日本語教育研究協議会 第4分科会


日時:平成16年8月4日(水)
文化庁

日本語教育研究協議会
第4分科会 「年少者への日本語習得支援の関係者を支える知識・技術・心構え」
三森ゆりか(つくば言語技術教育研究所所長)

三森では,そろそろ時間になりましたので,始めさせていただきます。
私は,つくば言語技術教育研究所の三森ゆりかです。よろしくお願いします。
今日は日本語の教育がテーマですが,実は私自身が帰国子女です。私は,ちょうど逆の教育をドイツで受けました。ドイツで,年少者の外国人のためのドイツ語教育というものを受けました。中学2年生でドイツに行きまして,4年間ドイツで学校に通ったのですけれども,私がこういうことを始めたきっかけは,私がなぜドイツ語ができるようにならなかったかという反省から出発しました。それには,やはり理由があるということに,本当に後から気がつきました。日本に帰って来て,高校2年生の秋から日本の高校に戻って,それから大学入試をしました。まず,4年間丸々すっぽり日本の教育が抜けている状態で帰って来たのですが,国語で全然困らなかった,これが今の仕事を始めた一つのきっかけです。とにかく国語で何も困らなかったというのが今のようなことを始めた一つのきっかけです。
ドイツに行く前に,私自身は国語は一番得意だったのですね。本もたくさん読んでいました。小さいときから。作文も得意でした。日本の子供としては。ところが,ドイツのような議論をして作文を書くことが教育の中心に据えられている国に行ってみると,あちらで要求される作文が全く書けなくて,それがなぜ書けないのか,なぜ評価されないのか,書けないというか,なぜ評価されないのかが分からなかった。私が書けたのは,結局感想文だけです。小論文の書き方あるいは分析の仕方,論証の仕方,そういうものは全く日本で習わないでドイツに行って,何を書いてもあなたの感想じゃなくて意見を述べなさいと言われて,これが全く理解できないまま帰って来たんです。ですから,ずっとドイツ語ができるようにならないというコンプレックスを抱いたまま帰って来ました。ところが,日本に帰って来たら,国語は何の問題もない,むしろ4年間私がいない間,日本にいた人たちよりもできる。行った学校は桐朋女子高校でしたので,東京の方ならご存じかと思いますが,レベルは低い学校ではありません。それで,大学も一般入試でストレートで入っているんです。ですから,受験まで1年4か月です。
で,考えたのは,4年間私がいない間に,ほかの人たちは何をしていたんだろう,そこが一番疑問でした。それと,私はどうしてドイツに行ってついていけなかったんだろうということと。それから大学を卒業した後に商社に勤めまして,東ドイツに工場を建てるプロジェクトに参加していました。そこでとにかく交渉に次から次へと負けていく。私は議事録の翻訳をしていたのですが,議事録を追いながら,負ける理由がよく見えてくるのです。そのときに初めて,このやり方はドイツの学校でやっていた。すべて学校でこのように分析的に物を読んで議論をし,さらに議事録を書く方法まで習っていたということに気がつきました。それから,もしかして国語教育自体がドイツのものと日本のものと内容が全く違うのではないかということに気がついて,筑波大にいましたドイツ人の文学者の友達に教科書を全部買ってきてもらいました。主に作文の教科書です。それを全部で読んでみて,初めてドイツで自分ができなかった理由,それと日本とドイツの国語教育の内容の違いというものに気がつきました。それはただ,ドイツだけじゃないんですね。フランスもスペインも,それからデンマークもスウェーデンも,それからポルトガルも同じですし,ソ連もそうです。また去年から,サッカー協会でも仕事しているのですが,S級ライセンスの取得講座で仕事をしていたら,ラモスさんが,僕のブラジルでも同じことを勉強しているよという言い方をしていました。それから,今,アルゼンチンにスペイン人の友達が住んでいますけれども,アルゼンチンも全く一緒だと言っていました。それから,そのスペイン人の友達がデンマークに住んでいたときに,デンマーク語の学校に通っていて,中級レベル以上になると,やはりスペインの国語教育と同じことがやられていて,ついていけないのが日本人だったという話をしていました。
私が指導している言語技術教育というのは,アメリカのランゲージ・アーツ(Language Arts)の翻訳です。このような国語教育は,要するに,欧米と,それから欧米が植民地としていた国々,つまり,オーストラリアとかニュージーランドなども含めて,行われています。そういう国々では,言葉を技術としてとらえて,そのスキルを教える教育をしています。ですから,ただ言葉を使いましょうとか,ただ言葉をこうしましょうとか,ただ作文を書きましょうとか,ただ読みましょうではなくて,いかにして読むかとか,いかにして書くかとか,いかにして議論をするか,そういう方法をしっかり幼稚園の時代から積み上げるように教えていく。
そうすると,こうした国語の教育が,例えば外国人の方に日本語を教えるときにどうすればいいか,あるいは日本人が英語を学ぶときにどうすればいいかということに深くかかわってくるのです。例えばアメリカで出されています外国人向けの英語の教科書というのを読みますと,その内容が幾つかに分類されています。その分類されている内容は,大体6項目ほどあります。物語る,描写,説明,論証,分析,比較と対象,そして分類,こういう項目立てになっているんです。そのやり方を英語で教えるというのが英語教育の趣旨で,それはもちろんアメリカの大学に入る外国人のための教科書なのですが,日本人が例えば英語を勉強するときには,こういう項目を日本語で先に勉強しておく必要があるのです。そうでないと,英語ではいきなりは分からない。母語で分からないことは英語では分からないからです。
ということで,私が今教えているのは,日本語の言語技術です。それは,将来子供たちが英語を勉強したり,ドイツ語を勉強したり,フランス語を勉強したりするときに,簡単に彼らが国語で習ったスキルを置き換えられるように,まず日本語でスキルをつけるということを教えています。
逆に,外国から来た外国人たちがよく不満として述べること,私もつくばに住んでいますので,外国人の友人は多いんですけれども,彼らがすごく不満に思うことは,日本人は文法は教えてくれるけれども,一向に日本語で深く文章を分析するとか,ちょっと日本語ができるようになったときに対応を全然してくれないということでした。結局,その技術をこちらが持っていないから,あちらの希望にこたえられないということです。今日は年少者の日本語教育ということですから,もっと話は複雑です。 年少者の場合は,言葉の発達段階にある子供たちを相手にします。その子供たちは,要するに,自分の母語で教育を受けられなくなった時点で,やはり言葉が滞るんです。それを何とかギャップをできるだけあけない,広げないようにしながら外国語である日本語で教育をしてあげないと,思考力が停滞してしまって延びなくなってしまう,そういう危険性があります。ですから,一番年少者の日本語教育で考えなければいけないことは,できるだけ思考力に働きかけるような日本語教育をしてあげないと,子供たちにとってその部分が結局,ブラックボックス*1のようになってしまう。私,自分でも感じるのですが,中2から高3までいませんでしたので,その間に勉強しなかったところが,どうもブラックボックス状態になっていて,自分の頭の伸びがそこでいったん途切れているんじゃないかと感じることが時々あります。だから,もしかして,ずっと日本にいたら,もうちょっと頭がよくなっていたんじゃないかと考えることがあります。そのぐらい,やはり年少者の時代に海外に住むというのは,大変なことなのですね,母語の教育はどうしてもそこでとまってしまいますから。
年少者の場合,特に小さい子供の場合は文法を教えても分からない。中学生以上なら文法は何とかなりますが,年少者では,文法を教えても分からない。そういう子たちに絵を使ったり,絵本を使ったりしながら,どうやって日本語で考えることを教えるかということを今日のテーマにしたいと思います。一応内容としては,絵本を使いながらどうやって子供たちに日本語を教えていくか,あるいはもちろん日本の子供たちも対象になります。別に外国の子供たちだけを対象に考える必要はありません。 この絵本というのは,幼児のものだと考えられがちなんですけれども,実は,絵本というのは非常に難しい本です。何が難しいかといいますと,テクスト,つまり文章と絵の両方をよく読まないと,絵本は読んだということにならないからです。また,絵本というのは,少ない言葉で内容を全部語ろうとしますから,非常に一つ一つの文に重みがあって,すらっと書かれたものの奥に書いてある事柄をきちんと読み取らないと,読んだことにはなりません。絵本がいいのはもう一つ,ちょっと別の観点ですけど,幼い子供は非常に絵を読む能力が高い。子供は文が読めない,文字が読めないかわりに絵を読む能力が高いんです。外国人の場合もこれと同じで,難しいテクストは当然読めない。私もドイツにいたとき,難しい文,テクストは読めませんでした。でも,簡単なテクストと絵を読むことはできる,だから,言葉で考える力と言葉を使う力を育てるには,結局絵本はかなり使える媒体になります。そして,絵本は日本の場合は,一般的にはただ読み聞かせをするための道具と考えられがちなんですが,これを子供と,あるいは教え子と,対話をし,分析的な発問をしながら読み,それによって彼らの思考力や言語能力に働きかけるということを絵本を使って行います。
ちょっと絵本に戻りますけれども,そうすると,短絡的に,では,例えば「ぐりとぐら」あたりがいいんじゃないかと考えられるかもしれません。しかし,はっきり言ってこれはだめです。どうしてだめなんでしょう。これは非常に日本的な文章なんです。まるきり日本の文章で,論理的ではない。ですから,逆に欧米人の子供たちが理解できません。「ぐりとぐら」は英語版が出ていまして,それを日本語と比べてみると非常に違いがよく分かります。例えば冒頭のところ,「野ネズミのぐりとぐらは,大きなかごを持って森の奥へ出かけました」。日本語ではこれだけなんですね。ところが,英語はどういう翻訳になっているかといいますと,英語に翻訳したものを直訳したものを日本語で読みます。英語はどうなっているかといいますと,「ぐりとぐらは2匹の小さな野ネズミでした。2匹は食べることと同じくらいお料理することが好きでした。ある日,彼らは彼らの一番大きなバスケットを持って歌いながら森へ行きました」。こうやって非常に説明的になるのです。
ですから,日本語を教えるのだから,日本の絵本でいいじゃないかというふうに短絡的に考えて,ぽんと,例えば「ぐりとぐら」は有名だから,分かりやすいし,簡単だし,楽しいじゃないというふうに持ってきてしまうと,実は,西洋の論理の中で育った子供には分からない。こういうことになります。「ぐりとぐら」は,英語と日本語をずっと読み比べてみますと,全然違う物語になっています。恐らく日本の「ぐりとぐら」を高く評価する方は,英語の絵本についてあまりに説明的だと思われるかもしれない。しかし,なぜ,こんなふうに説明的に訳されているかというと,そうじゃないと分からないからということです。 ですから,絵本を選ぶときも,ただ単に絵本を適当に選べばいいということではなくて,私自身は,最初の段階では,西洋の絵本できちんと翻訳されているものをまずお勧めします。日本語を教えるんだから,では,日本の昔話がいいじゃないかというと,これもだめです。日本の文化は特殊過ぎて,いきなり「かさこじぞう」なんて持ってこられても,意味が分からない。無理なんです。例えば,私がドイツに行ったときには,グリム童話を使われていろいろ勉強させられたのですけれども,グリム童話は日本人にはなじみがあるから,違和感がないんです。日本語でも読んだことがありますから,別に大きなジャンプをする必要がないんです。ところが,例えば,アメリカ人の子に「かさこじぞう」を持ってきたって,分からない。これはやはり選ぶときに,非常に気をつかわなければいけない点だと思います。「かさこじぞう」はかなり日本語ができるようになってから読めばいいことであって,最初の段階で日本語を教えるんだから,日本の文化を教えるんだからということで無理して「かさこじぞう」を持っていく必要はない。「かさこじぞう」は一つの例ですけれども,持っていく必要はないんではないかと私は考えています。
それで,お勧めするのは,非常にきちんと翻訳された日本語の絵本がいい。別に西洋と限る必要はなくて,アフリカやその他の地域のものでもいい絵本があるので,そういう国の絵本でもいいと思いますが,しかし,日本のものじゃない方がいいのではないかと思います。その子の来た国の絵本を使ってあげるというのも一つの手です。今,韓国や中国の絵本も大分訳されてきていますから,自分の国で知っていた絵本を日本語で読んでみるというのも一つのいい経験になると思います。
ただ,絵本を使うときに非常に気をつけなければいけないのが,翻訳が結構いいかげんなものがあるということです。できれば原文を当てられて使われることをお勧めします。例えば「おやすみ,くまくん」という非常に私の好きな絵本が日本語版とドイツ語版であります。元々ドイツ語の絵本です。原文は非常に詩的な文章で,きちっと説明を入れながら文章をつくっているのですが,日本語の方は感覚で言葉をはしょってしまったり,前後を入れかえたりしています。それで,日本語を読んだときに,つまらないと評価する人が多いのです,すごく絵は美しいんですけれども。これはドイツ語を読んでみて初めてその理由が分かる。絵本は幼児のものだという翻訳者の勝手な解釈で,非常に簡単な易し過ぎる日本語に直されてしまっているために,絵本の質が落ちてしまっているという,そういう例です。
絵本を取り上げるときには,やはり言葉を教えるわけですから,ただこの本が好きだからとか,この本がおもしろそうだからではなくて,できればちゃんと原文まで当たって内容を確認された方がいいのではないかと思います。私は必要に応じて,翻訳は直して使っています。
では,具体的に,まず絵本の読み方についてです。絵本は物語なんです。物語というのは,一つの事件をめぐって構成されています。そして,必ず物語には一つ構造があります。これは,例えばドイツの国語教育の中では,要約をするために習います。大体7・8年生から習います。簡単な構造として,冒頭,発端,山場,そしてクライマックス,結末,終わりという形になっています。ごく一般的な物語というのは,こういう構成になっています。冒頭では何が語られるかといいますと,ここでは時代背景であるとか環境であるとか,登場人物の紹介であるとか,要するに,登場人物が動き出すために必要なさまざまな事情が冒頭の部分で語られるというわけです。 次の発端では,先ほど申し上げたように,物語は必ず事件をめぐって動きますから,ここで発端というのは,事件のきっかけになることが起こる場所です。事件のためには,必ず何かしら対立相手が登場しなければいけないので,この部分で大抵対立相手が登場します。この発端の部分の対立相手と主人公の力関係というのはもうほとんど決まっていまして,必ず主人公の方が低く,対立相手の方が上です。もうほとんどどの物語も,「ハリー・ポッター」もそうですし,「桃太郎」もそうですし,思い浮かべていただくと,ほとんどこのパターンにはまるということがお分かりになると思います。この対立相手というのは,必ずしも鬼であるとか怪物であるとかではなくて,心の葛藤など心理的なものである場合もあります。
それから山場が始まって,物語が動きます。クライマックスあるいは転換点と呼ばれる部分は,主人公と対立相手の力の差が逆転するところです。ですから,完全に立場が入れ代わる部分がクライマックスで,最も盛り上がるところがクライマックスというのではないです。立場が完全に入れかわるところ,そこがクライマックスです。
クライマックスが過ぎると結末があって,その事件の結果がどうなったかということがつけ加えられて,最後に終わりというのは,その後,例えば主人公がどのように暮らしたかとか,そういう話が最後に来ます。これが基本的な物語の構造で,これを知らないと,絵本の読み聞かせをしながら発問するということはできないのです。この物語のポイントを押さえた上で,子供にきちっと語りかけて質問していかないと,ただやみくもに適当な場所で質問をしたのでは,子供の考える力を伸ばすことにつながりません。
例えばこれは,もうちょっと詳しくやりますと,こういうことです。これは構造を図にしたものです。ちょっと小さくて見えにくいかもしれませんけれども,ここが冒頭で,発端があって,ここから山場が始まって,ここで幾つかエピソードがあるのです。そして,転換点がきて結末がきて終わりです。私の教室では大体小学校4年生ぐらいからこれを使って教えているんですけれども,例えば桃太郎のお話ですと,ちゃんとこの構造にはまるのです。冒頭のところで,川から流れてきた桃をおばあさんが拾って,それを家に持ち帰って包丁で割ったら,桃太郎が生まれた。それで,その桃太郎は,もりもり御飯を食べて,あっと言う間に大きくなった。その部分が冒頭になります。
そして,発端で鬼が出てくる。鬼が出てきて,村を荒らして,そして金目の物を盗んでいった。お話によっては,そこでお姫様をさらっていった。この部分が発端になります。
そして,山場が始まるところでは,桃太郎は鬼退治に出ることを決意して,旅に出ます。そして,犬に出会って子分にする。それから,猿に出会って子分にする。それから,キジに出会って子分にする。そうやって山を登っていく。桃太郎の話はそれ自体が単純ですから,動物との出会いが一つ一つエピソードになっています。それから,船を借りて鬼ケ島に渡って,そして戦いが始まる。戦いはまだクライマックスじゃない。戦いの結果,どっちが勝つか分からないですから。
そして,鬼が桃太郎にひれ伏して,降参するところがクライマックスになります。
その結果,桃太郎は鬼から金品,鬼が盗んでいった金品を返してもらいます。なぜかそれを桃太郎は自分のところへ持ち帰って,幸せに暮らしたというのが桃太郎の結末です。この構造を覚えておくと,どんな絵本を読んでも,どんな小説を読んでも,ほとんどこれにはまります。
また,例えばショートショートストーリー,ショートストーリーと呼ばれる物語の典型は,この冒頭がなくて,いきなり発端から始まりクライマックスでぽんと終わるというのがショートストーリーの典型的な形ですし,それから長編小説の場合は,この山場の中で小さなクライマックスが何回も何回も繰り返されて大転換点がきて終わるというのが長編小説です。だから,「ハリー・ポッター」は例えば1冊目,2冊目,3冊目,4冊目,5冊目とシリーズで続きますが,1冊1冊にきちんと構造があります。「ハリー・ポッター」は全部で何冊あるか分からないですけれども,とにかくすべてがこの形になっています。1巻目,2巻目,3巻目,4巻目の中にクライマックスがあり,あるいはまたその「ハリー・ポッター」の1冊の中にたくさんの山場があります。だから,そのたびに子供たちがワクワクドキドキして,最後に必ず何かしらの事件をハリーが克服して1巻は終わるという構造になっています。まずこれを押さえておくと,絵本の読み方が変わります。絵本だけじゃなくて,要するに,小説の読み方が変わるので,子供に対して的確な発問ができるようになってきます。ぜひ,家に帰って,物語などをこれに当てはめてみてください。たまにはまらないのもあります,それはもちろん。絶対何が何でも全部がはまるというわけではないのですが,ほとんどこの構造になっています。そして,単純な昔話は,ほとんどこの構造になっています。それは洋の東西を問いません。おもしろいことに。桃太郎もそうなっているし,グリム童話もそうなっているし,ペロー*2の童話もそうなっているしというように,形の上でほとんど違わないところがおもしろいところです。
物語の構造はこんなところなんですけれども,物語の構造で何かご質問はありますか。ないですか。では,具体的に進んでいってからまたということでよろしいですか。
では,まず最初に,どうやって絵を分析するのかというところをやってみたいと思います。物語を分析するのはちょっと後に置いて,まず絵の分析の練習からしたいと思います。
これは多分,フォトランゲージという形で日本語教育の中でも入れていますね。ドイツの外国人に対するドイツ語教育などでは,このフォトランゲージは相当前から入っていまして,私自身もドイツで経験があります。ドイツがこのフォトランゲージというか絵の分析を入れた理由は,フランスが外国人に対するフランス語学習の資格を授与する際に,絵を分析するという部分を強化し,この絵が分析できないと,外国人のためのフランス語の資格が取れなくなったという経緯があり,それでドイツでも外国語教育に導入したという経緯があるそうです。
おもしろいことに,この絵の分析というのは,例えばドイツでは,年少者の教育の中に入っています。それから,名画の分析として,高校生ぐらいで行います。デンマークの教育では,幼稚園の教育の中で徹底的に絵を分析させて発問して物を言わせるということをやっています。スペインがここ数年,やはり絵の分析の持っている力に気がついて,また絵の分析を再認識して徹底的にカリキュラムの中に入れたということです。この絵の分析をやる目的は,ここから,なぜ絵本の分析をするのかということにつながっていきます。最初に外国語の教育では子供の思考力を一緒に育てなければいけないと申し上げましたけれども,子供の思考力を本を通じて育てるために,欧米の国々が何をやっているかといいますと,アメリカでクリティカルリーディングと呼ばれているもの,批判的読書技術と言ったらいいでしょうか,ドイツ語ではインタープレタチオン(Interpretation)と言われているものです。私はこれを「分析と解釈,批判」という訳し方をしているんですが,ただ感傷的に読むという読み方ではなくて,文章を深く分析しながら,それぞれ読み手が深く自分の考えを見つける読書をするというものです。それも感覚的に自分の考えを持つのではなくて,なぜ,その考えに至ったかを必ず論証していかなければいけないというのが欧米式の文章の読み方です。この絵の分析は,その第一歩になります。
というのは,これから皆さんと一緒にやってみたいと思いますけれども,これから,例えば,「ここはどこ?」というような質問をして,学習者が場所はどこどこだと答えたら,「どうしてそう思うの?」と必ず聞いていきます。そして,その理由を全部絵の中から発見していく。こういう形で,絵をしっかり観察して,自分の考えの根拠を絵の中に見つけていく。そういう作業をしていきます。それが文章の読み方につながっていくのです。ただ,文章の読み方につながるだけじゃなくて,非常にしっかりと考えることにもつながりますし,それから,観察眼を育てる方向にもつながっていきます。
それで,非常に小さいときから,例えば日本の子供でも,外国語に関係ない子供でも,この絵の分析を二つ,三つからしっかりやって育てた子と,全然やらないで育っていた子,こうした子供を中学生ぐらいになって比較しますと,もう頭の働きが違います。どこが違うかというと,絵を分析して育ってきた子供たちは,絵というのは状況と同じなんですけれども,ぱっと絵を見た瞬間に,それが何の絵で,なぜそう思うのか,理由まで拾い出し,読めるのです。ところが,やったことない子は,何をどう見ていいか分からないですから,まず,絵をぼんやり見ます。そして,質問すると,「何となく」と答えます。「なぜ,そう思うの」と言うと,「微妙」と,こういう感じの答えが返ってきます。結局,絵をどう見ていいか分からないから,頭が動かないということです。ですから,外国の子供たちを育てる場合も,結局,日本語が読めないで学習している間に「微妙」な期間が長くなってしまうわけです。つまり子供たちにとっては,考えないで過ごす期間です。ところが,そういう子たちに幾ら文章を使って読ませよう,考えさせようとしても,それは無理です,文章が読めないわけですから。そうすると,逆に絵をきちんと使って分析させながら,少ない言葉ででも討論させて,やりとりをして,考えを引き出してあげる。それは非常に重要です。分からない言葉は教えてあげていけばいいわけです。
では,どういうふうにやるかといいますと,先に簡単に説明します。
絵を使って分析をさせる場合には,絵を使って作業する場合には,説明と分析の両方のやり方ができます。絵を説明するというのは,絵に何が書いてあるか,表面的に見えることを説明すればいいということになります。つまり,ここに女の人がいる,ここに牛がいる,ここに馬車がある,ここに船がある,これが「絵の説明」になります。絵を説明するというのは,要するに,絵に何が書いてあるか説明するということなんですが,これもこの指導者の方が絵の説明のさせ方を分かっていないと,やみくもに指を差すことになります。「ここにだれがいるの?」「これは何?」「これは何?」これでは絵を見させたことになりません。絵にはやはり見方があって,説明させるためには,やはり技術が必要なんです。説明の技術というのは,必ず概要から詳細へ,全体から部分へ,これが分かっていないと,適当に指差して言わせる,で終わります。そうすると,子供は絵の関連づけができないまま,何となく指差して終わりになってしまいます。説明の場合,「これはどこかな?」というように,まず場所などの大きいものから聞きます。「これは何かな?建物ですよね?それから,その前に何があるかな?その前に,こういうのは何て言うかな?」と,大きなものから説明して,だんだんに小さな物である人物へ移っていく。当然,場所の方が人より大きいですね,情報として。ですから,大きいことから聞いていって,だんだん狭めて,小さい方向へ行くというようにこちらが聞きますと,子供は絵を説明するとき,あるいは物事を説明するときには必ず全体から見ていかなければいけないんだと何となく分かってきます。
子供によく使う言葉は,「この中で一番大きなものは何かな?」という,そういう質問だと,例えば小学生でも分かります。そうすると,例えば,この男の子を指して,「この男の子が一番大きい」と言う子は恐らくいないと思います。そういうふうに物事を全体の外側から見ていくくせというのも,これも思考力の一つなんです。つまり思考力のトレーニングの一つになります。物事を必ず外枠から見ていく。決して自分が目についたことや物だけを言わないというトレーニングです。ですから,フォトランゲージをするときも同じです。指導者は気がついたところだけ指差して「これ何?あれ何?」こういうやり方は多分初歩の段階です。物の名前を教えようという場合には,もちろんそれでいいわけです。例えば,「これはかごと言うのよ。」「これは牛と言うのよ。」それはもうそれで良いわけですけれども,もう一つ次の段階に進んだときには,こちら側が全体から部分に向かって物を見ていくということが分かっていないと,結局,いつまでたっても指を差して終わってしまうということになります。
もう一つ,今度は「絵の分析」とは何かといいますと,絵は何を意味をするのかということに答えるのが絵の分析になります。そして,説明と違って,この絵の分析には正解がありません。ただし,間違いはあります。全く見当の違うことを言われても困るのです。例えば,これは明らかに海辺の絵なのですが,どうしても山の絵だと言い張られてもやっぱり困ってしまう。だから,「それは間違いよ」というふうに言えるんですけれども,基本的には絵の分析には何通りも答えがありますので,逆に,多分外国の子供たちの方が活発に意見が言えると思います。日本の子供たちは,例えば中学生に絵の分析をさせるのは非常に最初難しいです。なぜかといいますと,ずっと一つの正解だけで育ってきているものですから,人と違う意見を言うのが非常に怖いんですね,日本の子供たちは。それでなかなか言えない。
ところが,例えば欧米の子供たちにしても,南米の子供たちにしても,答えは一つじゃない。このクリティカルリーディングにはもともと答えは何種類もあるのです。論証さえできれば,論証して相手を説得して納得させることができさえすれば,自分の意見は認めてもらえるので,幾通りも答えがあるという社会で育ってきている子供たちに,逆に,答えが1個しかないというと,逆にこれは通用しないのです。ですから,このクリティカルリーディングの意義をきちんと知っているというのは,恐らく文化の理解にもつながると私は思うのです。欧米系の教育を受けてきた人たちは,答えが1個ではない中で育ってきているということをまず指導者はきちんと知る必要があります。
逆に日本の子供たちを教育する人たちは,「答えは1個じゃないのよ」と,本当に何度も何度も何度も言っても,子供はなかなか学校の呪縛から逃れられずに,隣の人と同じですと言い続けるのです。それで,「隣の人と同じでもいいから言ってごらん」と言って言わせると,日本の子供も何とか言います。それで,「さっきの子と,この形容詞とこの助詞が違ったから,それはあなたの意見でしょう」と,そういう言い方で必ず褒めているのです。それが度重なると,物の見方や考え方というのは多様にあるんだということが日本の子供たちでも分かってきます。これは要するに,日本人が異文化を理解するときに非常に重要なんですね,答えは1個じゃないということを知って外へ出て行くということは。
ところが,今度逆に外国人を受け入れる場合は,私たちがその辺をちゃんと分かっていないと,「答えはこれしかないわよ」という感覚で,日本の国語教育の感覚で日本語を教えようとすると,例えば,クリティカルリーディングの中で育ってきた人たちには分からないのです。「なぜ答えが1個しかないんだ」,「答えが1個であるはずないじゃないか」,「考えは自由なんだから」ということになってしまって,そこで文化と文化が対立してしまう可能性があります。
では,ちょっと皆さん,見にくいかもしれないんですが,見える方たちが中心になって,実際に絵の分析を皆さんに参加していただいてやってみようと思います。これはただ説明だけしていてもなかなか分からないと思いますので。まず,先ほど申し上げたように,全体から見ていきます。つまり,全体というのは,この設定ですね,場所であるとか季節であるとか天気であるとか時間とか時代背景とかそういったものを見ていって,それからだんだんに,この絵の中でどんな物語が起こっているのか,だんだん深く掘り下げていきます。
では,すみません,皆さんご協力お願いします。午後の眠たい時間でもあると思いますので,少し発言をしていただいた方が,皆さんも目が覚めてちょうどいいと思います。
では,この絵の場所はどこでしょう。まず,一番大きく,どんな場所に,この何かがあるんでしょうか。

*1 ブラックボックス 俗に,使い方だけわかっていて,動作原理のわからない装置のこと。
*2 ペロー シャルル・ペロー。フランスの宮廷作家。


参加者イタリアの港町。

三森イタリアの港町。それはどうしてそう思いましたか。

参加者何となくイタリア人ぽい人がいるから。

三森何となくはだめなんですね。

参加者何か野菜の盛り方とか,そういうのから地中海の方かなと思ったのと,奥にやっぱり港とか船が見えるので,そこは港町であろうと。で,外国人たちの鼻の高さとかそういうものがとてもイタリア人に似ていると,それでそういうふうに判断しました。

三森はい,ありがとうございます。
これは,子供とやるときはもっと単純ですから,イタリアなんて大体出てこないかもしれないですけども。
では,ほかの方,場所はどこだと思いますか。これ,重要なのは,決して一人の答えでは,正解と言わないことです。私も正解は分からないです,正直言って。ですから,何人もの子の意見を聞いてあげるというのはすごく重要です。
ほかの方はいかがでしょうか。場所はどこですか。どうぞ。

参加者私は場所はスペインです。

三森それはどうしてですか

参加者牛がいるのはスペインかな,それから,これは何て言うんでしょう,テラスの屋根というか,白が基調になっているのは,私の頭の中ではスペインは白が基調というイメージがあるので,スペインの港町,どこかの広場の市場というふうに思いました。

三森では,すみません,港町はどこから思ったんですか。

参加者あれは船に見えたんですが,違いますか。

三森奥が船だからですね。

参加者はい。

三森では,広場というのは,どこから思ったんですか。

参加者お店がたくさん出ていて,買い物しているのは広場の市場というんでしょうか,市が立っている場所は広場というふうに連想しました。

三森ありがとうございます。
ほかの方いらっしゃいますか。もう一人ぐらいいかがでしょうか。大人でやると,絵の分析はすごく難しく,ややこしくなります。子供はもっと単純です。ちょっと皆さん,年齢が下がったつもりになりましょう。12,3歳になったつもりでちょっと考えてみてください。もう一人ぐらいいかがでしょうか。

参加者海の近くにある町です。市場があります。交差点です。

三森それはどうしてそう思いましたか。

参加者船が見えます。海だと思います。

三森これですね。それで。

参加者はい。魚と野菜を売っているので,市場だと思いました。

三森ここで魚を売っていて野菜を売っているからでいいですね。


参加者はい。
三森では,今度別の質問にいきます。季節はいつだと思いますか。

参加者腕を出している人が多い……

三森季節はいつですか,まず。

参加者夏だと思います。どうしてかというと,腕を出している人が多いのと,あと軽装といいますか,暑い時期に着る衣類を着ている人が多いように思います。

三森ありがとうございます。
今直しましたけれども,日本語は確かに結論を最後に言う,それが日本語なんです。ところが,例えばドイツ語にしても英語にしても,結論は先に来るのです。ですから,例えばもしドイツの子供に教え出したら,必ず最初に「Sommer」という言葉,「夏」という言葉が出てくるはずなのです。それからビコーズ(because)に当たるヴァイル(weil)と出てくるはずなのです。
私は,最終的に子供たちが,日本の子供たちが,日本の中だけで暮らすのではなくて,世界のどこに行っても交友関係を結んで,日本人として堂々と生きていけるようにすることを教育の目標にしています。ですから幾ら日本語のもともとの言い方が結論を最後にというのが一般的だと主張しても,それが通用しないところへ行ってそれをやろうとしても無理なのです。日本人同士で話すときは,結論は最後に持っていってもいいけれども,ここで絵の分析をしたり,議論をするときは,結論を前に持ってきなさいと日本の子供に教えています。
議論するときは,結論を最初に持ってきてくれないと,議論できないのです。例えば,今の方を取り上げて申しわけないですけれども,ずっと理由を言っていただいて,最後に夏ですと言われると,聞いている人は,私も含めて,その人の考えがどこにあるか分からないまま結論を推測するしかなくなるのです。最終的に,結論を聞いてから,次の自分の考えを組み立てなければいけなくなりますので,間があいてしまうのです。ですから,必ず最初に結論を言いなさいと言っています。
今度逆に,外国人に日本語を教えるということを考えてみると,今度は逆のことになります。私も外国人の友達,随分日本語をしゃべれる友達を知っていますけれども,相当なれた人は,後ろに結論を持っていく人がいます。ただしこれは,相当にうまい人です。大抵はぽんと結論を持ってきて,自分たちの論理構造にのっとって日本語を話しています。これは当たり前だと思うのです。ですから,それを否定してしまったら,もう先へ進まないので,恐らく年少者の場合,結論から先に言わせることは大切です。どこの国かは分からないですけれども,中国語も最初に結論が来ます。韓国語はどうなんでしょうか,ちょっと韓国語は分からないんですけれども。あとスペイン語系であるとかポルトガル語系,あるいは英語系の人たちは必ず結論が先に来ます。その子たちに一々結論を後に持ってきなさいと言ったら,もう日本語教育以前のところで口をあけるなと言っていることになってしまいますから,外国人の日本語は結論が先でいいと私は思っています。私自身は,日本の子供には結論を先に言いなさいと教えています。ただし,相手を見て結論を最後に持っていった方がいいときは,ちゃんと結論を最後に持っていきなさい,とも教えていますが。ただしそれは外国人に教えるのは大分進んだ段階で十分だと思います。
では,もう一回,季節はいつだと思いますか。

参加者お店にスイカがあるから,スイカは夏にあると思います。それから,ヒマワリに見えるのですが,ヒマワリも夏の花なので,夏です。

三森はい,ありがとうございます。
ほかに季節について何か意見のある方いらっしゃいますか。いかがでしょうか。ちょっと後ろの方は不利なんですけれども,状況が。いかがですか。

参加者雲が入道雲なので夏だと思います。結論は夏です。

三森はい,夏ですね。理由は入道雲みたいな雲ですね,これ。
ほかにありますか。いかがでしょうか。
これは,絵を分析していくということは非常に意味があって,これがなぜ思考力を育てるのに関係するかというと,一人では見えないものを,ほかの人が見つけて,発見して行くうちに,それを聞いて,それを自分の意見にできるのです。自分もそこに気づきが出てくるんです。だから,自分一人では一つしか気がつかなかった,例えば,スイカとヒマワリしか気がつかなくて夏だと思ったのに,そこに入道雲のことを指摘したり,半袖だという服装を指摘をしたりする人が出てきたりして,いろんなことを人が言うのを聞いているうちに,自分自身もそういう部分に気がついて,最初に小さかった考えが広がっていくのです。議論をしながらみんなで絵を分析していくうちに,自分自身の思考力が伸びていくというところに本当にメリットがあります。
ついでに,例えば外国人の場合,夏だと思うと言って,これがあるからと言えない場合もあります,物の名称を。そのときは,「これはヒマワリと言うのよ」と教えてあげればいい。絵があるので考えていることは分かるわけですよ,これがあるから夏だと言っているけれども,この物の名前は日本語で知らなければ,これはヒマワリと言うんだと教えてあげればいいことです。ただ,その思考の道筋自体は合っているわけです。
それから,これを指差して「夏,だって,これ,これ,これ」と,言葉知らなければ分からない,単語が出てこないのは当然ですから,これは日本語ではスイカと言うんだということを教えてあげることができます。そうすると,スイカがあるから夏であるという発見があって,それから考えがあって,さらに,日本語の単語も覚えるという,そういうつながりになっていくというわけです。
では,今度は天気はどんなお天気だと思いますか。

参加者晴れだと思います。

三森それはどうしてでしょうか。

参加者テントが白いから。

三森テントが白いと,どうして晴れなんですか。

参加者日差しを強く反射する。

三森なるほど,日差しを強く反射しているから。
ほかの方はいかがですか。どうぞ,遠慮なく。もったいないと思います,沈黙は。いかがですか。

参加者私も晴れだと思います。理由は,奥の空が青いということと,先ほどの日よけですか,その日よけの中,人のいる部分が黒くて,外の日よけの上の部分が明るいということからそう思いました。

三森ほかにお天気について,何かご意見のある方いらっしゃいますか。

参加者どのぐらい晴れか分からないんですが,晴れだと思います。というのは,人物の足元に影ができているので,少なくともその程度には日が出ているだろうと思いました。

三森そうですね,これも影という言葉を知らなくても,晴れという言葉を知っていたら,ここを指す子はいると思うんです。そうしたら,影だと教えればいいわけですね。言葉ができないときに,自分の考えを示せるんですよ,この絵の助けを借りて。考えていることは考えているわけですけど,言葉ができないために,そこで引っかかっていることを絵を助けにして,「ここ」があるからと。名前は日本語で分からないけど。その場合,日本語で影だと教えてもらえば,そこで二重,三重に進歩があります。
それから今度は,時間は何時ごろだと思いますか?何時と正確に言えなくても全然問題ないんですけれども,時間はいつごろだと思いますか。

参加者夕方です。

三森それはどうしてでしょうか。

参加者たくさんの人が,いろんなかごに食べ物を買って持ち帰るようなところがあります。

三森それは何のためですか。

参加者それは自分の家の夕食のために。

三森では,あなたのお母さんも夕食のために夕方に買い物に行きますか。

参加者今,お母さんと言われたんですか。

三森はい,あなたが子供だとして。

参加者そうですね,お母さんが行ったり,私がお使いに行ったりします。

三森はい,ありがとうございます。
こういうふうに,自分の体験に重ねて質問をすることももちろんできます。
ほかに時間についてご意見のある方。

参加者私は朝だと思います。

三森それはなぜですか。

参加者どうしてかといいますと,大体市場は朝,新鮮な物を売るからだと思います。

三森ありがとうございます。では,今度後ろの方。

参加者日が高い,つまり正午に近い時間ではないかと思います。

三森その理由は?

参加者物と影との関係から,上に太陽があるように見える。

三森どうして物と影の関係で?

参加者牛の実態と,それからその影の関係,それから左の方に……

影の関係って,もうちょっと詳しく説明してください。影がどうなっているから?

参加者牛の真下に影ができています。それから,左の車輪もその真下に影ができている。それから,空と雲との色がああいうふうにはっきりしているのは,夕方とか朝にはああいうふうには空と雲は見えないと思います。

三森なるほど。ありがとうございます。
これは,結局理科にもなるのです。子供はちゃんと必ず影を見て,影が短いから,真下にあるから,絶対日は傾いていない。だから,お昼前後じゃないかというのは必ず出てきます。大体理科でその程度のことを習っている子たちからは出てきます。
逆に,例えば違う絵を使って,この絵ですと,今度,光はこういうふうに斜めに入っているんですね。ここから,例えば時間は何時というと,光が斜めに入っているということは,正午ではない。はっきりしたことは分からないんですが,午前中だとしたら10:00ぐらいか,あるいは午後だとしたら15:00ぐらいじゃないか,そういう意見が出てくるんです。中には,時計を見て絶対14:00と言い張る子もいるんですよ。でも,別に間違いじゃないんですね。私は壊れていますと時計が言っているわけではないので,ですから,「14:00,ふうん,君はそう思うのね」とあっさり流すのですが,それがこの絵の分析のおもしろさです。
そういうふうに,これが結局,理科の知識や社会常識などを総動員しなければいけなくなるので,外国語であろうと日本語であろうと,その子供の持っている知識を全部フルに使わないと絵の分析はできないのです。子供の知的好奇心とか知識欲であるとか勉強したい気持ちは,外国語で自分の言いたいことが言えない状態に置かれると非常にストレスを感じます。私自身がそうだったわけなんですけれども。それをかなり解消できます。単語は知らなくても,それを助けてもらえれば,それが言える。そうすると,自分の考えは示せる。ここでかなり違ってきます。
では,今度は人物にいきたいと思いますが,ここにはどんな人がいるんでしょう,この人たちはここで何しているんでしょうか。あるいは,その前にもうちょっと,ここでは,これは市場とさっきおっしゃいましたけれども,どんなものが売られていますか。そうすると,今度,物の名前も考えなければいけないですね。どんなものが売っていますか。これは何でしょうという聞き方もここでできますよね,ヒマワリだと,あるいはここに置いてあるもの全部言ってごらんということもできます。ほかに,ここは何かなということもできますし,そうすると,やっぱり絵をじっくり見る必要が出てくるので,ただ思いついたことを言うのとは違ってきます。どちらかというと,自分から指導者が指さしてしまうんではなくて,子供たちに発見させて,これ何て言うのと聞かせた方が,子供の頭は働きます。なぜかというと,自分が知りたいと思ったことは覚えられますが,人から無理やり教えられたものは覚えないからです。ですから,子供に逆に聞かせることの方が重要になると思います。
ところで,これが市場でいろんなものが売っていますけど,ここでこの人たちは一体何しているのでしょうか。だんだん物語の中に入っていきます。ここで,この人たちは何をしていますか。いかがでしょうか。

参加者この人たちは,いろいろ買い物をしたり,散歩したり,それから買い物はしないにしても,商品を見たり,それから牛車に乗っている人もいますよね。

三森では,買い物をしている人というのは,どこから分かるんですか。

参加者そうですね,ちょうど牛の裏側に魚屋さんがありますけども,その後ろのところにはどうも買い物をしているバッグを持っている女性がいる。

三森この人ですか。

参加者違います。それの左側の方の,背中向けていますね。どうも買い物をしているんじゃないかなという感じがします。それで,あとは散歩しながら商品を見ている人もいますね。

三森では,買い物しているというのは,皆さん,どこから分かりますか。買い物していると,どうして言えるんでしょうか。どうして考えられるんでしょうか。買い物をしていると何となく絵を見て思うわけですね。それはでも,絵のどこを見てそう言っているのでしょうか。そう考えるのでしょうか。

参加者物を売っている人がいますし,商品がありますから。それから,物を買って帰る人もいますから,だから,物を買っているんだと思います。

三森物を買って帰る人は,何を持っていますか,手に。

参加者果物とか。

三森これは何と言うか知っていますか。

参加者かごですね。

三森かごと言いますね。かごに何が入っていますか。

参加者私,目が悪いからよく分からないんですが,パンとかでしょうか。

三森ごめんなさい。パンが入ったり,バナナが入ったりしていますね。で,多分子供だともっと細かく見るので,ここでお財布を持っている人がいるから買おうとしているとか,ちょっと見にくいかもしれないですけど,黒いのがお財布なんですね。あと,このおじさんは,「まけろ」と交渉しているとか,いろんなことが出てきます。ですから,細かく細かく人を見させると,色々な行為をしていますし,どうしてそう思ったのかを,絵を指させながら,絵で具体的に説明させるんです。何となくこう思ったとか推測で言うのではなくて,例えばこのおじさんが手を広げているから500円にしろと言っているんじゃないかとか,あるいは,この人はお財布を持っているから,今買おうとしているんだとか,では,このおじさんについてはよく出てくるのが,「暑くて死にそうだと思っている」というものです。例えば「上の方を向いて汗をふいているから」とか,そういうふうに細かく見て,色々な言葉が出てきます。
では,今度はこの絵の中で,物語の主人公はどれだか分かりますか。絵の中の主人公はだれだか分かりますか。だれが主人公だと思いますか。

参加者竹馬のような赤い棒を持っている小さな男の子が主人公だと思います。

三森どうしてですか。

三森関係がないから?

参加者私も男の子だと思います。

三森それはどうしてですか。

参加者一人だけ全く別の行動をしようとしているから。それから,道の奥に何があるんだろうと見ているんだと思います。

三森道の奥に何があるんだろうと見ていると思う。
この男の子は,初めてここに来たんでしょうか。

参加者その少年は,だれか仲間を向こう側に見つけて,何か合図しているんじゃないですか。だから,しょっちゅうここに来なれている子だというふうに思いますけれども。

三森では,この子はだれと合図しているように見えますか。

参加者果物を売っているおじさん。

三森どうして,果物を売っているおじさんと合図していると思うんですか。

参加者子供も手を挙げているし,おじさんも手を挙げているように見えるから。

三森では,この子供は今どこへ行こうとしていると思いますか。今ここへ来て,そこからどこへ行こうとしているんでしょうか。いかがですか。

参加者奥というか,港の方に行こうとして,そのおじさんと「こんにちは」みたいな,そういうふうに自分としては思います。

三森こっちの方へ行こうとしている?ほかの方は。

参加者今,遊んで帰って来て,果物屋のおじさんはお父さんなので,今からお父さんの仕事を手伝おうとしているところ。

三森ほかの方いらっしゃいますか。いかがでしょうか。
では,子供と同じようなものを持っている人,見つかりませんか,絵の中に。気がつきましたか。

参加者真ん中でジャグラー*1が竹馬に乗っています。

*1 ジャグラー (juggler)曲芸師。大道芸人。特に玉やナイフなどを放り投げて器用に扱う人。


三森ここですね,そうなんです,これが見えていないと物語が読めないんです,この絵は。これは人間なんですよね,赤い棒の上に立って,竹馬なんですね,これが。棒ですから竹馬ですよね。ちょっと見えにくいかもしれないですけれども。それでお手玉を回していて,これはもちろん私の勝手な推測ですよ。いろんな意見があると思うんですけれども。これとこれを関係づけることによって物語が動いてくる。大抵子供はここに気がついて,色々なことを言います。「僕もやりたい」という子でもいいんですね。そうしたら,「何でやりたいの?」でもいいし,「僕もできる」とできる話を延々とする子ももちろんいます。それはそれでまた日本語で語りたいことが出てきたということですから認めます。私は大体子供にやっていますから,日本人でも,日本語のちょうど発達段階にある子たちに教えているわけなんですけれども,そうすると,ここで物語が,これとこれを関連づけられると,ここで物語が動くのです。
あと,おもしろいことに,今まで子供にやったときは,大抵これが主人公だとぱっと指摘されるのですが,大人にやったときには,割とこちらの牛車の人物が主人公だとおっしゃる方が多いのです。どうしてそういう違いが出るのかはちょっと分からないのですが。どうしてかと言うと,これが大きいからというふうに言われた方がいました。やはり大人と子供で絵の見方は違うということですね,かなり違いますね。
それから,この女性が一番前にいるから,それで正面を向いているのはこの人だけだから,この人が主人公だというふうにおっしゃった方もいます。一応この絵を描いた方は,「日曜日の朝,僕はジョーを探して」というタイトルをつけているのです。だから,やっぱり「僕」はこの少年だと思うんですけれども。ただ,絵の分析をするときは,必ずタイトルを隠してやります。隠してやらないと,初めから絵を方向づけてしまうので,子供はそれに沿って絵を見なければいけなくなります。ですから,必ずタイトルは隠して,子供たち自身にタイトルを考えさせるというふうに持っていきます。
あと,例えばものすごく象徴的なものが絵の中に書かれていたら,それについて考えさせたり,それから,色彩や色調に特徴があったら,それについて意見を言わせてもいいですし,特別なタッチを使っていたら,例えばゴッホのタッチみたいなものですね,それはどんな意味があると自分で考えるというのでもいいですし,あと構図が特殊なものであったら,それについて考えてもいいと思います。
ちょっと子供たちがやっている場面をビデオでお見せします。

(ビデオ上映)

  今のは,小学校3年生の子たちに,ちょうどこの「おやすみ,くまくん」という絵本のたった1ページだけを見せてやっているものです。ここの絵です。これは子供とくまの登場する絵本なんですが,それは一切明かしていません。だけど,「このくまは大切なの?」と聞くと,ちゃんとどこに置いてあるから大切と言っていました。一切こちらからは答えを与えていませんが,子供が考えを見つけてきます。このときに心がけているのが,決して先回りして答えを言わないということです。だから,「天気はどんなの?」と聞くと,「雨が降っている。」と子供が答える。そうしたら,「へえ,それはどうして?」と聞く。すると,その雨の強さ,降り方の強さも子供がちゃんと発見しているのです。縦に降っているんじゃなくて,斜めに降っているから,カサカサという音がすると思うという発言を子供がしていました。あれも全部子供が考えたことで,こちらは子供に考えるきっかけを与えるための誘導しているだけなのですが,誘導する質問は最低限に絞り込んで,ポイントだけを聞いていくという形にしています。あと,子供たちが自分で考えて理由をきちんとその物語の中で,この絵の中でどんな物語があるのか一所懸命考えていきます。これ1時間やっているのです,この絵で。この絵だけであの人数で1時間話ができるんです。
それで,当然,このたった1枚の絵を使いながら,子供たちは自分たちが,その時点で身につけている知識や教養であるとか言葉を全部総動員して考えているんです。だから,これを見て,これが雨だと思わなかったらもう話にならないんですけれども,雨というのはこういうふうに降るんだということを知っているから,そういう話が出てくる。それで,雨の降り方の音や,それから臭いも聞いたりしているんですけど,臭いだとか音だとか,それから,例えばここでどんな会話がなされていると思うとか,この子はどんなことを思っていると思うかと,そこまでも聞けるのです。
大抵,絵本の1枚の絵を使って分析をした場合には,最後に,最初から読んであげています。そうすると,当たった,当たらないという発見や感動があっておもしろいのです。大抵当たっています,本当におもしろいぐらいに。本当に答えは一切与えていないんです。今の質問の仕方を聞いていただいても分かると思うのですが,全く答えは与えないのですが,いつの間にか議論をしている間に,みんなで話しているうちに,何となく答えというのではないですけれども,答えに行き着くのです。
そして,答えはここに,どんな文章が書かれているかということになるのですが,結局,全部読んでもらうと,たった1枚の絵を見て自分自身が考えたことが,そのとおりのお話だったということに気づくと,これはものすごくおもしろいのです。子供たちにとっては。ですから,逆にこの絵の分析をするときには,絵がきちんと物語を語っている絵を見つけてこないとだめです。だから,例えば「ぐりとぐら」みたいなものだとやりにくいのです。余りにもストレートに絵が書いてあるので,分析の余地がないのです。
おもしろいことに,西洋の絵本と日本の絵本を比べてみるとはっきり違いが出てくるのですが,西洋の絵本は分析の文化の中で育っているのです。例えば,この「おやすみ,くまくん」のブッフホルツ(Buchholz)というのはドイツ人です。ですから分析されることを計算し尽くした上で絵と文章を組み立てています。だから,いくらでも議論の余地があっておもしろいのです。やはりこれは文化の差だと思うのですが,日本の絵本は比較的,分析して解釈して批判するというトレーニングを受けない作家たちが結局書いているものですから,割合文章が平面的です。また絵も描き込んであるものが多くて,意外と漫画的なものが多くて使えないのです。別に選んでいるわけじゃないんですけれども,比較的西洋のものを使って分析する。やはり文化の差によって生まれたものかなとは思います。
では,今度は絵本1冊を使ってどんな分析をするかというのを,簡単にですけれども,やってみたいと思います。
「手の中のすずめ」という絵本で,私ともう一人,朗読家をされているおつきゆきえさんという方と二人で組んで翻訳したものです。翻訳するときに気をつけたのが,もともとのドイツ語のニュアンスをできるだけ残すという作業をしました。それでいながら,日本語としておかしくないということを,このおつきゆきえさんと闘いながら訳をしたのです。私がまず直訳をして,それからこのおつきゆきえさんが絵本の朗読家として,彼女の中にすとんと読んだときに落ちる日本語に修正するという作業をしました。その過程で,いや,それじゃニュアンスが違うとさんざん議論をしました。これはアンネゲルト・フックスフーバー(Annegert Fuchshuber)という方の絵本で,まさに分析するためにあるような絵本です。
簡単にちょっと読みますね。皆さんは絵の方を見ていてください。
「手の中のすずめ」(アンネゲルト・フックスフーバー作,三森ゆりか・おつきゆきえ訳,一声社)
窓辺に座ってティムはすっかり退屈していました。通りに出たら,きっとおもしろいだろうな。
そこへお母さんが来ました。「さあ,いらっしゃい。一緒にお買い物に行きましょう」。
お日様が輝いていました。雨どいの中では,すずめがチュンチュンさえずっています。ティムはうれしくって,中庭を片足でとびはねました。
「今日は,市場がある日よ」,お母さんが言いました。「まちはきっと人でいっぱいだわ。いい,ティム。ちゃんとお母さんのカバンにつかまっているようにね。迷子にならないようにね」。
僕,迷子になんかならないよとティムは思いました。僕,ずっとそばにいるもん。でも,ティムはやっぱりお母さんのカバンのひもをぎゅっと握り締め,大股で歩きました。そして,波のように押し合う人込みの中,ぴったりとお母さんにくっついていました。
お母さんは,背が高いから平気そうでした。でも,ティムの鼻があるのは,まるで1階下にいるみたいにずっと低いところ。
この行動部分は,ドイツ語をそのまま直訳して残したところです。
ティムに見えるのは,ズボンをはいた足,コートのボタン,買い物かご,傘ばかり,それはそれは暗くて窮屈で,ティムはもう息が詰まりそうでした。
ドン,だれかがティムの腕にぶつかりました。お母さんのカバンはどこ,あっ,手が空っぽ。ティムは上を見上げました。空が見えません。あそこに見えるのはリュックサックかな。いや,だれかが羽根布団を広げて歩き回っているのかな。ティムの鼻が何かごつごつしたかたいものにぶつかりました。人の足,それとも木なの。とっても真っ暗でした。ティムは思いました。僕,本当に本当に迷子になっちゃったんだ。
そのとき,ティムは何かを見ました。木と木の間にいるけむくじゃらのカエルのような目をした動物。お母さんは一体どこなの。ティムは何とかしなきゃと思いました。切り株や木の根っこ,石につまずきながら,ティムはよろよろと歩きました。上の方では,サワサワ,ザワザワ音がしていました。「お母さん」。あれっ,地面に何かいます。やっと見えるくらいのもの,とても小さいものです。ティムよりずっと小さいもの。羽の生えそろっていない小鳥です。ティムはかがみ込みます。「おいで,すずめ,あんな動物に何もさせないからね」。小鳥の心臓は手の中でとくとくといっているのがティムには分かります。小さな命の音,まるで羽をはばたかせているような。その動物は,羽のとがっていて,それに長くて赤い舌をしています。小鳥が欲しいのです。でも,ティムは素早く木と木の間をすり抜けます。あいつなんかにすずめを渡すもんか。「大丈夫,恐がらなくていいよ」,ティムは話しかけます。「僕が守ってあげるからね。知っている,ここは魔法の森なんかじゃないんだよ。ただ,そう見えるだけなんだ。ここには人がたくさんいて,みんなとっても急いでいるんだ。ほら,ここにあるのは大きな傘,それからこれも木なんかじゃない。人の足にコート,そしてほらね,街灯にこれはごみ箱だよ。カサカサ,ガサガサ言うのはカバンと袋の音,ブルンブルンとうなっている車,それとあの嫌な動物,なんだ,ただの犬だ。じっとしているんだよ,僕がしっかり持っていてあげるからね」。
ティムは両方の手で小鳥を包んで,そっとゆっくり歩きます。大人はどうしてこんなに押し合うんだろう。でも,ようやく少しすき間ができました。ティムにはまた空が見えました。そして,そこにお母さんがいたのです。
「ティム,まあ,こんなところにいたのね。あちこち探したのよ。一体どこにいたの」「僕,魔法の森にいたんだよ。でも,ちっとも怖くなかったよ。見て,これ,僕,見つけたんだ」「あら,すずめの赤ちゃん,きっとまだちゃんと飛べないのね。家で世話をしてあげなくちゃね,大きくなって強くなるまで」「大きく強くなるまで?僕みたいに?」「そうね。そうしたら,放してあげましょう」。
これで終わりです。
文章はすごく簡単なんですが,高校生でも分析できます,十分に。もちろん四つ,五つの子に読んであげることもできます。どういうところが分析の対象になるかというと,例えば,物語の構造を使って,どこがクライマックスなのと質問することもできます。そうすると,構造を知っている子たちにしてみると,どこがクライマックスなのと,大抵色々なところで議論になるんですが,最終的に落ち着くのは,大きく強くなるまで,僕みたいにという部分です。なぜ,ここがクライマックスなのかといいますと,なぜだと思いますか。今,うなずいた方。

参加者本人に気付きがあったからだと思います。

三森そうですね,本人に気付きがあったというのは,この場合,結局,最初に何が恐怖の対象だったかということです。お母さんの手が離れちゃったのが恐怖の対象で,ところが,自分より小さいものを守るという立場に逆転したところで場面が展開した。場面が変わったのを多分お気づきになったと思うのですが。そして,ここへ「僕みたいに強くなって」とある。僕は強くなっているのです。ここで。はっきりお母さんがいなくても大丈夫だったとここで言っているので,これがクライマックスなのだと。これは議論の対象になって,大抵もっと前だという子が何人かいて,かなりの議論になります。中学生以上でこの議論ができます。
それから,例えばこういう質問もできます。ティムとお母さんは,どうしてこの階段で話をしているんだろう,と言うと,ちゃんと窓に気がつく子がいて,窓の外にいる,窓の内にいる,ここでちゃんと意味を読み取れる子もいるのです。これもやっぱり分析なのです。内側にいた,要するに,お母さんの内側にいたティムが,お母さんの外側にいる。これをこの窓が象徴していると。お母さんの外側に出てきて,だけども,まだお母さんの中にはいる。けれど,その腕の中には鳥がいる。だから,一つ外へ出てきたというふうな読み方をした子もいます。これは中学生でした。
それから,今度もっと細かくいろいろ絵を見ていけるのですが,一番のポイントは,ここです。それまでティムの周囲を埋めているのは人なのです。手を離してしまった途端,なぜこうなるのか,なぜでしょうか。なぜ,こんな絵になるのですか。これは本当に森が出現したのですか。これは四つや五つの子でも,これ本当に木なのと聞くことはできます。大抵五つや六つの子でも,これが木じゃないということは分かります。「だって靴下はいている木なんてないもん」とか,これはちょっと見えないですけど,靴下はいているのです,木の根っこが。それから,これは,木が靴はいています。「靴はいている木なんてないもん」とか,「洋服着ている木なんかないもん」とかといろいろ気がつきます。もうちょっと大きな子でも,例えば日本の高校生や中学生でも,これで十分な議論ができるのです。テクストは簡単で,日本の子供たちにとっても文章は簡単なんですけれども,でも,この絵と両方を組み合わせて読むというのは難しい作業になるので,中学生や高校生や大人でも楽しめます。逆に,今度は外国人の場合は,自国でクリティカルリーディングを習っている可能性がありますから,こういう物の考え自体は知っているのです。多分欧米系の子はみんな知っています。それから,アルゼンチンやブラジルの子も知っている可能性は高いです。韓国はやっていないと言っていました。中国もやっているというのを聞いたことがないので,ちょっと分からないです。でも,オーストラリア,ニュージーランドはやっています。北欧は全部やっているし,ソ連の人たちなどは非常に分析力がすぐれています。
欧米でも,分析力のすぐれているのは,もともと共産圏の人たちです。どうしてか分かりますね。体制の中で,できるだけ表面は取り繕って,下でいろいろやらないと自由に生きる,心を開放することができなかったので,結局,西ドイツの文学作品よりも東ドイツの文学作品の方が分析の価値があると言われていました。それはやっぱり体制の中で,いかに自分の意見を表面上隠して言うかということのために,非常に巧妙に文章を組み立てるからです。ですから,例えばデンマークにいた友達が文章の分析力が一番デンマーク語学校でできたのが,ロシアから来た人たちだったと言っていました。それから,スペイン人もフランコ世代の人たちは非常に分析力があるようです。同じ理由です。
そういうふうに,逆に自国でそういうトレーニングを受けてきた人たちは,だから,大人にも逆に言えば有効なんですけれども,少ない言葉しか使えないけれども,分析力はもともと持っている人たちに向かって,少ない言葉を絵とか易しい言葉で補いながら分析していくということが可能になるのです。もともと自分のこだわりの言葉でできれば,どうしてそう思うのか,ある程度言葉を補ってあげれば,考えは持てます。それで逆に言うと,日本人の子供ができないことを,例えばアルゼンチンの子供ができるということになります。ここを理解してあげないと,日本語ができないために発言ができないだけなのに,考えていることは上の方にあるのに,ここのギャップを埋めてあげることを私たちの方で助けてあげなければいけないのに,その日本人の側が彼らがどんな教育を受けてきているかを知らないと,そこを無視することになるので,結局,ストレスや不満がたまることになります。逆に,もともと母語でできる子たちに,こういうことを持っていってあげると,何とか言葉をつなぎながら,自分の考えを組み立てられるところまでいっていれば,相当に深く考えを示すことができますし,助けてあげながら示させればいいわけですから。そうすると,そこで彼らは満足ができるし,また日本語力が伸びてくるということにつながっていきます。
例えば,この絵本なども,恐ろしいけだものが一つのポイントです。おもしろいのは,ここで向かい合っているうちは,これが恐怖の対象で,怖いわけです。ところが,すずめを見つけたときに,背を向けているというのが,これがものすごく大きなポイントです。このときに森が明るくなっています。どうして,この瞬間に森が明るくなったのだろう。そして,どうしてこの子は,このけだものに背を向けることができたのだろう。いっぱい質問することがあるのです。そして,どうしてここに突然人間の足が出てきたのだろう。これが結局,自分より弱いものを見つけた瞬間に,子供は恐怖を克服できて,克服できた瞬間に周りが明るくなり,靴が出てきた,そういうことを言いたいわけです。それを子供に言う必要はないんですけども,そういうことが出てくればいい。そうすると今度は,はっきりときがオーバーコートに変化する。それから,文字が出てきたりもします。これは遠くからけだものが子供を見守っています。けだものの怖い目がかくれました。そして,この子はもう全く無視して平気な顔をして,この小鳥を見て歩いている。恐怖を克服したので,雑踏に戻ってきて,けだものはただの犬になるわけです。そうすると,お母さんが出てくるんですが,「お母さんは,ずっと探していたと思う?」という質問もできます。そうすると,このお母さんの様子と文章と両方を組み合わせて,このお母さんが子供をずっと探していたということが出てくると思います。ここで「どうしてそう思うのか」ということを言わせることが重要です。
一方,子供の方は,もうお母さんを探していません。これは顔を見れば分かります。それについても,「この子供は,この時点でお母さんのことを探していたのかな?」と聞くわけです。そうすると,この顔見れば違うということは分かります。だから,この文章には書いていないことを,さっきの絵の分析の手法を使って,もっと深く読み取ることができるので,簡単な文章しか読めないというストレスが逆にこの絵を深く読むことによって解消されるというわけです。自分がこれしか読めないと,こんな程度の絵本しか読めないのかと思っている外国の子供が,絵も読んで,もっと深いことを考えられれば,自分は15歳なのに,この程度の日本語しか読めないのかというのと,絵も読んで,ここまで深く読めると思えるのとでは違いますね。自分自身に自信を持てるというのでしょうか,それをこの絵の分析と絵本の分析が助けてくれるということになります。
最後に,では,「このすずめというのは,結局だれだったんだろうね」という質問もすることができます。そうすると,やっぱりそれはまたいろんな答えが出てくると思います。これは子供自身の心だという子もいるでしょう。そうしたら,「どうしてそう思うの?」と必ず「どうして」を聞くのです。これは,特にヨーロッパ系の言葉を使っている子たち,中国語もそうですよね。彼らはどうしてを軸にして話していますけれども,なぜを軸にしてふだんの会話を成り立たせている子供たちにとっては,なぜを聞かれない日本の文化というのは,やっぱり落ちないんですよ,すとんと。逆のことを考えればよく分かりますよね。日本人が外国に行ったときに,あの,「なぜ,なぜ,なぜ,なぜ」というのが非常にストレスになるわけです。私のドイツ人の友達でさえそう言うのです。
彼女は日本人と結婚をしていて,日本語もペラペラで問題ないですし,夫はドイツ語がペラペラで全然日本で暮らすことに不自由がないのですが,彼女がすごくおもしろいことを言いました。日本にいると,いつもなぜと言い過ぎて,日本人に嫌な顔をされる。だから,あなたはしつこいわねという顔が明らかに出てくるので,気をつけて,できるだけなぜかというのを使わないようにしているんだと言うのです。ところが,彼女は半年に一度ドイツに帰ったり来たりしているんですが,ドイツに毎年2か月帰ると,そこで今度はドイツ人が余りになぜ,なぜ,なぜと聞くのでうんざりする。またその2か月後に日本に帰ってくると,また,なぜと言い過ぎて日本人にうんざりされる。だから,自分はどっちに行ってもいつまでたってもなかなかぱっと適応できないと嘆いていました。逆に言ったら,外国人の子供たち,なぜを軸に常に母語をしゃべってきた子供たちから,なぜを取り上げてしまったときのストレスというのは大変なものだと私は思うのです。私たちが,もし日本人としてなぜを聞かれてストレスを感じるんなら,逆に,なぜを取り上げられたら外国人はストレスを感じる。だから,こういうもので,なぜ,なぜ,なぜ,なぜと聞いてあげるというのは非常に重要だと思います。逆に言うと,日本の子供たちは,今度,なぜ,なぜ,なぜ,なぜと聞いて育ててあげないと,今度海外に行って通用しないのです。これは異文化理解ということにもつながりますし,私たちが日本語の言語環境であるとか日本語の特徴を知る上でも重要です。なぜを軸に話すということ,なぜを軸に話さない日本と(極端な話,話さないと言ってしまっていいと思うのですが),なぜを軸に話す文化の違いをきちんと理解して年少者は育ててあげないと,なぜと聞かれない,あるいはなぜと言うたびになぜと言い過ぎると日本語的ではないですと押さえられてしまったら,失語症になりなさいと子供に言っているようなものになります。だから,これはすごく気をつけなければいけないことです。
ちょっと関連しますけれども,日本の子も欧米の子も,例えば小さいときは非常に論理的です。日本の子もです。皆さんお子さんがいらっしゃる方はお分かりになると思うのですが,大体日本の子供は3歳,4歳のときに,どうして,どうしてと親を追いかけます。そのときに,余り理屈っぽくなると嫌われるわよと押さえてしまうのが日本の親なんです。これは実際私もよく言われました。さっきビデオで「なぜかと言うと」と言ったのはうちの息子なんですけれども,「あなた,こんなふうに子供を育ててどうするつもり。そのうちみんなに嫌われていじめられるわよ」とよく言われました。でも,大丈夫です。だれにもいじめられていないので。彼らには,切り換えなさいと教えているのです。外国に出たら,絶対この「なぜかというと」という思考が必要になるから,これ使えるようにとっておきなさい。ただ,日本の中では確かに嫌われるので,相手の顔色を見て,言い過ぎたと思ったら,そこでやめなさいと,そういう具合にモードを切りかえなさいと教えてしまっているのです。私たちが年少者に日本語を教えるときには,その説明をちゃんとしないとだめです。日本では余りなぜと言い過ぎるのを好まないから,だんだん日本語が上手になったら,なぜかというのを言わないで上手に理由を言うとか,そういうふうに教えてあげれば,きちんとなぜかというのを隠して理由を言うということができるようになります。日本人は実はそういうふうに言っているんですよね。それをきちんと教えてあげないで,余りなぜかと言うと日本語らしくないからなというふうにぽんとはねつけてしまうと,やはりそこでもうどうしていいか分からなくなるでしょう。母語というのは自分のアイデンティティですから,それを全部スパンと否定されてしまったら,子供は,年少者というのはちょうど発達段階にある子供ですから,大人よりきついのですね,ダメージが。大人は,「まあ,いいや,どうせ,日本人は日本人,私は私。」これで済むでしょうけれども。私自身がやっぱり年少者の段階でドイツに行ってそれを感じたのと同じように。私は逆に,なぜを求められて非常に苦しかったのです。逆だと思うのです。例えば,ドイツの子供が日本に来たら,なぜを言わないことに,逆にストレスを感じて,そのドイツ人の友達と同じように,どうしていいか分からなくなる。ただ,彼女は大人になってきたから,それは問題がない。笑って済ませられる状態なんですけれども。
逆に,今度,帰国子女で余りなぜと言い過ぎて先生にやめなさいと言われて,足が動かなくなったりする子がいるのです。私も実際に足が動かなくなって,学校に行けなくなった子を知っているんですが,それは笑い事じゃないのんです。結局,今まで平気で自分の考えを──自分の考えを言うということは,根拠に基づいて必ず言うということなのですが,それをぱんと止められたために,そこからもう足が動かなくなってしまったという子,同じように足が動かなくなったとか,言葉が出なくなったとか,似たような経験を持つ子を何人か知っていますけれど,本当に文化の背景にあるものをきちんと理解してあげないと,発達段階にある子供というのは非常にデリケートで扱いが大人以上に難しいです。
大体このぐらいで私の話は終わりなんですけれども,何か質問がございますか。いかがでしょうか。

参加者奈良から参りましたSといいます。
非常におもしろい話だなと思って聞かせていただきました。
私は,非常勤ですけれども社会科の教師をやっておりまして,歴史教育の中でも絵を使った授業というのもやっていて,同じやり方でやるというので共感しております。論理的思考というのも一緒だなと思っています。日本語の方に置きかえて考えて見ているんですけれども,質問は3点あります。
一つは,先生が発問されたのに答えが返ってきますね,そのときに,それは違うという答えが出る場合がありますね。そのときに,歴史教育の中では違う生徒が,それは違うということをばっとすぐ話をしたりするんです。そういうのは押さえておられるのか,間違っていても言うということが大事だということで,そうだねと流されるのかというのが一つです。

三森それについては,年齢によります。ですから,うんと小さい子供だったら押さえないです。もう一切押さえないです。だから,言いたい放題言わせます。でも,いつまでもそれじゃやっぱり困るので,大体12歳ぐらいになって,一つは年齢と,あと私と学習者の関係もありますけれども,私と学習者の関係が十分にできていて,私は,おおむね彼らの意見を受け入れてきちんと対応するけれども,間違いに対してはきちんと間違いだということを言っているという関係ができていれば,もうそれが分かっていれば,「それは間違っているね,その根拠がどこにもないじゃない」それは言います。ただ,大体5年生以上ぐらいです。そして,彼らと私の信頼関係が十分できた上でです。そうすれば,答えが幾通りもあるということも分かっている子供たちであれば,そう言われても,もう傷つきません。はっきり言って。そこがまた重要なんです。
日本の子供の場合は,正解主義でずっときていますので,傷つくのですよ。その一言で。はっきり言って。確かに,ドイツの子供などはその程度では傷つかないのです。根拠に基づかないで意見を言えば,それは間違いなのだということも知っているからです。だけど,日本の子供はそこで折れたりします,ポキンと。これも逆に困るので,まず,関係を築く,きちんと意見を言わせる,必ず根拠に基づく,これが重要です。だから,何となく微妙とか,分からないけどそうだと思ったなんて,それは認めません,逆に。その上で,その関係をしっかり築いてから,根拠のないことは,それはどこにも根拠がないから,その意見は成立しないんじゃないのという言い方をします,間違いというよりは,成立しないんじゃないという言い方をしています。

参加者今の「手の中のすずめ」の場合には,絵を見て,いろいろ考えさせてから文章を読んでやるという方法をしておられるんでしょうか。

三森これは,読み聞かせを最初にして,あるいは子供に1冊ずつ手に渡して,一緒に読んで,一緒に私が声を出して読みながら手でめくらせて,同時に文章と絵を読ませています。大体やっぱり子供の手元に1冊ずつあるのが,あるいは1冊じゃなくても,3人に1冊ぐらいずつあるのが最善ですね。

参加者ありがとうございます。
それから,最後なんですけども,我々はこういう研究をしていないので,実際に実践をこれに基づいてしていこうと思うときに,こういう本がいいよというのがあるのであれば,その絵本を幾つか紹介していただければと思います。

三森絵本は,実はこの「絵本で育てる情報分析力」という本を出していまして,この後ろに,私自身が分析するのにおもしろいと思った絵本のリストを載せてあります。ここに載っていないもので,中高生におもしろいと思う最近出た本は,アンソニー・ブラウンの「ナイトシミー」という本です。それは中高生には非常に分析するのにおもしろいです。ひきこもりの男の子の話です。絵本も年齢を考えて選ばないとだめです。本当に幼児向きの本なのか,そうじゃないのか。
それから,先ほど午前中に「あおくんときいろちゃん」という本が出ていましたけれども,レオ・レオーニのあの本なんかも,十分中学や高校生でも使えます。内容は非常に簡単なんですけれども,議論する余地はたくさんあると,そういう本です。そういうものを選ばないとだめです,もちろん。何でもいいというわけではないです。
大体ヨーロッパの場合は,中学3年生くらいからは文章の分析だけをやります。ですから,もう絵は使わないで,文章だけを分析していくのですけれども,でも,外国語学習者のときには文章は難しいのは使えないですから,こういう絵本はとても使い勝手がいいですね。
ほかにありますか。

参加者長野の小学校で日本語教室を担当しておりますMと申します。
今日はとてもおもしろくて,ぜひ,自分でも実践してみたいなと思ったんですが,そのときに,絵本のときでしたら,いろいろ意見を出させて,最後に読み聞かせをしてあげるというお話があったんですけれども,1枚の絵のときは,授業をどういうふうにまとめるというか,その辺を。

三森1枚の絵のときは,もう授業はまとめません。まとめないです,別にまとめる必要がないですので。絵本の1枚を使うのはちょっとできるようになってからなので,その練習としては,1枚の絵を使って,大体カラーじゃなくて,まず白黒からやります。色がつくと,もう既に難しくなってしまうので,こんなふうに白黒の絵を使って始めたり,あるいは例えば絵の部分だけですね,これなんかですと。入院している子供の絵の部分だけとか,あとこういう1枚の絵の部分だけとか,その辺から始めて,だんだんに色をつけていくというふうにして行います。別にまとめる必要はないのです。読み聞かせるものもないですし,絵ですから,最終的には個人個人の解釈でいいわけですから,まとめる必要はないのです。
ただ,この白黒の絵でさえ3,40分話ができますし,これは大抵いつも1時間かけて話ができるのです。それぐらい色々な発見があるので,たかだか1枚の絵といっても,かなり長く時間を持たせることができます。
それがある程度できるようになったら,今度は絵本に移ります。自分の分析が正しかったのかなというのが,今度は絵本を1冊通して読むと,その中のどこにこの絵が入っていて,その前後がどうなっていたかが分かりますから。さらに,今度文章とのつながりがはっきり見えてくるので,最初は絵だけでやって,それから絵本の1枚を取り出してやって,そうすると今度,文章の中における絵の意味が読めるようになって,さらに,「手の中のすずめ」みたいに絵本1冊丸ごと使って分析する。そうすると,今度はその次は文章だけの分析につながっていくというふうに段階を踏むといいと思います。

参加者ありがとうございました。

参加者神奈川県大和市のKという日本語ボランティアの一人で,Mと申します。
質問の一つは,年少者への日本語習得支援に主に使われるように書いてあるようですけれども,これを大人に使ってももちろん問題ないですね。

三森全然問題ないです。

参加者もう一つは,「おやすみ,くまくん」,これの作者の名前をフルネームで。

三森クウィント・ブッフホルツ(Quint Buchholz)がフルネームです。

三森シュラーフ・クート・クライナ・ベア(Schlaf gut, Kleiner Bar)というのがそうです。

参加者どうもありがとうございます。これは丸善で買えますか。最初の先生のつくられたもう一つの本,「手の中のすずめ」,これは丸善で,普通の紀伊国屋とか。

三森買えると思いますけれども。シュラーフクートは,たしかアマゾン・ドイツランド,ドイツのアマゾンのサイトで買ったような気がします。

参加者どうもありがとうございました。

三森もちろん大人に使えます。絵の分析ですから,このイラストじゃなくて名画の分析などを大人とやったらすごく楽しいですよ,本当に。だから,全然子供だけではなくて,日本語のまだ不十分な大人とやっても楽しいと思いますし,別に日本人同士でやってもおもしろいですし,日本語が堪能な外国人とやってもとてもおもしろいです。
私はスペイン人の友達が一番仲のいい友達なんですが,彼女は日本語がぺらぺらなので,よく彼女と絵を分析したり,文章を分析したり一緒にしています。彼女はスペイン人としての感覚で読んでいるし,私は日本人としての感覚で読むので,見方が違うので,本当に同じ絵を見たり,同じ文章を読んでも,全然物の見方や発見の仕方が違うというのが本当におもしろいです。

参加者AのNと申します。
私は,日本語を教えながら,一方で長い間,地域の子供たちに絵本の読み聞かせの活動をしてきているんですけれども,そういう意味で,絵本というものが非常に力を持つというのはかねがね私も感じていました。
今日のお話を聞いて,随分共感いたしましたんですが,たった一つ気になりますのは,もちろん年齢にもよると思うんですが,子供にとっての絵本の持つ意味というのは,言語技術の問題だけではないと思うんです。

三森はい,そうです。

参加者それ以前の問題として,子供は絵本から非常に深いいろいろな感じ,冒険だとか友情とかいろんな意味での情緒的な体験をする。そういうところはちょっとそっとしておいてあげたいという部分もあるんです。ですから,読み聞かせがいい,日本語教育に役に立つからといって,読み聞かせをして,すべて子供にその分析的に,あるいは読み手がここから何を読む,どうと感想を全部聞くような読み聞かせに全部偏るのではなくて,ある部分はというか,かなり大きな部分は,特に年少者のうんと小さい年齢の場合は読んで,絵がしっかり物語を語りますから,子供なりに味わう,熟成させてあげるという部分は残しておいてあげたいなというふうな気持ちでお伺いいたしました。

三森それはよく言われます。ですけど,それは欧米人は言わないです,逆に。というのは,私は家に1,000冊近く絵本を持っていますし,本当に毎日20冊,3人の子供たちに読むということを8年ぐらいやっていました。子供たちに読み聞かせをしていて,静かに聞くというのを余り子供は喜びません。だから,どちらかというと,「どうしてこうなっているの,これ?」などと質問するのが当たり前なのです。それが,静かに聞きなさいというのが日本の読み聞かせの環境です。どんどん発問させて,読み聞かせに参加しましょうというのがどちらかというと欧米の読み聞かせの方法です。ここでいつも対立します。そして,その質問は本当によく言われます。
“言語技術”というのはこの訳が悪いのです。実は。“ランゲージアーツ(Language Arts)”というと,アートはやっぱり芸術です。だから,こっちからとらえていただくと,ちょっと意味が変わると思います。言葉の芸術であり教養であり技術なのです。ですから,いろいろ質問したからといって,子供が必ず論理的に思考するかといえば,そんなことはないのです。色々な発問を子供に自由に言わせながら,こっちも何気なく質問します。そうすると,子供が気づかなかった冒険にも気づくこともありますし,色々なものが見えてくるんですよ。
クリティカルリーディングの話を持ち出すと,国語の先生たちに一番反論されるのが,子供の情緒を育てないという点です。論理的になり過ぎて,子供の感情が育たないんじゃないか,これもよく聞かれます。でも私は必ず反論します。では,そういうふうな環境で育ってきた,例えば欧米人は,日本人に比べて感受性が劣っているんですかと聞いています。で,私は違うと思います。私の子供たちもずっとこういうふうに育てていますが,彼らはやはり,逆にポケットがいろいろあるのです。ずっと色々なことを質問したり,考えたりしながらきているので。分析というのは,言い方がかたいので引っかかるかもしれない。それは言葉の,訳語のせいだと思いますが。何かを見ると誰でも頭というのは自動的に動くものです。何かを見たら。物というのは心で感じているわけじゃないですね,頭が感じているわけです。頭は何を見ても動くものなのです。それを分析的に物を考えるという過程を経て育った子は,映画を見ても物の意味をきちんと読み取れるのです。
おもしろいことに。ですから,これは例えばフランス映画とアメリカ映画,ハリウッドの映画を比べると分かると思うのですが,フランス映画は分析しないと読めないですね。あれは本当に何言っているか分からない。スウェーデンとかの北欧の映画もそうです。観念的で。イタリア映画も分からないです。ドイツ映画も難しいんです。アメリカは分かりやすいです。アメリカはクリティカルリーディングを実は一番やっていないのです。だから,分かりやすい。
ヨーロッパはさんざん分析をする文化になっていますので,見る人たち,読む人たち,聞く人たちが非常に分析力が高いわけです。そうすると,ああいう映画をつくって,そのおもしろさをそれぞれが味わうということをちゃんと計算しているわけです。これは分析できなければただのつまらないものになってしまうのです。だから,余りフランス映画は日本で人気ないですよね,考えてみると。
つまり,決して,分析したから子供がどうなるということではなくて,その考え方の違いだと言ってしまえば違いなんですけれども,決して子供に分析的に問いかけをするから,子供の情緒が育たないということはないと思います。

参加者そうは申しませんけれども,欧米の子供たちであっても,幼少期から親から多くたくさんの絵本を読んでもらう体験を繰り返している,そういう子供たちが学校に行ってそういうクリティカルリーディングの……

三森違うんですよ。ですから,読み聞かせる段階で親がごく普通に質問したり対話をしたりする。そういうことなんです。それがクリティカルリーディングの基礎になっているわけです。ただ親の方が質問をするときに,分析の技術を親は持っているわけです。学校教育の中で。だから,その質問自体がどうしても分析的になるわけです,ただ感覚的に聞くということではなくて。だから,結局そういう質問を繰り返して育っているうちに,子供たちの中で自然に,別に分析なんて言葉は使わないですけど,自然に物を深く考えるくせがついていくと,そういうことを言っているだけです。

参加者日本で,静かに聞きなさいというのは,私もよくないと思うんですけれども,もちろん子供からの発信は受けとめるというのは原則だと思っていますので,それだけは。ありがとうございました。

三森いろんな読み聞かせがあるのは私も知っています。

参加者失礼しました。

三森いいえ。

参加者ボランティアをしていますTといいます。
例えば,小学生の2,3年生のお子さんで外国から来まして,それで日本語がゼロのお子さんに取り出しをする場合に,とりあえずそのお子さんの母語が分からない日本語指導員の場合であれば,大抵がよく言う,「ひろこさんの日本語」みたいなのでダイレクトメソッドでああいうテキストとか文科省の方で出した「日本語で学ぼう」とかというテキストを持っていって,例えば最初のページが「こんにちは,私は何々です」みたいな紹介と,それから教室の中の机,いすなどの物の名前から入っていって……

三森はい,それは私もやりました。

参加者…やっていくんですが,そういう一応一通りのスケジュールがあって,やりとりをしている中で,具体的に今のクリティカルリーディングを持ってこられる,持っていってやってみようかなと,その絵の分析ぐらいから,時期はいつぐらいが─時期はというか,取り出してやる…。

三森それは私も分からない。自分の経験では,大体半年ぐらいすると,何となく文法とか語彙が分かってきて,生活にもなれてきたら,ある程度の言葉,会話はできるようになりますね。そうしたら,もうそれが入ってきてもいいのではないでしょうか。初めからはそれは無理ですね。「あいうえお」が読めないとどうにもならないですし,「こんにちは,さようなら」ぐらい分からなければどうにもならないので。早い子で3か月ぐらいですか,私でも3,4か月で大体何となく分かってきたので,その時点だったらこれぐらい簡単なものからであれば入ってきても対応できるんじゃないか。何しろ楽しめないと,勉強は楽しくないと進まないですね。だから,ずっと「あいうえお,かきくけこ」で,さあ,漢字を思い出せ,これは無理ですね。そこに,例えば1枚の絵を分析するというようなことを入れてあげれば,何となく子供らしさを発揮しながら覚えることができるんじゃないでしょうか。先生より発見があったというのは,これは子供にとってはすごく重要なことなので,特に外国に来た子供にとっては。だから,先生より僕の方が見つけられたと,これをやっぱり認めてあげると,もっと勉強しようかなという気につながっていきますね。そこが重要かなと思います。子供の方が絶対絵は読めますから。

参加者もう1点,昨日のところでは,学習言語というのを結構強く強調されて,ボランティアであっても,その子の将来性を見きわめながら何かやっていくようなことをパネルディスカッションの中で多くのパネラーの方々が語っていて,それを聞いている我々は,では,そうすると,教科語彙をどうしたらいいのかとかというふうな感覚に走ってしまいがちなんですが,今日のお話を聞いて,やっぱり子供の持っている感性とか子供が持っている考えとか意見を丁寧に聞いてあげるということの大切さを改めて自覚できたので,今日伺ってよかったなと思いました。ありがとうございました。

三森では,このあたりでよろしいですか。
では,以上で終わりにいたします。
ありがとうございました。(拍手)


「おやすみ,くまくん」
「手の中のすずめ」


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