はもう無理。とっても覚えれません。」とそういう表情の方もいらっしゃいます。でも,私たちが思い出すことは彼らに,「コミュニケーションにはいろいろな方法があるのだ」と,そういうことに是非気が付いていただきたい。そういうふうに思って,学習者の前で教師はもう身を持ってジェスチャーをしたり,絵を描いたり,あらゆる手段で意思の疎通を試みるようにするわけです。そういう姿を見せるということが大事じゃないかなと。だから,私は日本語教師ですから,日本語教育の方法をとっていますが,やっていることは狭い意味での日本語教育でなくて,もっと広いコミュニケーション教育だというふうに思っています。
日本語に関して言いますと,「厳選された少しのことがしみ込むように繰り返し繰り返し」ということです。あらかじめ用意するシラバスは,本当に少しの言葉や表現だけで作っています。もう削いで削いで削ぎまくったわずかな言葉です。でも,そのわずかな言葉を使って,実は私たちがねらっているのは,教室で本物のコミュニケーションを実現するということです。どの方もクラスの中で自己表現ができるように。シラバスはハンドアウトの裏面にテーマ一覧として書いてありますが,テーマシラバス*1です。もう構造シラバス*2はやめました。あるテーマについてクラスの皆で力を合わせてコミュニケーションを図っていくというやり方です。それからテーマ一覧の下に表現一覧表(発話目標)というのを載せておきましたが,そこに書いてありますようなあいさつ,汎用性の高い表現−非常に簡単だけれどもいろいろなふうに使えるという汎用性の高い表現−をすごく重視しています。例えば「お願いします」が言えたら,動作プラスお願いしますで「〜てください」のかわりにすることはとはできますね。そういった意味で汎用性の高い表現を繰り返し扱っています。
クラス運営の基本方針をハンドアウトに書きました。5人の教師が皆でこういうやり方,方針でやろうよということを申し合わせてやっております。具体的な実践例というのを今ここで御紹介する時間があまりないのですが,例えば絵を書いたり,体操をしたり,歌を歌ったり,それからマイノート*3と称して自分自身のオリジナル*4語彙表を作ったり,とにかくできるだけ五感をフル*5に使う。頭だけでなく,とにかくあらゆる感覚を使ってもらって日本語をしみ込ませていくことを心がけています。もし後で時間があったら具体例を御紹介したいと思います。
その一つとして,例えば絵を描いたりするのですけれども,絵を描いたら絵を描くだけで終わらせない。描いた絵を皆で見て鑑賞しあって,そして今度はセンターの職員の方を呼んで来て見ていただいて。つまり私たちは一つの活動が次の活動を呼ぶように,そして意識的に他との人間関係,教室外に人間関係を広げていく。いろいろな方と関わってもらう。日本人と関わることを恐がらないで楽しんでもらう。そういったこともねらっていろいろな活動をやっています。
一日6時間の授業ですから本当に大変だと思うのですけれども,概して皆さん,嬉々として教室へ来てくださいます。多分,ここでのこの時間を楽しく豊かに過ごすことができれば,その体験が地域に出ていったときに何かの役に力になるはずだということで,そういうはずという思いにすがるようにしてやっているのが高齢者クラスです。
こちらでは識字活動,識字教室の活動がこちらでは大変盛んだというふうに伺っております。私たちがやっていることが何かの御参考になれば,あるいはまた参考になることを教えていただければありがたいなと思っております。簡単ですが,失礼いたします。

*1 テーマシラバス テーマごとに構成した講義などの要旨。または,授業細目。
*2 構造シラバス 言語の構造に着目して構成した講義などの要旨。または,授業細目。
*3 マイノート 自分のノート。
*4 オリジナル 原型となるもの。原作。原物。
*5 フル いっぱいであるさま。十分であるさま。最大級。


西尾:ありがとうございました。時間の問題もありますので,まず概要を話し,そして具体的なことは後ほどということでしたけれども,皆さんから今までの中で是非聞きたいことというのはおありでありますか。そこのところちょっと分からなかった。もうちょっと詳しくということがあったら先にちょっと。

参加者:今までのことではないのですけれども,国際救援センターの中で何時間か日本語教育をなさいますよね。その後は学齢期の方は学校に,公立学校に行かれるというのですけれども,拒否反応とか学校に行くのが嫌だとか精神的にも肉体的にも何か問題点みたいなものはありませんでしたでしょうか。ちょっとそのあたりもう少し詳しいことをお話願えますでしょうか。

四方:1か月経ちますと就学適齢期の子供たち全員で近くの小学校へ行きます。2〜3期の学習者が同時にセンターに入っていますと,既に前期の子供たちが行っていますので,その子供たちと一緒に,それこそランドセルを背負って給食袋や上靴袋を持っていきますので,それは聞いたことはありません。どちらかというと嬉々として皆学校へ通いまして,日本語も大人たちよりも早く慣れた日本語を学習して身につけて戻ってきて,お父さんお母さんたちをちょっとびっくりさせていたことの方が多かったです。

参加者:というのは,私は外国人児童補助員をやっておりまして,日系人の方のお世話をさせてもらっているのです。そしたら,ぽつんと一人,4月に学校に行ったりすると,やはり親の方も不安ですし,子供もちょっと給食が食べられなかったりとするので落ち込んだりする子供がいるので,ちょっとごめんなさい,話がとぎれましたけれども。

四方:ですから,結局皆何人かで連れ立っていくものですから,一人ではないので,その辺が随分と違っていたと思います。それともう一つは,学校が非常に好意的に受け取ってくださいまして,校長先生はじめ,特に日本語クラスというのを設けてくださって,そこには選任の先生が一人ないし二人,人数によってですけれども対応ができているのですね。そういう方が担当してくださいまして,日本語教育をして,そして後各クラスに入る授業もあるのです。例えば音楽であるとか日本語がそんなに必要でないような教科に関して。

参加者:教科指導。

四方:そうですね。それはクラスに入って自分と同学年の子供たちと一緒に学びましたので,どちらかと言えば姫路センターにおりますときは,拒否反応はなかった。ただ,半年の日本語学習,その他の学習の後,各地域に暮らして,それからはやはりそれぞれのいろいろな問題があったようです。

参加者:システムとしてやはり4か月,その期間,就職という問題がひっかかっていますよね。その時にはその辺の例えば支援というものがどういうふうな形で,やっぱり職安なんかの絡みで私たち。

四方:センターには職業相談員というのがずっとおりました。幸いセンターがありました頃はバブル*1の頃だったので,割に就職はしやすかったのです。大きな企業の下請けなんか,また孫受けなんかをしている工場が近くにあったり,また既に大阪であるとか兵庫の尼崎であるとかそういうところに定住している人たちが多数仕事をしているような会社がもう既にあったりしますと,そこに新たにまた紹介すれば雇ってもらえるというような時期だったので,私がおりましたときは,幸いにうまく皆さん仕事に就いていきました。

*1 バブル あわ。あぶく。土地や株などが高騰した時期の経済をバブル経済と呼ぶ。


西尾:今の解説ですけれども,難民の受け入れ業務という中に就職も必ずさせるというところまでがあるのです。日本はなかなか,先ほど500人しか受け入れないと言いましたけれども,その後段々段々増えてきまして,現在1万1,000人インドシナ関係の難民の家族が日本に滞在しております。で,その人たちはもちろん学校に行く子供もありますし,高齢者でおうちで家事をしている人もいますし,それから働いている人もいますけれども,働く年齢の人は皆必ず就職をさせるところまでが,日本語教育と就職,これが二つ大きな業務なのですね。受け入れセンターの。ですからそれは必ず,ちょうどバブルの頃で良かったですけれども,それがはじけたら大変です。救援センターなど今は本当にそれこそ職員の人が動いて,かつて難民を受け入れてくれたところとか,でもそれももうリストラ*1でやはり大変なのです。やめて戻ってくる人がありという中で,厳しいこの世相の中でも何とか難民の人たちはともかく4か月日本語を勉強をしてきてくれというので,他の外国人労働者の問題よりも政府が受け入れているという信用が非常にありますので,就職はずっと優位だと思います。
ただ,今の子供のことは,浅井さんがもしかすると今行っていらっしゃる小学校で問題が起こっておりませんか。

*1 リストラ リストラクチュアリングの略。企業が不採算部門を切り捨てたり,事業構造の転換を目指すこと。


浅井:そうですね。少し離れるかもしれませんけれども,今私が行っている園田北小学校の子供たちは,先ほどお話しましたように日本生まれ日本育ちの人たちですけれども,9名の1年生が入学しました中,一人だけは日本語が全然分からないという不思議な現象が起きております。と言いますのは,その理由は両親がベトナム語しか話さない。そうしてお兄さん,お姉さんがいるのですけれども,ブロークン*1な日本語しか話さない。Tちゃんという子供ですけれども,お母さんはTちゃんが1年生になるまではベトナムに連れて帰っていたというような行ったり来たりしていた状態でしたので,日本語が本当に9名のうち8名に関しましては日本の保育所,幼稚園などに通って日本のことは少しはそれなりに理解しているのですけれども,一人だけTちゃんに関しましてはそういうことが分からず,「名前は?」と尋ねても分からない。机・いすといった身近な言葉も分からないので本当に私はその子供に接して,何とかして日本語を支援してあげたいという気持ちがいっぱいでした。小学校へ行きましたら,その子供についているのですけれども,全然分からなかった子供も段々今では日本語が少しずつ分かるようになり,同級生がユイ教室で通訳してくれて,Tちゃんに対して私が言った言葉,「名前を聞いているよ」とか「鉛筆を出しなさいと言っているよ」というようなことを通訳してくれますので,非常に助かっております。ユイ教室では国語の教科書読みをいたしております。
まず宿題のチェック*2をいたします。そして学年別,一人ずつ個別に国語の教科書の音読をチェックしております。これに関してはそれぞれに目標を定めておりまして,一覧表がございます。初めは声を大きく出して読む,2番目は点,丸に気をつけて読む。姿勢を正して読むとかいうような評価の目標がございます。私はまず日にちを確認します。今日は何月何日というようなこと。そして本読みの目標を定めて,子供に音読をさせます。1年生の場合,非常にまだ文字の導入が済んだばかりで困難なので,Tちゃんなどは学校で習った前のところはかなり私に声を出して読むようになるのですけれども,今現在習っているところは読んでくれません。というのは,まだ暗記していないのですね。丸暗記して覚えるというような一つの過程を彼女は経ていると思うのです。それはそれでいいのですけれども,そういうような状況でございますから,声を出して読むということは非常に彼女にとっては勇気のある作業だと思います。ユイ教室の担当の先生が,「ああ,Tちゃんの声初めて聞いたわ。」なんておっしゃったときには,私も非常にびっくりしました。私は週に1回しかその学校に通うことはできておりませんけれども,そのようなことがありました。
上級生に関しましては,音読で内容を把握し,ずっと慣れてくると生徒から内容について聞き出して,自分の言葉で話させるというようなことを指導いたしております。何しろ時間が,私自身も足らないし,1年生の子供が私に向かって並んだり,本読みを聞いて欲しくて私にほめ言葉をもらいたくて並んで待っているような有様です。時々時間がないときはグループで見たりして,女の子,男の子たちで交互に読み,聞くようにしております。内容の把握までは1年生に関しましては非常に難しく,ただ文字面を追って文字を読むというところしか今のところはできておりません。

*1 ブロークン こわれたの意味。文法にはずれていてでたらめなさま。
*2 チェック 確認。


西尾:後10分ぐらいして1回休憩に入りたいと思いますけれども。今,浅井さんが説明されて,私もこの今日の分科会はベトナム難民,あるいは難民教育からのボランティアへという提言がありますので,センターを出てからということ,あるいは日本にもう長く住んでいる,日本で生まれているというような条件が,ある意味では小学校,あるいは中学校,あるは日本社会への適応の段取りが取れている人たちというふうに恵まれていると思います。が,日系人で急に働きに来てきたブラジル人の子供,ペルー人の子供とか,世の中にはたくさん今,昨年の9月で1万9,000人ですか,小学校,中学校に通っている日本語の手当が必要な子供たちだけで1万9,000人いるという数字が出ておりまして,今年もまた大体同じような数字が出ましたけれども,そういう中ではこれだけの段取りを踏まないで突然,それもさっきおっしゃったように突然一人だけある学校に入ったというような,本当にもう角に置かれてしまっているような子供もどんなにか多いわけです。
で,逆に三重県とか浜松市とか静岡県のように,あるいは私が関係しておりましたのは群馬県の太田市ですけれども,太田におりまして,その子たちが本当にポルトガル語でわっと話しだすと,他の日本人の子供が落ち着いて勉強ができないなというようなことがあるようなクラスもありますし,全国いろいろなパターンがあります。ですから,大分いろいろなデータが出てきていますから,それこそ情報としてはお聞きになるデータはいろいろあります。その一番自分でなさろうとしている,あるいはしていらっしゃることと似通ったところはどこなんだろうかというようなことをもしかして聞いてくだされば御紹介もしますし,そういう相談を受け付けというのは,私どもはやっておりますから,いつでもおっしゃっていただきたいと思いますが。
ただ,問題は,この中にまた先ほどのパネルディスカッションではないけれども,学校の先生がいらしたら先におわびしますけれども,学校の先生の加配の先生が,日本語の指導法を必ずしも専門的に勉強をしていらっしゃるとは限らないのですね。ですから同じように,日本人と同じように多少ゆっくり教えていらっしゃるので,どうも学校の文化というものが違う外国の小学校あるいは中学校から来た子供は,そのこと自体ついていけないということがよくあります。で,国立国語研究所で研究しているいろいろな例の中にありますけれども,例えば学習言語と日本語,教科の言語と日本語とどちらが分からないのか分からないということがボランティア活動なり学校の先生が一番困難なのです。例えば文章でこの掛け算をやってごらんと,何々の掛け算をやってごらん,分かる人は前に出て書きなさいと言った場合に,そのことが分からないから出られないわけですよね。ところが,式を書いてみると何でもなくそれを答えていく子供もいるわけです。つまり教科を分かっているけれども指示語が分からない。指示語の日本語が分からないために,点数が取れないというようなことを見分けるのは,日本語を外国語として指導したことがある支援者に限る,限ると言っては悪いです。支援者が有利なのです。そこを助けてあげなければならないと思います。
それから,学校文化の違いということで一つの例を申しますと,中国から来た子供が,非常に優秀な子があるところに入ったのです。ちょっと優秀なのが鼻が高過ぎる,自分は何だって分かるんだと,ちょっと中国には良くそういうがんばり屋さんがいます。そうしたらば理科でしたか,試験で泣いて帰ってきたわけです。どうしてだといって非常に家のお母さんたちがびっくりしたのです。この子がテストができないわけがない。どうしたのだと言いましたら,できたところは丸をしますね。中国では○の中に間違いがあるというサインなのですね。テストに。日本ではこれはできましたなのです。それが日本の先生も分かっていなかったし,もちろん中国風にしてあげる必要はないですよ。そのことを教えてあげていなかったから,こういう答案が返ってきたわけです。そして大騒ぎになって,その子は泣くし,それでよく話し合ってみたら,中国ではこの中に間違いの部分があるよというときに輪を書きます。日本ではできましたの輪です。正反対ですね。だからその子は全問正解できた子なのです。だけど先生が○をつけたのを全部間違いだと解釈したわけです。こういう学校のそれこそ方法ですね,指導方法,文化でしょう。それがやはり異文化としてきちっと学校のやり方までよく分かり合っておかないと,とんでもない間違った解釈が行われて傷つくわけですね,子供は。もう学校に行くのは嫌だとこの子は言ったそうです。それをなだめてよく説明して,先生も学校中がこのことを知って,中国人をこれから入れるときにはこのことによく初めに説明をしましょうということの申し合わせができたということが事例としてございます。
ですから,いろいろな意味で子供の問題というのは確かにまだまだいろいろなことがありますし,集住地区では逆に子供が多すぎて,いろいろな問題が起こっています。それから加配教員が専門性とは別のところで加配されてくる。配置されるということもありますし,先生から先生への申し伝えが割とないとか,そういうことがたまって浅井さんがああいうことをおっしゃったのでしょうけれども,いろいろな問題がまだまだまだまだやはり教育委員会の方の理解がいま一つ,やはりちょっと遅いのではないかなというふうに思うことはございます。
それでどうしましょうか。5分ほど。そうして是非,高齢者クラスは大変に事例としてはめずらしいことを今日は発表させていただいています。そのことをもっと詳しく。あるいは四方さんの方のことも詳しく。あるいは他のことでも後でいろいろ。

参加者:質問をしたいのです。

西尾:質問に答える,そういうことを答えたいと思いますのでたくさん質問して。後,皆さんとの時間だけにしたいと思いますから。よろしいですか。では5分ほど。本当に5分にしましょう。38分ぐらいから始めましょう。よろしいでしょうか。

  (休憩)

参加者:大阪の多文化共生センターの言葉の会というところでボランティアをしておりますNと申します。幾つかお聞きしたいことがあるのですが,一つは,私は留学生の教育が長かったのですけれども,その留学生の教育の初期の頃,多分20年かそれぐらい前だと思うのですけれども,姫路の難民センターのところで教えている友人がいまして,そのときにいろいろな教材を見せてもらったのですね。特にサブ教材*1です。留学生教育を仕事としてやめまして,地方の地域の日本語という,いわゆる定住者の日本語に関わったときに,テキストが全然ないのですね。それ7年前の話ですけれども7年たった今もありません。使えそうなものとしてそのときに何もないので驚いたと同時に,使えるものとしては難民センター辺りで使っていらっしゃったものが幾つか,その当時は興味がなかったのですが,すごく役に立つものが幾つかあるということをそのときに気が付いたのですね。それで今役に立ちそうなものは,いわゆる国際救援センターの中で使っていらっしゃるものと,それと帰国者定住,帰国者の方ですね,あそこで使っていらっしゃるもののメインテキスト*2でなくてサブ教材の方に幾つか使えるものがあると思うのです。そのものでなくても参考にして何か新しいものを作っていけるものがあると思うのですけれども,そういうものがいわゆる一般のところには全然出てきません。そういうものを参考にというか,研究資料にでもいいですので,いただけるとしたら,一体どこへどういうふうに言っていけばそういうものはいただけるのか。それから姫路の方なんかは残っているのか残っていないのか。それを1点お願いします。
それからもう1点よろしいでしょうか。いわゆる国際救援センターでも帰国者のところでもいずれにしても長時間,長期間というか,かなり長い間1か所に住んでそれをある程度積み上げをして学習していくという学習のやり方ですので,いわゆる定住者で週に1回ボランティアでやっているようなところにはそれは合わない,合う部分が比較的に少ないと思うのですけれども,一つの姿勢として,いわゆるテキストがほとんどすべてのテキストが,いわゆる使えるようになる言語,いわゆる使用言語とそれから聞いて分かる言語,理解言語というのを一緒に提示しているというか,一つの視点でしか提示していないというものが多いと思うのですが,国際救援センターの方ではお使いになっているもので,いわゆる聞いて分かる言語,理解言語と使用言語ということに留意して,そのことを分けて考えていらっしゃる初級のテキストをお持ちかどうか,この2点をお願いいたします。

*1 サブ教材 副教材。
*2 メインテキスト 教材


西尾:まず残念なことに,先ほど私はちょっと政府にもちょっと辛口を言いたかったのですけれども。予算の経路でしか作られないのです。難民が入ってきたことによって関東も関西も一緒に研究会を開きますけれども,どれぐらいいろいろなものを開発したか分かりません。難民センターが閉鎖されると同時に,その予算を全部カットで,1冊も残っていないです。
で,私たちが持っているぼろぼろになったものをコピーしたりすることはできるのです。ただ,それは私どもがたまたまお分けできるということがある場合だけで,アジア福祉教育財団難民事業本部,そこに行っても難民のための予算で作って使い果たしたものはもう増し刷りはしませんということなのです。国のものってこんなに手当のいい教育をしながら,終わったら予算が全部なくなる。これが現実です。
それで一つ方法があります。それはインドシナ難民のために作ったのだという考え方が国にはあるのです。私どもは全部地域に利用していただきたいのです,あれらを。だって私どもも一生懸命作ったのです。ところがそういうことを言われますから,では,教材で余っているもの,残っているものがあったら,それだけでも配布してくださいと申します。そうすると,じゃあボランティア団体がアジア福祉教育財団難民事業本部というのがありますが,そこに自分はこういう難民を教えていると,その後も。何年たってもいいのですよ。難民から入国した人を教えているという名前と,御自分がボランティア団体名を申告なさるとただで送られてきます。残っていれば。そういう方法があるのです。それでカタログ*1があります,それは。持ってらっしゃる。こういう難民のために開発したガイドブック*2がある。私どもが作っています。これを全部地域に実は全部活用していただきたいわけですよ。ところが他ですれば別ですよ。ただ難民事業本部開発という奥付ができています。版権も持っています。そうするとそんな簡単にできないので,私どものAJALTのようなところでは,それに類似したものを作って地域にお渡ししていることはあります。そのぐらい窮屈なものです。国の仕事というものは。こんなに開発もビデオだってどのぐらい作ったか。いろいろなものを作りました。ちょっと時代的にもいろいろ例題なんかも古いですけれども,そういうものがありながらそれができなくなるのは,国の仕事というものだと今私は批判的に言いたいところです。現実です。四方さん,何かありますか。

*1 カタログ 商品や展覧会の作品の目録・説明書。
*2 ガイドブック 案内書。手引書。参考書。


四方:姫路センターで使っておりました教材,先ほども申し上げましたように,日本語入門,これがメインテキストです。その他に本当にたくさん,例えば『グロッサリー』これは辞書ですね。それから『オーラルドリル』文型を練習するためのものです。それから『チャート』これは絵を見ながら語彙を習得していくものです。そして先ほどちょっと申し上げましたように『会話練習』これは運用のためのものです。で,もう少し初めに戻りまして,会話表現,教室用語,発音練習をするような教材も出しました。そして文字練習としては平仮名,カタカナ,漢字練習,1,2といったものを副教材として作成し,姫路センターで使いました。
ですけれども,今西尾先生がおっしゃいましたように,インドシナ難民定住者にボランティアとして関わって下さっている方々,またはその団体に対しては申請があればチェックした上で援助しますというシステムなのですね。それも姫路センターがもう閉所して7年以上たっておりますので,なくなっているテキストもたくさんございます。だけども私たちは本当に西尾先生がおっしゃいましたように,講師の方々が,私たちは先輩だからそういう言葉を使わせていただきますけれども,先輩の講師が本当に自分たちの教える時間と別に,別の時間としてこういう教材を開発されましたので,いろいろなところで使っていただきたいと思うので,宣伝しております。今はもう2人の方から『日本の生活』であったり,それから『会話?・?』のお尋ねがございました。これはベトナムやラオス語訳しかありませんけれども,ポルトガル語訳をつければそれでブラジルの方に使えますし,英語訳を使えば英語圏の方に使えますし,教材としては本当によくできていると思います。ただ,ちょっと古いので,例えば日本の産業が今現在こうだというとちょっと違うので,そういうところも書き換えなりしていただいたら,本当に構成としては随分きちんとしたものなので,何かそういう運用をしていただけたらと思います。ただ,本をどういう形でお渡しできるかはちょっと本部の方と相談をしないと。

西尾:四方さんのところに,関西支部に行きましたらこれはありますか。

四方:それはございます。お送りできます。

参加者:語彙表はあるでしょうか。

四方:語彙表ですか。どういう。

参加者:つまり生活者の状況のところに,テキストを作ろうと思うと,まず語彙の絞り込みが必要です。文型は文型なのですけれども,まず語彙の絞り込みが,生活語彙の絞り込みが必要なのですね。ですから,せめて語彙表だけでもあれば,それを料理するということも可能だし,もちろんテキストをいただければそのまま使いましてもそれを参考にして幾つものテキストができるだろうと思うのですね。とにかく全然ないですから。それともう一つ欲を言えば,それだけたくさんの実績をお持ちですから,そこでどこをどういうふうに組むか分からないけれども,そこで生活者のテキストを週に1回ぐらいしか勉強しないボランティアのところでも使いやすい生活者のテキストを作ってみたいという有志の方はいらっしゃらないのですか。

西尾:いえ,やりました。後ほど御紹介します。この次に出てくるリソース型生活日本語というのは私のレジュメの続きにありますね。41ページです。これを紹介させていただきたいと思います。これは他の方が御存じないので簡単に説明しましょう。文化庁がこれだけ地域の日本語支援がある中,全国に通用する教材を作ってくれということを私どもに依頼が来たことがありました。そのときに一律のものはできない。というのは,皆さん地域語なのです,まず。地域語で生活に入るわけです。それですから,地域語はその地域の方でないと正確には把握できないわけですから,一律の教科書一冊あればどなたでも使えますというものは作れませんと言ってお断りをしたのです。その代わり私どもの希望を出させてくださいと言いまして,その材料になるものを全部集めさせると言ったのです。そうしたらよろしいということになりまして,2年かけましてこのリソースというのは,素材と思ってください。教材を作るための素材表を作ったのです。この素材はいろいろな研究の結果,語彙を選んでいるのですけれども。外国人が日本で生活をする上でほぼ必ず遭遇するその可能性のある場面の中から,全部実際に書式も,例えば図書館で本を借りるかしら,銀行で預金をつくるかしらといったらその書式も全部ありますね。それも全部2年間かけて集めました。そしてここに,御存知のようにここに目次だけですよ,これ。この中にたくさんの引き出しがあると思ってください。それも表題の一番主なところだけここに書きました。それだけもこれだけたくさんあるのですけれども,この中が何十とあるわけです。場面別に。そこで必要な語彙を収集しまして,コンピュータにデータベース*1で入れ込んだのです。で,このデータベースは私どもが実は著作権を持っているのです。というのは,書式の一つ一つの制作所に全部行って,これは地域の生活者のためだから何とか中で使わせていただきたいと言って,例えばスーパー*2のチラシ一つでも全部著作権があるのですよあれ。それをクリアするのにさらに1年かかってしまいました。そして全部クリアして私どもがこれを著作権の使用許可を得ました。そしてその使用許可を得ましたが,私どもは公益法人ですからもちろん無料でウェブで使っていただくように,コンピュータに全部取り入れてあります。AJALTというところのホームページを開いていただくとリンク*3するようになっていまして,どなたでもリンクできます。ただで使っていただけます。それは語彙表です。全部。そしてサンプルのテキストが必ず作ってあります。それには書くとか,読むとか,話すとか,聞くとかいう四つの機能のところに印があって,ここは書くことだけの教材になっています。これは聞くことと話すことに使える教材です,サンプルですよと。それが全部一つずつ作ってありますが,要するにデータベース,言葉の語彙収集ですね。それが載せてあるのですけれども,ただ申しわけないのですけれども,ただなのですけれども会員になって,御自分のIDを持っていただいて,それで自由に入っていただいて,どんどん使っていただきたい。全然お金はかかりません。ただそれを自分でウェブで,さあこの人がこういうことをしようとしているんだけれども,それはあったかなといってここで調べると,そういうカテゴリー*4がありまして,そこから買い物なら買い物とか,医者とか病院とかなんとかいろいろなことがあります。それから割と危機管理のことなんかあります。そういうことを出していただいて,その言葉をヒントにして,自分で支援者が作ってくださるようなものなのですね。だから,それはボランティアグループでいろいろな地域でも作られています。それは大抵方言で作っています,大体のところが。そこで使われるものなので,自由に使われればいいので,そこまでのお膳立てをするのが私たちの役目でしたから,それはしました。ですからそういうものなのです。リソース型と言っていますけれども,教材素材が生活日本語で,これは大変私どもは結果的に3年かかりまして,またそのウェブ*5に載せるのに1年かかりましたけれども,大体3年間で作り上げましたものですから利用していただければ私はうれしいです。そういうことは入れておきましたから,これで見ていただきたいと思います。実際に今日帰られてから開けて御覧になるとちゃんと出てまいります。それが一つです。
それは何かもう御存じでも使いにくいとかいうようなことがあったら,どうぞいろいろ注文をAJALTに送ってください。もっとこうして欲しいああして欲しい,これは目次だけは6か国語の翻訳をつけました。ですからポルトガル語とかそういう言葉でも目次はあるわけです。大変なのです,全部を翻訳するの。でもこれは少し2,3年かかると思いますけれども,全部翻訳していきたいと実は思っていますし,実は同じ翻訳するなら,これを翻訳するのでなくて,自分たちで作ったものを翻訳したいという方が多いものですから,作ったものを翻訳したのはいろいろな地域にもうできつつあります。ですからもし他のを見たいということでしたら,そこに許可を得て,それこそメール*6で送っていただければいいわけですから,使っていただけたらいいのじゃないかと。
それからこれはもう少し細かいところまですれば,どんどんあるのです。650ページ,天井まであるようなそのぐらいの量になりましたので,どういうところだけが,コンピュータでは自分は作業しないけれども,プリント*7として見たいというような希望があればそういうふうに申し込んでいただければ,プリントとして送っても問題になりますから,どういうところが,あるいはそちらの地域に飛んで行って説明会をするとか,そういうことができますので,それは言っていただきたいと思います。そういうものがひとつあるというふうに覚えていただけたら。それで,今のではお答えが十分ではないでしょうか。どうしましょうか。いいですか。では,また別の質問をいただきましょうか。

*1 データベース コンピュータで,相互に関連するデータを整理・統合し,検索しやすくしたファイル。また,このようなファイルの共用を可能にするシステム。
*2 スーパー スーパーマーケットの略。主に食料品などの日用品を扱い,廉価価格を原則とする店。
*3 リンク 連結・連動すること。インターネット上のホームページなどから,他のページに直接飛ぶことができるよう情報を埋め込んでおくこと。
*4 カテゴリー 範疇のこと。同じ性質のものが属する部類。
*5 ウェブ 網。網目。ここでは,world wide web(ネットワーク上の複数の独立した情報を変更することなく統合し,関連づけて提供するシステム)のことを意味。
*6 メール 郵便。ここでは,電子メールの意味。
*7 プリント 印刷すること。印刷物。


参加者:もう一つ答えていただきたいのですけれども,二つ質問したと思うのですけれども。基礎レベルのテキストで使用言語と認識言語の違いの視点を持ったテキストをお作りになっていらっしゃるかいらっしゃらないか。今あるテキストは全部両方一緒なんですね。それがちょっとお尋ねしたかったのですけれども。持っていらっしゃったら是非見せていただきたいと思っています。

西尾:それは私のところにはないです。難民関係では作っていないということですね,要するに。どなたか,情報ください。どなたかありませんか。

内藤:関係するかもしれませんけれども,思いますに,最終的には使用言語のテキストは自分で作らせる。学習者自身が自分自身のテキストを作るというのが一番残ると思います。全部教師が,あるいは支援者がそろった物を用意して,さあこれを覚えましょうというのではなくて,こちらがヒントだけを持って行って,こういう場面でこういう言葉を使うだろう,こういう日本語を使うだろう。でもあなたは本当は何を言いたいのということを持ちかけて,その人の使いたい日本語を聞いてあげて,ではそれを書きましょう,あなたのノートに書きましょうと。で,これがあなたのテキストにしましょうねというようなそういうやり方を今,国際救援センターは成人クラス,あるいはこの高齢者クラスでもそうなのですけれども,そういう方向が少しずつ出てきています。それが結局はオリジナルの自分に一番必要な日本語をその人の中に入れていく,何か時間がかかるようですけれども,非常に確かなやり方なのではないかなという感触を今私はもっています。

参加者:私もそう思っているのです。こっちの方の質問,質問というか,少しは積み上げ式でもいいのですけれども,質問のところだけは聞けばいいわけですよね。例えばあなたのうちはどこですかとか,どこの国から来たのとか,あなたの国はどこやねんとか,いろいろあるでしょうと質問を聞いて,答えは一つですから答えだけ言えばいいわけですね。そういう視点からのテキストをお持ちかとお聞きしたのです。つまり聞く者は別に自分が言わなくてもいい。それは将来に渡っては言いたいと。とりあえず一番最初のスタートの時点で,誰かに質問をされたときに,とりあえず自分のことが答えられるようにするテキストが今一番欲しいのです。我々のような週1回しかやっていないところではそういうものが欲しいのです。そういう視点を持っていらっしゃるテキストがあれば是非見せていただきたい。

西尾:今,手が上がりました,持っていらっしゃいます。こちらです。

参加者:山形市国際交流協会の者ですけれども。与えられたテキスト,リソース型の日本語というのを教えていますけれども,山形市では975式で講座を行っていまして,その中で使っているテキストということで,ボランティアの方々を中心に,実際に来て間もない方々を対象にということでテキストを作ったのですけれども,今おっしゃったような聞いて分かる程度のもの,あと,学習者が言えるように練習するというので,ちょっと分けて,実際に話されている場面ということで,銀行とかでよくパターン化できている区分とか,そういったものをテキストにしろ会話を載せていまして,例えば銀行に行ったらいらっしゃいませという部分が聞いて分かる程度ですから,そういうものをあまり強調しないで自分から言える部分,例えばやりたいこと,通帳をつくりたいのですけれどとかそういった自分から目的として言える部分というのをちょっと分けて,聞いて分かる分については耳マーク*1をつけて表示して,自分から言わなければならない部分とかについては唇のマークをつけているというふうにそういうふうに分けたテキストをきちっと作っているのがあるので,もしそれを御覧になりたいのであれば,山形市国際交流協会に問い合わせていただければ差し上げますのでよろしくお願いします。

*1 マーク しるし。記号。


西尾:どうもありがとうございました。

内藤:すいません。先ほど話がありましたAJALTの「リソース型生活日本語」ですが,これも聞く部分と話す部分がしっかり分けられております。モデル会話を作る際,聞く方は聞いて分かればいい,そして話す部分,これは学習者が話せるようになって欲しい部分です,ということを意識して分けて作っております。この場面では話せなくても聞いて分かればいいとか,これは話せるといいか,聞く・話すだけでなく,この部分が読めるようになってほしい,ここは書いてくださいというように,それぞれの場面で,4技能のうち,学習者に必要な技能を明確にして作っておりますので,そういう視点からもちょっと御覧いただけるとありがたいです。

西尾:他の方何かありますか。どうぞ,他に。もしあれでしたら,先に具体的にもう少しここのところを話したいとおっしゃっていましたよね。

浅井:それでは,学習日本語と生活日本語についてちょっと具体例をお話したいと思います。今まで日本育ちの子供は,先ほどもお話しましたように全然友達との交流に問題はありません。ただし,奥深く抽象的な言葉になると少し難点を生ずるところでございます。実際に私が低学年をこの学校で教えた子供に関しまして,算数の1,2,3,これは1個2個,これは1と1個と音が関連しておりますから,非常に理解しやすいです。ただし,次に出てくる「ひとつ」「ふたつ」になると,もう子供はこれは数の概念とは全然思っていないのです。センターでは初めから助数詞なども1個2個とか一つ二つ,日付の1日2日も徐々に導入しておりましたけれども,やはり学校へ行く段階において学校へ行った現場ではこの子供たちは「ひとつ」「ふたつ」,これはベトナム人の家庭ではあまり使われていない数の言い方なのかな,それとも1,2,3で用がたりてしまっているのではないかなと思っております。
それから,算数の問題にして初期の問題で文章題に入りますと,「リンゴとミカンを三つずつ買うと,…」そのように教科書に出てきております。〜ずつ,幾つずつとか,また「買うと」など条件の言葉になりますと,生活面ではなかなか理解しにくいのです。これを少し違ったやさしい日本語で「リンゴを三つ買いました。そしてミカンも三つ買いました。そうすると,…」と言えば先ほどの問題では,低学年の子供でもすぐ理解できます。こういうことを私たち学校に入って特に低学年に算数など教えたり宿題などを見る場合には,もう外国人生徒はそういうところで置き去りにされているなと私は非常に感じました。
それで,先ほども申しましたように,ユイ教室では「ただいま」という日本の家庭と同じ教室,家として考えられておりますから,「ただいま」と言って入ってくるこのこと自体,また家庭では親は生活に追われて忙しいですし,親の日本語レベルも子供の方がずっとずっと上達しておりますので,子供は話したいことがすごくたくさんあるのですね。それでユイ教室が子供の居場所ですので,私が来ると寄ってたかって,次から次へと「先生,これしてねあれしてね…」と言ってもう四方八方から子供たちが1週間のできごと,また当日のできごとなどを話してくれるので,それをやはり私が聞く場として,聞く相手にならなければならないと思っております。
なお,ベトナム語は聞いては分かる子供たちですけれども,難しいベトナム語(抽象語)が話せない子供たちも今多くなってきておりますので,親に相談しにくいことも私にはいろいろと日本語で相談してくれるような雰囲気になっております。ボランティアとして学校ではなかなか受け入れにくいというところがあるようです。それは一つは安全面です。その他の分担等,いろいろ抱えていますけれども,外国人児童に日本語支援をする場を,本当に私は今少しでも広がっていけば本当にうれしいなと思っております。

西尾:四方さん。

四方:レジュメの中で4,5,6で書いているので簡単に申し上げます。4の社会生活適応指導と言いますのは,資料につけております51ページの下のところに指導項目を上げておりますが,これらは日本語教育の中ではとてもできない難しい事柄,語彙がたくさん出てまいりますので,すべて訳がついて通訳がついて指導をしました。これは日本語教育の前と後にまとめて指導しておりました。私たちはこちらの方には直接関わっておりません。これら担当の指導者がおられますので,その方を中心にして指導が行われました。
次に,生活指導を実際に受けた定住者に感想を聞いてみたのですが,10年前にセンターを出た,現在20代後半の女性ですけれども,どんなところが印象に残っていましたか,覚えていることがありますかと聞きましたら,バスに乗って姫路城,動物園を見学したこと。電車に乗って姫路駅を見学したこと。会社見学に行ったこと。学校見学に行ったこと。先生に手紙を書いたことというふうに,実際に自分の体を使って動いたことは全部覚えていました。その他何か覚えているかと聞きましたら,「日本の地理と食べ物についての話は記憶がある」と答えました。と言いますのは,その人は本当は高校生年齢だったのですけれども,中学から入り直しまして,日本の中学を卒業したのですが,その中学の地理の時間に日本の地名がやはりたくさん出てくるわけですね。その地名を生活指導の中で勉強した記憶があったのです。テキストを開いてみると載っていたので,そうそうそういうの習ったなということで思い出したわけです。食べ物についても,私たち学校教育の中で旬の食べ物を食べた方がいいですよというふうな案内を勉強をいたしますけれども,それもこのテキストの中で取り上げておりますので,それなんかは非常に関心を持っていたというふうに言っておりました。
ただ,彼女が言いますのに「本当に3時間の中でたくさんの語彙を勉強するので,その授業中に覚えることはほとんどできなかった。10代後半の一番頭のすっきりしている年齢でも覚えることができなかった。」けれども「センターを出た後,さっきも言いましたような形で復習をしたこともありますし,また両親もそういうことを勉強したということでこのテキストを自分の家の中で開いていたこともある」というふうに言っておりましたので,センターにいる間はマスター*1できなくても,後々利用してくれたということがこれで分かりました。

*1 マスター 会得すること。十分に理解すること。

  また地域でインドシナ難民への日本語支援をしてくださっている方に伺いましたら,このテキストを使用しての感想を次のように話してくださいました。「日本に来て間もない学習者にはこのテキストが非常に役に立った。ただ,姫路市というのは姫路に住んでいる人にとっては参考になるけれども,それ以外の地域の人にとってはかなり地域的に違うので,違う教材を作って提示した。日本の産業はもう随分変わっておりますから,それらを少し変えた。それからまた手紙のところは実際に年賀状を書いてもらって,ボランティア支援をしてくださっている方々に年賀状を書くように指導をした。」
そして電車,バスの交通機関の利用なのですけれども,これは今現在でも電車やバスを利用して移動するということがなかなかできないのです。例えば就職相談がありましたときに,どこどこの会社がこういう場所にあるのだけれどもというふうに地域の相談員が申しますと,「それはどうして行くのですか。」「電車に乗ってバスに乗り換えて。」と伝えますと,「僕はそこは行けません。」と言うのですね。やはりベトナムなりラオスにいるときに,そういう経験がないものですから,乗り継いでいく,乗り換えていくということに非常に恐怖感と言いますか,嫌悪感を覚えるみたいです。この頃はそんなことも言っていられないような御時世ではございますけれども,でもいまだに職住接近ということを望んでいる定住者が多いです。ですから新しく呼び寄せて日本に来た奥さんたちやはり電車やバスに乗るということはなかなかしません。移動するのは主人の車での移動が多いです。そうでなかったら近場を自転車で移動をしています。ボランティアグループによっては,年に1回の交流会に電車に乗って,例えば先ほど浅井さんが御紹介なさいました地域,尼崎の地域なんかでは電車に乗って梅田に出る。そこでおすし屋さんに入っておすしの注文の仕方などを,一緒に学びながら食事をするというようなことも学習の一環として取り入れてやっていらっしゃいます。
その他にも日本料理というのはなかなか注文をする仕方が分からないので,あるグループではそこは男性の学習者が多いものですから,夜に皆で外出して,交通機関を利用して外出して,日本料理店に行って注文の仕方などを勉強するというようなこともしていらっしゃいました。
学習している人にとって必要な事柄をその時々に入れていくことをなさっている日本語教室は非常に長続きしております。保育所や幼稚園,学校からのお知らせを一緒に読む,それから広報を一緒に読む,難民事業本部から『こんにちは』等々の機関紙を出しておりますが,それらも教材にして一緒に読む。そして交流会も先ほどはおすし屋さんに行く例を申し上げましたけれども,お互いのお正月料理ですね,日本でしたらおせち料理ですし,ベトナムでしたらお正月料理を互いに持ち寄って,お料理を食べながら日本語の会話を楽しむというような,ですから勉強だけではなく,そういった交流を楽しんでいらっしゃるグループは非常に長続きしております。話が横道にそれましたけれども,以上で終わります。

西尾:何か御質問がありますか。今度,高齢者の方に移ります。

参加者:大阪の国際交流センターの者です。高齢者のクラスをなさっている内藤先生にお伺いしたいのですけれども。私どものセンターでもクラスの日本語教室があるのですけれども,大体が若い方なのですが,中にアジアの方が多いですけれども,お年を召した方も来られるのですね。指導はボランティアの方がされるのですけれども,その指導者の方がやっぱりクラスの中でどうしても高齢者の方というのが取り残されるのではないですけれども,ちょっとコミュニケーションが他の学習者と取りにくそうに話しているというふうに相談を受けることがあるのですね。いろいろな活動,体を動かしたりだとか歌を歌うとかいろいろなさっているというふうにお話があったのですけれども,ちょっととっつきにくそうにされていることがあるみたいなので,そういう活動を具体的にどういう活動が楽しそうになさっているのかとか,ちょっとアイデアをいただきたいのですけれども。

内藤:資料でお配りしています中に高齢者の方に描いていただいた絵があります。資料4「私の家族」というのを御覧ください。これは絵を描くという作業を通して,いろいろなコミュニケーションをすることができるという例です。「私の家族」の場合で言いますと,まず色について話すことができますし,それから「主人,子供,孫」といった家族の呼称ですね。「誰ですか」「どこにいますか」「どこですか」「何歳?」などと絵を指しながら聞くと,高齢者の方は家族についてはものすごい関心が高いですから,いろいろ言ってくださるのです。「子供,ベトナム4,カナダ5,孫20,男,女,元気」など,そういうことをいろいろ言ってくださいます。それからこれを描く中で,「貸してください」とか,「お願いします」「見てください」などの作業に関する発話を引き出すことができます。教師は「これは何ですか」「うちですか」「きれいですね」「〜さんの絵,上手ですね」などと話しかけることができます。だから,これは自己表現を支える活動の一つの例です。
それから,別の資料の中に書道があります。「ごはん」「りんご」「ふね」「さかな」などの文字が書かれています。好きな言葉を書いてくださいといったら,こういう言葉になりました。「ふね」と書いた方は漁師さんです。それから「ごはん」と書いた方はベトナムで農業をしていたのです。「ベトナム,仕事,何ですか。」と言うと,「ごはん」と言ってこうやって稲刈りの動作をしたので,米のことを言っているのだなと分かりました。こういう好きな言葉,「ごはん」「さかな」「ふね」というのは本当によく覚えます。それから先程申しましたけれども,高齢者は必ずしも全員が健康ではありませんから,体のあちこちに具合の悪いところを抱えていらっしゃいます。だから「頭痛い,腰痛い,足痛い」と,そういう身体部位の名称というのはものすごくよく入るのですね。それから「血圧高い,低い」というのもよく入ります。「血圧」なんて普通の日本語クラスではなかなかやらないですね。でもこのクラスでは「血圧」という言葉を教えます。「血圧まあまあ」とか。だから私が言いたいことは,学習者にとって必要な言葉はこういうクラスでも入るということです。
高齢者クラスというのは非常に特殊なクラスのようにお感じになるかも知れませんけれども,こういうクラスをやってみてつくづく思いますのは,本当にこのクラスから見えてくることがいろいろあるのです。それはすべての生活日本語を教えるクラスに共通のことだとものすごく思います。耳が遠くて目が悪くてどうやって日本語を教えるのだと思われるかもしれないけれども,とにかく全員で参加できる活動をし,誰一人はじき出さないようにする。普通のクラス授業でしたら,よく私たち「あの人,隣の人に助けられるからできるのよね。一人だと本当はできないのよ」と,それでは困るのだという話を教師はよく聞いたりするのですけれども,このクラスは違うのです。助け合ってそれでできればいいじゃないか。教室が一つのコミュニティだと。教室は外から隔離された場所でなくて,教室が一つのコミュニティとして皆で助け合って一つのことができるようになったら,それはすばらしいと。そういうことをすごく重視したのです。これって本当は高齢者クラスのことだけではないと思うのです。何かすごく地域の教室に関係することではないかなと個人的には非常に思っております。

西尾:私も初めの頃のことを思い出します。大和で教えていた頃に,その頃はまだめずらしかったのですけれども,今までに難民の年齢で一番高齢者は104歳のおばあさんが入ってきたことがありました。この人はさすがに毎日お祈りをして,家族の健康,そういう役ですということを通訳を通して聞きましたけれども,私は皆を守るために来ているんだという方でした。2,3年で亡くなられましたけれども,その方はちょっと特例で覚えているのですが。
75歳,80ぐらいまで一番熱心なんです。私は皆勤賞という出席の良かった人を表彰するのがあるのです。この高齢者クラスはほとんど全員に近いです。熱心なのですね。それでびっくりします。若い人たちはちょっとときどきいろいろと思うことがあってサボることもあるのですけれども,高齢者は大抵皆皆勤賞をもらっています。
あるときに大和で教えていた頃ですけれども,宿題が出せないわけですね。なかなかそういうのを助けてくれる人はそうそういない。それで卒業式の日にある担任の先生のところに宿題ができましたと持ってきたのです。そうしたら,自分の名前を大学ノートいっぱい書いてきた。そのときは声がなくなりましてね,その先生も涙で泣いていましたけれども,思わず抱きついてよくやったわねと言ったのです。その方,自分の名前が書ける,すばらしいじゃないですか,この学習。4か月かかりましたけれども,その成果をノートいっぱいに書いて持ってきたときには感動しましたね。ですから日本語を教える,指導するということは,どうやってその人が,抽象的ですけれども,自立するかということですけれども,何をどういうふうに身につけていくかということをよく考えていかなければならない。今日のこの3人の先生,御覧になると,さっき先生とは私はもう体全体でぶつかることだと,人間全部を愛することだと思って,とてもいいモデルが,このように本当に魂を入れてこうやって支援に励んでいる。もちろんセンターという恵まれた場所ではありますけれども,地域の日本語の教室でも良くそういう方にもお会いします。本当にこの人には何か今必要なのかということをよく聞き分けていくということが大事で,地域の日本語講座,それこそ私いろいろなところで,半分以上が地域の日本語教室が夜,(土)の夜とか(金)の夜とか行われますが,半分以上の教室は全部1対1です。ボランティアの方が皆さんいらして,それぞれ違います。運転免許の勉強したいんだ,進学の補習をしたいんだ。皆さん本当に違いますよ。さっきも言われましたけれども友達をつくりたいんだというわけですね。それから母語を忘れないように,ここに来ると同胞がいるから,ポルトガル語を久しぶりに話せるんだと。それでもやはり日本語教室というのは居場所であるということをしっかりと私たちが受け止めてあげたいものだと思うのですね。決して第1課から開いて,これをするところだけが日本語教室ではないのです。日本語支援ではないのだということを皆さん十分個々では分かっていらっしゃると思いますけれども,もう一度このことを考えてみたい。そして御自分たちのやっているボランティアグループのいろいろなことに,またいろいろな事例でも,今日の情報を持ち帰っていただいて,元気を出して帰っていただきたいとさっき言いましたのは,こんなそうなのかということをもし何か気が付いたことがあれば,とても出ていらした意味があって良かったのではないかと思うし,そうやって発信してくださったことが人の役に立っていることもとても大事ではないかと思っています。
大和の定住促進センターができたときに,有名な所長がいたのですね。その人はこの人たちは皆難民扱いされている。皆それこそ衣料も大変なのですね。寄附してくださって,日本では。皆何か助けられている。でも「この人たちも助けられる身分だということを経験させたい。」といって,南林間の近くの障害者の施設の窓ふきに2週間に一遍,皆で行っていたのです。所長の考えでした。そして感謝されますね。そうすると「あなたたち役に立つことがあるのだよ。」ということで自信を持たせる。日本にいることに自信を持たせて,それから南林間駅の前を清掃するのです。(土)の午後,山下公園も清掃に連れていきましたね。お掃除する。そうすると難民の人っていうのは何か庇護しなければいけないと日本人も思いがちだけれども,本当にありがとうと言ってくれるわけです。そういうふうにして自分の尊厳ですよね。人間としての本当の認め方を私たち自身も皆で覚えました。そしてこの所長は大したものだったと思うのですけれども,そういうふうにその人たちに自信を持たせていった。これが大事なことだったと思うのですね。なんでも庇護されるのが当たり前ということではない。その人たちにも居場所をあげ,そして生き方も自信も。自立というのはペラペラ日本語をしゃべって自立しなくてもいいのです。よし,この日本で生きていこうと思うことだけでももう意味がある。だから地域の日本語支援というのは,日本語とついていますけれども,さっきのアンケートにもあったように,いろいろな相談とかあるいは何もしなくてももうそこに来たいという雰囲気が皆さんのボランティア教室で,あるいは皆さんのボランティア活動の中で生まれていけば,それはとてもすばらしい実質的な支援なんだという自信を皆さんも持たれたらいいのではないかなと思うのですね。
今日は難民の話ばかりが中心でしたので,そこからどういうことを得ていただいたのか。ましてセンターは閉鎖されていますし,その閉鎖後の先ほどのように,予算がなくなったら私たちどうしましょうということもある。でもその予算で動いているのではないのですよ。本当の支援の気持ちで動いているのですから,悪いですけれども,難民事業本部にはいけないのかもしれませんけれども,そこで開発したもの,そこから私たちが学びとったものは,今全部地域に注入しているということを分かっていただけたらうれしいと思うのです。皆でそれをまたがんばりたいと思いますけれども。あと,1問,2問。29分ですからありますけれども,何かおっしゃりたいことはありますか。はい,どうぞ。

参加者:今の高齢者クラスの発表をお聞きしまして,大阪市の識字教室と大変似ているなと思いましてお聞きさせていただいたのですけれども。その中で母国語の読み書きができない2次識字の方もいらっしゃるとお聞きしたのですけれども,大阪市の方でも全く初めて日本語を学ばれる方には,基礎レベルの日本語教室というのを20回のクラスなのですけれども,年間3期やっているのですが,それが20回のクラスで定員40人のところを毎回60人ぐらいの方が来られますので,どうしても母国でも学習の経験がないという方は取り残されてしまうということがありまして,またそういう方に対応できる方のところを個別に御紹介したりとかしているのですけれども。一緒のクラスで非識字の日本語学習者の方がいらっしゃった場合にどういうふうな対応をされているのか,参考までにお聞かせいただけたらと思うのですが。

内藤:基本的にはゆっくり進めますので,最初は鉛筆を持つのも恐がられます。いいですいいですと。でも大丈夫大丈夫と言って,後ろから回って一緒に手を添えてあげて,線を書く練習をしたり,やりながら,文字も最初は書写ができれば,あるいは線が書ければOK*1です。それが段々教師が書いた字を写せるようになって,最後は読めなくても「先生書いてくれ。ありがとうと書いてくれ。」というぐらいになるのが4か月。それを皆でサポートして,さっきの全員でできるようになればいいんだと。ちょっと隣のできる人が見てあげる。教師も注意深く見て,やっぱりあんまり無理をさせないということが基本だと思います。一緒に活動するけれども,その人がもうここまで思ったところを超えたことを要求するとすごいストレスになると思うのですね。そこの間を教師はやっぱりものすごく注意深く見ていくことが必要ですけれども,全員で一緒にというのはできると思います。そこに注意したいと思います。

*1 OK 同意すること。よろしいといった意味で発する語。


西尾:センターの場合には恵まれておりまして,そういう人たちを一緒にできます。大変よく進む人と一緒にして落ちこぼれるようなそういう落胆を与えないように,なるべくまとめていくということができますのでよろしいですけれども,地域の場合も,ですから一人,1対1か,1対2ぐらいになるのは,どうしてもそういう方で同じ共通項の方たちを一緒にして自信を持たせていくということが大事なのではないかなと思ってやっております。

内藤:それから,非識字の方でも絵を書くのが得意だったり,歌が上手だったり,必ずあるのですね。だからそういうところを見つけてそっちの方でがんばっていただくようにしています。

西尾:今日はどうも熱心に最後の時間まで立たずにいてくださってありがとうございました。本当にこのようなことが少しでも役に立てたならいいと思います。ありがとうございました。

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