講演

テーマ 「未来を拓くコミュニケーション能力」

趣旨 多言語・多文化が進んでいる地域社会の未来を拓く鍵の一つであり,さらには,異文化理解の促進を図る際の重要課題の一つであるコミュニケーション能力の強化・開発方法について,講演者の専門分野であるコミュニケーション教育の観点から話していただく。

講演者 松本茂(東海大学教育開発研究所教授)


司会:ここで,松本先生の御紹介をさせていただきます。松本先生の御紹介に関しましては,12ページをあけていただければ,ここに松本先生の御紹介が出ております。そこを見てもお分かりのように,松本先生の御専門はコミュニケーション教育学が専門であります。日本では英語ディベート*1が先に導入された歴史的展開があるわけですが,その後日本語によるディベート,あるいは日本語のディスカッションを含めてですけれども,そういった分野で特に御活躍をされています。実は,かく言う私自身もはるか10数年前に日本語教育でディベートを初めて日本語で習ったときの先生は松本先生でありました。それ以来のお付き合いなのですが,今日は先ほどの鼎談に重なる形で,「未来を拓くコミュニケーション能力」というテーマで,お話をしていただきます。それでは,松本先生,よろしくお願いいたします。

*1 ディベート 特定の論題に対し,肯定・否定に分かれて行う討論。


松本:今日は「未来を拓くコミュニケーション能力」というお題を文化庁からいただきました。私自身,自分の未来がどうなるか分からないのに,こういうコミュニケーション能力を持てば,あなたの未来はひらかれるというと,何かどこかの集団と間違われるような気がしますので,ちょっと気を付けながら話をしたいと思います。
私の本日の役目は先ほどの非常に楽しくかつ内容の濃い鼎談と,それから午後の最初に行われるパネルディスカッションを結びつけるというちょうつがいです。最近,家庭でも妻と息子のちょうつがい役で神経をすり減らしている毎日なものですから,ちょうつがいの役目が得意なのです。鼎談で出てきたポイントを絡ませながら,そして午後のパネルディスカッションの話題提供ということで,コミュニケーション教育の立場からお話をさせていただきたいと思います。
まず,コミュニケーションという言葉なんですけれども,お手元のハンドアウト*1の説明を御覧いただきながら,私の話を聞いていただきたいと思いますが,「言語,あるいは非言語によるメッセージ*2の交換を通して,お互いに意味を創出するプロセス*4として,社会との結びつきをつくり,保つ行為」ということです。まず,言語というのは大事です。当然です。それと同時に非言語も,意味をとるということからするとバーグランド先生がおっしゃっておりましたように,かなりの割合で非言語からメッセージを受け取っています。
例えば,私の大学の,そばにコンビニ*4がありまして,そこにはマニュアル*5があるんだと思うんですけれど,お客さんが入ってきますと,「いらっしゃいませ」というのを3回言うんです。一人のお客さんに。「いらっしゃいませ,いらっしゃいませ,いらっしゃいませ」,お昼時は学生がいっぱい入ってきます。店員も3人おりますので,ずっと「いらっしゃいませ,いらっしゃいませ,いらっしゃいませ」という言葉を聞かされるんです。この「いらっしゃいませ」というのを辞書で引けば,例えば英語で言うと「メイ・アイ・ヘルプ・ユー」*6ということです。ちょっと発音がよ過ぎますかね。(笑)(日)の8:10からです。今日は番組を見てからきてくださった方もいらっしゃると思いますが。それはちょっと置いておきまして。
この「いらっしゃいませ」というのを,お客として聞くときに,本当に「いらっしゃいませ」という意味を付加しているか,あるいはつくっているかというと,そうではなくて,もうほとんど単なるアナウンスメント*7になっている,意味のないアナウンスメントになっています。こちらを見て言ってくれていない。本当に「いらっしゃいませ」じゃなくて,これは言わされているなということになりますね。ですから「いらっしゃいませ」という言葉はお客様を迎える言葉だという意味,それは辞書的な意味であるんですけれども,我々はそれを聞いたときに,何かそこから違ったものをつくり出していくということがコミュニケーションということだと思うんです。
もう一つは,社会との結びつきをつくり保つ行為ということで,これは特に外国籍市民の方が日本に住んでいるときに,非常に重要なコンセプト*8だと思います。日本人の場合だと,例えば若い人の引きこもりのことについて研究をしているコミュニケーション学者がおります。日本語というものをちゃんと運用できるんだけれども,社会との結びつきを見付けられず,自分の存在を社会の中で見付けられない,よって引きこもってしまうということだと思います。外国籍市民の場合には,例えばバーグランド先生は英語が母語だと思うんですけれども,非常に日本語がお上手になった稀有な例ですね。京都日本語学校がすばらしいんだと思うんですけれども。(笑)あるいは本人の力。英語圏の人たちはなかなか日本語がうまくならない。それは日本にいても英語圏という文化の中で,英語だけで生活することができるということだと思うんですね。このことは必ずしも悪いことではありません。英語社会というものを日本の中でつくっていくことによって,その中にいることによって,心を安定させているわけです。

*1 ハンドアウト 事前に配布される資料のこと。
*2 メッセージ 伝言。声明。言語や記号によって伝えられる情報内容。
*3 プロセス 手順。過程。
*4 コンビニ コンビニエンス・ストアの略。早朝から深夜まで,あるいは無休で日常生活に必要な品を中心にあつかう小売店。
*5 マニュアル 手引書。操作説明書。
*6 「メイ・アイ・ヘルプ・ユー」 「いらっしゃいませ」のこと。
*7 アナウンスメント マイク等を通じて連絡事項などを放送すること。
*8 コンセプト 概念

  同じようなことが中国語圏とかハングル語圏の方々に言えるんですね。人口が多いがために,安定していられる。ですから私たちは日本語を教えるときに,英語,中国語,ハングル語以外の人たちに教えるときと,そうじゃないときと,ちょっと区別して考える必要があると思うんです。自分が母語を使ってコミュニケーションできる人の数が少ない学生さんの場合には,日本の既にある社会との関係を創り,保ち,そして勉強や仕事をしているのか。その中で,心を安定させていられるかどうかというのを,やはりボランティアの立場から見ていくとよいのではないかというのが,コミュニケーションから考えた日本語での生活ということです。
そして,コミュニケーションの難しいところというのは,正解がないということなんですね。それを言語教育とコミュニケーション教育を合体しようとしていることを,日本ではやっているわけでして,日本語教育の世界もそうですし,英語教育なんかまさしくそうなんですね。言語としての教育の場合には,ほとんど正解があるものとして今まで教えてきました,学校なんかは。例えば,この単語の下線部の音は何か,正しいものには○,間違っているものは×をつけなさいとか,あるいは括弧の中に入る前置詞は何か答えよというようなことばかりです。正しいものがあるということを前提に行ってきた言語教育に,コミュニケーションの観点を入れるのはたやすいことではありません。コミュニケーションというのは,非常に変数が多いということです。例えば今日の鼎談の中で,比較的学問的なお話をするときは,3人の方々は標準語を使われている。笑いを取ろうというときに,関西弁にスイッチ*1する。これは非常に私としてはうらやましい,東京の山の手のお坊ちゃまというふうに自分では言っておりまして…。(笑)私としては日本語のスイッチができない。笑いを取ろうとしたときに,あるいは親近感を持ってもらおうというときに,関西弁を使うことができる方々というのは,非常にうらやましいなというように思いますが。
いずれにしても,目的に応じて話し方も変えるとか,あるいは長官が冗談をおっしゃったので,ほかの方も冗談が言えるという場面が設定されたわけです。これが非常にまじめなというと,何か河合長官がまじめじゃないと申し上げているみたいですが,冗談一つおっしゃらない長官と鼎談するときには,ほかのものが冗談を言うということは,なかなか難しい状況になると思います。ですから,同じ場面であっても,コミュニケーションというのは,どれが適切かどうかというのを考えながらやっていく。例えば,考えずにできるようになっているという人が基本的には世間では能力があると見られるのかなという感じがします。
ですから,今「適切な」という言葉を使いましたけれど,正解はないんです。個人が持っているキャラクター*2,能力,経験など,いろんなものによって,そのときに戦略的に展開するか,あるいは偶然,偶発的に言ったり行動したことでコミュニケーションが取れる。後から分析すると,それで良かったということになるかと。そういう分析をしているのがコミュニケーション研究者です。先ほどむっとするのはいいというようなお話がありました。第三者として,あなたはなぜむっとするかというと,向こうの人がおっしゃったことに関して,あなたの元々のエクスペクテーション*3は,こうだったというように分析していきます。例えば,あなたは帰ったら,すぐにお風呂に入りたい,そしてビールを飲みたいという妄想の世界に入っていて,ドアを開けたらお風呂は沸いていない,部屋はぐちゃぐちゃ,ビールはない,あげくの果ては「洗濯物たたんで」と言われた。だからそこでむっとして,何かを投げたとか。最低の状況を思い返して,家に帰ってくるときは,シナリオを思い描きすぎないようにしましょうとか,分析できるんですよ。しかし,自分がその立場になると,やっぱりむっとして何か言っているんですよね。ですからコミュニケーション研究者というのは,人のことは分析することはできるんですけれども,自分のことはなかなか分析することはできなくて,大体,未来を拓くどころか,現在も楽しく生きていない人が多いというのが,コミュニケーション研究者の実情です。(笑)私もそうならないように気を付けようと思っています。

*1 スイッチ 切り替えること。
*2 キャラクター 性格。人格。持ち味。
*3 エクスペクテーション 希望。見込み。予期。

  コミュニケーション能力という今日のタイトル*1にもある言葉なんですけれども,これは日本語教育の世界でも,あるいは英語教育の世界でも,最近頻繁に使いますが,ちょっと注意して使う必要があるのではないかということです。
まず,どういうことかというと,コミュニケーション研究者の立場からいうと,コミュニケーションというのは,一人でやることではないと。自分の中で自分とコミュニケーションするという考え方もありますが,基本的にはほかの人たちとのインタラクション*2のことである。となると,そこには場面も存在していて,架空の場所じゃなくて場面があって,お互いの役割を知っているとか知らないとか,話している内容も関係しますし,そういう変数がある中でやっているものです。ですから自分一人の能力ということではなくて,かかわるプロセスのことをコミュニケーションというんだと。
一方,能力というのは,自分の中にあるものです,ということですね。それが顕在化しているか,潜在的なものかは別にして,個人の問題という考え方。ですからこのかかわるプロセスのことと,個人のものを合体したコミュニケーション能力という言葉は,あり得ないというふうに考えるわけですよね。ですから例えば,私はここで今日お話をさせていただいております。皆さんがどういう感想をお持ちになるかのか,アンケートもあるようですね。非常に良かった,また呼んで欲しいとか書いてもらいたいわけですけれども…。隣の人は何書いているかしらと見ながら書くのかもしれないですけれども,良かったとした場合,これは私個人の能力でそうなったのではなくて,そういう場であり,鼎談で会場の雰囲気をなごませていただいたというようなプロセスもあり,そうして非常に関心の高い,そしてテーマもはっきりしている中で集まった方々だから成功したのかもしれないというようなことが言えます。ですから,私個人の能力でこの講演が成功したとか失敗したとかいうことではない。ということは,失敗してもいいんだと。(笑)失敗したという結果が出たときには,私のせいではありません。良かったというアンケートの結果が出ましたというと,それは私のせいです(笑)というように言っていればいいということ。(笑)いや,それではいけないと思いますけれども。
いずれにしても,このようにコミュニケーションというのは,かかわり合いであり,能力は個人の成り立ちというものだと。ただ,やはり一般的に見て,あの人はいろんな状況においてコミュニケーションは上手だねという方は,我々の経験上いらっしゃるので,それはどういう人たちなのかという研究が進んでいるというように考えていただきたいと思います。
それで,応用言語学などの方ではコミュニカティブ・コンピテンス*3というふうに言いますけれども,コミュニケーション教育の方ではコミュニケーション・コンピテスと言い,これをどういうふうに訳すかということが一つのポイントになります。今日のレジュメ*4にありますように,括弧の中にも「コミュニケーションのための基礎的能力」と書きました。“のための基礎的”ということを入れているわけで。ですから,一人の能力ではないけれども,いろいろな人とコミュニケーションをしていく上で,スムーズに,あるいは問題を起こさないように,あるいはお互いがハッピーになるようなコミュニケーションがとれる人というのは,どんな基礎的な能力があるのかということで考えていきたいと思います。
ほかの人と自分を結びつけていく,あるいはその関係を維持していくといった過程において,私たちは知識とか経験とかスキル*5,こんなものをまとめ上げて,そして何を言うか言わないか,どういうアクション*6をとるかとらないか。例えばお礼状を書くとか書かないとか。ということも含めて判断をしていくんですね。その判断が賢明であるか,適切であるかということが,いわゆるコミュニケーションの基礎的な能力なのではないかということが私の考えです。

*1 タイトル 表題。見出し。
*2 インタラクション 相互作用。
*3 コミュニカティブ・コンピテンス コミュニケーション能力。
*4 レジュメ 概説。要旨。「レジメ」とも。
*5 スキル 技能。熟練。
*6 アクション 動作。行動。

  そのときに大事なのは,いわゆる教師と名の付く人たちですね,私も含めて。この人たち,特に英語とか日本語とか国語とか言語を教えている人たちは,自分がコミュニケーション上手だというふうに思い込んでいる人が多いですね。これが危ない。私は上手。この「私は上手」という気持ちはさっきお話に出てきました「教えてあげる」といった態度に無意識のうちに表れるということなんですね。大学でもコミュニケーション関係の科目が増えてきて,コミュニケーションを教えている先生がやっぱり一番問題なのは,御自身が自分はうまいと思い込んでいることですね。この人たちはとうとうとしゃべるんですけれども,学生を必ずしも上手にさせられないといったことがあるわけです。
知識に関しては,例えば言語そのものについて説明ができるということですね。なぜここは「は」なんですかとか,そういう質問に対して答えられるかどうかということが重要になってくるでしょう。そういう知識を持って外国籍の方はその知識を活用していく。あるいは知識の中には,そのコミュニティ*1,あるいは日本という中での習慣,しきたりということについて知識を持っているかどうかということですね。ですから,京都に行って着物をほめられたら,それは必ずしもほめ言葉ではないかもしれないという知識を持っているかどうかということによって,コミュニケーションがうまくいくかいかないかということがあります。
それから経験というのを最近重視しております。これは地域での日本語教育において,重要なポイントだと私は思っています。要するに,教室という空間で日本語を教えるときに,言葉の機能だけを切り取って教えるといったことがままあります。その前提は習う人がそれを実生活において応用できる,適応できるということがあると思いますね。表現は,大体,文法的に並べるとか,あるいは言葉の働き・機能で並べますね。感謝するとか,謝るとか。そういう問題を並べて提示したり。あるいは活動をつくるときにも,こういう文型を教えたいから,この活動が合うという形で,やっぱり先に言葉ありきということになるかと思うんですね。
ただ,皆さんが教えていらっしゃる,あるいは支援されているような外国籍市民の方は,教室を一歩出るとやはり同じ日本語の世界がありますね。実生活がある。となると,その人たちは普段どういう経験をしているのかということを調べる。あるいは日本語の力が上がってくると,さらにどんな経験をするだろうということを見通して,その経験を中心に活動を続ける。そうすると,そこには,今までだったら初歩の段階では習わないような表現や文法が出てくる可能性があるんですけれども,経験としてとらえると,適切であるわけです。例えばお礼状を今度出さなければいけないという状況になる。あるいは隣の人がごみを決められた日じゃない日に出していると何か文句を言ったとかですね。そういういろんな経験を集めてきて,そしてそのためにはどういうやりとりが可能性があるかを考える。そのときに決まり文句だけを教えるのではなくて,実際に活動の中でいろんなパターン*2で考えてやっていく。場合によってはスクリプト*3を書きあって。というように,どんな経験をするだろうということを考察し,それを先取りした上で教えていく。あるいは後づけですね。こんな経験をしたんだけど何と答えていいか分からなかったというような情報を集めていって,それをもう一度教室の中で再現してみる。そのときに,この表現は難し過ぎるとか,初級では習わない単語だというのではなくて,実際に生活の中で体験することであるから,それを先取りしてみようと。こういうことを中学校や高校の英語教育の中でも徐々にやり出しています。今までは中学校では仮定法は習いません。分詞構文はまだですとか,そういう形でやってしまっているわけですけれども。実際,例えば海外の姉妹校の子とビデオレター*4を交換するというときに,どうしてもこういう表現が必要になりそうだと。だったら,それをどんどん習得しましょうというような方向性です。それはなぜかというと,私たちは言語を学ぶときに,あるいは言語を使ってコミュニケーションをするときに,経験というものが最も大切で,やったことないことというのはなかなかうまくできないですね。人に文句を言ったり,部下に指示をしたりという経験がないのに,日本語の母語話者であっても,部下に対してこうしなさいと指示するのは,最初はなかなか大変です。指示を出す。関西だったら,あなたの報告書は良かったねとかいってほめ殺しをすると,むこうは気が付いてくれるかもしれませんけど,関東の人間はそのとおりとってしまいますから。ああ良かったということになるとまずいので,しっかりと言わなければならないとなる。となると,そういう経験をしていないとなかなかうまくコミュニケーションできないということになるわけですね。

*1 コミュニティ 人々が共同意識を持って共同生活を営む一定の地域,及びその人々の集団。
*2 パターン 型。類型。
*3 スクリプト 台本。
*4 ビデオレター ビデオによるメッセージの交換。

  ですから,やはり経験を積んでいく。皆さんの学習者がスピーチをする場面が生活の中であるんであれば,あるいはこれからそういう経験がある,大学に入ると当然自己紹介させられる。そういう経験を切り取ってきて,教室の中で自己紹介していきましょうと。そしてアルバイト先へ,あるいは大学の最初の授業ですとか,あるいはロータリー・クラブというようなとことで。自分の生活の中での経験というものと,教室を結びつけていくということが,一つの方策として考えられる。
そのときに細かいスキルだとか,実際に目を合わせながら話しましょうとか。もうちょっとニコニコしながら話をするとか。日本人はここではうなずくんだよとか。うなずきもこういううなずきで,ペコちゃん式で。体をゆするんじゃなくて,というような例えですね。そういうようなスキル,自分の気持ちをどう表現するかといったスキルを教えていくということも重要になってくると思います。
ですから,私たちはコミュニケーションしているときには,知識とかスキルとか,あるいは自分の体験から,何かを選択していくということですね。それをしているんだというふうに考えていただきたいと思います。そのときに,私たちが考えなきゃいけないのは,日本,あるいはある地域の集団の中にある程度の決まりなり暗黙の了解があるところに,違う文化の人が入ってくるということですね。そのときに知らず知らずのうちに上下関係ができ上がってくる。パワー*1のインバランス*2が起きてくる。私たちは強い,あなた方は合わせなければいけない,こんなことも知らないのかというようなことになりがちです。特に日本語教育等に興味のない日本人市民の場合には,それがぼっと出ると。だから何とか人は嫌いなのよというような差別発言にまでつながってしまう可能性があるので,私たち教師がまず上下関係のないような雰囲気というか,姿勢というものをつくっていく必要があるのかなと思うんです。

*1 パワー 力。集団の力。
*2 インバランス 不均衡。不釣り合い。



  そういう意味で,私のレジュメの3のコミュニケーション教育の二つ目の引用文にあるように,日本語教員の養成に関する調査研究協力者会議が言っているように,固定的な関係ではなく,相互に学び,教え合う関係,活動といったことが特にボランティアの方々にとって必要なんだなと思いますね。
水平の関係をなるべく意識的につくっていく。それは言語学習の面においても,自立した学習者をつくっていくということです。私教える人,あなた覚える人,まねる人ではなくて,あなたが学習していくのよ,あなたが計画を作って学習していく,私たちはここでお手伝いしているだけなの。という関係性をつくるためにも,この発想は非常に重要なのではないかと思います。
かつ,ボランティアの中においても,ボランティア同士なかなかうまくいかないというようなアンケート調査があるようです。ここも先輩と後輩の上下関係というようなものを,極力新しい人に感じさせないような配慮というものが必要だと思うんですね。長くいる人たちがやっていることが当たり前で,その人たちがやっていることを新たにその集団に入ってきた人はまねしなければいけないということは,必ずしも正しいことではないという発想ですね。もちろん受け継がれていることには意味があることが多いですから,それについては説明をしていきたい。どうしてこういうふうにしているのかという説明を新しい人にしていってあげるのです。私たちは集団の中に入っているからこそ,安定していられるわけですよね。ある集団に属しているということは,安定性を求めているということです。そこに新しく入ってくる人というのは,非常に不安定な状況にある可能性が高いということなんです。外国から来る,特に英語,中国語,ハングル語が母語ではない人たちは,日本に入ってきたときに不安定な状況でしょう。これは私たちが新たにボランティア活動に所属するときの不安定さの何倍,何十倍もの不安定さだろうと。それを取り除いてあげるためには,ボランティア同士はやはり同じ目線で仕事をしていくんだという気持ちがないといけないのではないのか。
そこで,何か問題が生じてくるときに,コーディネータという別の役割の人がいて,それを調整していくということが必要なのです。仕事の分担をすべきではないかなと思います。
そして,コミュニケーション教育ということを考えますと,私のテレビでもそうですが,言語を効率的に習得,獲得させようといった目的ではない,これが主の目的ではないということですね。言語教育の場合には,どちらかというとこちらが主目的なわけなんですが,人間同士がかかわるべきことの意味,あるいは難しさなどに気付いて,そして言語という言語を使用して,他者や社会との関係性をつくり上げる力を養成するということです。先ほどありました難しいというのが醍醐味なんだというのは確かにそうで,コミュニケーションは難しい,だからおもしろい。これですね。面倒くさいというふうに思ってしまうとコミュニケーションはうまくいかない。忍耐力が必要です。皆さんも家庭でのコミュニケーション,忍耐力です。何か自分のこと言っているような感じです。
気付くというのが大事なんです。ですから,ひょっとして自分は教室という場面ではコミュニケーション上手なのかもしれないけれども,違う場面では上手じゃない。例えば学校の先生によくあるのは,学校において,例えば中高の先生は生徒と話しているときは非常にいい先生なんだけど,ぽっと社会にでると,何,この非常識な人。名刺の渡し方も知らないし,会議の座る場所も知らない。自分で勝手に先に座っちゃってとか。一番偉い人がお茶飲み始めるまでに飲み始めたとかそういうような非常識なことをしてしまうというような学校の教員が多いんですけれども,大学の教員を含めて。
そういうような場面においても,何か学校のルール*1と違うルールがここに存在するんだなということに気が付くということが大事なわけですね。こういう能力を先生方にも付けていっていただく必要があると。自分が気付かないと生徒が気付くようにならないですから,例えば最近アクションリサーチ*2なんて広く行われておりますけれども,ビデオに撮る,あるいは観察者を置いて,1分ごとに記録を取る,何をした,何を言った,それを自分で分析してみる。いろいろなくせがある。学生さんにたくさん時間を与えて活動していると思ったら,どんどん自分がしゃべっていたと。あるいは説明に非常に時間をかけたとか。生徒は分かっているような雰囲気ではなかった。いろんなことが分かっていく。自分のコミュニケーションを分析してみるといった活動というのは大事になっていくと思います。
ですから,例えば何かスキット*3をやらせても,それをただ,はい良かった,ぱちぱちぱちの段階もあるでしょうけれども,少しレベル*4が上がってきたら,どうしてこういうことを言ったんだろうと。ありがとうだけだったけど,ありがとう以外に何か言い方がなかったかなとか。あるいはそのときの動作というのは,この言葉とマッチ*5していたというようなことを自分たちでディスカッション*6する。ビデオを撮って,それを授業中にもう1度みんなで見ながら,先生が説明してしまうんではなくて,日本に長くいる方々が自分たちで分析をしていくといったディスカッションをしようとかいうようなことも,授業の展開としてはあり得るかなと思います。

*1 ルール 規則。きまり。
*2 アクションリサーチ 社会的な諸問題について,基礎的研究で原因などを解明し,結果を社会生活に還元して現状を改善することを目的とした実践的研究。
*3 スキット 語学教育などで用いられる,寸劇。
*4 レベル 程度。水準。
*5 マッチ 調和がとれていること。ぴったり合っていること。
*6 ディスカッション 討論。討議。

  ですから,言語教育の立場でいうと,「これは間違いです。こう言いなさい。はい。では,私の後に続いて,どうぞ。」という感じでやっていくというのが,効率的な学習なんでしょうけれども,必ずしもこれで能力が付いていくかというと,そうではなくて,自分の表現が正しいのか,そして自分が何か言ったときには相手はちょっと変な顔をしたということに気付くか気付かないかというような能力を養っていく方が,長い目で見ると力が付いてくるという発想がコミュニケーション教育の中にはあります。
さて,その次,これは日本語教育とは直接的に関係ないかもしれませんけれども,私が最近学内などで提唱していることは,コミュニケーションを核とした教育というものをカリキュラム化できないかという動きなんですね。私は地域における日本語教育では,これは可能ではないかなと思っております。アメリカなどではコミュニケーション・アクロス・ザ・カリキュラムということで,どんな専攻をしたところでコミュニケーションが大事だということです。いわゆる大学で言うと基礎教養科目のような形でスピーチ*1とかあるいは作文とか,そういうものを教えているんですね。あるいは最近では対人コミュニケーションというものを教えている。
もう一方では,コミュニケーション・イン・ザ・ディスプリンということで,専門科目の中に,コミュニケーション教育を入れていく。例えば英語ですと,経営学に商業英語があり,工学部に工業英語があるとか。あるいは日本語ですと,医学部に医者のためのコミュニケーションとか日本語で文章を書くこと,そういうのが必要なのがいわゆる専門課程における言語教育,あるいは言語コミュニケーション教育ということだと思うんですが,それはあくまでも専門科目が主体であるということなんです。
これから,日本の学校教育,あるいは地域での教育において考える一つの方向,あるいは発想というのは,小学校の段階から大学を出るまで,どのようなプロセスを経て社会で自分のコミュニケーションの仕方も分析できて,周りの人のことも把握できるような姿勢,あるいはそういう潜在的な力を持っている人を育てたらいいかということを,真ん中の軸にとらえた教育というのはできないのかということです。今,学校教育では総合的な学習の時間というようなことを言われていろいろやっていますけれど,非常に不評で,何をしていいのか分からないとか,準備する時間もないということで,次の学習指導要領改訂では何とかなくそうという動きも一部ではあるようですけれども。
そういうような総合的にコミュニケーションをとらえ直して,いわゆる総合的な学習の時間のように,先生が何をしてもいいですというのではなくて,小学校1年生の段階から大学生の段階まで,カリキュラム*2化するのです。例えばあいさつ一つをとっても,いろんなレベルのあいさつがあるんですね。あるいは慰めの言葉でもいろいろあるんですね。励ます言葉でもいろいろありますし,方法があります。あるいは人前でプレゼンテーョン*3するんでも,小学校1年生と大学4年生のプレゼンテーョンの方法にしても内容についても,あるいはプレゼンテーョン後の質疑応答のレベルにしてもいろいろ違いがある。そういうものを段階を経て学習をしていくというようなことを主において,では社会科の時間のコミュニケーションスキルでは,パワーポイントを使って5分間ぐらい情報についてまとめるというようなプレゼンテーョンができるようになる。そうなれば,それを社会科の内容をくっつけて活動していくというようなことを,できるのではないかと。同じようなことが,それがそれぞれの科目の中でできるのではないかというような大きなことを考えています。
みなさんの場合ですと,日本語の能力が低い段階から高い段階までいろいろあると思うんですけれども,その中でどんなコミュニケーションを体験していくかということを洗い出して,それはどんな性格・質のものか,誰とどういう状況で日本語を話しているかということの調査,どんなことをしていますか,誰と話していますか,何人と今週は話しましたか,どんな状況で話しましたか,何をしようとしましたかというようなことを集めた上で,いろんなレベルに応じて,カリキュラム化するということは可能なのではないかというのが私の考えです。
ですから,言語としてどういうものを順番に教えていくと効率的であるという今までの文法シラバス*4のものとは,かなり違います。それにある意味では対峙するというか補完する形で機能シラバスというのが出てきますけれども,それともまた違って,コミュニケーションの体験というものを重視したものが,カリキュラム上できるのではないかと思っています。
次に4番のことにお話を進めていきたいと思うんですが。
まずコミュニケーションにおいて言語はツール*5である,道具であるとよく言われます。バーグランドさんは,私は何も考えていないとおっしゃいました。ある意味でそのとおりなんですね。概念があって,そしてそれを日本語化しているだけのことなんですね。私も学生に英語で授業をしていると,先生,英語で考えているんですか,日本語で考えているんですかとたずねられることがあって,「ううん,英語でも日本語でも考えていないと思う」と返事することがあるんですけれども,実際,考えるというプロセスというのは,ああ今考えているなというふうに認識するわけではないんですね。概念として何か頭の中が動いていると思うんですね。それを瞬時のうちに文章にしていくということをしていると思います。

*1 スピーチ 会合などで人の前でする話し。
*2 カリキュラム 教育課程。
*3 プレゼンテーション 提示。
*4 シラバス 講義などの要旨。授業細目。
*5 ツール 道具。

  ですから,英語と日本語のように構造や語順がかなり違うという場合,あるいは日本語のように助詞が大事だとか,「は」,「が」,といったものが大事だというのと,英語のように語順に非常に縛られるのとの違いを学習するときに,日本語を英語に,あるいは英語を日本語にというふうにしていると,全然しゃべるれるようにならない。概念を頭の中に浮かべて,それを自分がしゃべろうと言語化していく,瞬時のうちに。
これはやはり,ここで言えることはどういうことかというと,まず翻訳をするという学習はかなり難しい。特に英語をやっていた人が日本語学習するときに,翻訳して学習するというプロセスは余り効果はないわけです。最初のうちはいいと思いますけれども,その癖をつけてしまうのはよくないであろうというふうに思います。
それともう一つは,言葉を四つの技能で分けて,スキル別に教えていくというのは余り意味がない。要するに聞いてそれを自分の言葉に書くとか,あるいは自分がそれを聞いたものをまとめて相手に伝えるとか,あるいは新聞を読んで,その内容に関してカリフォルニアでこんな火事があったらしいよというふうに誰かに言えるか,電子メールで書くとかいうふうに,四つの技能をかなり絡ませた形で教えていくということによって,翻訳をしないで日本語で学習するということが可能になってくると思うんですね。
英語教育の方でも,そういう試みを大学で進めております。英語で英語を学習する。先生が英語だけを使って学習するというような環境をつくったとき,生徒は分からないと言い出す。何言っているか分からない。騒ぎ出すわけですね。しようがなく,訳してしまうという結果にならない,そういう状況を起こさないためには,やさしいものを読んで,それを今度自分の言葉でまとめてみるとか,言い返してみるとか,あるいはこのエッセイ*1を読んでこの作者に対して三つの質問を書いてみましょう。それをグループの中でまず活動してみましょうというように,四つの技能を何らかの形で絡ませていくことによって,その言語で何かをするという体験につながっていくと。ですから,まねて覚えるというだけでやっていくと,やはりバーグランドさんのような能力にはなかなか達しないだろうと。かなりの部分まで,別々に学習していっても,ある程度のところまで行くんですけれども,その先がなかなか伸びないといった状況になってくるのかなと思います。

*1 エッセイ 「エッセー」とも。形式にとらわれず,個人的観点から物事を論じた散文。

  そのときに,何をしているかというと,まねたり覚えたりしているのではなく,自分で考えるという作業をしているということですね。そのときにもう一つ大事なのは,誰に伝えるのかということを意識させていくということだと思います。ですから,例えば中学校や高校の生徒さんに何か学習するときに,例えば実社会で衆議院選挙が行われます。衆議院選挙,衆議院の仕組みはというようなことを社会科で学習する。ちょうど選挙の中にテーマだということで,先生は教える。生徒さんは何をするかというと,先生の説明,黒板に書いたものを写す。あるいは教科書を丸覚えをする。そうすると,衆議院とは何か,あるいは選挙の仕組みなどを丸暗記したものを言える。でも意味は分かっていないという状況が結構あります。
これも外国の人たちを教えるときに注意しなければいけないということで,教科書に書いてあることは言える,暗記したから,でも意味はよく分からないということが起こるので,どうするかというと,自分より二つ,三つ下の子供,お友達に説明するように,噛み砕いて言いましょうと,日本人の場合は。例えば中学3年生の授業で社会科で重要な単元の学習したとするならば,中学1年生,あるいは小学校6年生に分かるように説明しなさいという問題の出し方をすると,本当に分かっているかどうかということがよく分かるんですね。ただ,これについて述べよというふうに書くと,教科書を丸暗記したものをそのまま解答用紙に書くということになってしまって,本当に分かったかどうかは分からない。暗記したかどうかは分かる。こういうことが,日本の英語教育ではしょっちゅう起こっている。括弧の中に入れなさいと。入れられるんだけれども意味が分かっていない。で,どう使っていいのかよく分からない。それも文脈も何もなくても分かるんです。英語を取り出して,括弧の中を埋めなさいといったことができたからといって,それが本当に使えるかというわけではないということなんですね。
ですから,そういう意味で,言語を使う,使いこなすためには,やはり自分で考えさせるというようなプロセスも入れていく必要があるということ。その場合に概念化していくということですね。それをできれば日本語で初期の段階からやる習慣をぜひつけておきたいなと思います。
それから,人間関係を構築したり,保持していくというものと言語は密接に関係していると。特に留学生やあるいは外国から来て日本に定住されている日本人妻とか呼ばれるような人たち,こういう人たちにとってはやはりここでの生活で心が安定することが非常に重要になってくるわけですね。治安が悪い,あるいは明日食べるものを買うお金がないという治安とか身の危険,そういうものが安定さえすれば,心も非常に安定する場合もあります。非常に治安の悪いところからいらしているとか経済状態が悪いところからいらした方というのは,そういうことで安定感を得るということがありますけれども,それを越えた段階での安定というのは,やはり自分が受け入れられているかどうかとか,自分が一人の大人として貢献できているという状況をつくってあげる必要があるということだと思うんです。
ですから,先ほどバーグランドさんがおっしゃっていますけれども,いつまでたっても外国人という見方をされると,内と外で区別されるという一つの弊害として挙げられますよね。受け入れてあげているという状況ですね。それというのは,自分が貢献できていると思える場を与えてあげることが一つのポイントになると思います。ですから,外国籍の人は何を苦しむかというと,大人であると,ある程度の知識,経験はある。だけど言語のレベルが非常に低い。だから子供扱いされるということが非常に辛いわけです。で,心が安定しない。だからその人たちが活躍できる場を与えてあげるということが,地域のボランティアの方々ができる一つのポイントではないかと思うんですね。
私は何かここの人たちの役に立っているという状況をつくってあげるということによって,心が安定する。役に立っているから心は安定する,受け入れられている。いつもtakeではない。一人の大人として扱われていないという状況,これが安定していないということだと思いますね。ですから,外国から来た方,特に,同胞がいないところから来た方々にとっては,自分が自分らしく生きていられるか,自分のことを好きな状態でいられるかというのが非常に大事なポイントだと思うんですね。常に何か日本人のまねをしている,自分は日本語ができない,もっと勉強しなきゃということで伸びていく人はいいんですけれども,多くの人たちはそうではなくて,何か自分の大人としての体験,知識が生かされないで,日本語ができないということによって常に何か負い目を感じている状況というのが,心の安定につながっていかない原因だと思います。
先ほどお話がありましたように,日本語を習って,今度は地域で自分の文化を紹介するような場面を提供するといったことは,非常によろしいことではないかなと思いますね。そういう場面を見て,自分が何かgive*1できるものがあるから,堂々と日本語も使えるようになるということだと思いますし,日本人もその人の日本語を直すというのではなくて,何を伝えたいのかというふうに,内容にフォーカス*2して聞いてくれる。よって対等なコミュニケーション感というのは成立していると。常に正しい日本語かどうかという基準でコミュニケーションが成立しているんではなくて,この人が何か私の知らないことを教えてくれようとしている。何かおもしろいことを知っているみたいだと。じゃ話してみようという普通の大人の関係になるというところだと思うんですね。だから,地域の日本語と日本語学校や大学の留学生センターでの授業の違いというもの,皆さんでしかできないことというのは何なのかということを考えた日本語教育を目指していただきたいなと思っています。

*1 give 与える。供給する。伝える。贈る。述べる。
*2 フォーカス 焦点。ピント。

  5番目なんですけれども,コミュニケーションの基礎的な能力として,皆さんがいろんな役割を演じる必要があるということを考えていただきたいと思っています。御自分の役割を固定化しないということですね。私は先生なんだ,いわゆる古い意味での先生の役割だけを演じたりという発想は避けた方がいいのではないかなと思います。
まず,もちろん日本語の母語話者で,コミュニケーションのモデルだという意味で,細心の注意をいろいろ払わなければいけないと思うんですね。最初に外国から来たときに,一人や二人の行動を見て,あ,日本人はこうするというふうに思いがちですよね。外国に行くと。我々が外国語を勉強したときと同じように。日本人はこう言うんだと。まず,「えーっと」と言わなければいけないというふうに。学校の先生は「えーっと」というふうに何度も言っている。それを,ああ何か格好いいな,えっと,えっとというのでは,余りいいことではないのかもしれません。
そういう意味で,どういう言葉を使うか,どういう身のこなし方をするかどうかというのが重要であるということと同時に,もちろん教えなければいけないことはありますね。文法を教える,漢字を教えるいろいろあります。それと同時に学習をしていくわけですから,それのコンサルタント*1をしていく。今勉強どう,どんなところ困っているというようなことについて話をして,「どんな辞書が先生いいですか」といった質問に答えていくコンサルタントとしての役目もあるでしょう。あるいは学習者のコミュニケーションを分析していくとか。一生懸命勉強しているけど,なかなか上達しない。聞いてみると,同じ中国人の仲間の中で,いつも中国語を話している状況であると。そうなると,そういう人たちを本当に日本語が使える場面を教えてあげるということも大事なのかなと思います。あるいはコミュニケーション活動が教室の中でうまく展開するように補助をしてあげるというファシリテータ*2,何か教えるということではなくて,活動を提供して,そしてディスカッションが盛り上がっていないところでは,例えば一番しゃべってる人とわざと相対する反論者になって何かをやってみる。そうすると,ほかの人が元気づいて一人の人が話をずっとしているという状況じゃなくしてあげるとか。そういうようなファシリテータ的な役割も必要になってくるでしょうし,あるいは日本語教育の場合だと,分担ティーチング*3をしたり,ティームティーチング*4をすることは結構あると思うんですね。皆さんのボランティアの活動の中では。その人たちとうまくコミュニケーションをしていかなければいけない。例えば教科書の何ページから何ページまでやりましたという伝達だけではなくて,ある学生さんは何か今日は暗かったとかというような人間にフォーカスしたようなコメントを,次の人に伝達して,ちょっと心配です,体調が悪そうですというようなことを混ぜて書いていったら,次の人がそれを見て,何とかさん,かぜ治ったというふうに授業を始めることができますよね。そうすると,自分も受け入れられているんだと思える,その人がたまたま職場では非常にきつい仕事をさせられて,おまえは日本語しゃべれないんだろう,これしかできることないだろうということで,ずっと朝から晩まで皿を洗っているような状況で,ぽっとボランティアの活動に来たら,「かぜ治った」という一言で,ああ,受け入れられているんだ,自分のよりどころがここにあるというふうに思われたら,正しい漢字一つ教えるよりもずっと意味のある活動になります。それこそ醍醐味ではないかと思うわけです。
皆さんが学習者と対面するときに,教室であったり,あるいはどこかおうちであったりとか,あるいは喫茶店で何かマン・ツー・マン*5でやることもあるでしょうけれども,いずれにしてもその場の外側に学習者が自分の生活圏,生活のネットワークがある,そのネットワークについておせっかいにならない程度に興味,関心を持っているということですね。その中でどんな言語活動をしているのか,そこでどんな不満を持っているのか,楽しみを持っているのかということを考えながら,では次にこんな発表をしてみましょう,あるいはこんな表現を学習してみましょうということのストラテジー*6,戦略というものが,隠し味として出てくると,それこそ不安定じゃなくなると。そういう複雑な状況,心の状況なども考えながら,最終的に大人として扱う。そして私も一緒に勉強していくから,あなたとこうやって学習していることが,私にとっても楽しい,意味のある人生になっていると。困難があるからこそ楽しいんだという考えでやっているということを,これまた押しつけをしているといけないんですね。さらりとやって,ということが非常に難しいことです。
ですから。最後に,ここに,
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The excellent teacher inspires.*7
と書いてありますけれども,explain*8してあげて,やる気にさせていってあげる,そしてそのやる気というのが特に日本に来て間もない人たちにとっては,心が安定しない限りやる気はおこならないとなると,受け入れてあげる。押しつけでなくて受け入れてあげるというようなしかけ,あるいは言葉づかい,そういうものが私たちボランティアをやるときに非常に大切なことではないかなと思います。
ということで,皆さん,おなかもすいてきて,トイレにも行きたくなってきたんじゃないかと思いますので,終わりにしますけれども。もし何か,異論,反論,オブジェクション*9何でも結構です。(笑)

*1 コンサルタント 企業経営・管理の技術などについて,指導・助言を与える専門家。相談役。
*2 ファシリテータ 補助役・まとめ役の意味。
*3 ティーチング 教える。
*4 ティームティーチング 2人以上の教師が共同で教えること。
*5 マン・ツー・マン 教授者と学習者が,1対1で学習を進める方式のこと。
*6 ストラテジー 学習方略。
*7 アメリカの著述家ウィリアム・A・ワードの言葉。
*8 explain 説明する。
*9 オブジェクション 異議。反対。


司会:会場の皆さんで,質問等がございましたら,一つぐらいは受ける時間がありますので。いかがでしょうか。

参加者:Hと申します。先生のお話してくださった内容というのが,夕べ夜中にちょっとテレビ見てしまったんですけれど,NHKでフィンランドの教育ということで,すごくそれに相通ずる,これから日本の学校教育においても,とっても必要な視点であるなというのを,昨日のテレビで目からうろこ状態だったんですけれど,それを何か再確認できて,とてもいいお話をいただけてありがとうございました。

松本:ありがとうございます。

司会:それでは,松本先生,どうもありがとうございました。今,目からうろこの話がありましたが,目からうろこが出た方は,ぜひ午後の第4分科会で松本先生のディベートのワークショップ*1がございますので,聞くことの大切さを含めたディベートのあり方について,多分話をしてくださると思いますので,登録なさってない方もまだ可能ですので,ぜひ第4分科会の方においでいただければ幸いです。もう一度だけ松本先生に拍手をお願いします。それでは,これで午前中の部のプログラムをすべて終了しました。どうもありがとうございました。

*1 ワークショップ 作業場。研究集会。講習会。


ページの先頭に移動