日本語教育研究協議会 第2分科会

日本語教育研究協議会
  第2分科会「音声・音韻の対照言語研究の成果の活用」
  講師:松崎 寛(広島大学講師)
松崎 今日は,いろいろと分科会がありまして,どのテーマにしようかというので皆さんかなり悩まれたと思うんですけれども,この教室を選んでくださってありがとうございます。四つテーマがあって,私だったら絶対別のところに行くんですけれども,ここにわざわざ来たというのは,かなり皆さんマニアックな方だと思います。それぐらい日本語の教育という中で発音の指導をしようと,音声教育をしようということになると,一般には余り広いニーズとしては認められていなくて,一部の人が,いやどうしても教えたいんで何かいい方法を知りたいという具合に,すごい期待をしてこの教室に集まってくるんですね。今日は,何かヒントになるようなことが得られてそれで帰っていただけたら,とても私としてもうれしく思うんですけれども,結論を先に言ってしまうと,例えば学習者のつぼのここを押すと発音が急に良くなるとか,そういうのは絶対にない。例えば,文法と音声を比べた場合に,文法に関して学習者が「これ・それ・あれ」の「こそあ」の区別を間違えるんで矯正方法を教えてくださいとか,こういう話というのは絶対出ないんですね。「これ・それ・あれ」を教えるって言ったら長い時間をかけて,教科書で体系的に教える一つの項目としてこれを教える,この時間をかけて教えるというのがあるんですけれども,どうも発音に関しては何かうまい矯正方法というのがあって,その方法をマスターすると,整体師がぱきっとやったら体の調子が急によくなるみたいに発音が良くなるという夢の方法があるんじゃないかという期待を抱いてる方が時々いらっしゃるんですね。それで,例えば学習者が「うちに韓国人学習者がいて,その人が『つ』と『ちゅ』をよく間違えるんです,『いつも』が『いちゅも』になっちゃうんです,どうしたら『いつも』って言えるようになるでしょうか」って言ったら,私は「これは練習するしかないですね」と。「練習ですか」「はい」「何かいい方法ないですか」って。「いや,もう何度も何度も練習して,『つ』と『ちゅ』のどこが違うかというのをその人に感じてもらうしか方法がないです」って言うとすごくがっかりする。でも,文法ってそんなもんだと思うし,漢字もそんなもんだと思うし,音声もやっぱり特別なものじゃなくて,長い時間をかけて練習しないとなかなか定着しないというところがあるんですね。文法や漢字というのが,一生懸命覚えるという努力によって身につく,そういう面が強いのに対して,音声の方がどちらかというと努力しても努力してもなかなか身につかないという面は大きいと思います。でも,ちょっとでも効率よく進めるための何らかの方法,よりよい方法というのをみんなで探っていこうということで,我々がふだん研究しているわけですね。そういういろいろな研究の世界とかあるいは実践を通じて出てきたことというのを,今日は一部お話ししたいと思います。
まず,皆さんにちょっとお伺いしたいんですけれども,韓国人日本語学習者に日本語を教えている,あるいは教えた経験があるという方は……。ほとんど挙がりますね。その中で韓国語を勉強したことがある……。これも半分ぐらいですかね。それで,どんな発音の誤りがあるかということに関して,大体経験的に,それから韓国語を勉強するとさらにそれがよく分かるということがありますね。
それで,事例の一つですけれども,パワーポイントを御覧ください。例えばある韓国人がこう言いました。「今日,セキジューへ行きます」。何が言いたかったんだと思います,これ?それで,「え,セキジュー?」というふうに聞いたら,「ええ,ピジャです,ピジャ,ピジャのセキジュー」って言って,ピジャはピザかな?,「あー,友達とお昼御飯を食べに」,「ああ,シェーキーズ!」(笑),ピザのお店の名前でシェーキーズというのがあるんですけれども,「シェーキーズ」って言おうとしたら「シェ」が「セ」になって「ズ」が「ジュ」になって,長音が抜けたり余計なところに入ったりして,「シェーキーズ」が「セキジュー」になった。こうなると,ほとんど意思疎通にかなり問題があるという誤用ですね。
もう一つ,別の例を見てみましょう。「先生,カコポ貸してください」って。カコポって何でしょう,カコポ。「カコポって何ですか」って聞いたら,「授業で見たビデオです」。あ,ビデオ,ビデオのタイトルだなと思って,カコポ,分かる方。分からないですよね。「あの,日本の映画のカコポ」って言われて,え,日本の映画のタイトル?,カコポなんていうタイトルあったかなと思って考えて,一生懸命考えたんですけどちょっと分からない。で,「ビデオだったら,そこの棚にあるから持っていっていいよ」と言って,取ったの見たら『学校4(フォー)』か(笑)!「学校」が「カコ」になって,「4(フォー)」が韓国語の外来語の規則で「f」が「p」になるんですね,「フォー」が「ポー」になって「フォーク」が「ポーク」になったりとか「グラフ」が「クレプ」になったりとか,そういう「f」,「フ」に当たるものが「プ」になるというのがあります。
というので,こういう形でさっきの「セキジュー」とか「カコポ」というのをぱっと聞いたときに,どれぐらい元の,この人が言いたかったことを酌むことができるかというところですね。これからお話しすることの,まず「はじめに」の前になるところの大前提というのがあります。ここにいらっしゃる皆さんは大体音声教育必要だなと思っていらしてると思うんですけれども,一般に言われるのは,先ほどマニアックだと言ったように,音声教育,別にそんなにしないでもいいんじゃないかという意見の方が趨勢ですね。それにもちょっと問題があると。学習者が発音を良くしたい,発音がうまくなるようになりたいというふうに思ったときに,そのニーズにこたえるということ。だから,学習者のニーズがあればそれにこたえる力が教師の側にあった方がいいということであります。その全く逆で,とにかく音声教育必要ですから,大切ですから,何が何でも音声教育しなきゃいけませんというようにいくのもよくないということで,ニーズをどれぐらい見きわめて対応していくかということになると思います。
そこに関連してくる話としては,先ほどのカコポとかセキジューみたいな話で,学習者が発音してそれが分からない,分からないことによってミスコミュニケーションが起こります。それによって,何回も聞き直したりする手間というのでいらいらするということがある,でも「いらいらしないように日本人側が変わらなきゃいけない」という,今日の午前の話ともつながってくるところですね。そのいらいらしないようにするためにはどうしたらいいかというと,先ほどのセキジューやカコポのような発音を聞いたときに,学習者の発音の誤りというのは,ある程度の傾向がある。例えば「カ」だったら候補としては「カ」じゃなくて「ガ」があるんじゃないかとか,「ポ」だったら「フォー」があるんじゃないかというようなことを前もって知っておくと,いろいろ組み合わせて,これが言いたいんだろうなというのがすっと出てくるようになって,検索にそれほどの時間がかからないようになる,そうするといらいらしなくなるということがあります。その発音の誤りの傾向を把握する,意思疎通が妨げられないようにする,コミュニケーションがそこで止まらないようにするということですね。
長年教えていると自然に勘が身についてきて,大体こういうことを言いたいんだろうなということが分かるということがあります。広い意味では,そういった教師が長年培っていた勘,エッセンスみたいなものを,今日の午前のお話も関係してきますが,例えば中学校や小学校などで外国人と触れ合う時間というのを増やして,その中でこういう発音でこういうことが言いたいんだろうなということを自然に酌めるような,そういう力を持った次世代の若い力が次に出てくるように,日本人側がどんどん変わっていかなければいけないということがあります。これは,何が何でも音声教育ということの裏返しみたいなもので,日本人側の方が受け入れる体制というのを整えていかなければいけないんじゃないかということですね。
これは,ちょっと教育,政治が絡んでくる問題であって,そう簡単に意識変われと言って変わるわけがないし,発音の傾向を把握しなさいといっても,すべての人が把握してくれるわけではないなということがあります。やっぱり聞いていらいらするという人も世の中にはいるだろうということで,教師として考えるべきことというのは,さっきニーズ次第という話があったんですけれども,そのニーズというのは何かということ。大きく二つのニーズを考えなければいけません。よく一般に言われるのは学習者自身のニーズ,学習者が何を学びたい,何が必要だと自分で把握しているかということですね。しかし,学習者のニーズだけでは本当のニーズというのは分からない。客観的に見て,この人に何が必要とされるかということを把握しないと,本人がやりたい,やりたくないというだけだと,学習目標というのは正確に設定できないわけですね。そこで,もう一つ,周囲のニーズというものも調べる必要があると。例えばその一例として会社で働くある韓国人学習者がいるとします。それで,自分は日本語がそんなに上手ではない,電話の応対みたいなことは同僚の日本人がやってくれて,自分はほかの自分の専門の仕事をやっていると,そういう分業ができてるから大丈夫だ,だから余りうまくならなくてもいいという具合に本人が感じているとします。だけど,周りの同僚に聞いてみたら,「勤め始めて何年になるんだし,そろそろ電話の応対ぐらいできるようになってくれないとね〜」という具合に思っているかもしれない。こういうときに,本人と周囲の間にギャップがある可能性があるわけですね。その両方のニーズというのを考えなければいけない。そうやって考えると,周囲のニーズというところに,先ほどのいらいらしないかどうか,これが大きくかかわってくるわけですね。それを周りの人がどんなふうに感じるかな,一般の日本人はどういうふうに感じるだろうかな,教師としての自分はオーケーかもしれないけれども,ほかの人がこういう発音を聞いて分かりにくいと思ったり,いらいらしたりということはないだろうかということをいろいろ考えなければいけない,それによって,何をどこまでどう教えるかということを考えていきましょうということが,今日の大前提であります。
その音声教育必要ないということで言えば,小河原2001の調査*1というのがあります。これはどんなことをやったかというと,いろいろと社会人に外国人にはどれぐらいの発音の正確さというのが要求されるかというのを200人から300人ぐらい聞いて,いろんな意見を出してもらったんですね。そうすると,その中に,「ふだんの日常会話であれば発音は多少崩れても問題ないけれども,やっぱりビジネスをするんだったらきちんとした発音で話すべきじゃないか」という会社員の意見があった。それから,お医者さんの意見です。「医療関係の確実な意思伝達が求められる職場では,単なる会話では済まされない」。人の命がかかってるんだと。お互い伝達するときに,例えば清濁の間違いがあったということで違う指示が伝わってしまって,それで命を落とすというような危険なこともある。だから,やっぱりこういう職場ですね,会社とか医療の現場とか,こういった公的な場面,私的な場面である会話に比べると公的な場面においては,やはり正確さが必要とされる場面というのが幾らでもあるだろうということですね。
それで,レジュメの方の一番最初に書いてある今日のお話にかかわるところになります。「はじめに」というところで,テーマが対照言語研究ですね,対照言語研究というのを実際の発音の指導に結びつける,そのための活用する方法というのをいろいろと考えてみたい。
その対照言語研究というのは,基礎的な研究と言われるものであります。基礎に対しては応用というのがあったりあるいは実践というのがあったりするわけですが,その基礎的研究に対する教育の実践ですね,その二つの間にあるかかわりというのを,先ほどちょっとお話ししたような,文法ではどうだろうか,音声ではどうだろうかということのいろいろな違いを踏まえながら考えていきたい。それで,基礎的研究と教育実践との関係という点からいうと,対照言語研究は基礎的研究の一つですけれども,それ以外にもいろいろな重要な研究領域というのがあります。それについて,教育の実践の現場から考えてさかのぼって役に立ちそうな基礎的研究があったら何でも取り込んでいこうという考え方で考えるということですね。
レジュメに書いてありますケーススタディを読みます。まず,「明日から韓国人に発音を教えることになりました。」発音を教えることになったというのも,自分で発音を教えようと思うケースというのもあるんですけれども,機関の場合に,「何々先生には発音の時間を担当してもらいます,週1コマ,この50分を使って発音を毎週毎週やってください」というぐあいに命じられるかもしれません。あるいは場合によっては週に2コマ当たるかもしれません。そういうようなことを言われたときに,さあ何を教えたらいいかということですね。これ実話なんですけれども,私が昔,ある先生から相談されて,ある先生から,「実は私の教え子で今度中国に派遣されて行くことになったんだけれども,発音をやれと言われていると。ネイティブが来るから発音の時間をこのネイティブの日本人の先生にやってもらおうというふうに言われたと。それで,本人が何を教えたらいいか分からないで困ってるからちょっとアドバイスしてやってくれ」と,こう相談されたんですね。で,その人に会ったわけです。「先生,実は私,本当に大学時代音声学とかそういうの全部避けて通ってきて,これまで発音と無縁の生活を送ってきたんですけども,今度こういう仕事が当たって困ってます」と言われて,「じゃあ,とりあえず今考えている15週間で何をやるかということを,1日目何やる,2日目何やるとかというのを紙に書いて,それで来週持ってきてください」と言って,次の週に会ったんです。それで,「いや,ちょっといろいろ考えたんですけどよく分からなくて」って,出してきたの見たんですね。「第1日目あ行,2日目か行,3日目さ行,た行…」と書いてあって(笑),最後の方に「アクセント」,1日かけて「イントネーション」,「終わり」というふうになってて,いや,ちょっとなあ,あ行で1日はつらいんじゃないかと言って(笑),最後アクセントで1日というのも,ちょっとここに盛りだくさん過ぎるなあ,というような話になって。こういうときに,例えば中国人に教える,韓国人に教えるというときに,得意な発音,別に教えなくてもできるところと,苦手な発音があるので,苦手なところを重点的に時間をかけて教えないといけないと,こうなるわけですね。
それで,レジュメのケーススタディ。「まず韓国人はどんな発音が苦手だろうかということを本で調べてみました。」本で調べるときに,韓国語とか中国語であると結構本が何冊か,日本語教授法絡みの,日本語教育の視点から書かれたものがあるんですけども,例えば明日からスワヒリ語話者に教えるようになったというときに,スワヒリ語にどんな特徴があって彼らはどんな日本語の発音が苦手なんだろうかって言ったら,これはもう調べようがないわけですね。分からない。例えば,三省堂から『言語学大辞典』というのが出てます。5巻セットのこんな分厚い世界言語編というのに,5,000から,8,000から,いろいろな言語が収録されている,そういう大辞典で,大抵の言語は載ってるんですけれども,それをぱらぱらと見ても,「何だか記号がいっぱいぐちゃぐちゃと書いてあって,それが日本語を学習するときにどういうふうに発音上の困難点になるのかということがなかなか分かりにくい」ってことがあります。対照言語学の最もプリミティブな形というのがこれで,彼らの母語の音韻体系ではこういうふうになってこういう記号が体系をなしています,日本語ではこうです,それを比べてここの部分が一致していないから発音が難しくなるでしょうということを考えていくというのが一番プリミティブな形ですね。しかし,それを読んでもよく分からないというところがあります。具体的に何をどう間違えるかというのを書いてくれてないとよく分からないと。
それで,「いろいろな本を調べてみました。しかし,書いてあることが本によって違う。」これはいろんな事情があるんだろうと思います。その本を書いた人が,例えば特殊拍の,長音とか促音とか撥音みたいなものというのはどんな学習者も間違えるし,アクセントやイントネーションも大抵間違えるからそういうのは書かないでおこう,子音と母音だけにしようとか,いろんな考えがあって書くことが変わってくるということがあります。「とりあえず,でもいろんな本に書いてあることで,韓国人,中国人,タイ人は清濁の区別が苦手である」と。これは音声学的に言うと,清音というのは声帯が振動しない音ということで無声音と言われるものですね,濁音の方は有声音,これは清音・濁音イコール無声音・有声音というわけじゃないんですけれども,清濁の区別があるものの場合,無声音が清音ですね,有声音が濁音という対応関係になってます。この声帯の振動があるかないかということ,この区別が学習者の母語の中にないと日本語の発音で苦労することになりますね。それで「練習しよう」ということになります。
で,3人いたんですけれども,「当日Aさんは清濁を間違えました。お,やっぱり韓国人だ,なるほどこれが母語の干渉ってやつだな。」と,このときに思うわけです。母語の干渉というのは,学習者がこの場合,韓国語が母語ですね,その韓国語が,目標言語である日本語を学習するときに悪い影響を与えるということを干渉という具合に言うわけですけれども,「ところが,Bさん,Cさんは別に間違えなかった。」問題なかった,発音できたんですね。おかしいな,母語の干渉がないな,同じ韓国人なのにということで,「その後,用意してきた例文で練習したんですけれども,Aさんだけ直らず,つらそうです。」ということになって困ったなんていうケースというのが,結構あると思うんですね。
Aさんはできなくて,Bさん,Cさんはできたのは何でか,というのは,これ個人差の問題かもしれない,あるいは韓国語の方言の中でそういうのができる方言というのがあるのかもしれない。特に,中国語の場合には特徴がよく分からない方言が中国国内にたくさんあります。それで,北京中心に考えてると失敗するということが結構あります。だけど,個人差ということでBさん,CさんができるときAさんだけを集中的に練習させるとなると,これはAさんが非常につらい思いをすることになりますね。そのためのケアというものも,発音というのは非常にデリケートなものでありますので,必要じゃないかということになると。
そのような清濁以外にもいろいろと韓国語話者の発音上の特徴があります。具体的にどういう特徴があるのかというのは,皆様方もこれまでの経験で御存じだと思うんですけれども,ちょっとその話題を共有するという点で,発音上の特徴にどういうのがあるか,実際の発話を聞いて記述していく作業をここで入れてみましょう。何か,レジュメのメモのページでもいいですけれども,白紙のところに,これから韓国語話者が文章を朗読してるものを流しますんで,その中でこういうところが特に特徴的であるなというのを書き出してみてください。3回連続で流します。

<聴取>

  「今年の1月5日に山陰の小都市に旅行に出かけました。東京から京都まで新幹線で行き,京都で別の列車に乗り換えました。乗り換えたのはディーゼル列車で,雪に覆われた中国山地の中をゆっくりと進んでいきます。4時間近くかかって,やっと目的の駅に停車しました。プラットフォームに降りると,冬の山陰の非常な寒さが身にしみました。」(×3回)
はい,というので3回,聞いていただきましたけれども,今書いたメモを整理して,それでお隣,前後左右の方と今のどんなところが特徴的だと思ったかという情報の共有をしてみましょう。ちょっと,じゃあ,近くの方と。

<話し合い>

  はい。じゃあ,いろいろと話し合って出てきたと思いますけども,まずは全体で共有ということで,何か,どんな特徴があったかというのを,一つずつグループごとに言ってください。

*1小河原2001の調査
小河原義朗“日本語非母語話者の話す日本語の発音に対する日本人の評価意識―日本人大学生の場合―”「日本語教育方法研究会誌」8巻1号,p28〜29

参加者 文節の末が重たく,ちょっと,長く。
松崎 重たく,長く。
参加者 長くというか,強くって言いましょうか,全体になっていたのではないかと。
松崎 文節の末が重たく,長くというような,具体的に言うと,例えばどんな発音ですか。
参加者 まねできない,ちょっとまねするのは難しいですけれども,文節が割ときれいに区切れて,センテンスは書きとめてないんでよく言えないんですけれども……。
松崎 「今年の1月5日に山陰の小都市に旅行に出かけました」。
参加者 今年の,「の」が……。今年の……。先生お願いします。
松崎 やって,やって,はい(笑)。
参加者 「今年の〜,1月〜,5日に〜,山陰に〜,行きました。」ちょっとこう,しり上がりという……。
松崎 しり上がりな感じ,はい。そうですね,上手ですね(笑)。いや,こういうものまねができるようになる,これ大切なんですよ,本当に。学習者が何か発音がちょっと違うな,逸脱してるなという特徴があったときに,「今のはこうだったけれども,本当はこう」というのを並べて聞かせるというような,こういうテクニックを教師の側で持っていないと,「今の駄目だから。本当はこう」と言って正しい発音を聞かせるだけだと,なかなか学習者は自分の発音を客観的にとらえるということができないんですね。
それで,さっきの部分もそうですね,しり上がりというか,「今年の〜,いちがちゅ〜,いちゅかに〜,さんにんの〜」って,こんな感じの発音ですよね(笑)。このだだだ〜という,方言で言うと,さっきあっちのグループでも出てましたけど,北陸の方言に似たような音調があって,これのことを「ゆすり音調」って言うんですけれども,ゆすりという語感が余りよくないんで,何か別の名前がいいって言われてるんですけどね(笑)。このただだぁ〜,だぁ〜という感じのイントネーションですね,それが韓国語の中でもいろいろと方言によって違いがあって,特にソウル方言話者にこれがよく聞かれるということが言われています。で,韓国のほかの地域の人から,ソウル方言にそういう特徴があるというようなことで笑われたりとかということもあるようです。
はい,じゃあ,そっちの方。
参加者 「さんにん」ですね,「さんにん」,恐らく「山陰」が「さんにん」と。
松崎 「山陰」が「さんにん」になっていた。そうですね,山陰という言葉が2回出てきましたけれども,両方とも「さんにん」になってましたね,はっきりと。「山陰」が「さんにん」になってるという。
はい,どうでしょう。
参加者 最初の1月でしたか2月でしたか,「5日」というのが「いちゅか」というふうに……。
松崎 はいはい,「1月5日」という言葉でしたね。この「つ」のところが「ちゅ」。
参加者 はい,それも「ちゅ」と,いちゅ,いちゅか。
それと,「進んで」を「すんで」と。
松崎 「進んで」が「すんで」になってましたね。
参加者 「す」を1度しか言わなかったと思います。
松崎 はい。「す」が一つなかったですね,確かに。
参加者 例えば,「小都市」とか「京都」とか「停車」とか,そういうふうな,日本人だったら長音で発音しそうなところが,「きょと」「でしゃ」とか,そういう発音の仕方だったと思うんですよ。
松崎 長音が脱落する,短か目になるというようなところですね。
参加者 「身にしみる」という,その「身」とか,「み」という1音が「みー」「みー」とこう,少し伸びた音に。
松崎 「身に」というところが,逆にここに長音が入ってるような感じ。(板書指して)こっちは脱落でこっちは挿入ということですね。
参加者 「ディーゼル」が「ディージェル」に。
松崎 「ディーゼル」が「ディージェル」になってましたね。
参加者 韓国語の発音でちょっと専門用語忘れたんですが,濃音*1か激音*2かが入っていて,日本語だったら「やっと」というところを「やっとお」という感じで聞こえたような気がします。

*1 濃音:朝鮮語における喉をつめて発音する子音。

*2 激音:朝鮮語における有気音。


松崎 「やっとお」という感じの発音ですか。
参加者 「や」の前に何かこう,少しためて「やっとお」,イントネーションじゃなく,何かこういうふうに聞こえたんですけど。
松崎 「や」の前にためて,ためて「いやっとお」?
参加者 ちょっとおかしい,おかしいですが。
松崎 そうですね,「と」が「っと」になるのは,濃音と呼ばれる韓国語の発音ですね。
参加者 「プラットホーム」の「ら」の音を少しはじき過ぎたかなというように聞こえました。
松崎 少しはじき過ぎ。
参加者 「プラットホーム」というような感じで。
松崎 プラットの「ら」がはじき過ぎ。
参加者 これ,出たかどうか分からないんですが,「かかって」という,促音みたいな。
松崎 はい,「かかって」の「っ」がなくなった,(板書指して)この辺と似たような,今度は促音が脱落ということですね。
参加者 濁音です,「停車」が「でいしゃ」に,点々つきになってる。
松崎 「停車」が「でいしゃ」に聞こえた。
参加者 「別」というのが「べちゅ」
松崎 「別」が「べちゅ」になってました。(板書指して)この辺と同じですよね。
参加者 私は韓国人ですが,韓国人の耳から聞いても,「近く」というのが「っちかく」という,韓国語の濃音になって,これを韓国人の中でも,一般の韓国人は全部濃音化することじゃなくて,口癖になっている人たちが濃音化することですが,多分,その人は最初の音節を濃音化するのが自分の口癖になっているんじゃないかと思いますけど。
松崎 最初の部分が濃音で,こう,ちょっとのどが詰まるような,〔ッチ〕という感じの発音ですかね。
参加者 板書が見えないので出てるのかもしれませんけど,「つ」が「ちゅ」。
松崎 「つ」が「ちゅ」,はい。
参加者 で,「ゼ」が「ジェ」で「ディージェル」。
松崎 「ディージェル」,はい。
参加者 「しゅしゅんで」という感じにも聞こえましたし……。
松崎 「進んで」が「しゅしゅんで」にも聞こえた。
参加者 山陰は非常に,何かこう,分かりにくかったですね,最初。
松崎 最初,分かりにくかった。何を言っているか,ちょっと意味がとりにくかった。
参加者 三陸かな山陰かなって。
あと,もう一つ,「停車」のアクセントがやっぱり。もし厳しく言うなら直したいなという。
松崎 「停車」のアクセントが,どうなってました?
参加者 「でいしゃ」だったかな,いやアクセントそのものはちょっと忘れましたけれども。
松崎 アクセント忘れたけど,何かアクセントがおかしかった。
参加者 その気持ちが厳しいときだったら直しちゃうかな(笑)。
松崎 優しいときは直さない(笑)。
じゃ,そっち側のグループ。何か,どうですか,ほかに。
参加者 同じことかと思うんですけれども,先ほど,最初の濃音って言われたときに,真上の音に,「わた↓ーし」とか,アクセント核が真ん中にきてるというふうに。
参加者 それが,最初の音が濃音でというんでそういうふうなのかも……。
松崎 ははあ。アクセントがちょっと違ったという感じですね。
参加者 結局,「異常」なのか「非常」なのか判断がつかなかったんですが,それが濃音なのか。
松崎 「非常な寒さ」なのか「異常な寒さ」なのか,どっちだろうかということですね。
はい,ほかに何か,これだけは言っておきたいとかというのありますか。いいですか。
はい,じゃあもう一回聞いてみましょうか,今までのところを頭に入れつつ。
<聴取>
  「今年の1月5日に山陰の小都市に旅行に出かけました。」
松崎 「1月5日」が「ちゅ」になってた感じですね。「山陰」が「さんにん」になってた,「小都市」は結構伸びてたような気がしません?ちょっと勘違いかな。板書の「小都市」消しとこう。
もう一回聞いてみますか,今のところ。
<聴取>
松崎 うん,そうですね,大体そんなところですね。あと,細かいところで,優しくないときだったら「旅行」の「りょ」のあたりもちょっと緩んでるかなという感じもありましたね。
<聴取>
  「東京から京都まで新幹線で行き,京都で別の列車に乗り換えました。」
松崎 「別の」が「べちゅの」になってましたね。
<聴取>
  「乗り換えたのはディーゼル列車で,」
松崎 「ディーゼル」が「ディージェル」になってると,このジェルの「ル」という部分も韓国語の外来語っぽい発音ですね。
<聴取>
  「雪に覆われた中国山地の中をゆっくりと進んでいきます。」
松崎 「進んで」が「すんで」になってますね。これは何か読み間違いなのかもしれないですね,あるいは「進んで」の「す」が無声化させようと思って脱落しちゃったのかもしれない,その辺の原因はよくわからないですね。
<聴取>
  「4時間近くかかって,やっと目的の駅に停車しました。」
松崎 「停車」が「でいしゃ」のように聞こえる。どうでしょうね,今「でいしゃ」に聞こえたという方。「ていしゃ」でオーケー。これもちょっとそうですね,割とこの人は清濁はできてる感じですね。停車のアクセントもオーケーだったかな。
<聴取>
  「プラットホームに降りると,」
松崎 「プラットホームに」の「ラ」がはじき過ぎ。プラット,プラット,まあ,これはどうでしょうね,プラと「プ」と「ラ」のつながり具合がちょっと,子音だけで「pra」という感じになってたのがはじいてる感じに聞こえたのかもしれないですね。
<聴取>
  「冬の山陰の非常な寒さが見にしみました。」
松崎 「非常な寒さが」でしょうね。はい,「ひ」ですね。でも「ひ」と「い」の区別というのも,特に語中の場合,結構苦手な人というのはいますね,「コーヒー」が「コーイー」になったりとかというような特徴ですね。この人の場合,あと全体を通じてということで,句末のイントネーションがだだだぁ〜,だだだぁ〜という形になってた,それからアクセントも細かく見ていくと,一つ一つ,このアクセントがこういうふうに違うということが指摘できるけれども,それも一つ一つ全部指摘しようとするときりがないので,なかなかに難しいということですね。
発音の何が特徴的な部分で,何を優先して教えるかというのを考えるときに,まず大前提として一つ,アクセントみたいな問題があった場合に,全部が全部間違ってるから,一つ一つ指摘するのは難しくなってくるという問題があるんですね。具体的にこういう傾向があるということというのは,なかなか傾向を出すのが難しい。それに比べると子音・母音のような局所的な部分ですね,この1か所がこうだというところは割と指摘されやすいという誤りがあるということがあると思います。先ほどAさんが清濁を間違って,Bさん,Cさんが清濁を間違えないといったように,この人の場合いろいろと清濁の問題になりそうな箇所はあったんですけれども,割とうまくできているということがあります。
その清濁にかかわる部分ですね。清濁では,か行と,た行と,は行じゃなくてぱ行の方ですね,「ぱぴぷぺぽ」と「ばびぶべぼ」がペアになるということでp,t,kとb,d,gのこの部分を混同して,「ばびぶべぼ」が「ぱぴぷぺぽ」になったりということ,あるいは「ぱぴぷぺぽ」が語中で「ばびぶべぼ」になりやすかったりということがある。それと同じように,「じゃじゅじょ」と「ちゃちゅちょ」というのも,これも同じように,韓国語においてはこれに当たる平音*1と呼ばれるものが一つであって,それが有声になったり無声になったりするというので混同されやすいなんてことがありますね。それが,韓国語の中で対応するものってなると,平音のかわりに激音と呼ばれるものがあって,これ息がすごく強く出る音ですね,〔pha〕とか〔tha〕とか〔kha〕とかの。これで代用すると,すごく息が強く出るということになって,それは息が強く出て〔tha〕と言っても余り出ないで〔ta〕と言っても,両方とも「た」ではあるんですけれども,息が強く出るのがすごく耳に残って気になるということになるので,誤用かどうかということは,ちょっと後ほど議論になりますけれども,一応特徴的な部分として気息が強くなる可能性があると。逆に先ほど濃音という言葉が出ましたが,濃音のことを音声学的に言うならば,のどの部分がぐっと,ちょっと,きゅっと緊張するような音ということで,喉頭化した音になるということで「喉頭化音化」ということがあります。〔ッパ〕とか〔ッタ〕とか〔ッカ〕というぐあいに,ちょっとのどを詰めるような感じですね。
はい,パワーポイント。それから「つ」が「す」になったり「ちゅ」になったりする,この場合だと「ちゅ」ですね,「いちがちゅいちゅか」というような,〔ッチュ〕とか〔ッチ〕に近くなる発音になってるということですね。これは学習者によって「つ」が「す」になりやすい学習者と「ちゅ」になりやすい学習者というのがいるんですけれども,いずれにせよ「つ」に当たる音がないということで,それを「ちゅ」で代用したり「す」で代用したりということが同時に韓国語話者の中でも起こることがあるということですね。
その清濁の区別に当たる無声音,有声音の違いと,「つ」が「ちゅ」になるという,この二つというのが連動して起こると,例えばざ行というのがじゃ行になるという特徴,「ざずぜぞ」が「じゃじゅじぇじょ」になるというのは,これは「つ」が「ちゅ」になるというのと同じような原因によって起こってるということですね。「つ」というのに濁点を打つと「づ」ですね,「ちゅ」に濁点を打つと「ぢゅ」になりますね。「づ」と「ぢゅ」,それは「ざずぜぞ」と「じゃじゅじぇじょ」の区別というのと同じということになりますね。それが清濁の区別と絡んでくるということになると,ざ行がじゃ行だけじゃなくてちゃ行との間でも混同が起こると。混同というよりも,どちらかというと傾向としては「ざずぜぞ」が「じゃじゅじぇじょ」や「ちゃちゅちぇちょ」になるという傾向の方が強いと,なんていうことが言われていますね。
それは,なぜ清濁,有声音,無声音に当たる区別が苦手かというと,子音というのを三つに分けると,これ声があるかないかというのと,それから息があるかないかという,この二つの組み合わせによって,本当は2かける2で四つできるんですけれども,多くの言語に用いられるのは,パワーポイントの「無声有気音」「無声無気音」「有声無気音」の3パターンです。無声音であり有気音であるというのは声が出なくて息が強いというので,声が出るか出ないかというのはのどが鳴るか鳴らないかということですね。例えば「た」というのと「だ」というので,「た」の方は声が出ない,「だ」の方は声が出るというとこになって,これを確認する方法としては耳をふさぐというのがありますね。ちょっと皆さんやってみますと,例えば,「いー」とか「あー」とか,こういう母音というのは有声音です。それに対して静かにしてくださいというときの「しー」とか「はー」とかという,こういう息だけになったものというのは,これは無声音と呼ばれるものですね。それで,「いー」というのと「しー」というのを,ちょっと連続して,耳をふさぎながらやってみると,はい,やってみてください。
という具合になって,「い」という方は声が,ここで鳴ったものが振動になって頭の中で鳴り響いてるというのが自分で分かりますね。「し」の方はそれがないということになります。
今度は,ちょっと破裂音の〔タ〕になってくると,ちょっと鳴り初めの部分が分かりにくくなるんですけれども,先ほど言ったように「い」とか「あ」という母音は有声音なので,「た」というときも「だ」というときも「あ」があるから,これやると声が響くんですね。だけど,「た」の方は「あ」が出る直前まではのど鳴りがない,「だ」の方はよく注意してみると,「だ」のちょっと手前あたりからのど鳴りの「ん」というのが聞こえます。これ,ちょっと「た」というのと「だ」というのをゆっくり,耳をふさいでやってみてください。
わかりますか。何となく,「だ」の方は「んだ」みたいな感じで「ンだ」「ンだ」という「ん」というのが最初にちょっとありますね。この振動が,ぽんという破裂が始まるより前から始まってるということが日本語の有声音の特徴であります。その有声音の場合,大抵は息が出ません。だから無気というぐあいにしておいて,有声でありながら息も強く出るという,例えば「だ」が強く息が出て〔dha〕みたいなものもやろうと思えばできないことはないですけれども,世界の言語ではこういう例は余りないということで,大抵の場合〔tha〕に当たる無声有気か〔ta〕に当たる無声無気か〔da〕に当る有声無気か,この3つの区別ということになりますね。これを日本人が聞いたときには,息が強く出るか出ないかというのは,特徴的な部分じゃないから〔dha〕って言っても〔ta〕って言っても,どっちも「た」の一部であるということになるわけです。それは清音・濁音という枠組みの清音だという具合にして聞くわけですね,こっち側は濁音だという具合に聞くから違うと。韓国語話者の場合には,それに対して逆に有気か無気かいうところがポイントになってくるので,息が強く出る方と出ないもので,声帯の振動があるかないかというのは一つにまとめて聞いてしまう,これは平音と呼ばれるものですね。平音に対して濃音というのと激音というのがあって,この場合だと〔tha〕というのが激音ですね,もう一つ濃音というのが,さっき言ったのどを詰めるような〔ッタ〕とか〔ッパ〕とか〔ッカ〕とかというのがあります。それまた別枠で,日本語の清音を濃音で代用するという学習者もいます。
平音で代用した場合にどういう問題が起こるかというと,無声無気で平音が実現された場合には,これは「た」でありますので,日本語の清音の枠組みに入る,パワーポイントの図の縦並びで同じ関係になるということで,これは成功するわけですね。だけど,こっち側の方になっちゃうと,それは濁音の領域に入ってるから違うよという具合に言われることになって,この二つというのを,区別してないものを区別して,日本語と同じような枠組みでとらえ直さないといけないというところで誤解が,発音上の誤用が生じるということになるわけですね。
そのほかの特徴,例えばさっき「コーヒー」が「コーイー」になりますと言ったんですが,語中の「h」が脱落しやすいということが,これまでの研究でよく言われています。例えば「おはようございます」が「おあようごじゃいます」というような,「おあよう」という発音になったり,「ごはん」が「ごあん」になったりというような発音ですね。それは,もともとの部分たどってみますと,例えば「コーヒー」という字の「ひ」というのは,日本語で「ひ」って言うときには,音声学を勉強したことのある人,この中どれぐらいいらっしゃいますか,当てないですから正直に挙げてください。は行の子音というのは三つあってという話を必ず習いますよね,「は」「へ」「ほ」は声門摩擦音の〔h〕というので「ひ」とか「ひゃひゅひょ」というのは硬口蓋摩擦音というもので,そしてもう一つ「ふ」というのは両唇の摩擦音であって,調音点が違いますなんてこと習います。それ習ったときに,「こんなの何の役に立つんだ」と皆さん思ったと思うんですけれども,こういうとこでちょっと役に立つんですね,実は。日本語で「ひ」とか「ふ」とかというときに,「一人」とか「二人」と言うときに,時々母音がなくなるときありますね。母音の無声化と呼ばれる現象で,「ヒ」とか「フ」がささやき声になる。これは大阪だとならないんですけども東京ではなる。というので,「ひ」が「い」が脱落して〔h〕だけになっても「ひ」だなということが分かるというのは何でかと言うと,本来の声門じゃなくて硬口蓋の部分の摩擦が強く響いているから「ひ」というのが「い」の特徴を残してるわけですね。「フたり」というときの「フ」というのも「フ」というときに唇をきゅっと狭める音になって母音が脱落しても,う段の「ふ」だなという感じが子音に残されていると,これによって無声化してもそれが「ひ」であり「ふ」であるということが分かるという特徴があるわけです。それが多くの言語においては〔h〕のままで「い」とか「う」とかという形の声門の摩擦音のままである,これ摩擦が非常に弱いものでありますので,母音が脱落した場合には,無声化した場合には,もとが何であったか分かりにくくなる。そこで無声化しにくくなるということと結びつくということになるわけですね。そのかわりに,逆に母音の方が勝ってしまって,子音の方が脱落して「コーヒー」が「コーイー」になったり,母音に挟まれた場合に,母音と母音に挟まれた子音の方が逆に脱落しちゃうという現象につながっていくと。
それから,特に語頭で起こりやすいもの,「まみむめも」とか「なにぬねの」という鼻音ですね,これが「ばびぶべぼ」とか「だぢづでど」に近い形になる,人によってかなり,これがすごく出る人と余り出ない人といます。さっきのもよく聞いてると,中に何だか“な行”がちょっと“だ行”っぽくなってたなというようなところが特徴として出ていたんですけれども,例えば「まみむめも」であれば「無理です」とかというのが「ぶりです」とかというような発音になったりとか,日本の「に」というのが「り」に近くなって「りおん」「りおんご」というような発音になったりというようなパターンですね。これは“ま行”,あるいは完全に“ば行”,“だ行”になるというよりも,「ま」と「ば」の中間ぐらいの音,「な」と「だ」の中間ぐらいのちょっと軽い破裂が入るぐらいというのになるということがあって,発音と聞き取りで間違って,“ま行”を“ば行”で書いたりというようなことが時々起こるということが報告されています。
はい,パワーポイント。ら行音ですね,特に漢語,これは韓国語における漢語の処理の仕方と関係あるものですけれども,ら行の子音が脱落するとか「な」になるというものですね。例えば「反論」とかというのは「はんのん」になったりとか,という例。あとは,母音が無声化しないというのは先ほど言ったような例と関係するところですね。
それから,「う」に当たるものですね,韓国語の「う」に当たるものというのは実は2種類あって,普通の唇をぎゅっと円めるものと,余り円めないで横に引っ張るという形になるものですね。ちょっと皆さん,リピートしてみましょう,唇円めながら〔ウ〕,今度はこれをぐっと横にして〔ウ〕,このの区別ですね,これに当たるものというのが別々にあるんですけど,日本語の場合にはこれほど円めないし,これほど横に引っ張らないし,だらしなく口をこうやった状態の「う」というのが,これが一番近いんですね,東京方言における。記号によっては横に引っ張る記号を当てることもあるんですが,それほど横に強く引っ張るというわけじゃない。西日本に来ると割と円まってるような傾向が強い。だけど,それがそれよりもさらに唇の円めが強いということになって,ちょっと気になるなという特徴になったりすることがある。「お」もそうですね,「お」も本当は円まる母音なんですけれども,その円めが強過ぎると,ちょっと逸脱した感じになるということですね。
それから,外来語。さっき漢語のRがという話があったんですが,外来語の「ファ」ですね,これが「カコポ」の「ポ」ですね,「フォー」に当たるものが「ポー」になってしまうということで,それをそのまま持ち込んだ場合に誤りが起こる。これは,外来語だからこうなるということであって,この二つの区別がすべてにわたってできないというわけではないので,かなり,発音上の特徴というよりもルールのかけ間違いというか,だから指摘すると割と語彙レベルで,これはこうだよということを指摘すると直りやすい特徴であったりはします。そのほかですね,アクセントや拍感覚にかかわるところで,さっき長音がちょっと短くというのが,これも学習者によってはかなり出ることがありますね。それから,余計なところに入っているように聞こえる。「身に」が「みー」がちょっと長かったような気がするとか,そういった特徴。それから,「山陰」が「さんにん」になるというのが,パワーポイントのこれですね,撥音が「ん」であります。この「ん」の後に母音の「い」とか「あいうえお」が来た場合に,それが「なにぬねの」になると。で,「山陰」が「さんにん」になるということですね。これは学習者の,韓国語に限らず多くの学習者の誤りとして見られるものですけれども,その言語において〔ン〕で終わったところに次に母音始まりのもの,あるいは半母音で始まるものがきたら,その二つはすっと発音されて,そのまま子音,母音の組み合わせにわたってしまうということが日本語にそのまま持ち込まれるとこうなるということですね。
それから,さっき例えば「反論」が「はんのん」になるというのがあったんですけれども,それともちょっと逆のような形で,Nと“ら行”がくっついたときに,例えば「便利」とかというのの「り」の方が今度勝っちゃって,便利の「ん」の方がLになって「べるり」「べるり」というような発音になったり,そういう「nl」が「ll」になるというような韓国語における漢字音の影響というのがそのまま持ち込まれてしまうパターンというのがある。  それから,アクセントが平板化したり,変なところに下がり目ができたりというような,型が違ってしまうというようなことですね。特に語頭拍が高く始まるような傾向,だだだだぁ〜,だだだぁ〜,だだぁ〜という形になって,だあという最初の部分が高く始まるというのがイントネーション的な特徴でよく言われることですね。
それから,先ほどの句末イントネーション,伸ばし下げですね,伸ばして下げる,ゆすり音調的な特徴,それから何々ですかというときの「か」というのの,「か」の上げ方が垂直的,あるいは「か」だけがぽんと高い,「何々ですか」というような,濃音のかかる発音ですね,「か」だけがぽーんと高く上がってしまうなんていう特徴があったりする。その特徴がアクセント,イントネーションとアクセントの関係で,イントネーションの特徴というのがアクセントの型を崩すということは基本的にはないんですけれども,それが学習者の場合にそのまま上がってしまうとか,型が崩れてしまうということにつながっていったりすることがあるということなんですね。
そのようないろいろな子音,母音レベル,それからこういう拍,アクセント類にかかわる特徴というのがさまざまなものが挙げられるということで,これまでの説の中で論じられてきたものというのを一覧表にしたものが,お手元の資料の27ページのところに載っています。ここまでの話,ずっと延々と話してきて何が言いたいかということになると,こういう対照分析ですね,韓国語ではこうだけれども日本語ではこうだというような,その違いの部分というのが発音上の特徴になって表れやすいというようなことで,それを前もって把握しておくと,先ほどのケーススタディのように,明日の授業で何を教えようかというのを考えるときのシラバスを立てるときに役立つということですね。ただし,注意点としては,ケーススタディにもあったように,本によって書いてあることがかなり違うと,この表がそれを如実に物語ってるんですね。これまでの先行研究というのを1969年から95年までのものを集めてきて丸をつけてみたんですけれども,大抵の場合,丸が付いているのはこの清濁絡みの1番の部分ですね。でも,中ほどのところになると,これ,丸が付いているのと付いてないのが本によってかなり違っているというのがあります。それは,この特徴というのは,例えば対照言語学的な分析によって導き出されたものであるのか,それとも学習者に実際にテストをやってみたら,先ほどCDを聞いていただいたような,こういう人が来て,余り清濁間違えないなというような特徴が出ていて,それを記述した研究だったりとか,いろいろな,調べ方の違いによって丸が付くか付かないかというのが変わってくるというのがあるんですね。
そして,もう一つ重要なことというのは,研究者の側で,ある発音上の特徴というのを聞いたときに,それはすごく特徴的だから記述しておくべきだと思って記す場合と無視する場合というのがあるんですね。この無視する場合というのが,発音のうまい下手の評価の問題とかなりかかわってきます。このような,前もってここを間違えやすいぞという予測というのを立てることによってシラバスは決まるんですけれども,結局その後どうやってそれを教えるかというのは次の問題,次のステップに具体的に入っていくところで,またさまざまな問題が生じてくることになります。
この辺で1時間たちましたけど,休憩は入れた方がいいですか。はい,じゃあ7分間休憩で51分ぐらいから再開しましょう。

*1 平音:朝鮮語における無気音。


<休憩>
松崎 ということで,いろいろな特徴というのがあるわけですね。それから句末の伸ばし下げですね,これがまず最初にぱっと聞いたときにかなり特徴的な部分として耳に残るものですね,「だだだぁ〜」というときの「だぁ〜」という部分ですね。これがあると,この人は韓国,ソウルの出身だなというのがさっと分かるということがあって,かなり特徴的な部分であります。問題は,その特徴的な部分というのがどれぐらい日本人に悪い評価を受けてしまうかということですね。結局,発音が悪くて損をするというようなことがあると,その学習者本人にとって不幸なことというのがあります。それで,教師としては別に全然気になりませんということであっても,周囲のニーズという点で,いやこういう発音はちょっと直してくれないとなというのがあった場合には,それにこたえないといけないということがあるわけですね。実際,先ほどの伸ばし下げのイントネーションについて,どういう評価があるかということを,イ・ヘリョン*1さんという人が論文の中でやっています。その,先ほどのゆすり音調的なもの,全体的にインタビューの内容というのを聞いてもらって,この韓国人の発音の中でどこか気になるところがありますかといろいろ挙げてもらったと。そうすると,コメントが否定的なコメントが句末の伸ばし下げの部分にかなり集中しまして,例えば「授業中の質問の場面で使うとむっとくる」とか,「学会発表だと印象がよくない」とか「授業中に聞くと直したくなったり,いらいらする,年上の前だったらもっと気になる。就職の面接ならもっと気になる」とか,言いたい放題言われてしまって,ここまで本音が出てくるインタビューというのもなかなか貴重な結果なんですけれども(笑),日本人のすべてが気にしないからいいよいいよということだけじゃなくて,やっぱり気になる人は気になるというのがあるという可能性ですね。特に,先ほどの例えば会社勤めをするんだったらとか,お医者さんになるんだったらというのと同じようなパターンで,この場合も普通に会話してる分だったらそれもそれでいいけども,授業中とか学会発表とか,年上とか,就職の面接とか,公的な場面に近いところで使うと,ちょっとそれは良くない印象を与えるかなというようなコメントが出てるということですね。
こういうマイナスの評価を受けるものと,それほど気にならないものとがあって,特徴が何かあった場合に,その特徴をどういうふうにふるい分けして,何が重い誤りで何が重くない誤りかということを考えていかなければいけないと。それによって何を教えるべきかというシラバスを確定するということですね。先ほどのように,いろんな本を読んで文献を調査します。こういう特徴があるということが一般に言われています,目の前にある学習者の発音というのを,それを元にして分析してみると。なるほど,確かに普通に聞いてたら気付かないかもしれないけれども,言われてみるとこういう特徴にも気付くなということで,発音の分析がしやすくなるということですね。その傾向を整理しまして,重い誤りと軽い誤りで,重い誤りというのを重点的に指導していこうということになります。
そこで,一般的に言われることというのが,例えば「松崎」と発音するすつもりが「まつざか」になってしまった。「き」が「か」になると,これ「まつざか」さんというのは全然別人ですからこれはまずいということになりますね。で,「松崎」が「まちゅざき」になるというのがあったとすると,「まつざか」さんと違って「まちゅざき」さんというのは日本人にはいないですけれども,「つ」と「ちゅ」というのはあからさまに違うじゃないかと,音韻的に違うじゃないか,だからこれもちょっと重い誤りじゃないかというような,「き」と「か」とか「つ」と「ちゅ」とか,こういったものというのが意味が分かりにくくなるという点で重い。それに対して,例えば「まつざき」の「つ」の部分が〔tshu〕になったりとか「き」の部分が〔khi〕になったりとかというので,息が強く出るという特徴ですね,これ平音や濃音じゃなくて激音でこれを代用するとここで息が強く出るということがある。それから,「つ」の部分ですね,これさっき言ったように唇が余り円まらないわけですけれども,そこで〔ウ〕で唇が思い切り円まるという特徴が出るとか。しかし,「つ」とか「き」に聞こえるという点では,これは「か」とか「ちゅ」に比べると,それほど重くないということで,重いか軽いかというようなことのふるい分けをしていくわけですね。
でも,最後にクエスチョンマークが付いているように,重みづけってそういう形で決まっていいのかなというところがちょっと疑問であると。例えば,意味が通じるか通じないかということですね。意味が通じなくなってしまうような誤りのことをグローバルエラーと言いますけれども,文の理解に支障を来すような誤用ですね。「外国人が話す日本語というのは,意思さえ通じれば多少変でもよい」ということが文化庁の1995年のアンケート調査によって出ています。NHKも同じような調査をやって,大体8割方の人が多少変でもいい,あるいはどんな日本語でもいいという具合に話しています。ですけれども,音韻の場合,それを考えた場合に,確かに意味が通じなくなるというのは重いというのは分かるけれども,そういう「松崎」「まちゅざき」の「つ」と「ちゅ」のような音韻的な対立,そこに関与しないような,息が強く出るとか唇が円まるとか,そういった誤りというのは本当にコミュニケーションに差し支えがない誤りだろうかというと,どうだろうと。
例えば,先ほどの破裂音が有気になった,「た」が〔tha〕になったり,松崎が〔tshu〕になったり〔khi〕になったりというのは,「〔matshuzakhi〕さん!」というような発音をしたら,「何かこの人はちょっと怒ってるんじゃないか」というような印象を与えかねないということがあると。実際あるんですね,こういうの。中国語の話ですけれども,私のゼミの学生が,「1年生のときに外国語で中国語をとっていて,何だか中国語の先生はいつも怒ってるみたいで,不機嫌みたいで怖かった」と,いつも怒っているような発音だったというんですけれども,「それはひょっとしたら先生怒っていたんじゃなくてたまたま発音が悪かっただけかもしれないな」って言うと,そうか,今気付いたなんていう話があって,こういう感情的な誤解というのが分からないところで出やすいというのがあります。先ほどの「う」の円唇化というのも結構そうで,これは方言の差もあるんですけれども,例えば東日本,東京で「う」と言うときに余り唇円まりません。この「う」とか「い」とか「あ」というところで,母語音全般に唇が円まるような特徴が出るとすれば,それは何か文句を言ってるとき,例えば「何言ってんだよ,おまえ」というより「ノニュユッテンドゥヨ,オモェー」という,こういう発音をしたときに,「何」の「な」の部分が〔ノ〕になったり「に」が〔ニュ〕になったり,「おまえ」の「まえ」が〔モェー〕になって,ここにドイツ語の発音みたいなものが出てきますね。こういう特徴があります。逆に,先ほど無意識のうちに有気音を出してしまうという学習者と同じように,唇が円まりやすい特徴というのがそのまま出ちゃうと,何だかそれによって,この人は普通にしゃべってるのに文句を言ってるように聞こえることも,なきにしもあらず。
同じように,舌の位置が前寄りになる発音というのがあるんですね。普通だったら「松崎さん」とかが「メツゼキセン」というような発音をする,こういう発音というのは,子供が「こーこまでおいで〜」とか言うときの,からかってるときのような発音ですね。そういうときによく出てくるので,何だかふざけてるんじゃないかという印象を与えたりするというのがあるんですね。先ほどのCDの中でもそういうのがあるんで,ちょっと聞いていただきましょうか。

*1 イ・ヘリョン
李惠蓮 (2002)「ソウル方言話者の日本語発話の“end focus”に対する日本語母語話者の評価―日本語教育関係者を対象に―」『広島大学日本語教育研究』12.

<聴取>
松崎 これ,何語話者だと思いますか。
参加者 英語ですか。
松崎 英語だと思う人。ちょっと違う,何人かな。これカナダ人なんですけれども,母語はフランス語ですね。カナダのフランス語話者に聞いたら,こんなやついないと言われたんですが(笑),これは何かフランス語の特徴というよりもこの人の個人的な癖じゃないかなんていうふうに言われたこともあるんですけれども,かなり特徴的な話し方ですね。本人,一生懸命まじめに朗読してるんだけれども,何かこう,ふざけてるような感じが多少伝わってきて,会場によってはこれ,テープを流した瞬間に笑いが起こったりすることもあるんですが,発音によって笑われてしまうというのは,これ非常に不幸なことなわけですね,本人は一生懸命話していて。
怒っているように聞こえるとか,そういう変な発音だということが笑われるということによって本人が不利をこうむることが結構あると。今の人の場合,抑揚のつけ方がちょっと並外れて激しいというのと,例えばさっきの前寄りですね,「そのときに」というのが「セネテキニ」みたいな発音になってたりとか,ちょっと逸脱した特徴があるということですね。
「対立している」ものというのは,音素レベルで,音韻レベルで違うということになるんですが,こういう「う」が唇が円まった〔ウ〕でも円まってない〔ウ〕でも「う」であるというときの,その微妙な音声学的に違うものというのは,全部「異音レベルの誤り」という具合に言うんですが,そういうものは「何だか変なんだけども何が変だかがよく分からない」ということで,そのままその発音の特徴がその個人の感情を表しているんじゃないかというように誤解を受けやすいということがあるんですね。ある意味,あからさまな間違いで,さっきの「松崎さん」を「まつざかさん」に間違えるんだったら,これ「き」とか全然違うんじゃないかというのは,間違いらしいが故に間違いとして気付きやすい,それに対すると,こっちの方は,何だか間違ってないんだけども,この人は怒ってるのかなというような誤解を受けやすいということですね。
「つ」と「ちゅ」というのも,例えば「松崎さん」を「まちゅじゃきさん」のように発音すると,「つ」が「ちゅ」になったりとか,「ざ」が「じゃ」になったりとかというような,こういう発音というのは日本語の中では子供がよくやる発音でありますので,それで子供のようだと感じられる。例えば,本当にかわいらしい女の子が「かわいい」と思われるんだったら問題がないじゃないかという人もいるんですが,もしかしたらその人は「かわいい」じゃなくて,「私はちゃんと仕事ができる一人前の人として認めてもらいたいので,そう思われるのは不本意だ」と思ってるかもしれない。そこで「知性が感じられない」「子供のようだ」とか,「仕事ができなそうだ」などの悪い評価につながるということもあるということですね。
そういったものというのは,結局まとめますと,発音者が意図しないものというのが相手に伝わってしまっているということであるので,すべて「意思疎通に妨げがある」ということですね。最初に日本人の意識調査で「意思さえ通じれば多少変でもいい」と言ったんですが,じゃあ,その「意思さえ通じれば」というボーダーラインは一体どこに引いたらいいのかという話ですね。そうすると,こういう感情的に余計なものが伝わってしまってるというのは,かなり意思疎通に問題があるということになるわけですね。
そういったものは,子音,母音レベルじゃなくて,句末のイントネーションというのがさっきありましたね,「そこでえ〜」「私があ〜」というような「ああ〜」というのがあって,これは押しつけがましい感じで悪い印象を与えるというのがあったんですけれども,似たような,こういうアクセントやイントネーションの特徴というのを,これを韻律と言いますが,韻律の誤りのことで,例えば「今日はちょっと」というのを断りのときによく練習しますね。でも,学習者はこの「ちょっと……」というのを優しく言うというのがうまく言えなくて,「今晩,映画を見に行きませんか」とか誘ったら「今日は,ちょっとっ!」というぐあいに断って,すごい悪い印象を与えるというのがあるんです。それ「ちょっと……」になってないというのがあって,こういう場合どう教えるかということですね。この「ちょっと……」という,申しわけなさそうに,消え入るようなイントネーションの練習というのをしないといけないわけですね。
それから,車に乗せてもらって送ってもらったと。それで「ここで結構です」とか「ここでいいです」という具合に言うべきところを,これ逆に間違って「いいです」というところを強く言っちゃうと,「ここで,いいです!」「ここで,結構です!」というふうに言うと,何だか「本当はもっと先まで行ってほしいんだけどもここで我慢してやろう」みたいなニュアンスが伝わってしまうということがありますね。それは何が違うのかというと,「ここでいいです」ってふつうに言うときには,「ここで」と「いいです」とで「ここで」の方が強く,高く発音されないといけないんですね。これを「ここで,いいです!」というぐあいに,「いいです」の方を逆に強く言うと,我慢するぞというような気持ちが強目に出てしまうということですね。
あるいは,話をしているときに相づちというのをよく日本人は入れます。その相づちのタイミングというのもなかなか難しいんですが,発音の仕方というのも問題があることがありまして,「そうですか」の「か」というのは,これは「か」で終わっているけど質問じゃないわけですね。相づちをするときの「か」というのは上がらないわけです。「そうですか」という場合に,本当に質問するときだったら上がるんですけれども,相づちだったら,上げもしないし,思い切り下げたりもしない,ふつうに平らに言うということですね。「昨日,私ね」「ええ」「東京に行ってね」「ああ,そうですか」「東京に行ったら,久しぶりに友達に会って」「へえ,そうですか」という具合に,こういう会話してるときに,相づち入れると,それ上がらないんですよね。だけども,「か」というのは上げるもんだと学習者が思っていて,「昨日私ね,東京に行ってね」「そうですか?」「友達に会ってね」「そうですか?」「いや,それ10年振りで」「そうですか?」って(笑),こういうのをずっとやってると,相手が何か話の腰を折られたみたいで嫌になりますね。そういう,ちょっと面と向かって,「それ違うだろう」というのが分かりにくいけれども,何か嫌だというような発音というのが,特にこういう韻律,アクセント,イントネーションなどの誤りに出やすいということですね。
それから,もう一つ,アクセント,さっき全般的にアクセントに誤りがあった場合に,一つ一つチェックしていくのは一々きりがないのでしないという話があったんですが,それによってコミュニケーションに実のところ支障が生じるようなミニマルペア*1というのは余り多くないわけです。だけども,なまりがあると,その意味をとるときに余計な時間がかかります。それによって聞き手の方には余計な負担がかかるということになって,この人と話をしているとちょっと疲れるということが出てくるかもしれない。それは,一番最初の話で言ったように,ちゃんとアクセントの情報は頭の中で自動的に変換して,余計な負担が自分にかからないようにする努力というのを日本人側がすればいいわけですけれども,なかなかそう簡単にできるようなことじゃないということで,聞いていて疲れるわけですね。そうすると,本当に見えない部分で積もり積もっていらいらになっていくということがあります。
先ほどの社会人300名調査ですね,それで「職場において発音でどういう問題が起こりますか」ということを質問して,アンケートで調査したところ,なまり,発音のなまりによって意味が違ってしまう,誤解が生じるという意見,それから内容をちゃんと確認しないといけない,その手間が負担になって嫌だという意見とか,いらいらするというような,実際にそういう問題があるというような意見が寄せられているわけです。
そのなまりによって誤解が生じるとか,内容確認の手間に負担がかかるとかというのは,これは日本人も大変だけど頑張ってやってくださいということで何とか問題を乗り切りたいわけですね。問題は,怖いのは,その内容を確認するということとか,あるいは感情的な誤解があった場合に,それが修復されることとかがないままコミュニケーションが終わってしまうこと。先ほど言った,誤りが誤りだと分かりやすいものは,その場で内容が確認されるわけですね。「まつざかさん」って言って「まつざかさんじゃなくて松崎さんでしょう」「ああ,そうです,そうです」というぐあいに。そんなことで誤解が起きないということがある。だけども,それが修復されないまま終わってしまうというようなケースがある。イントネーション,先ほどので言えば,例えば「松崎です」と私が自己紹介します,で,相手がこのパワーポイントに書いてある「松崎さんですか」というせりふを言うと,このとき「か」がどうなるかと。
先ほどの相づちと同じように「松崎さんですか,どうぞよろしく」というように上げも下げもしないか,あるいは軽くちょっと上げて「松崎さんですか?,私何々です,よろしくお願いします」というようなイントネーションが平らになるか,ちょっと軽く上昇するかというのがこの場面として一番ふさわしい発音ですね。でも,それを例えば低い下降調でやってしまうと,「松崎です」「松崎さんですかあ…」,嫌ですね,これは(笑),ダメージ大きいですね。それから長く高低差がついた上昇調,「松崎です」「松崎さんですかああ??」,これも嫌ですね,何か疑ってるとか嫌がってるという感じになりますね。それも,こういう感情的なおまけが勝手に伝わってしまうんですけれども,それは本人はちゃんとやってるつもりなんですけれども,そういう特徴が出てしまうということがある。
では,音素レベルで子音,母音が「き」と「か」で違うとか,「つ」と「ちゅ」で違うとか,こういうものは,この人は正しく発音できないんだけどこう言いたかったんだろうなというぐあいに酌んでもらいやすいんですね。変に誤解されるということがない。だけど,さっきの例みたいに一応何かその場でそのまま通じてしまう特徴だと,何かちょっと聞き手がひっかかっても,「何がそんなに嫌なんだ」という具合に,直接面と向かって聞くということがやりにくいので,誤解が積もり積もって人間関係にひびを入れやすい,かえって厄介であるということがあります。
そう考えると,そういう意味が違ってくるような知的なレベルの問題,意味が違うという問題ですね。それと,意味は違わないんだけれどもちょっと感情的なレベルで問題がある指摘されにくい誤り,そのどちらがより重いか,重み付けをするときにどちらをより優先して教えたらいいのかというのも,通常は知的レベルの方を先にやって感情的レベルは後回しにすると言われてるけれども,感情的レベルの問題というのも結構重要なんじゃないかということが最近頻繁に言われています。
さて,そのような,以上のような韓国語話者の発音上の特徴があるわけですけれども,その大もとの部分に立ち返って,対照分析によって,その予測というのがどれぐらいできるかという話です。対照分析が言語教育に役立つと言われたその根拠の大きな一つとしては,学習者の発音上の誤りが前もって予測できる,学習者の母語と目標言語と二つを比べることによって,ここが発音上,学習上の困難点になりやすいだろうという予測ができるということが売りであった時代があったわけですね。「時代があった」というのは,今はそんなこと信じてる人はいないんです,実は。それは後でちょっと詳しく話しますね。
例えば,「韓国語では破裂音の有声性,有声か無声かということで意味を区別しないので,清濁,日本語の清濁の聞き取りや発音というのが困難であろう」,これが通常の予測で言われるところであります。実際当たりなんですけれども,実は細かく見ると外れていまして,聞き取りのテストに限って言えば語中の清濁に関してはそれほど誤らないんです,テストをしてみると。語頭は難しい,だけど語中に関しては結構清濁の区別はできるというようなテストの結果がこれまでの研究で幾つも報告されています。それ,何でなのかというと,先ほどの3項対立ですね,平音,激音,濃音というこの三つがあって,語中の場合,平音が,先ほど言ったように濁って有声になります。息が出ない組の中の声があるなしで,〔タ〕になるか〔ダ〕になるかというのが,語中の,母音に挟まれたりとか前に〔n〕があったりした場合には,平音は破裂音は有声音になる傾向が強い。しかしながら,濃音と激音は,無声音のままです。これ濁るということがありません。なので,母音に挟まれた語中の環境であっても有声になるというのはイコール平音である,無声であるというのは濃音,激音であるという,これは音韻的な対立があるグループになるので聞き分けができるんですね。それによって,知覚のレベルではできるということになる。
そこのところからさかのぼって,じゃあ,結局「平音というのは語中で有声音になるから,聴取では語中の濁音は平音,清音が濃音と知覚されるのでそんなに誤らない」という予測が対照分析でできるかといったら,できません。これは実験で確認された,実はテストをやってみたら誤らないというようなことに後から付けた理由であるということですね。だから,「現実にこういう発音上の誤用の傾向がありますというところを踏まえた上で,さかのぼって母語で何か説明ができるかといったら,こういう説明の仕方ができますよ」ということであって,予測はできないんですね。理由をつける,説明をするということはできるということです。
ということであるので,正用,誤用のすべてを母語に結びつけて,これは母語の干渉です,母語の影響でこういう発音上の特徴が出たんですというように結びつけて解釈することの教育学的な意義というのは一体何だろうかということを,改めて考えてみたいわけですね。「後から付けた理由である」ということは「予測ができない」ということなので,韓国語だったら割と簡単に確認できることでも,我々のほとんど知らない母語の学習者を目の前にしたときに,本に書いてある対照分析的な結果でもって現実にこの学習者が間違えるか間違えないか,間違えたとしたら,それはたまたまそのときだけ間違ったのか,それとも根強く何回も何回も間違えるのかというようなことは,結局テストをして何度も確認しないと分からない。ということは,最初の段階での予測に近いことというのは,大まかな部分だけが分かればオーケーであって,細かい部分は,結局実際の学習者を目の前にしてデータを蓄積していかないと,なかなかこの言語話者はこういう誤用を犯しやすいですという一般則が出にくいということがあります。何か発音の誤りがあったときに,それを「母語の干渉だ」と断定することというのは,これはできないわけですね。母語の干渉以外で誤用が生じている,原因はほかにあるというようなことも幾らでもあるということです。
次は最も重要なことでありまして,母語の干渉だと断定して,母語の干渉が根強く残るからしょうがないという具合にあきらめて教えないとか,教えてうまくならないからあきらめると,これは意味がないわけですね。そうではなくて,やっぱり練習すればどんな学習者でもうまくなるんだという強い信念を持って教師が臨まない限り,発音というのはなかなかうまくならない。結局,何か誤用があった,その誤用に対して教師はどういう支援ができるかというのを考えてみると,教育的に有効な何らかの説明を加えるということですね。これは,音声学的な説明,それをかみ砕いた説明でもいいし,もっと音声学的にはめちゃくちゃでもいいけれども,とりあえずうまくなるようなコツみたいなものを教えるということでもいいです。これ後ほど説明します。そして,発音練習,聞き取り練習を繰り返すことになります。それは結局,誤用の原因が母語の干渉であるかどうかということとは関係なく,発音の練習をしてうまくならなかったら,何度でも練習するという図式は一緒なわけです。したがって,結論としては母語の干渉かどうかで指導法が180度変わるわけではないということですね。
先ほど,「今こういうことを信じてる人はいませんよ」って言ったんですが,簡単にこれまでの研究の流れというのを説明しておきますと,対照分析研究は1950年代に非常に盛んでありまして,それと結びついていた教授法がオーディオ・リンガル*2,繰り返して繰り返してという練習をしたり,代入練習をしたりというような形のこの教授法と結びついていました。その時代,誤用というものは母語と目標言語の違いが原因で起きる,そして両言語の比較対照によって,その誤用が予測できると考えられていた時代がこの時代なわけですね。つまり,誤りというのは,いかに起こらないようにするか,前もって先取りして予測して手を打って,誤用をなるべく少なくしよう,誤用を排除しようというようなところがこの時代の教授法におけるポイントであったわけですね。ところが,今は考え方がちょっとかなり変わってきまして,まず誤用を先取りして完全に排除することというのは絶対に不可能であると,できないし,やるべきではないと今では考えられています。昔は,この母語と目標言語の違いによって起きる誤用をできるだけ排除するために徹底的に文型練習をする,習慣形成するぐらいにやるんだというようなことでオーディオ・リンガル法が盛んになったわけですね。だけど,実際には対照分析による予測が結構外れるというのは,先ほどの有声,無声の予測もそのうちの一つでありますが,特に文法において外れるということがいろいろと事例で分かってきました。
それから,同じような誤用というのが,実は韓国語話者と全く違う言語,例えば英語話者とか,フランス語話者とか,そういう人が同じ教室の中にいたとしても,文法上,同じような誤用が出てくることが結構ある,例えばどんな言語の母語話者でも「に」と「で」というのが難しいとか,そういうようなことが出てくると。そうすると,結局,結果として同じような誤用が出てくるんで,すべて母語に原因を求めるということの意義が薄くなってくるということになるわけですね。
それと,その母語と目標言語の違いというのを,二つの音韻体系を比べて,韓国語の音韻体系はこうです,日本語の音韻体系はこうです,どこが同じでどこが違うのか,というのは,そんなのは,記号だけ見ててもなかなか分からないんですね,記号だけ見てても。例えば,日本語は清濁,有声・無声で「t」と「d」対立してますよね,韓国語の場合には激音,平音,濃音と三つあって,その激音,平音,濃音にどういう記号を当てるかということで,例えば,平音を「t」で表しましょうということにします。あるいは激音の方を「t」で表して平音の方を「d」で表すというふうにしましょうという具合に考える説もあります。そうすると,どの音をどの記号で表すかということ,これが言語ごとに違う基準ではかられている以上,記号上で比べても意味は余りないということになって,何が同じで何が違うかというのが分かりにくいということなんですね。
そこで,対照分析には限界があるから,実際の誤用を観察しようという方向に行って,誤用というのは必然的なものである,学習者が誤用を犯すのは学習者の仮説検証の表れであって,誤用にはさまざまな点において意義があるんだという具合に,それまでの対照分析時代の誤用を抑えて,先回りして防ごうというような時代から比べて,誤用にはきちんとした意義があって,それをきちんと分析することが大切だということになったわけです。これが大体の大まかな流れです。
発音に関しても,結局,母語においてこの二つが違っているから,この学習者はこれが苦手に違いないというモデルというのは,学習の一番初期の段階の,ゼロスターターにとってはいいかもしれないんですけれども,先ほどのCDのように清濁の区別をできるようになった学習者がいたとすると,その人を説明するモデルにならないわけですね。学習において,ちょっと勉強したらすぐにうまくなることというのが幾らでもある。それをゼロスターターにとってのモデルだけですべて説明しようということに無理が出てくるということですね。つまり,学習が進んでいく段階で学習者が仮説検証をしながら,誤用を犯しながら,どんどん自分の中の体系を変化させていっているということです。これが中間言語の考え方に結びついていって,今は中間言語研究というのが非常に盛んに行われているところであります。
そこで,今考えるべきことですね。従来の研究というのは,音素レベルの研究とかあるいはアクセントやイントネーションにこういう特徴がありますというのが機械で数字をはかるだけの研究というのになって,教育現場で活用するという目標が欠如しているんじゃないか,対照分析も本当に教育の現場で役立てようということよりは,言語の研究としたものを教育に応用するという,まず基礎研究があってそれをさあ現場で応用してくださいねというトップダウンの流れででき上がってるわけですね。でも,実際には教育現場でまず活用するという,現場から行くような形での研究の視点というのが大切であろうということです。したがって,指導法を探究するという最終目標のために基礎研究として行う対照研究でなければ教育においては役立たないんじゃないかという,ごく当たり前のことなんですけれども,なかなかそこの部分というのが研究において進んでないということです。
教育と研究の間にあるもの,現場でまず知りたいことというのはこれですね,発音の間違いをどう直したらいいのか,これが知りたい,目の前の学習者の発音が少しでもうまくなるようにしたいということで日々努力をしてるわけです。それに対して,先ほどの誤用分析の研究者の立場というのは,こうですね,誤用は習得の状況というのを表すデータであると,まずは現象を記述することが大切である。それはつまり,誤用というのは,とにかく何でもかんでも直したいと考えるんじゃなくて,直すべき時期というのがある,習得の状況というのがあって,その状況に合わせて教えていくことが大切だということを研究者の側で提言しています。例えば,学習者を三つに分けて,初級,中級,上級それぞれにテストを実施して,清濁に関しては何パーセントできています,イントネーションに関してはこれぐらいできてませんとか,初級のうちに簡単に直るものもあれば,上級になってもなかなか直らない難しい発音もあると。そういういろいろな発音を,簡単なのから難しいものに順番に並べていって,その順番で習得されていくから,その順序に沿って教えると一番分かりやすいよと,効率的に学習が進むよということが言われているわけです。
言われてるんですけれども,ここまでは前振りで,本当にそうかということですね。ここでまた話がひっくり返ります。それは,文法において初級,中級,上級の順番に,テストの正答率に合わせた順番で教えるといいということが一部で言われてるんですが,文法と音声はちょっと違うんじゃないかと思いますね。それは何かというと,結局,文法というのは教室において体系的な方法によって教えられるわけです。でも,音声というのは,毎日毎日練習してるかというと,教師からの声によるインプットはあっても練習を具体的にどうしているかとなると,文法ほど明示的な形で練習するということがないんじゃないかと思います。つまり,その場その場で発音間違ったときに指摘されて,何回か言い直させられて,それで何となくうまくなったなと思ったら,はい,次と行くわけですね。でも,そうすると,大体次の時間にはもとの発音に戻っているということがよくあります。それで,「音声教育は何回もやってるけれども,なかなか学習者がうまくなりませんね」という感想をよく聞くんですけれども,それはリピートさせているだけであって,教育ではないんじゃないかと,もっと文法のように体系的に教える,継続的に教えるということをしないと,やっぱり定着しにくいんじゃないかということですね。
ですから,文法において一般的に言われている中間言語的な考え方をそのまま音声に持ち込むことには,ちょっと疑問がある。文法ではこういうことが言われています。教室で習った学習者は,日本に定住して教室に通っていない,自然に周りの人たちから習得した人に比べると非常に早く,高いレベルに到達することができると,こう言われています。例えば,テストをして同じぐらいのレベルの人というのを,教室に通っていた人と通っていない人とでグループで比べてみると,この人は6か月ぐらいでやってたレベルに,自然の人たちは5年ぐらいかかって到達した,というのがあって,かなり自然環境の方が長い時間がかかるし,正確さという点においてもちょっと問題なのかな,でも教室で指導を受けると,かなり早く正確なレベルに到達することができるということですね。文法でそれがあるんだったら,発音に関してもやっぱり教室で体系的に指導していくことによって効率的に学習ができる,そしてより高いレベルに到達することができるという可能性があるんじゃないかと。そういうふうに考えていけば,音声というのが,発音というのが上級になっても母語の干渉が見られますと一般的に本に書いてありますけれども,それは違うんじゃないかと。母語の干渉という言葉ですべてを解決しようということじゃなくて,体系的に教えていくことによって克服できる部分というのはかなりあるんじゃないか。現実に,初級の本当のたどたどしい学習者の発音と上級の学習者の発音というのを比べたら,上級の方が圧倒的に発音はうまくなっているわけです。この人は,何も習ってないけれども,つまり自然習得に近い状況で教室にいたわけですね。自分で自力で発音のいろんなエッセンスを獲得して,発音がうまくなっているわけです。それをもっと教師からの支援によって行うということで,母語の干渉と言われたことなんてのは,大抵の場合,教育によって何とでもなるんじゃないか。こういうことが言えるようにしなければいけないと思うんですね。
さらに,そこで立ち返って対照分析に期待することというのが何かということになると,先ほど言ったように,何か誤りが起こったときに,その誤りの原因は実は母語のこういうというところにありますというだけではなくて,誤りの現象を把握してそれで終わりというための研究ではなくて,教室で現場に役立つということで言えば,その負,マイナスの影響ですね,「だから間違えるんだ」というマイナスの影響をプラスの方向に変えていくような方法を何か,音声学レベルの分析で引き出す,つまり発音のコツみたいなものを対照分析のおまけの部分から導き出せないかということを期待したいわけですね。それは,学習者の母語の中にいろいろと学習者自身も気づかないようなおまけの特徴があります。そのおまけの特徴を,目標とする言語の発音の習得に利用する方法が何か提案できるといい。
抽象的で分かりにくいと思いますんで,具体的に例で言えば,例えば先ほどの平音の例です。平音では,語中では有声音になりやすくて間違いになると言ったんですけど,じゃあその間違いになるという傾向を逆に利用すればいいんじゃないかということですね。例えば,語頭の濁音というのは平音で代用すると「ビール」というのは語頭に「ビ」がありますね,これは平音のレベルで言うと「ビ」じゃなくて「ぴ」になってしまう,無声音になってしまう。だから「ビール」というために「お」をつけてやればいいんですね,「おビール」って言えば,「お」がついたことによって〔o〕と〔i〕の間にbが挟まれて平音の環境が語中になるわけです,母音に挟まれた環境になる。その状態で「おビール」の「び」というのが言えたとしましょう。その瞬間を録音しておく,録音して,このときの「おビール」の「び」の発音はとてもいいよ,「ぴ」じゃなくて「び」に聞こえますよというようなことを目標とする,これに近づくように努力しましょうという,目標とする音声を録音して本人に聞かせる,それに近づくようにして練習するということですね。
中国語の例で言えば,アクセントを活用するという報告が一つあります。中国語も同じように有声音,無声音の区別はないんですけれども,「的」などの軽声と呼ばれるものは大抵有声音になってます。それを活用する,あるいはアクセントで言えば,中国語で四声*3というのがありますね,四声,皆さん分かりますね,一声は高い,三声は低い,その高いのと低いのというので,「た」で言えば無声音の「た」というのは一声の高い音の方が無声音になりやすいんです。低くいうときにはぐっとのどを下げますんで,それで有声音になりやすくなるというのがあります。そこで,これは無意識のうちに出てるおまけの特徴でありますので,本人はそこで今濁音を発音したなんていう意識はないわけですね。例えばアクセントが清濁と一致するような語をそこに持ち込んで,このときちゃんとうまく濁音が言えてますよ,つまり濁音は低い位置に来るよ,清音は高い位置に来るよというぐあいに配置した語というのを使って練習して,あ,これは言いやすい,これは言いにくいなんていうようなことで練習していけばいいわけですね。
韓国語の例で言えば,「おビール」というのをいつまでもおビール,おビールと言っているわけにもいかないので,これは「お」というのを心の中で「お」と叫んで,その後で「ビール」と言って,「ビール」というのが言えるようにする,または「お」と「ビール」の間ですね,お,ビール,お,ビールぐらいのすごい間をあけてもビールというのがちゃんと出るようにするとか,この逆のパターンであれば,前に何かあるけれども,実際にはそこには切れ目があると考えて発音するようにすればいいという形で,いろいろと活用できる部分というのがあるんじゃないかということですね。
しかしながら,それは実際難しいです。その余計なおまけの特徴というのは本人が意識できないものですから,それを意識できるようなレベルに繰り上げる作業というのは非常に難しい。発音聞き取りテストの得点,学習者の発音学習行動の変化というのを分析した実証的データ,こういう教育支援をすることによって,どんなふうに学習者の考え方とか実際の発音が変わっていったかということを実証的に示すためのデータというのを数多く集めるということによって,教育と研究の間の橋渡しみたいなものができるんじゃないかということですね。例えば,先ほどのような,いろいろな活用するという点から言うと,母語におけるいろんな知識じゃなくて,方言の知識を活用したりなんていうことも考えられると思います。例えば「じゃじゅじょ」と「ざずぞ」,先ほど言ったように「ざずぞ」を発音しようとすると「じゃじゅじょ」になってしまう学習者が韓国人の場合多いわけですけれども,中には区別がきちんとできる,聞き取りもできるし発音もできるという人がいるわけですね。そういう人に,どうして聞き分けとか発音の区別ができるのかを直接聞いてみると。そうすると,何か言うんです,何か言って,その何か言ったことというのが,「えっ?」というようなコメントというのも時々あるんですね。例えば,「ぞ」と「じょ」とはどう違いますかって聞いたら,こっちの方が口の中が丸く感じられますとか,こっちの方が強い,強く舌先がつく感じがしますとかいいかげんなことをいろいろと言うわけですね(笑)。それは,自分なりに考えて説明しようとしても,音声学的な知識によって説明してるわけじゃないんで,言葉がちょっと違ってしまう可能性というのがあるわけです。感覚的なもので,自分がその基準に従って発音とか聞き分けをしてたとしても,それを明確な形で言葉に表すことができないということがよくあります。でも,いろいろと聞いてみると,例えばこういう,なるほどなというコメントが時々出ることがあって,例えば英語をやったときに「G」というのと「Z」というものの区別というのをやったことがあると思う,〔ジー〕というのと〔ズィー〕ですね,これは違うと。そのときに,英語では区別できた,なので日本語でもそれと同じようなイメージで区別しようとしてますというようなことを答えた人がいて,ほかの学習者にそれをそのまま「どう?」って聞いてみたら,なるほどといってその日からできるようになったということがあるわけですね。結構簡単なことのようで気付いていないことというのがいっぱいあるので,こういういろいろなその人の持っている聞き分け,発音し分けの基準というものを学習者同士で共有させるという方向に行くといいと思う。
例えば,ベトナム語でありますけれども,南方の方の方言で「ざずぞ」が「やゆよ」になってしまうという例があります。ですけれども,この人に方言話者ではあるんですけれども,ハノイの標準的な発音というのは,例えばカラオケで歌を歌うときには標準語の発音はこの人はできるんですね。だから,「カラオケで歌うときみたいにハノイの言い方でやってみて」って言ったら「ざずぞ」ってできるようになったという事例があります。こういう,本人の持ってる方言の知識とか外国語の知識もいろいろと活用できるということですね。
そのような指導のアイデア集です。指導のアイデアというのは教師が一生懸命考えて,これが分かりやすいだろうと思って,えいっと学習者に示してもすごく分かりにくいということが往々にしてあります。学習者同士でよくできる人にそのコツというものを聞いて,余りできない人に教えてというようなことをやると,ここは母語でいいわけですね。あるいは,教室の中でだれもうまい人がいなかったら,宿題にすればいいんです。宿題にして皆さんの先輩方で発音がうまい人がいるでしょうと,その人にちょっとインタビューをしてコツを聞いてきなさいということにして,それを調べさせるということをやる。そのいろんな基準みたいなものが出てくるんですけれども,そのうち自分に合うものというものを選択して使ってもらえばいいということですね。
研究の世界で,例えば母音が無声化するかどうかということで,韓国語話者の母音が無声化するかしないかというのを,「韓国語の中で母音の無声化が起こりにくいから,だから無声化が苦手なんですということが対照分析の時代に言われてたけれども,いやそんなことはないと,韓国語の中でも無声化する語というのは一部にある」ということを考えて,母語においてどういうところで無声化が生じるかというのを調べ上げて,そしてそういう,「例えば摩擦音のときには無声化が生じやすいとかというような規則を導き出して,それを足がかりにして指導したら効果があるんじゃないか」ということを研究している人がいます。いるんですけれども,でも,母音が無声化するとかというのを指導するときに,母語でこういうときに無声化するでしょうということを一々細かく言わなくても,例えば「内緒話のささやき声で「し」とか「す」とかという形で言って」というように説明して練習させると,大抵できるようになります。だから,「母語でこういう言い方があるでしょう,それをそのまま使って」という説明だけじゃなくて,簡単な説明でありとあらゆる母語話者に同じ表現で指導ができるんだったら,この方がはるかに効率がいいわけですね。だから,すべて母語のところから何か導き出してということじゃなくて,そのほかにもいろいろと活用できるんじゃないかということですね。ですから,このようないろいろな,内緒話のささやき声でねというようなアイデアというのを,先ほど言ったように,よい学習者を観察することによって引き出すことができると。
パワーポイントのこれ,中国語の例です。中国人も「た」と「だ」「こ」と「ご」こういった清濁の区別が苦手ですけれども,例えば聞き取り,非常に難しいんだけれども,注意すれば発音することはできるという具合にインタビューに答えてくれた人がいました。その人に聞くと,その基準というのはこうです,「「た」の方は少し舌を上の方に曲げて,「だ」の方は舌を曲げずに真っ直ぐにして発音する」,「え?」という感じですよね,実際「た」と「だ」で舌の形が違うということは音声学的には考えにくいんです。同じ位置に同じような形でついて,のどが鳴るか鳴らないかだけが違うはずなんですね。だけど,この学習者はこういう基準でもって発音し分けてるんですね。それで発音したものというのは,日本人に評定してもらうと,結構いい発音だと,こっちは「た」に聞こえる,「だ」に聞こえるというのがちゃんと出てくるんですね。
もう一人,別の人です。「「こ」と「ご」,ゆっくり話すときは言い分けることができるし聞き取りもできる,「ご」のときは舌が後ろの方にきて,「こ」のときは前の方に来る」,これも「え?」という感じなんですよね,本当はこういうことはないはずなんです。「こ」と「ご」で同じ位置に舌つくはずなんですね。
*1 ミニマル・ペア
(minimal pair) 一つだけ異なる音が含まれる一組の言葉。例:ishi(石)とushi(牛)。その言語において,ある音に音韻的な違いがあるかどうかを見る場合に用いられる。
*2 オーディオ・リンガル
=オーディオ・リンガル・アプローチ(Audio-Lingual Approach) 機械的な口頭練習を重視した教授法。文字や表記の教育は口頭会話能力が安定してから行われる。構造言語学と行動心理学の理論に基づいて開発され,1930年代から60年代にかけて世界中の言語教育で採用された。
*2 四声
ここでは,中国語の声調アクセントのこと。
参加者 でも,それはよく分かります。こっちの話もこっちの話もよく分かります,自分では。これは個人的なことかもしれません。
松崎 そうなんです。で,この感覚というのが共有できる人というのがクラスの中にいたとすると,これはもうやってみる価値があるわけですね。音声学的に正しい方法だけが唯一の方法じゃないよというのは最初の方でお話ししたんですが,実はこれがそれで,とにかく何でもいいからやってみると,やってみた結果,うまくいくことというのはある。調音点とか調音法という音声学の知識だけにとらわれていると,そんなずれたり形が変わったりということないだろうという具合にしか思えないわけですけれども,でもこれは感覚的に,何となく共有できるなというものがある表現なんですね。具体的にはAとBは実は同じようなことを言ってるんじゃないかと思います。「た」の方は舌を少し上の方に曲げ,「だ」の方は真っ直ぐにしてというふうに言っているというのは,多分「た」の方は強くぐっとつく感じがあるということですね。
参加者 上顎にぴったりついた。
松崎 ぴったりついた感じがあるという,それが言いたいんじゃないかと思うんですね。「だ」の方はそれよりもちょっと緩くついてるような感じじゃないか。「こ」と「ご」の方もそうですね,「ご」の方が後ろに来たり「こ」の方が前の方に来るというのは,このか行のKがのどの後ろの方でくっつくときに,ぐっとくっつく感じがある「こ」の方が,前の方に来てる感覚がある。「ご」の方はそれよりもびしっとついてる感じがないんで,ちょっと緩んだ感じで後ろの方に来てるような感じなんじゃないかという感覚をこの人たちが持っていて,それを表現したらこういう形になったということなのじゃないかなと思いますね。
舌の張りとか緩みとかという音声学の概念があります。張ってる方をテンスと言って,緩んでる方をラックスと言うんですけれども,このテンスとラックスの差というのは,母音の音色の違いを説明するときによく用いられます。有声,無声という点で言うと,声帯振動がない方が緊張度が高い,声帯振動がある方が緩んでいる,緊張度が低いということが言われています。それを表現したもんではないかなと解釈することが,音声学的な視点から再評価できるということですね。ただ,そういう再評価自体はもう必要なくて,この基準をそのままの形で学習者に与えた場合,どれぐらいの人が発音がうまくなるかと,ここが命なわけですね。
奇しくも,1989年の高橋*1の論文の中で,中国人学習者に関してはこういう指導法で清濁の言い分けはかなり解消できるという夢のような方法が紹介されています。それは何かと言いますと,のどの上を指して「かきくけこ」上ですって言うんですね,のどの下の方指して「がぎぐげご」下です,これで解消できるそうです,やってみてください。これもなんか,ちょっと似ているんですね,上の表現と。要するに,「かきくけこ」,緊張度が高い方がぐっと意識を上の方へ持っていく,調音点でびしっと舌をつけるという形に持ってくる,「がぎぐげご」は緩んだ形で,ちょっとぐっと下の方にというイメージで発音すると,無声,有声が出やすいということですね。
日本人が韓国語や中国語を学習するときにも,やっぱり有気,無気の区別というのはかなり苦労するというので〔kha〕ていうときに息が強くでるとかというのは分かりにくいんですけれども,ちり紙をこう口の前に持っていって,〔tha〕とかと言うときにはちり紙が震えるとかというのがありますね。その方法で視覚的に確認するというのができます。それは逆手にとると,息の強過ぎる人には,このちり紙をここに持ってきて,このちり紙が震えないようにして「た」というのを発音するようにしてくださいと。昔,お餅のコマーシャルか何かで金沢明子が民謡を歌うときに,ろうそくの炎を揺らさないようにして歌うとかというコマーシャルを見たことがあるんですけれども,知ってます,皆さん。私と似たような世代の人は知ってると思うんですけれども,あれは子供心にそのコマーシャルを見て何の役に立ってるのかなというのがよく分からなかったんですが,多分,今に思うと,ろうそくを前にして民謡を歌っているときに息を使い過ぎない,1回の呼吸で肺活量で長い間歌が歌えるということをするために,呼気の流れを少なくして声はよく出るという,効率のいい発声法というのを練習してたということなのかなと,何となく理解してます。それ,全然関係ない話です,はい(笑)。そういう,ろうそくを前に立てて,〔tha〕とかという発音したらろうそくが消えてしまいますから,消えないようにして発音しなさいと。こういうことをして息の流れを抑えさせる指導ができるかもしれないということです。
以上のようないろいろな基準というのを,継続的に練習するということによって身に付けさせる,夢のような方法で,これやったら次の日から二度と間違えないとか,そういうことはないわけですね。さまざまなこういう手持ち札もありますよ,こういう手持ち札もありますよといういろんなものをこちらで示して,学習者がそれで自分に合う形の基準に当たるものというのを,自分なりの力で獲得できたらそれでよしという具合に考えるといいわけですね。その練習方法として,例えばこういう小河原*2の論文の中で述べられている方法ですけれども,評価札というのを持たせるんですね。その評価札を持たせて,自分自身の発音とか学習者同士のお互いの発音というのを,お互いに評価するということをします。これは何のためにこういうことをするのかというと,やっぱり発音の練習するというと,みんな学習者は緊張するわけですね。自分の発音をだめとか言われるというのはすごく傷付くということがあります。傷付くから,じゃあどうしたらいいか,学習者が嫌がる,発音の指導をするとみんな嫌がるんですということになったらどうするか,嫌がるんならやめましょうと言えない状況でどうするかというと,個人指導に回すとか宿題にするとか,いろんな方法があると思うんですが,もう一つの発想の転換としては,お互いにお互いの発音を評価させるということを,全然恥ずかしいことじゃないんだという雰囲気をつくって,活動の一部にしてしまうということですね。
まず,練習,聞き取りから入ります。これは,聞き取りの練習というのも日本人のモデル発音じゃなくて,例えば韓国人の教室であれば,教室外の韓国人の発音を何か録ってくるんですね。その中で,これは明らかに「ざ」に聞こえる,「じゃ」に聞こえるというのをランダムにばあっと振り分けておいて聞いてもらいます。それで,「ざ」というのが流れたときに,じゃ「ざ」だと思った人はAの札を上げてください,「じゃ」だと思った人はBの札を上げてくださいというようなことを,黒板に書いておきます。それで,「ざ」というのを流して,はいと上げると,Aを上げる人もいればBを上げる人もいて,あれっということになると,この練習を何度か繰り返すんですね。そうすると,先ほどのように全問正解した人と余り当たらなかった人が出ます。「何とかさん,全問正解ですね,すてきですね,どうやって聞いてるんですか,そのコツを韓国語で説明してください」というように,ほかの学習者に教えて回るということをして,「こんな基準です,口の中が丸く感じられます」とか,「何かこっちの方が長い感じがします」とかいろんなことを言うわけですね。そうすると,例えば「ざ」の方が短くて「じゃ」の方が長いとかという,そんな基準で聞き分けをしてる人というのは,大抵5割ぐらいで外れます。5割というのはチャンスレベルですから,二択の問題であったら5割ぐらいは大体当たるんですね。だから,長い短いという基準をもって聞き分けをしてると,どうもうまくいかないみたいだなんていうことをこの活動の中で感じてもらうと。
そして,自分自身で発音するということをします。「ざ」を発音するつもりで「ざ」と言うと,あるいは「じゃ」と発音するつもりで「じゃ」と発音すると,それが自分で今うまく「ざ」と言えた,「じゃ」と言えたとかというのをAとかBとか自分で出すわけですね。それに対して教師が今のはこっちに聞こえたぞというのを出して,ありゃという感じになると。それをより複雑にして,学習者同士でお互いに発音したものを別の学習者が評価していくなんていう形に持ち込んでいく。そのときけんかになりそうだったら,教師が出ていって,今のはこっちかなというようなことを示すと。
というようないろんな活動をするということによって,コースの中で教えると学習者の発音が向上します。それから,自分の発音を自分で評価する能力というのが高くなります。発音を学習しようという動機も高まります。もっと学習したいという気持ちですね。いろんなことが高くなるということですね。さらに自分を評価し,他人を評価するというこの活動を教室の中で行うということによって,自己評価のモニターする力が伸びると同時に,発音することに対する不安が軽減されるという情緒面の効果,恥ずかしがるとか嫌がるとかというようなことに対するケアもちょっと可能になるということですね。
具体的な活動として,こういうことを継続的にコースの中で順番にやっていくと。「ざ」と「じゃ」一つとって,そのときにミニマルペアを使ってもいいし,あるいは「ざ」と「じゃ」1泊だけでも構わないと思います。それを文の中でやるということになると,「ざ」とか「じゃ」が何回も出てくる長い文を読むときには,そこに注意が向かなくて失敗するということも出てくると思います。その難易度をちょっとずつ上げていって,コースの中で難しいもの,易しいものというのを積み上げていって,そして計画的に教えていくことによって,「スタートの部分で,母語にこういうのがないから難しいんでしょうね」というだけのところを,結局,発音をよくするということを考えた場合に,何をどう教えるかの,そのどう教えるかという部分で,さらに考えるべきことがいろいろとあるということですね。そういった面で,どう教えるかの一つとして,学習者の母語の中にある特徴あるいは既に学習した外国語や方言に当たる知識を積極的に活用するというのも一つだし,それから学習者同士でさまざまな情報を交換し合わせるというのも一つであろうということです。
以上のようなところで大体レジュメに書いてあることをお話ししたわけですが,何か御質問ありましたら,何でも構いませんので。じゃあ,そちらから。

*1 高橋:高橋ゆり(1989)「中国帰国者のための音声教育シラバス」『日本語教育』68号,日本語教育学会

*3 小河原:小河原義朗(1998)『外国人日本語学習者の発音学習における自己モニターの研究』東北大学文学部博士学位論文


参加者 すいません,前に韓国の人を教えてまして,その方はすごく頭のいい,ハーバード大学を出られた方なんですけれども,「ちゅくえ」とかそういう形で言いますので,何とかもっと舌足らずな幼稚な表現じゃなくてっていつも悩んでたんですけども,例えば「雑誌」だったら「じゃっし」ってなるんですけど,〔ズィー〕というか,英語の発音,これをしましょうとか,「ビール」だったら「ピール」になるのを「お」をつけたらいいという具体的な例があったんですけど,今お話を聞いてましたら,結局学習者同士で上手な人にコツを聞けばいいということをお聞きしたり,また先生がミニマルペアとか,そういう形でしていって,結局は先生が余り指導しなくて,学習者同士に気付かせるという形なんでしょうか。例えば「ちゅくえ」というのを「つくえ」って具体的ないい例がないかなと思ったんですけれども,よろしくお願いいたします。
松崎 はい,いいまとめをありがとうございます。
いろいろと話してきて,その中で何をどういうふうに位置付けたらということになると思うんですが,まず教師がやるべきことというのは,全体的な学習のコースを考えることですね,支援をするということ,その中で具体的にコツみたいなものがあったら,そのコツにかかわる部分で学習者の意見を反映させるということがありなんじゃないかということです。それ以外の部分で,全体的にコース運営から何からを全部学習者に任せるというわけにもいかないんで,その練習をどういうルーティンで,どれぐらいの時間をかけてこの項目をやるかとか,この活動の次にはこういう活動をやってみようとか,そういうような流れというのは教師の方で一応考えておくわけです。そのときに学習者の助けが得られるようだったら,そのいろいろないい意見を学習者から引き出すという可能性もあると。もし,教室内の学習者から何もいい意見が出なくて,「ざ」と「じゃ」皆さんどう聞き分けてますかと言ってもみんなシーンとしちゃったら困りますんで,そんなときに,「例えばこんな方法もあるって先輩が言ってましたよ」とか,「あの人はこんなふうな基準でやってるというふうに言ってましたよ」とか,「それから私が考えたんでこんな方法もあるけどどうかな」とか,いろいろなことを提案してみるんですね。その中で学習者が,あ,これは使えそうだなと思えるものを取捨選択してくれればオーケーだと。
一つの方法,唯一絶対の方法はないというのが教育の王道的な考え方ですね。そこで,もうこれがだめだったら次の方法でやってみよう,これうそ臭いけれども,でも,過去に何人かうまくいってるからこれもやってみようとか,いろいろな方法というのがあって,とにかく手持ち札,引き出しというのを教師の側で持っていれば持っているほどいい。学習者からいろんな意見を引き出した中で,それに近いものがあったら,あ,これいただきということで次回に生かすなんていう形で進んでいくといいんじゃないかなと思いますね。
参加者 「ちゅ」という場合のなかなか,いい方法というのは,この方に,「つくえ」のことなんですけど「ちゅくえ」って言う。
松崎 「つ」と「ちゅ」ですね。「つ」が「ちゅ」になる学習者に対してどういう方法で教えたらいいかというのも,これも考えるといろんな方法出てきます。そのうちの一部というのを宣伝になりますけど,私の書いた『よくわかる音声』という本がありますね,その最後の方の章のところに,幾つか,「こんなチョコレート食わせ」とかいろんな方法というのを紹介してますんで,それをちょっと,読んでいただきたいと思います。
参加者 読ませていただきます。
参加者 今おっしゃったのと同じなんだと思いますけど,「いちがちゅいちゅか」となってるのは,多分,CDの人は「いちがちゅ」〔チュー〕じゃなくて韓国語で〔チュ〕と発音したんです。私は韓国人ですが,日本人の皆さんはそれが「ちゅ」に聞こえるんです。それはなぜかって言うと,私の考えでは,あの人は最初,発音を学ぶときに,あいうえおのとき,「う」という発音を韓国語の〔u〕として発音を習ったんじゃないかと思います。だから,それが「いちがちゅいちゅか」になってしまったんじゃないかと思います。だから,最初は発音を教えるときに,あいうえおの「う」の発音を教えるときが一番大事じゃないかと思います。
松崎 はい,そうですね,韓国語で「う」が2種類あるという話があったんですけれども,例えば「す」と「ず」と「つ」に関しては,日本人の名前を表記するときには平唇の方の〔ウ〕というのをよく当てますよね。二つの区別というのをハングルの表記のときに,例えは松崎の「つ」だったら〔ウ〕の方を当てる。私が聞いたのは,濃音の〔チ〕を二つ横に並べたのに「う」をつけて「つ」をあらわすという方法でしたけれども,ハングルでいろいろな表記の可能性があるんですね。一昔前は松崎の「つ」というのも「す」って書いてたことがあったらしいです,「す」で。そうするとやっぱり「スー」になりますね。「つ」って言うときは濃音の「ちゅ」の方がちょっと近いんじゃないかということで「チュ」を当てた,でもそれでもやっぱり日本人が聞いたときに「ちゅ」に聞こえる発音が出てくる可能性があるとすると,韓国語のこの音で代用するという,母語の中のおまけの特徴というので代用することの限界みたいなものも,もしかしたらあるのかもしれない。そのときにほかの方法で何かうまいことができないかというのを考えるってのが大切ですね。
それから,今指摘していただいた,「う」のときに唇が円まらないようにするというのは,これ実に重要なことでありまして,ほかの母語の学習者であっても「つ」が「ちゅ」になる学習者というのは,大抵母音が〔u〕になってる,そうすると「ちゅ」になりやすいということがあります。だから,調音点だけの問題じゃなくて,唇の円め,母音の方も結構大きく関係しているということですね。そのあたりのところも『よくわかる音声』に書いてありますので,ひとつお読みになっていただきたいと思います。  はい,お願いします。
参加者 興味深く聞かせていただいたんですけれども,対照分析,対照研究という構成に対してまず疑問を投げかけられて,そこから話が中間言語という方向に行きましたよね。その後で,僕の理解では中間言語という考え方にも限界があるんだということでさっきの話に行かれたと思うんですけれども,だから,中間言語ということをお話しなさるということは,僕はちょっと専門が文法の方なので,音声とか音韻等の方の最新の研究動向が分からないんですけども,音声の面でもいわゆる中間言語というものがあるということが言われてるんでしょうか。
あと,あるとしたら,具体的な例としてはどのようなものが挙げられるか教えていただければと思います。
松崎 はいはい。例えば,日本人にとっては英語の例だとわかりやすいと思うんですけれども,リンゴを何て発音するかというので,外来語だと「アップル」ですよね,でも英語を学習した人はアップル,アップルってずっと発音してるわけじゃなくて,やっぱりネイティブの発音というのにちょっとずつ近付いていくわけですね。そのちょっとずつ近付いていくというところから,どこがまず習得されて,次にどこが習得されてという順序みたいなものがあるということになると,これもう,誤用分析から次の段階の,いつそれが習得されるかという中間言語的な考え方になってくるわけですね。割と,例えば日本人が英語を学習すると,日本語にはない音でも,例えばRとか,これ結構みんな,Lは難しいけどRの方は英語っぽい音色があるということで結構習得されますね。それから,今の〔アポー〕の〔ア〕に当たるものの発音ですね,これも結構日本語には「えー」と「あー」しかないはずなのにできるようになる,でも「アップル」の「プル」の〔pl〕の部分というのは,これ日本語的な「ポー」という発音で代用して,なかなか本当の英語のPLの部分の発音というのはできない,正確な発音というのはできない。それは,日本語の母音の「ぽー」というのをそのまま持ち込んでしまって,それで近いからオーケーだと思って本人が油断してしまって,その発音が確定してしまうというような状態になるんですね。これのことを「化石化」というぐあいに言うことがあるんですけど,嫌な言葉ですね,そこで化石になっちゃう。という言葉があるんですが,そういうふうにいろいろな音韻の中で何が早く習得されて,これは遅くなるというようなものというのが,英語の方ではかなり中間言語研究が進んでいます。
日本語の方でも,例えば学習者が特殊拍をどういう順番で習得していくかとか,アクセントやイントネーションをどういう順番で習得していくかという研究が,このところ最近盛んに行われているんですけれども,まだ始まったばかりというような感じで,そしてまたその研究というのを実際の教育の支援の方向に活用しようとすると,結局のところ,「本当に順序みたいなものがあるのか」という疑問の部分につながっていくということもあって,それで先ほど質問者の方がまとめてくださったように,中間言語研究でも,やっぱり教室現場の方の実践というところとのつながりというのは薄い部分があるという,そういう話をしたわけです。  ほかにいかがでしょうか。はい,どうぞ。
参加者 発音の,先ほどの細かい発音の違いというのを耳だけで判断するというのはかなり難しい場合がありますので,例えば英語なんかでも発音記号ついてましたから,それで区別するという方法あったと思うんで,発音記号を使う方法というのはどうなんでしょうか。
松崎 発音記号を学習者が100%理解してくれたら助けになると思うんですけれども,大抵の場合,日本人でも英語の発音記号というのは正しく理解してないんじゃないかと思いますね。
記号化することによって,分かりやすくなる部分とかえって分かりにくくなる部分というのがあって,子音,母音はやっぱり音声記号がどういう音を表しているかというのは対応関係を覚えるのが結構大変だと思います。
アクセントについては,アクセントの高い低いをどういう形で示したら一番分かりやすいか,記号化するということよりも,高い低いを文字にどういう情報として付け加えたら一番分かりやすいかということですね。これに関していろいろと議論が,教材,どんな教材を使ったらいいかということの議論があります。一番簡単なのは,高い低いと2段階で表記していくという,こういう傍線をかくかくとつけていく方法ですけれども,これだとどうも文レベルになるとうまくいかないとか,そんなのがあって,例えば今日の午前の水谷修先生だったら,『IMJ』*1の中でやってるのはプロミネンス*2の記号,▲というのを上につけたりとかという,いろいろなイントネーションやプロミネンスやアクセントの補助記号をどういうふうにつけたら記号化したときに分かりやすいかという問題ですね。これは,記号化の約束事を確認するためにその時間を多くとってしまうというのはちょっと本末転倒なので,なるべく初めて見た人でもぱっとわかりやすい方法で記号化できたら一番いいんだろうなと,私は個人的には思ってます。
ほかにいかがでしょうか。

*1 IMJ:『AN INTRODUCTION TO MODERN JAPANESE』水谷修・水谷信子著,ジャパンタイムズ

*3 プロミネンス:(prominence) 文中のある語句を強調するために,特に強く発音すること。卓立。


参加者 今の記号化のことで,外国語の学習で,日本人はよく片仮名を使うんですけども,これ,絶対やめてほしいと僕は思ってます。それは,発音記号そのものが,記号と音との間に一対一対応できてないという面とつながるし,特に日本語の片仮名は非常に音の種類が少ないんで,これはやめてもらいたいと思うんです。これはちょっとした意見ですが。
それと,もう一つ。これはアメリカ人に日本語教えたときの経験ですけど,「らりるれろ」の音が出ないんですね。どうしても「R」になるか,「L」の,こっちはないですね,やっぱり日本語のローマ字表記で彼らは覚えますので,らりるれろ,「ra」「ri」とそういうふうな音になるんですよ。これを,この音をRでもないしLでもないと,それじゃあどんな音かというんで,ABCDのDという字を一つ置いて,その三つの中間であるというふうに教えたことがあるんですね。そしたら,直りました。それはたまたまその人だけ直ったのかどうか分かりませんけど,そういうことも一つの経験としてありました。
以上です。
松崎 はい,いいですね,皆さんも是非このテクニック活用されるといいと思いますが。日本語のら行と英語のRですね,音声学的に言うと,英語のRというのは上顎につかない。
参加者 つかないです。
松崎 接近音と呼ばれるやつで,舌が反るのがアメリカの発音の「ra」ですね,日本のら行の方は,今御指摘あったようにだ行,Dにすごく近いというんではじき音と呼ばれるものですね。このはじき音というのは,英語の中でもRじゃないところに観察されることというのがありまして,例えばTとかDが母音に挟まれると「ベター」とかって言うときの「ター」の部分は「ベラー」になって,「ベラー」と言うときの「ラ」というのは日本語の「ら」のはじき音と同じような音が出るって言われてるんですね。実際,例えば外来語の中で「プリン」という言葉ありますね,「プリン」というのは,あれはpuddingですよね,D,そのDが母韻に挟まれてラ行音に近くなって,耳で聞いて,ら行で日本人が写してるわけですね。同じようなのに,例えば「ジルバ」というのがありますけど,ジルバ,もとのつづりというのは,あれはRでもLでもなくて,jitterbugって書いてジルバですね,それでら行で写した。shut upが「シャラップ」になるとかね,そういうような例というのはいろいろありますね。その,「た行」や「ら行」というのが,英語話者にとっては母韻に挟まれたところでは日本語のら行に一番近いということで,Dを活用すると発音の指導がうまくいくということがありますね,これをミックスしたような感じでやってくださいというのは。
はい,ほかに。
参加者 前,NHKの番組で英語のすごく発音の悪い人をリズムを変えて,イントネーション,プロソディグラフ*1でしたか,あの名前。

*1 プロソディグラフ:音声教育を行う際に用いられる図表。音の長さ,高さ,強さ,早さ,ポーズなどを視覚化したもの。


松崎 はい。
参加者 そういうグラフで編集し直すとすごいいい英語で,よく分かるという実験をしてましたですよね,御存じでいらっしゃいますか。
松崎 それ,見たことある方,いらっしゃいます?
参加者 NHKで,すごく発音の下手な人をどうやって外国人に分からせるかということで,その人の発音を録音しまして,そのままだったら通じないので,そのグラフというか,そういう機械の中に入れてリズムを,強いところ,強弱を……。
松崎 あの,音響分析を……。
参加者 そうですね。
松崎 するような感じですかね。
参加者 はい。そういうふうにすると外国人の人がすごく分かると。だから,日本語も一つ一つの発音をとったら韓国語話者とか分からないんだけれども,そういう考えで書かれてますよね,『10分間の……』。
参加者 それから,一つ一つの発音じゃなくて,イントネーションをすることで分かりやすくなるんじゃないかという,それから来てるんですか。
松崎 最後,それから来てるんですかというのは。
参加者 その機械をNHKでされてたというのは聞いたことがあるんですが。
松崎 私は,その番組は見たことはないんですけれども。
参加者 そうなんですか。河野先生とかなんかはNHKの機械にかかわってたって聞いたもんですから。
松崎 それは,河野さんからは教えてもらってないなあ。
参加者 ちょっと私も定かではないんですが,そういうふうに一つ一つの発音じゃなくて,イントネーションで考えるという方法もあるんですか。
松崎 そうですね,いろいろ音声教育の中で考えるべきことというのがあるんですけと,今日はその話をしてるとちょっと話が長くなってしまうんで,対照分析にかかわるところを中心にお話ししましたけれども,実は個々の子音,母音の練習ということだけじゃなくて,アクセントやイントネーションを体系的に教えるというので,練習の方法を体系的にするというだけじゃなくて項目をどういうふうに積み上げていくかということに関しても非常に興味を持ってまして,機会がありましたら,それは『10分間のの発音練習』*1という本がくろしお出版から出てますので,それを是非お買い上げいただけるとありがたいと思います(笑)。
機械を使ってという点から言うと,やっぱりいろんな,手持ち札というのがさっきありましたけれども,最近は音響分析が簡単にできるソフトというのが,もう安い値段だけじゃなくてインターネットで無料で手に入る時代になってますから。御興味ある方は,私の名前で検索をかけると私のホームページがひっかかります。そのホームページのリンク集のところから無料で音響分析ができるスピーチアナライザーというところのホームページにリンクしてますんで,その先からダウンロードできます。

*1 『10分間の発音練習』:河野俊之・串田真知子・築地伸美・松崎寛共著,くろしお出版,2004


参加者 それは,例えば自分の声が波形分析出るんですか。
松崎 そうです。波形も出るし,こういうピッチ曲線,高い低いも出ますし,強い弱いも出ますし,全部できます。
参加者 そうですか。
松崎 パソコンが1台あって,スピーカーで音の入力とか出力が,マイクとスピーカーでできれば,あとは特別な音声ボードとかというのは何も必要なくて,とりあえずパソコンがあれば音響分析できるという,そういうソフトです。
そのほかにも,そのスピーチアナライザーは英語で指示が全部出るので分かりにくいんですが,杉スピーチアナライザーというのが別にあって,これは日本語で全部上の指示が書いてくれてるんで非常にわかりやすいですが,高いです。10万円ぐらいしたかと思いますけどね。そのほかにもいろいろあって,無料のお試し期間なんていうのもあったりするんで,とりあえずダウンロードして60日間使い倒して,それで終わりというのでもいいと思いますんで(笑),興味があったら,そういう音響分析をするソフトというのも手持ち札の一つとして活用してみると,もしかしたらアクセントやイントネーションの教育に効果があるかもしれないと思いますね。
では,この辺でお開きということにしたいと思います。どうもお疲れさまでした。(拍手)
ページの先頭に移動