日本語教育研究協議会 第1分科会

日本語教育研究協議会
第1分科会 「異文化コミュニケーション学の日本語学習支援への活用」
松田陽子(兵庫県立大学教授)
当日配布資料 (379KB)

松田第1分科会を担当させていただきます兵庫県立大学の松田陽子と申します。よろしくお願いいたします。実は,異文化コミュニケーション学ということで,大抵,インタラクティブ*1にやるということに私は慣れておりまして,こういうホールでやるということをちょっと想定しておりませんで,ちょっと度肝を抜かれているんですが,皆さん,御協力のほどよろしくお願いいたします。
大変時間が短い中で,かなりいろいろなことを考えておりますので,私,もともと早口なんですが,ひょっとして時間に焦り始めるともっと早口になるかもしれませんが,早過ぎるときはぜひそのように言ってください。
それで,今日は午前中からずっと異文化コミュニケーションということで日本語教育について考えるという非常にユニークな会だなと思っております。というのは10数年前まで,日本語教育の分野で異文化コミュニケーションのことを扱うということはちょっと考えられなかったということで,それがメインのテーマになって,一日日本語教育について異文化コミュニケーションの視点から考えるという企画というのは,非常に新しいものだなと思って,私としては大変何かいい展開ではないかとうれしく思っております。
それで今日は,異文化コミュニケーションについて皆さんがどの程度御関心があって,どの程度御自身の知識があってということがよくわかりませんでしたので,とりあえず,全体の紹介をして,いろんな実際のアクティビティーのようなものも含めまして1時間半強ぐらいですが,やっていきたいと思います。
日本語学習支援への活用ということで,日本語を学習していらっしゃるいろいろな人たちにとっての異文化コミュニケーションということ,それから日本語学習を実際に支援していらっしゃる,また,日本語を教えていらっしゃる方にとっての異文化コミュニケーションということの両方の意味が含まれるわけですが,理屈の前にまずやってみようというのが私の主義でして,皆さんに二人ずつペアになっていただいて,コミュニケーションをやっていただきます。
どなたでも結構ですので,とりあえず,お二人ペアになっていただけるでしょうか。もしお隣にだれもいらっしゃらない場合は,後ろを振り向いていただいても結構ですし,お二人というのが無理でしたら3人でやっていただいても結構です。ちょっといすが動きませんので,二人ずつの方がいいと思います。
もし相手が見つからないという方がいらっしゃいましたら,ちょっとお手をお挙げください。よろしいでしょうか。じゃ,これで一応全部,お二人になりましたでしょうか。久保田先生がちょっとペアづくりお手伝いくださっていますので,よろしくお願いいたします。普通,こういう状況に皆さん,出くわしたことがないので,戸惑われるかもしれませんが,いろいろと今日は新しい体験をしてください。
まず,お二人で何をしていただくかといいますと,非常に単純なことで,これから30秒間,お隣にいらっしゃる方にお話ししていただくわけですが,まず,自分で,私はだれであるということをちょっと想像してください。私はどういう人であるか,何をしている人で,どこに住んでいる人で,どんな人に教えているとか何でも結構です。体験でも過去のことでも親のことでも。そして,10項目ぐらいとりあえずぱっぱっぱっと頭の中に浮かんだことをちょっとメモしておいていただきまして,後で2分ずつお話しいただきます。
スタンバイよろしいでしょうか。それでは,お一人2分ずつ話していただきます。目標は何かというと,お二人でお互いにどんな共通点があるかということを見つけるということなんです。ですから,次々といろんなことをたくさん話していただきまして,相手の方は,ぼけと突っ込みでも何でも結構です。とりあえず,自分が同じだったら「私もです」とか「違いますね」とかいろいろとお互いに情報交換してください。
最初,一人の方が主になっていただきまして2分間話していただきます。2分間たちましたら,私の方で「時間ですよ」ということをお知らせいたします。これは,オーストラリアのアボリジニの人たちが使うリズム・スティックで,大平原で使う楽器です。ちょっとホールの中でどんな音がするかわかりませんが,これでお知らせいたします。(音を出す)これで交代してください。今度はもう一人の方が主になって自分のことをお話しいただきます。制限時間2分ですので,できるだけたくさんお話しください。はい,それでは,用意,スタート。

*1 インタラクティブ (interactive)相互に作用するさま。双方向。


<関係づくりのエクササイズ>

松田(音を出す)はい。だんだんと声のトーンが上がって,佳境に入ってきたころかなと思ったんですが,すみません,ちょっと時間が限定されておりまして,また続きをやりたい方はぜひ,このセッションが終わりましてからやってください。
こういうふうに,4分間ですがコミュニケーションしていただきました。どういったことを感じたかというのをお話いただけますでしょうか。マイクを持った方が行ってくださいますので,何かちょっと感想を述べてみたいと思われる方,いらっしゃいますか。よろしかったらお願いします。
参加者最初にどちらかが主になってどちらかが従になって2分間とおっしゃったんですが,実際の会話のやりとりをやっていると,どこかで突っ込みやら主導権をとって,その主導権のキャッチボールというのが行われるというのが普通の会話じゃないかと。なので,非常にやりづらかったです。
参加者意外と2分が長いなと感じました。
松田そうですか。じゃ,そちらの方,いかがですか。
参加者最初の方がおっしゃったように,2分は長かったので,ちょっと間を置いて話したけれども,私は後の方だったので,前半の方が紹介されたことを聞きながら次の自分の足りないところを主に話したので,やりやすかったという気がしました。
松田何かお二人で話されて共通点が見つかりましたでしょうか。

はい,見つかりました。これは,ちょっと秘密で,言えないのですが。

松田そうですか。とてもいい,何か内緒にしたいようないいことが共通点として見つかったということですね。
これは,実を言いますと,特に何か見つけないといけないとわけではないんですが,お二人片方ずつ話してくださいと言いましたが,絶対そうしなくちゃいけないというわけではなくて,突っ込みを入れて話してくださいと言ったんですが,皆さん,先生方ですので,とてもきっちりと守っていただいたようです。
とりあえず,お互いの情報の中で,コミュニケーションというのは何かということを考えていただく上で,さっき一番最初に言っていただいたように,確かにコミュニケーションというのは一方の人がしゃべるんではなくて,必ずお互いに聞いたり話したりするということですよね。ですから,片方だけしゃべるとすごくつらいというのがまさにコミュニケーションですよね。そして,いろいろと間がもたない。間がもたないのはなぜか。多分,すぐにコミュニケーションで相手との共通点が見つかれば,その話で盛り上がるんですが,何か,ただ「ああそうですか,そうですか」と聞いているだけではなかなか間がもたないということがあるのかなと思いました。
これでお隣の方とちょっとお知り合いになれたかなと思いますが,それが目的ではないんですが,こういうふうにちょっとお互いにお話をしていただいて,アイス・ブレイキング(氷を溶かす)と言うのですが,これからいろいろと異文化コミュニケーションのお話をしていく中で,リラックスして聞いていただく。または,一方的に聞くだけではなく,一緒に何か考えながら,皆さんも参加しながら一緒に考えていっていただきたいというのが目的です。こういうのは参加型学習と言われますが,参加型学習ということで,一緒に考えていくということがこのセッションの目的です。その中で,まず,参加者同士の関係をつくっていただくということでやっていただきました。
先ほどオーストラリアの楽器を紹介しましたが,これも,いろんなコミュニティづくりに使われる,皆が共に歌って踊ってというコミュニティの中で使われる楽器です。今日は,このような参加型学習を踏まえて,これから1時間ほど考えていきたいと思います。それで,次に,私自身ですが,私も日本語教育にかかわっておりますが,その中で,かなりずっと昔から異文化コミュニケーションということに興味を持つようになりました。というのは,以前,留学生のアドバイザーの仕事もしまして,毎日の生活の中が異文化コミュニケーションになったわけで,多分,皆さんもずっと長く教えていらっしゃる方とか,いろんな御経験の中で異文化コミュニケーションをずっと体験してきていらっしゃると思います。また,これからしようと思っていらっしゃる方もおられるかもしれません。日本語教育という分野の中で,やはり日本語を学ぶということの意味は何かということをここで,もう一回考え直したいと思うわけです。
「なぜ日本語を学ぶのか」というのを次に書いておりますが,「なぜ日本語を教えるのか」ではないんですね。私も実は,最初は日本語を教えたいと思ったんです。おもしろいから教えたいという気持ちで始めました。でも,よくよく考えてみると,教えたいと思っているけど,学びたい方は何を学びたいと思っているのかということを余り考えていなかったんですね。だんだんといろいろ考えていきますと,実は,学びたいと思っている人のニーズとか欲求とか,それからモチベーションとか,そして置かれている環境とかはいろいろ異なるわけですね。
この間もそういうお話をしていましたら,ある人が,次のようなお話をされました。中国帰国者の方の子女を教えている,この人は仕事をしているわけですが,職場では自分は簡単な仕事をしているので日本語は特に使わない。ある程度少し話せるんで大丈夫だけど,私は日本語を勉強したい。なぜかというと,周りの日本人と一緒に輪の中に入っていきたい。だが,輪の中に入れないんだということなんですね。「私にとって,やはり日本で生きていくためには,周りの人の輪の中に入っていきたい」ということで日本語を学びたいと言うんですね。そういう人が日本語を学ぶ動機づけというものと,大学の留学生が勉強するために学びたい日本語というのは随分違いますし,そして教師の方も,やはりそれを考えなくてはいけないということだと思います。
今日のテーマとしては,日本の社会の中で生活しながら生きていくために日本語を学びたいという人たち,そういう場面を主として考えながらお話していきたいと思います。
教師と学習者というのは,異文化コミュニケーションなわけですね。私も毎日やっていますが,教師と学習者というのは,まず文化が違う。いろんな背景の人が来ている。そして,もちろん教師,学生という文化も違うわけですね。教師という文化と学生という文化は違いますよね。その中で,いつも異文化コミュニケーションしているわけで,まず,そこの異文化コミュニケーションについて考えないといけない。
もう一つは,学習者というのは地域社会の中で生活しているわけですから,その中でいろんな関係をつくっていかなければならない。いろいろ自分の力を発揮していかなければならない。毎日異文化コミュニケーションの中で暮らしていくわけですね。だから,その中で学習者の力をつけていかないといけない。そこで,学習者のエンパワーメント*1をしていかないといけないという側面と両方あると思うんです。
それから,もう一つは,日本語学習の内容そのものですね。日本語を実際に皆さんが教えていらっしゃる中で,本当にこの教えていることが異文化コミュニケーションに役に立つのか。彼らが学んでいることが本当にほかの人たちと話していく上で,必ずしも日本人とは限らない,いろんな国の人と日本語で話をするわけですが,一緒に多文化の中で生きていくために何が必要なのかということも考えながら日本語学習を支援していかなければならないと思うわけです。そういうことを頭に置いてお話させていただきたいと思います。
今,「異文化コミュニケーション学」とここに書きましたが,こういうタイトルをいただいたわけですが,実はこのようなタイトルをいただいたのは初めてで,まだ学問として広く認知された分野ではなくて,異文化コミュニケーション論という形でよく使いますし,大学で教えるときもそういうふうな授業をしているんですが,だんだんと学問として確立されつつあるということで,最近出た社会言語科学の本*2の中の井出祥子*3先生も「異文化コミュニケーション学」という言葉を使っていらっしゃいましたので,もう喜んで使わせていただきます。異文化コミュニケーション学というのはどういうものかということですが,要するに,簡単に言えば,異文化を背景とする人の間のコミュニケーションの研究なんですが,それは人と人であったり,集団と集団であったり,または国と国との間のコミュニケーションであったり,いろんなレベルのものがあるわけですが,非常に学際的な学問です。
もともと,心理学の方からスタートをした分野で,アメリカで広まった学問なんですが,何でカルチャーショックを受けるんだろう,何で海外青年協力隊のような人たちが,海外に行って一生懸命熱意を持って活動しているのに途中で挫折してしまうのだろうとか,現地の人とうまくいかないとか,企業の人が海外に派遣されて,インドに行ったら全然うまくいかなくてノイローゼになって帰ってきてしまうとか,留学生の人も一生懸命勉強はできても何か別のところで挫折してしまうとか,そういう問題がいろいろある。なぜなんだろうというのを考えるところからスタートしてきた学問と言えます。そこに文化人類学の方々などからもいろんな知見が入ってきまして,文化人類学,社会学,言語学,教育学,行動科学,それから,コミュニケーション学,もちろん哲学とか宗教も入ります。そして,最近は経営学の分野で非常に盛んです。ビジネスコンサルタントとして異文化コミュニケーションのトレーニングをやる人たちもたくさんいます。企業の人たちが商売をするのにも,多国籍企業だったり,国際的に活動していくと,例えば日本から中国に進出していった企業が現地の人とうまくいかない,どうやったらうまくいくかというふうなことを考えるというようなことで,分野としても成長しつつあります。歴史学やメディア学など,いろんな分野がかかわっているということです。
一番基本としては,やはり異文化コミュニケーションというのは人と人とのインタラクション*4のところに焦点を置くということなんですね。ですから,比較文化と違うところは,比較文化というのは,例えば日本の文化はこうで,韓国の文化はこうで,ここが違うという,こういうのが比較文化なわけですが,異文化コミュニケーションでは,違う文化の人が一緒に何か仕事をすると何か起きるとかということを考えるという分野です。そして,先ほど言いましたように,まず,問題意識から出発した学問ですので,非常に実践的に現実の問題の解決について考える分野という学問の特性もあります。ですから,何か問題を解決していくとか,解決できなくても,これからどうしたらもっと良くなるかということを考えていく分野です。
どうしても異文化コミュニケーションというと,国単位で,日本と中国とかアメリカとかドイツとかというふうに考えがちですけれども,必ずしもそればかりではなくて,いろんな集団間のレベルのことを考えます。ですから,先ほども言いましたように,例えば先生と学生というのも文化の違い。男女という文化,つまり,男の文化,女の文化というのは非常に違うと言われてますが,そういうふうなことも。そして最近,高齢者と若年層のコミュニケーションというのがなかなか難しくなってきていますが,そういうことを考えたりとか,健常者と障害者であったり,いろんな分野のことを考える分野として非常に広がってきている分野です。
もう一つの特徴というのは,普通,学問というのは認知的に,頭の中で知識として考えることがほとんどですが,情意の部分,感情の部分,気持ちの部分,こういう側面も大事に考える。それからもう一つは,実際に行動が変わらなければならないわけですから,その行動するというところまで変容していく,または,人々の行動に影響を与えていく,そういうところまで考えようとする分野ということが言えると思います。そういうのが異文化コミュニケーション学というものの特徴であると思います。
そして,今朝からたくさん,文化やコミュニケーションの話が出てきましたので,もうかなりはしょっていいかなと思っていますが,文化というのは何かというのはすごく難しい話で,定義をすれば何百もできるというもので,なかなか実は定義は難しい。よく学生に「文化とは何ですか。何でも思いついたことを言いなさい。」と言うと,100人で100ぐらいすぐ出てきますね。箸も文化だし,着物も文化だし,建物も文化だし,住居もそうだし,習慣,言語,宗教,とにかくいろんなものが出てきますね。文化勲章というときの「文化」,この「文化」はまたちょっと意味が違う。そして,私たちが日本であいさつするときはおじぎをしますよという,これも文化ですが,全く違う意味の文化というものを表していますよね。
ですから,どこで,何を目的にして定義するかによって定義は全然変わってきますが,ここでは,異文化コミュニケーションで使われる文化の意味というので,私がよく使う定義なんですが,お手元の資料にも書いてあります「文化とは何か」というところです。ある集団,どんな集団でもいいんですが,日本だったり,ある会社であったり,どういうレベルでもいいですが,ある集団が歴史的経緯の中で,つまり,ある時間の経緯の中で,それが百年であるか千年であるか,それとも1年であるか,いろんなレベルで使えると思いますが,歴史的経緯の中で共有するようになった価値観,信念,通念,慣習,行動様式など。「など」で何でも入ってしまうんですが,特によく問題にされるのは価値観とか,何を大事と考えるのか。同じことをしていても,何が大事なのかがちょっと違う。相対的にこっちとそっちとどっちが大事かというと,こっちの方が大事だと思うとか,そういう価値観ですね。そして信念。なぜかと聞かれるとよくわからないんだけど,絶対これが正しいと思う気持ち。人というのは,今朝のお話にもありましたが,ありがとうを3回言うという文化があるとすると,なぜ3回言わないといけないかというのはそれぞれの意味があるわけですね。韓国には韓国の考え方があって,1回だけ言う,何回も言うと何かありがとうの意味が薄れてしまうというような信念もあるし,たくさん言った方がとてもいいと感じる信念もある。それがまさに文化の違いというものですね。そういうわけで,文化というのはいろんな定義ができますが,大体こういう定義を主として考えています。
いろいろな先ほどの,文化勲章といった場合とか,それから芸術ですとか音楽ですとか,そういうふうなものというのは,一般的に高等文化というような位置付けができるかと思います。もちろん,だれでもがやるものではない,一部の人がある国の伝統の中で技術を伝達しながら,技能を伝達しながらどんどんそれを精巧なものにしていくと。そういう部分の分野の高等文化と言われるもの。それから,おじぎをするだとか,それから,ちょっと遠慮しながら話をするとか,そういうふうなのは一般文化というような形で,まず,英語で言うときは,大文字のCと小文字のcのカルチャーの違いだというふうな説明をすることもあるんですが,日本語でわかりやすく言えば,高等文化と一般文化というふうに区別されることがよくあります。異文化コミュニケーションでは,もちろん,一般文化というところが主題になるということですね。
では,日本文化とは何かということになりますよね。私たちは日本語教育に関係していると,常に「日本では」とか「日本文化はね」という話をよくします。これについては最近,非常によくクエスチョンマークで聞かれるんですね。本当に日本文化というものがあるんだろうかと。今の若者と私たちの世代と全然違う。私たちの世代は,年上を敬うとか,先生には敬語を使うということを一生懸命授業で教えていても,周りの日本人の学生はだれもそんなことしていない。先生に対する敬意というものは,既に過去のものになってしまったという。時々,中国の学生が,一緒に御飯を食べていて,「先生,私,一緒に先生の食器片づけます」と言って,持って行ってくれるとすごく感動するという,そういう上下の関係ですとか,こういうものはどんどん変わりつつあります。日本文化って何かと言われると,本当にわからなくなってしまう。じゃ,日本文化なんてもうないと言えるのかというと,今朝の議論の中でもいろいろ,日本ではこう,韓国ではこう,アメリカ人では,イギリスでは,とかいう話もありましたが,やはり何かコアになるもの,何か日本人が共有の価値観として持っていて,そこから逸脱すると,一般的にはあの人はあんなことをしているなどと否定的にとらえられることがある。例えば学生が先生に,「先生,私はそう思いません」とはっきり反対意見を言うと,先生が気を悪くして,次から先生は私にレジュメをくれなかったと言いに来たブラジルの学生がいましたけど,そういうふうに,確かに何かあるんですね。ないようだけどやっぱりあるんですね。やはり,ある一定のところから逸脱すると,何かやっぱり違うとか,ネガティブに評価されるということがありますよね。
では,例えば,日本人がみんな同じことについて同じように行動しているかというと,全然そんなことはないわけで,例えば日本語の教科書で,日本人ははっきり文句を言わないとよく書いてありますよね。2階の人がピアノがうるさかったら,「毎日よく練習していらっしゃいますね。お上手ですね」と言うと,相手の人が「すみません。うるさいですか」と言って苦情が理解されるかというと,実はなかなかそういうふうにはならなくて,やっぱりはっきり言わないとわからない。でも,私はとても言えないですが,私の夫は,2階の子供がどんどんはね回ってうるさいと,すぐ直接言いに行ったんですね。「すみません。静かにしてもらえませんか」って言う。私の方は真っ青になって,もう近所付き合いをどうするのかという感じで青くなるんですが,こういうふうに非常にはっきり言う人もいるということです。ですから,日本人,日本文化と言ってもいろいろであるわけですね。
ところが,彼も,いつも,はっきり言ってるかというと,職場の人とたまたま話をしているのを聞くと,非常に遠回しにしゃべっていて,何が言いたいのかほとんど私には理解できなかったという経験がありまして,「よくあんなに遠回しにしゃべれるね」と言ったら,「それは仕事だから」と言うんですね。そういうこともありまして,人によっても場面によっても全然違うということですね。
統計上の分布の型を表すのに使われるベル・カーブ*5という言葉がありますが,たくさんの人,例えば千人の人の統計をとると,「じゃ,あなたはこういうとき何と言いますか。はっきり上の人にうるさいと言いに行きますか,言いにいきませんか」という統計をとるとします。例えば10人の人なら10人ともかなり違いがあって,ばらばらかもしれないけど,たくさんの人の統計をとると,こういうふうな,何か標準的なパターンが出てきて,こんなつりがねのような分布の形になる。つまり,大部分の人はこの中央の高い山の辺りに入るということですかね。大部分の人は,何となくはっきりは余り言いたくないからちょっと遠回しに言うというような答えです。それから,ものすごく遠回しに言う人。「お上手ですね。」「お子さん,元気でいいですね」とかと言うような人もいらっしゃる。中には,極端に「私は絶対はっきり言います」という人もいますよね。ですから,日本人の中にもこういうバリエーションがあるわけですが,たくさんの人の統計をとると,この辺が大体の標準の中に入ってしまうということです。そして,ここから逸脱すると「あの人ははっきり言う人だね」と周りから言われる。この間も学生に聞いていましたら,「僕だったら必ずはっきり言います。そのかわり,僕はいつも友達から『おまえ,はっきり言うな』と言われている」と言っていました。だから,そういう一つの特徴ある行動というのにとらえられるということですね。
これが一つのパターンとしますね。じゃ,中国の人はどうかというと,やはりこれも同じように,ちょっとシフトが違う。もう少しはっきり言う人が多くなるということで,このようになるわけですね。そうすると,ここら辺の中央から少しずれた辺りの人は日本人と重なっているわけで,日本人の平均的な人と同じように行動する。でも,大部分の人はこの辺の中央値になるということです。どうもこの山の中心が日本と中国ではちょっと違うというぐらいの違いがあるのではないかということです。
そういう一つの文化の違いというものをお話するときに,必ずいろんなパターンの人がいて,標準的な人もいればそうでない人もいる。標準と言っていいのかどうかわかりませんが,社会的に普通の人からすればその行為が肯定的に考えられるという意味ですね。当然,これは場面によって,相手によっていろいろ違うということも,頭の中に入れておかなければならないわけです。だから,日本文化ということを考えるとき,そういうことを念頭に置いて考えなくではいけない。
ただ,もう一つは,さっきも言いましたように,若者と私たちとも全然違うということですね。最近,若者文化というのはほとんどわからないので,一度,学生に,「先生を学習者にして若者文化について講義しなさい」と言ってるんですが,もうついていけない。それぐらい速いスピートで文化が変わっていっている。文化というのは,変わるわけですよね。江戸時代の日本と今とは全然違う。戦前と戦後も違う。どこの国でも時代によって文化というのは変わっていきますので,変わらないとは言えないわけですよね。
じゃ,全部変わるのか,すっかり変わるのか,全部ごろっと変わってしまうのかというと,例えば日本の家庭,住居ですね。もうみんな最近,西洋化した家に住んでいらっしゃる方が多いと思いますが,絶対変わらない部分というのはありますよね。100年前,200年前,まだ変わらない。何でしょうか。日本住居,文化で全然変わらないもの。いかがですか,何か思いつかれますか。思いつきませんか。畳もまだありますよね。ただ,もうだんだん減ってきてますね。もう1軒に一間ぐらいしかないかもしれない。多分,ほとんどの家で変わっていないもの。いかがでしょう。

*1 エンパワーメント (empowerment)力をつけること。
*2 『講座社会言語科学―異文化とコミュニケーション』第1巻井出祥子・平賀正子編,ひつじ書房,2005年
*3 井出祥子 (sympathy)社会言語学者。日本女子大学教授。
*4 インタラクション (interaction)相互作用。
*5 ベル・カーブ (interaction)釣鐘型曲線。

参加者ふすま。
松田ふすまも和室がなければ,無い家もあるのではないでしょうか。

参加者靴を脱ぐ。
松田そうですよね。自宅で靴を脱がないで暮らしていらっしゃる方,いらっしゃいますか。これ,いないですよね。日本中どこへ行っても,家の中は絶対にみんな靴を脱ぐ。恐らく,これは少なくともあと何十年かは変わらないだろうと思います。靴と,多分,お風呂でしょうね。お風呂も変わらない。みんな日本のお風呂が大好きということで,多分,お風呂も変わらない。トイレは変わりましたけどね。今朝の話でもあったウォシュレットのような新しい文化もできました。
そういう意味で,日本文化というと非常に変わっていくということですね。ですから,価値観も変わっていく,行動パターンも変わっていく。日本語でのコミュニケーション・パターンも変わっていくということですね。ただ,それが完全に100%,全然違うものになっていくかというと,やっぱりそうではなくて,何かコアになっていくものはあるのではないかということです。
もちろん,異文化コミュニケーションですから,実は,コミュニケーションとは何かというのを考えないといけないんですが,これも,朝から幾つかお話が出てますので,簡単にいきたいと思いますが,要するに,言葉でコミュニケーションを私たちはしていますね。さっき,4分間話していただきましたが,ここでコミュニケーションをすることで,隣にいた人はお互いに今まで全く知らなかったけれども,この人は何をしている人で,どこにいる人かという情報を皆さん,得られたと思うんですね。まず,ここで情報を得るというコミュニケーションをしていますね。そして,その中で,この人はどんな人かなということも何か感じられたんじゃないかと思います。よくお話をする人だなとかおもしろい人だなとか,ちょっと怖そうな人だなとか,いろいろ思われたと思いますが,それは多分,何を話されたかという内容だけではなくて,多分,周辺言語ですね。今朝,久保田先生もおっしゃってましたが,いろんな声のトーンですとか,笑顔ですとか,話し方とか,「はあ,そうですかあ」と言う人と「あ,そうですか」と言う人とでは,全然伝えていることが違いますから,そこもコミュニケーションの中で大きな意味を占めてくる。このあたりは非常に文化によっても違うので,意味だけだったら余り誤解は生じないんですが,言葉の意味以外のところからいろいろな情報が入ってくるので,コミュニケーションというのは誤解が生じやすくなるわけですね。つまり,非言語コミュニケーションの部分ですね,ノンバーバル*1なコミュニケーションでいろんなことを伝えている。ある学者は対人態度については約90%はノンバーバルでコミュニケーションしているんだという人がいるぐらい,非常に多くのものを伝えているということですね。
この話は学生は大好きなんですが,これをやってると本当に時間がかかりますので,飛ばしますが,いろんな側面があるということですね。非常にたくさんの誤解が生じやすい部分です。
そこで,じゃ,ある人と方言で話すのか,「です・ます」で話すのか,敬語を使って「行かれますか」とか,どういう言葉を使うかによって,当然,相手との関係構築を常にやっていくということなんですね。
先ほど言いましたが,情報伝達というのは,Aというメッセージを相手の人にAとして伝えようとするのですが,多分,今,4分間話されてかなりの情報交換されたんではないかと思います。その部分が100%伝わったかというと,恐らく,あと10分たってもう一度「私が何を話したか覚えてますか」と言うと,多分,3割ぐらいしか残ってないかもしれませんが,消えていく部分がたくさんあると思います。でも,それ以外に,関係構築ということをやっている。ですから,どういうお話をしたか,どういう内容を話したか,どういうふうに話したかによって,そこで,じゃ,もっと話したいという気持ちになったか,もういいやと思ってるかですね,またはいろんな,そのときそのときに二人の間にいろんなインタラクションが起きているわけですね。
ふだんの生活でも毎日私たちが,例えばあいさつするかしないかだけでその人との関係が良くなるか壊れるかということが起きる。気が付かなかったから通り過ぎてしまった。今日はあいさつしなかった。そしたら,相手の人は「あの人は私のことを嫌いなんじゃないか。あの人は私に冷たいな」というふうに思ったかもしれない。単に気が付かなかっただけなんですが,そこで関係が壊れてしまう。その人は,次のときに会ったときには,あなたを見て「あの人は私に,前,あいさつしなかった。きっと私のことを覚えていないんだ」と思ってあいさつをしなければ,また,あなたも「あっ,Aさん,あいさつしてくれなかったから,もうあの人は私と話したくないのかな」と思って,二人の間はそれきりになってしまうということが起こります。こういうのは単純な例ですが,そういうふうに,私たちの毎日のコミュニケーションというのは,常に関係を維持したり構築したりつぶしたりで,一言で相手を傷つけて,もうそれですべてがなくなってしまう場合もあれば,たった一言でお互いの気持ちもぐっとつなぎ合わされるということは皆さんもよく経験していらっしゃると思うんですね。
コミュニケーションの話ももうこれだけで1年間講義ができるぐらいの大きな分野ですが,それぐらいにしておきまして,次に,異文化コミュニケーションということですから,文化というのは違うということを前提にしているわけですね。文化の差異というのは何だろうか。それを考えるときに,もちろん,文化というのはどうして違うんだろう。どうしてある地域の人はこういうふうに行動する,ある地域の人はこういうふうに行動するというふうになるのだろうかということで,これは,いろんなマクロの要因がありまして,ここにちょっと挙げましたけれど,自然環境,社会構造,近代化,都市化などなど。もちろん,もっともっとミクロのことでたくさんあるわけですが,それも考えて話しているときりがありません。
次にいきますが,文化の話をするとき,こういう氷山モデルというのが使われるんですね。このモデルの扱い方もいろいろです。多分,皆さんよくご存じだろうと思いますが,文化というのは,実は氷山と似ています。氷山というのは,ここ海面なんですが,この海面の上にちょっとしか見えていない。8割から9割は海面の下にあると言われていますよね。そのモデルを使って文化の話をするわけですが,例えばA文化とB文化というのがあるとしますね。これは私がよく使うモデルで,ほかの人がこういう使い方をしているのかどうかはわかりませんが,まず,表面的に見えている部分ですね。ここが海面としますと,実際に私たちがA文化として見えている部分というのはこの海面の上のちょっとした部分です。Bの文化も,この海面上の部分が見えているということです。共通の部分もあるし違うところもあるということで,本当は共通の部分はもっと大きいんですけどね。この海の下,つまり,見えない部分というのが非常に大きいわけで,ではこの見えない部分というのは,実は,よくよくもっと底の方までたどってみれば,ここに「普遍的」と書いてあります。非常に普遍的な部分。つまり,人間というものは,何か同じように感じる,考える部分があるということです。
今朝の話で言いますと,例えば,「ありがとう」というのを3回言うか,1回しか言わないか。日本人は「すみません」ばかり言うと。何度も何度も「すみません」と言うので,ある留学生が,初めて聞いたときには日本人てとても卑屈な人たちだと思ったというんですが,何でそんなに謝らなきゃいけないのかわからないと言うんですね。じゃ,そういう違いがあるとしても,「ありがとう」と言いたい気持ちや「すみません」と言いたい気持ちというのは,やはり相手に対する思いやりであったり感謝でもあったり,それから申しわけないなと思ったりすることがあり,でも,お互いにいい関係を持っていたいという気持ちは変わらない。ただ,それをどう表現するか,どこに価値を置くかで違うということで,それが氷山モデルで言えばここら辺にいろんな海流が流れていまして,例えば環境だったり社会の状況だったり,島国だったり,人間がどんどん移動するかしないかだったり,同じところにじっといる人たちとしょっちゅう移動していくんでは随分文化が変わってくる。いろんな要因があってここが変わってきて,表面に出てくる部分がちょっと違って見えると考えられます。
ですから,異文化コミュニケーションについて大学でも講義しますと,だんだん学生が「先生,異文化コミュニケーション難しいから,私にはできないかもしれません」って言い始める学生がいて,「いやいや,そうじゃないんですよ。実は,みんなここ(人間として普遍的な部分)は同じなんだからね」と説明します。じゃ,皆同じと思えばいいんですかというと,やっぱりちょっと違いがある。その違いをよく理解した上で,何が違うのか,何が同じなのかということがちゃんと理解できればうまくコミュニケーションがいくということです。
ですから,コミュニケーションできる,お互いわかりあえるという信念がなければ異文化コミュニケーションは成り立ちませんので,そういうところが異文化コミュニケーションにおける文化のとらえ方であると思います。
それで,ちょっとここでまた皆さんにエクササイズをやっていただきたいと思います。実は,異文化コミュニケーションでは「エクササイズ」という言葉を使わないで,「アクティビティー」と言ったり,「シミュレーション」と言ったり,「ゲーム」と言ったり,いろいろ違う言葉を使うのですが,皆さん,先生方ばかりですので,エクササイズという言葉の方がなじみがあるかなと思って使っています。ここで,先ほどのペアの方とお二人でちょっとやっていただきます。これからやることは,α文化とβ文化という形でちょっと経験をしていただきます。これから紙を配りますので,ペアの方,一人の方はブルーの紙をとってください。一人の方は黄色の紙をとってください。必ず二人のペアの方が違う色の紙をとってください。片方はα文化と書いてあります。片方はβ文化と書いてありますので,よく読んでください。お隣の方には見せないでください。とりあえず,二人の方は異文化の人となるということで,ちょっと体験してみてください。ちょっと人が入れかわったかもしれませんが,先ほどの方,お隣にいらっしゃいますか。じゃ,お二人でちょっとやってみてください。今度は,3分間,自由にお話ください。ちょっとまたあとで「時間です」と言いますので。紙,渡りましたでしょうか。お隣の方とは必ず違う色の紙を持った人とやってください。これはあくまでもゲームですので,そのどこかの人になりきってください。大丈夫ですか。じゃ,ちょっと15秒ぐらいで読んで頭の中に入れていただけますか。
よろしいでしょうか。では,今度は3分たったらまた合図をしますので,3分間,お二人でお話しください。では,スタンバイよろしいですか。スタート。

*1 ノンバーバル (nonverbal)非言語。(ノンバーバル・コミュニケーション:言葉や文字によらないで表情・動作・姿勢・音調・接触などによって行われるコミュニケーション。)


α文化―α文化の人は,非常に親しみやすく,初めてあった人にも,よく話しかける
β文化―β文化の人は,礼儀を重んじる人たちで,初めて会った人とは,あまり,積極的に話しをしない
(エクササイズ:α文化とβ文化)

松田はい,以上です。3分間,長かったでしょうか。アイスがかなり溶けてきて,かなりいろいろと笑顔とか笑い声が聞こえてくるようになりまして,大分お話が盛り上がっていたように見受けられましたが,いかがだったでしょうか。
α文化とβ文化,違う文化だったんですが,ちょっと感想をお聞きしたいんですね。まず,α文化をされた方,α文化をされた方はβ文化のパートナーの方についてどのように感じられたか,どなたかいかがでしょうか。
参加者多分,自分のと反対なんだろうなというのは直感的に感じたんですけれども,あまりプライベートなことを開示しないとか,一般的な話を最初にするという文化ではないかなと思いました。

松田では,話してみて,どういうふうに感じられましたか。とても話しやすいとか,ちょっと落ち着かないとか,どうでしたか。

参加者というか,それが何となく多分,そうだなと思ったので,自分もなりきれなくて難しかったです。
松田そうですか。余りα文化になりきれなかったですか。では,β文化の方,いかがでしょうか。
参加者私は,どちらかというとα文化的なので,ちょっと避けたいところがあったりするのがちょっと疲れました。β文化は自分の実態と違うので。α文化の方が親しげにお話する方ですよね。どちらかというと,そちらの方に持っていきたい。

松田じゃ,α文化の方についてはどのように感じられましたか。

参加者いい感じでしたよ。

松田いい感じでした。

参加者もっと地を出してお話したり。

松田ということは,βの方からαを見てとてもいい感じであるというふうに感じられたということですね。
参加者それはもともと私がα文化の方ですから。
松田そうですか。私の文化はいい文化であると。じゃ,もう一人,β文化の方からお話いただけますか。
参加者非常に個人的なことを伝えていくとか,今の自分のことを話してくれたと感じられました。
松田いろんなことを話してくれたということですね,自分のこととかね。そうすると,それに対してどういうふうに感じられましたか。

参加者いい感じのところもありますし,こう何でしょうか…。
松田お隣の方に気を遣わないように,あくまでゲームですから,本当のキャラクターではありませんので。
参加者ちょっと自分の方にものすごく入り込まれている状態に追い込まれていく感じがしました。
松田入り込まれて。私のプライバシーの中に何か入り込み過ぎてくる文化だなと感じたということですね。はい,では,もう一人,α文化の方,お話していただけますか。

参加者最初にこの黄色い紙が来たときに,多分,反対なんだなというのはわかったので,余り返事が返ってこないと最初から考えていまして,一人でべらべらしゃべっておりました。相手の方は案の定,全然答えてくださらなくて,あいまいな笑いを浮かべてらっしゃるわけで,だから,一人でべらべらしゃべって疲れました。

松田疲れました。じゃ,そのパートナーだった方,いかがでしたでしょうか。

参加者もし初対面と仮定いたしますと,こんなこと言う人は変じゃないかと思いました。実際は友達ですので,全然なりきってやっていましたが,これが本当の初対面でそういったことまで吐露するというのはやっぱりちょっと変な人じゃないかと。
松田ああ,そうですね。何か余りにも一方的にしゃべられて,いろんなことをしゃべられるのでちょっと変じゃないかと思ったということですね。それから,もう一つ,じゃ,本当はゆっくり皆さんにいろんな感想を聞きたいんですが,ちょっと時間の関係で余りゆっくりお話を伺う時間がないので,ちょっと種明かしをいたしまして,じゃ,二つの文化はどんな文化だったかということなんですね。
まず,α文化の人というのはどんな文化かというと,この文化の人は非常に親しみやすくて,初めて出会った人でもよく話しかけます。初めての人には,自分の家族,親,兄弟,祖父母の話をするのが礼儀で,相手の家族のことも詳しく聞いて知り合うことが大切と考えられています。どこまで聞くかというのはそれぞれの文化によってもいろいろ違うと思いますが,話をするときは,身を乗り出してできるだけ相手に近づいて話すこと。それをやっていらっしゃった方は余り見受けられませんでしたが,相手のいうことに大きく首を振って相づちを打つこと,何人かはそれをしていらっしゃいましたが。それから,そういうことが相手に対して丁寧であると考えられているので,できるだけそのようにしますというのがα文化だったわけですね。非常に親しみやすい文化だというものですね。そして,いろんなことを聞くという,特に自分のこともいろいろお話するということですね。
β文化の方は,とてもつつましく,初めて会った人とは余り積極的に話をしません。特に,初めての人とは自分のプライベートなことはできるだけ話さないし,相手にも聞かないことが礼儀と考えられています。できるだけ当たり障りのない気候の話や食べ物の話などをします。何で気候の話ばかりしてるんだろうと思われたかもしれませんが,それが礼儀というか,でも皆さん,実体験はそうじゃないですか。最初のうち,知らない人と話すのは「今日はいい天気ですね」とか「涼しいですね」とかいう話ばかりしていると。話をするときはできるだけ相手と距離を置いて近付かないようにするのが丁寧であると考えられています。こういうノンバーバルコミュニケーションですね。そして話ながらあごをさすっているのが敬意をあらわすしぐさと考えられています。何人か,一生懸命こうやってらっしゃいましたが,これを見て何か思われた方,いらっしゃいましたか。いかがですか。気が付かれましたか。

参加者気が付かなかった。
松田ちょっとマイク持って行っていただけますか。気が付いた方いらっしゃいますか。
参加者何か物を考えながらしゃべっている。考えながら聞いているというか。

松田そういうジェスチャーかなと思ったというね。はい。敬意をあらわすものだとは思わなかった。ほかにコメントはないですか。
参加者ほんとの癖だと思いました。

松田それは単なる癖だろうと。こういうことをするのは,その人の癖だと思ったということですね。はい。ということで,これもいろいろやってみるといろんな答えが返ってきましたね。
もうあなたとは話したくないわという気持ちをあらわしているのかと思ったとか,何か話を変えたいと思っているというシグナルかと思った,何か自分は話題を変えたいと思っているのかなと思ったとか,ちょっとうなずいていらっしゃる方がかなりいらっしゃいますが,何かを意味しているのではないかというふうに思われた人もいらっしゃったんじゃないでしょうか。ということで,身を乗り出すとかというのもいろんな意味を持つ。当然,ごく自然にこれが自分のプライベートな距離であるというので近付いてくる人,たくさんいますよね。
昔,私もまだ留学生に慣れていなかったころ,エジプトの留学生が私のところに来て,私が座っていると,「先生,ちょっとお話があるんですが」と言って,私のいすのところにこう寄ってくるんですね。私はちょっとびっくりしてしまいまして,後ずさりをして,ちょうど私のすわっていたいすにはこまがついていたので後ろにさがったら,「先生,すみません」とかいってますます近寄ってくるんですね。私はそのいすにますますのけぞって,どんどん後ろに行っちゃったんですが,そのころ,まだそういうノンバーバルコミュニケーション,空間というものについて知らなかったので,何て怖い学生だと思ったんですね。ちょっと,怖いというか,緊張を持ってしまいました。その後,ノンバーバルコミュニケーションでは,いろんなことがありました。
こういうふうに,いろんな文化というものの,これはちょっとゲームですから極端に違うというふうに対比させてやっていますので,皆さんわかりやすかったかもしれませんが。そこで何をしているかというと,例えば,一つ一つのことに,何かいい感じだなという,そこに自分の感情,そこにある価値観をこれはいいことだというふうに感じる。または,余りしゃべらない人だったら,ああしゃべらない,つまらない人だなというふうに,そこに価値観を置いてしまうわけですね。それは,私たちが反射的にやっていることですね。常に何か話している内容ではなく,そのことに対して自分の持っている基準からいろんな判断を下すことを常にやっているわけですね。そして,入り込まれているとか,私のプライバシーにどんどん入ってくるというので,非常にそこに怖いと思ったり,不安に思ったり,または脅威を感じたり,失礼だと思ったりですね,そういういろんな感情というのを付加させていく。ですから,そこにいろんな意味を与えていってしまうわけですね。
ですから,さっきもおっしゃったように,ちょっとこういうジェスチャーをしてたら,それに何か意味があると思ってしまうわけですね。これは本当は,設定ではこれは丁寧にするしぐさだということでやっていただいたわけですが,そういうことはほとんど気が付かなかったように,考えられなかったと思いますね。ただ,そういう世界中のいろんな文化の中で,自分たちがそうしないような価値観であったり,シンボルであったり,いろんなことがあるわけです。ですから,それが文化における意味の付与の違いであり,価値観の違いであるということになるわけです。そういうことをちょっとシミュレーションとして感じていただくためにこういうエクササイズをやってみたわけです。ここが異文化コミュニケーションの非常に難しいところだと思います。
でも,当然,そこには共通性もあって,いろんなことを聞いてくれれば,この人は明るい人だなとか積極的な人だなとか思うのだけれど,それが度を越すと怖いと思ったりするわけですが,基本的にはお互いに何かコミュニケーションをしようとしている,関係をつくろうとしているわけです。今,話してくださいといったところ,お二人の一つの意図は,相手の人とコミュニケーションをしようということですね。ゲームの中でですけどね。そこのところは共通しているということになるわけです。ですから,そこのところまでを理解するということが大事かなと思います。
そして,異文化コミュニケーションとは何かというのをわざわざこういう定義を覚える必要もないですし,これはただ一つの定義で,もちろん,いろんな人のいろんな定義がありますので,これ,そのうちの一つの紹介だけですが,グディカンストという人が使っている説明を,皆さんの資料にも御紹介しましたけれど,「異なった文化的背景の人たちの間の意味の付与を含む相互作用的で象徴的な過程」であるというものです。ですから,何か物事がAからBへ移動するだけのコミュニケーションではなくて,そこにいろんな象徴的な意味が関わっている過程であるということですね。
もう一つ付け加えたいのは,皆さんに異文化コミュニケーションを学ぶ目的を考えていただきたいということです。私自身がいろいろとコミュニケーションをなぜ研究するのかというところの目的というのは,何が違うかということを考えることではなくて,その違いを乗り越えて,社会の中にも差別があったり,偏見があったり,トラブルがあったり,いろんなことがあるわけですが,そういう中で,いろんな文化の人が一緒に生きていくために,どうやったらもっといいコミュニケーションができるようになるのかということを考えるということが,異文化コミュニケーションの大きな目的であると思います。
異文化コミュニケーションでは,頭で理解する認知的なことも山のようにあり,テキストもたくさん書かれておりますし,非常にいろんな研究が進んでいまして,もう本当に知識の面で学習しなければならないことはたくさんあるんですが,頭で理解するだけではなくて,もっといろんなことを体験的に学んでいくことで情意の部分も変わるし行動も変わると。ですから,こういうアクティビティーであるとか,シミュレーションであるとか,ゲームであるとか,そういうことを非常によくやります。
大事なことは,今,ちょっとかなりはしょってやりましたが,ただやることが大事なのではなくて,後でその活動が一体何だったのか,どう感じたのか,それをもう一度振り返るということですね。先生というのは何をするかというと,ファシリテーターという言い方もしますが,皆さんにその振り返りをやってもらって,自分で感じてもらう,学んでもらうことを易しくするわけです。学習を助ける,まさに学習を支援すると。そういう役割ということで,これはこうなんですよということを先生が説明するわけではなくて,あくまでも学習者が自分でその中から何を学んでいくかということを助けていく。そのためには,いろんな活動をやった後,振り返りのプロセスというのが非常に重要になります。
これも日本語のクラスでいろいろと使えると思います。今のようなアクティビティーというのはもっと年齢に合わせていろんなケースでやってみて,その中で違いというものを勉強していく。それを,先生がこうですよと言うのではなくて,いろんなことを体感してもらうということは,日本語のクラスでも使えるかなと思います。
ここで,簡単にできることをやりますが,カルチャーショックのシミュレーションというのを御紹介します。皆さん,もうカルチャーショックというのはおなじみかなと思いますが,例えば,今,鉛筆とか書くものを持っていらっしゃいますでしょうか。ペンでも何でも結構です。自分の名前を,右利きの人は左手で,左利きの人は右手で書く。または,自分の名前を,後ろから逆に,筆順も逆に書いてみてください。例えば,私の名前でしたら「松田陽子」ですから,「子」の一番最後の筆順から書いていくわけですね。こういうふうになりますよね。つまり,本当の筆順と逆を頭の中に想像しながら書いていくんです。これが自分の慣れた書き方であれば10秒あったら書けるんでね。これを逆に書いてくださいと言われるとうーんと考えながら,どれがどうだったかなと考えながら書かないといけない。または,反対の手で書いてくださいと言われるとなかなかすっと書けない。
これで,時間があれば「どうでしたか」と全員にいろいろ聞いていくんですが,ちょっと時間がありませんので,一人か二人ぐらいだれか話していただけるでしょうか。
参加者左で書いてたんですが,漢字はできますが,平仮名が難しうございまして。
松田ああそうですか。漢字は苦にならない。平仮名の方がやっぱり難しい。そうですか。
参加者漢字は「はねる」だとかいうのが慣れているために,その分かえって苦労する。

松田ああ,はねますものね。線の終わりのところがね。大きなところはできるんだけども,細かいところが難しいということですね。何かほかの御意見ありますか。
参加者私は,逆に,自分の名前は画数が多いからかもしれませんけど,漢字の方がすごく大変で,平仮名は学生のを逆さまからよく直してたので余り,すっすっと書けるものですから。
松田平仮名はすっといった。なかなか易しい,簡単で,漢字が難しいということですね。はい。これも何十人の人からいろんな意見がいっぱい出てくるわけですが,非常に楽しいと思った方,何人ぐらいいらっしゃいますか。大体1割ぐらい楽しいという方がいて,あとの9割は,いや難しいとか,いらいらするとかそういうコメントをする人が多いですね。1割ぐらい,とても楽しいという人もいます。これは,ミニ・シミュレーションで,もっといろんなことやるんですが,例えば,こういうふうに,ふだん,全く何でもないこと,それがやり方をちょっと変えてくださいと言っただけですよね。それだけでもすぐにはできない。たった10秒間でふだんできることが1分かかってもできない。まさに,これはカルチャーショック。
つまり,海外から来た留学生とか外国人が日本で暮らし始める。もう本当に自分の国では簡単にできたことができないわけですね。私も経験があるんですが,銀行に行ってお金をおろせないという経験がありました。英語はある程度できたんですけれど,書類の書き方がわからなくて,自分のお金が出せないというショックを受けて寝込みそうになりましたが,そういう簡単なことができないので,だんだん自己嫌悪に陥ってくる。もう私はだめなんじゃないかと思い始める。周りの人も,何でこんな簡単なことができないのという顔をするわけですね。そうやって,そこに何か自分に対するいろんな気持ちがネガティブになっていく。でも,おもしろいと思う人の場合は,もっともっとポジティブに一生懸命いろんなことをやっていこうというとても前向きな人というのもたくさんいるんですが,今,ネガティブになったからそれはだめですという意味ではなくて,普通ネガティブになりがちだということです。
そういうふうないろんな体験をちょっとシミュレーションの中に入れていろいろやってみると,もっといろいろなことがわかる。その気持ちになれる。まさに朝,久保田先生がおっしゃった共感ですよね,エンパシーですよね。そういうものを持てるようになる。これは教師の側もそういうものを持っていないといけないということです。そういうことでいろいろとアクティビティーをやったりするんです。
それから,もう一つ,私は非常によく事例研究というのを使います。具体的に,もう異文化間のトラブルがあってどうしようもないような状況,その事例についていろいろ考えてもらうわけです。例えば,問題になっていることは一体何なのかというのをまず明確にしないといけない。何が問題になっているのかわからないけれど,何かみんな困ったなと言っている。何を困っているのかよくわからないで「困った,困った」と言ってるのがたくさんあるんですが,そういう問題になっていることを明確にしながら,複数の文化的要因を考えていく。必ず,異文化の問題のときには,文化の問題が一つということはないんですね。いろんな要因が重なり合って大きな問題になってくるということですので,いろんな文化的要因を考えます。そして,できれば解決方法を考えてみるということですね。
いろんな事例を挙げてやるんですが,その事例をもとにできるだけロールプレイを入れていきます。異文化コミュニケーションのことを考えるとき,みんな自分の文化を必ず中心に考えるんですね。だから,自分はこう思うということが中心になりますから,相手は同じことをどう感じたのかということを必ず体験してもらう。そのために,ロールプレイというのを必ずやります。必ず二人で違う役割を入れ替わってやってくださいというふうにやるんですね。
実は,ほんの数日前ですが,あるカルチャークラッシュ(文化衝突)がありました。留学生を連れてバス旅行に行ったんですね。そこである事件が起きまして,みんな楽しい旅行をしてたんですが,あるところで,ボランティアの方にどなられてしまったんですね。もう本当にすごいどなり方をされたんで,私もとってもショックを受けました。なぜかというと,まさにこれは異文化の人との違いなんですが,留学生の方は,今日は学校から離れてとてもみんな楽しんでいて,そして元々日本人のように時間どおりにきっちり動くということに慣れていませんから,バス旅行ということで私たちもかなり大まかにやってたんですね。いろいろ散策しながらですから,みんなぶらぶら歩きながら,何回もちょっと注意をされながら,お寺に着いたときには,すぐ入らないといけなかったんですが,みんなその辺にへたり込んでおしゃべりしてなかなか中に入らなかったんですね。すると,ボランティアの人が「何だ,おまえたちは」と言って,要するに,非常に遅いというわけですね。のろのろしてるってどなったんです。それは,その人から見るとのろのろしているということですが,彼らの側からすれば,彼らはリラックスしてのんびりしてこれを楽しんでいたわけですね。まさかそういうことを言われるとは夢にも思わなかった。そういうことがありました。
このとき,当然,両者の側に一つの見方があるわけですね。ですから,留学生の方に,あの人はなぜそういうふうに言ったのかということを理解してもらわないといけないし,その人にも,留学生がどうしてこういう行動をとっていたかということを理解してもらわないといけません。そこには,時間というものに対する考え方もあるし,それから,時間を守るということの考え方もあるし,ゆっくりのんびりするということの考え方もあるし,それから,観光ということに対する考え方ですね,これも非常に違うということです。彼らは,私たちと話をしながら歩いていたんですが,そのボランティアの人が「いや,遅くなったけれど,もっとたくさん見なくちゃいけないんですよ」と言ってるんですね。「私たちは,何を見るかじゃなくて,このプロセスを楽しんでるんです」と言っていた学生がいました。だから「全部見られなくてもいいんです」と言ったんですが,ボランティアの方は全部見せたい,これも見せたい,あれも見せたいと,とっても熱心になってるんですね。ですから,そこのところに観光というものに対する考え方の違い,そして,いろんな立場の違い,いろんな例外があるということを,その一つの事例をもとにいろいろ考えていくと,異文化の間のいろんなトラブルとか問題というのはどういう観点から考えたらいいのかということを少しずつ学んでいくことができるかなと思います。
それで,実は,ここからが多分,一番大事なところかもしれませんが,日本語教育において,異文化コミュニケーションというのはどういう能力が要るんだろうということをちょっと考えてみますと,教師の異文化コミュニケーション能力ですね。まず,これが一番大事で,その中で,いろんなことを考えなくちゃいけませんが,まず,異文化コミュニケーションの基礎として文化相対的な意識というものを持つということですね。普通,私たちはみんな自分を基準にいろんなことを判断しますから,やっぱり自文化が中心になっている。ほかの文化もすばらしいと思っていらっしゃる人もたくさんいると思いますが。中には,やっぱり,ここは日本なんだからまず日本の文化を中心に,ほかの文化はいろいろ良くてもちょっと置いといてという形で,すべてこちらにやっぱり合わせるべきというふうな考え方がどうしても私たちの頭の中には,こびりついてるわけですよね。でも,本当にそれでいいんだろうかということで,できるだけ文化相対的に,それぞれの文化には価値があって,それぞれの文化のいいところをうまく生かしていくという考え方に,まず切りかえていかないといけないのではないかと思うわけです。
ちょっと今の話からずれるかもしれませんが,文化の違いに対して個人がどういうふうに変容していくかという一つのモデルとして,これはミルトン・ベネットという人が提唱しているモデルでとても有名なものですが,とてもわかりやすいのでよく使われています。外国から日本に来た人たちが,まず最初に日本に来たときにどういうことを思っているか。まず,カルチャーショックですね。最初からすぐ適応する人ももちろんいますが,最初のうちはちょっと,私は日本人のこういうのは嫌なんだとかと非常に拒否的になる。私はこういうふうには絶対にしたくないというふうに,日本文化を受け入れようとしない人もいますよね。最初にそんな拒否の段階がある。
そこから,もうちょっといくと,もっと,自分の殻に閉じこもってしまう。もう日本人に接触したくない。同じ仲間,グループで集まって,例えば中国人同士で仲良くやって,日本の社会はもう日本でやってくれと。私たちはここで何とか自分の文化を守っていこうというような心理状態にだんだんなっていく。そういう心理になっている人もよく見かけられますよね。
ただ,そういう時期を過ぎてくると,だんだん違いというものを矮小化していく。いろいろ思ったけれど,いろいろやってみたら余り違わないじゃないかなと。日本人も中国人も何か同じだなというふうに思ってくる時期がある。それはそれでいいわけですが,本当に同じかというとやっぱり違うんですよね。今朝のお話にもありましたが,韓国文化と日本文化というのは非常に似ているけれども,やっぱりすごく違う。それを見逃してしまうと,トラブルとなってくるわけですね。ですから,その辺まではまだまだ自分の文化を中心に考えている段階です。
もう少し進んでくると,だんだん文化相対的になってくる。だんだんとほかの違う文化,日本の文化というものを受容してくる。留学生も,初めは,日本ではすぐ「すいません,すいません」と言うのは「何か卑屈ですよね」とか「私はあんなふうには言いたくない」などと言うんですが,しばらくたつと,相づちも打つし,「うん,うん」とかいうんですね,日本人以上というやつですね。だから,すぐ,「すいません」と。「そんなに言わなくていいんだけど」「謝らなくていいんだよ」と言いたいぐらいという場合もありますね。そういうようにだんだんと受容していく,そして,適応して合わせていく。
ところが,じゃ,適応したらそれでいいかというと,これも今朝の話にありましたが,適応してしまったらそれでいいということではないんですね。ダイアンさんがおっしゃってましたね。それはもしかしたら自分を殺してしまっている,自分の中の自分というものをある程度抑圧した上で適応しているのかもしれない。そうではなくて,本当に自分の中にある自分というものと,そして日本文化の社会ですね,いろんなものと自分の中で再統合していけるかどうか。ここで,本当に再統合して自分らしく生きながら日本の文化の中でうまく機能していける,言いたいこともきちんと伝えられるような,自分の能力を発揮できるような,そういう状況になれば非常に暮らしやすい状況になるということですね。
そういうわけで,非常に直線的に書いてあるので,こんな直線的に進むものでしょうかという疑問はたくさんあるんですが,非常にスパイラルに行ったり来たりしながら,いろんなことを何度も行ったり来たりして経験をしながら,だんだんと再統合していくというふうなことが言えるかなと思います。そういうふうなモデルもありますね。いろんな考え方があるのですが。
これはちょっと私がほかのところで書いたもので,皆さんのお手元の方の資料を見ていただけたらと思いますが,もちろん,日本語の先生をなさるという場合に,異文化に対する態度として否定的という方はほとんどいらっしゃらないと思うんですね。普通,みんな中間的な関心を持ってるか,基本的には,ほかの文化や言語に対して非常に肯定的な気持ちを持っていらっしゃる,または,持っているべきと思います。やはり違う文化に対して,ちょっと尊敬という言葉は強いですが,リスペクトですね,それが必要ではないかと思います。それぞれの学習者の持っている文化というのはとても大事だと感じ,それで自分もそれを学びたいという気持ちになっているかどうかです。そして,自分の中で自分と彼,自分と何々さんという対個人の関係の中で,私たちのグループ対あなたたちのグループではなくて,何か同じ仲間という帰属意識というもの,対等なかかわりというものを持てるようになってくる。そうすると,やはり学習というのはお互いに信頼関係の中で成り立っていくものですから,そこでお互いに,私たち同じ仲間だという意識ができたときに,本当の信頼関係が成り立って,そこから本当にいい学習ができてくるのかなというふうに思います。
やはりお互いに変わっていく,先生の方も,多分,学習者と相互作用していく上で自分も変わっていく面があるだろうと思います。私自身はもう30年近く日本語教育をやってますが,すごく留学生の影響を受けて自分が変わったと思うんですね。教え方も変わりましたし,自分の生活,それから自分の生き方とか,そういうものを一緒に話し合っていく中で,すごく変わってきたと思います。ですから,その中でお互いの信頼関係とお互いに自分たちが両者の側で学び合っていくことで,すごくいい関係もできるし,言葉も学習していくということが,当然,大事なんですが,同時に異文化の中でよく機能できるような学習というものが成り立っていくのではないかと思います。
ここでは,日本語学習支援の観点からの異文化コミュニケーション能力というのはどんなものが必要かということを,ちょっと簡単に言葉だけでまとめておきました。朝のお話にもありましたが,文化を観察する力というのは必要ですよね。まず,いろんなアンテナをたくさん立てて,どんなふうにみんな行動しているのとか,何に価値を置いているんだろうか,同じおじぎをするのでもおじぎの仕方が違うとか,ちょっと遠回しに言ってるけれど,ああいう人には遠回しに言うけども,別の人には遠回しに言わないとか,いろんな観察力が要る。そして,共感力ですね。これも先ほど話が出ましたからもう飛ばしますが,そして交渉力。当然,自分がこうありたいと思えば,全部相手の言うことを受けていくだけではなくて,いろんなところで交渉していけるようにならないと,本当のエンパワーメントにはならないですね。
そして,確認力。自分から聞くという,質問するということが朝の問題の中にも出ましたが,まず,自分がわからないことは聞けるという,そういう確認していくという力ですね。同じ文化でも本当はそうなんですけれど,日本人が聞かなさ過ぎるということがあります。以前,ある日本の会社で働くアメリカの人が言ってましたが,会社の中で上司から言われたことを意味がよくわからないから,「あれはどういう意味だったんですか」と周りの人に聞くと,みんなわからないと言うんですね。みんな聞かないんですね。聞けないんだそうですね。彼女はアメリカ人だから,「じゃ,私が聞くわ」と言って代表して上司に聞いたら,みんなとても喜んだというんですね。本当は聞きたかったんです。ある留学生のケースでもありまして,先生が言ったことを周りの日本人学生もわかってなかったんですね。ところが,ある留学生の1年生が,先生から何か言われて自分はわからなかったから「先生は,私にそういうことを言ってくれませんでした」と言ったので,先生が怒ってしまったという話をしていました。多分,その学生の言い方が悪かったのだと思いますが,ほかの日本人の学生もみんなわかってなかったんだそうです。その先生は,その留学生だけがわかってなかったと思って怒ったんですが,実は,ほかの人に聞くと,ほかの人もわかってなかったんです。でも,日本人の学生は聞かないわけですね。「先生,どういう意味だったんですか」と,確認しないというんですね。ぼーっとしたまま過ごしてしまう。そういう確認する力というものを,日本語を学習していく中で,先生自身の方も,それから学習者自身の方も,そういう力をつけていくことがやはりコミュニケーションをスムーズにやっていくことの一つ力になるんだなと思います。
最後は,「人間関係構築力」というもので非常に抽象的ないわゆる大きな意味ですが,例えばいい関係をつくっていけるような力というものが基本的には大事だということで,そのために何をしていったらいいかということを日々の学習の中で考えていけたらいいのではないかなと思います。
日本語コミュニケーション行為の文化的背景とか価値観の理解ということは,皆さん恐らく学習内容の中に考えていらっしゃるんではないかなと思います。特に,最近はそういうことがよく言われるようになってきましたので,文法だけやるんじゃなくて,中には日本語がすごくうまいのにどうも周りの人とうまくいかない人とか,さっきのダイアンさんの来日当初の頃のように,日本語は全然できなくてもいろんな人と幾らでも仲良くなれる人といろいろいる。何が違うのかということなんですが,その中で,いろんな異文化の人との相互対話の中で何を学んでいったらいいかということで,きちんと学ぶためにはいろんな知識も必要ですよね。日本人の人間関係の持ち方,これも日本人のというのはさっき言ったベル・カーブの真ん中辺の人という意味ですが,そういういろいろな日本語話者の中で,非常に間接的な表現をする,あいまいな表現をする。それはなぜなのか。みんなすごく嫌だと言うんですね。留学生の人に「日本に来て一番困ることは何ですか」というと,「日本人の言ってることがどうもあいまいでよくわからない。それがとてもフラストレーションになる」ということをよく言うんですが,それはなぜなのかということをやっぱり理解しないと,日本人はあいまいですよと言われるだけだと,そのあいまいさが持つ本当の意味がわからないので,いつまでもそれが嫌だ,嫌だと思ってしまうわけですね。実はそのような表現の仕方は他者に対する配慮であったり,いろんなその場その場での配慮が働いてあいまいに言うということですから,そういうことも理解していってもらわなければならないでしょう。そして,遠慮しながら話す。でも,遠慮しながら話すことには必ず相手が察してくれるということが前提になっています。そういうことを,自分が少し遠慮していれば相手がある程度察してくれるのが日本の文化だということを理解しなければならない。これも,朝の話で「あうん」はもう利かなくなったということが言われていましたが,もうこの遠慮と察しの文化は廃れつつあるのかなと思いますが。でも,ついこのあいだもある人に,私が1冊の本を贈ったら,その方からメールで「すみません。もう1冊送ってもらえませんか」と頼まれました。その前後の説明から考えて,私は,もっと必要なのかなと思って,「10冊までなら何冊でも送りますよ」と返事をしたら,「じゃ,8冊ください」というふうにすぐ言ってこられました。その辺が日本人の遠慮と察しの,何か呼吸みたいなものを感じたのですが,そんなことがだんだんこれからは利かなくなるということかもしれません。
そういうお互いに少し遠慮していることが相手に対する思いやりになり,相手がノーと言いやすいように,相手がノーと言うのが大変だから,なるべく言いやすいようにという配慮をするんですね。そういう話をすると,中国の学生が「いや,先生,なぜノーと言えないんですか。はっきり言えばいいじゃないですか」と言いましたが。その辺になってくるとだんだん話も難しくなってきますが,相手はこう思っているだろうということを察しながら発言をしていくというような習性は,お互いの相互依存性に対する価値観であったり,個人というものを大事にするというよりも,人間と人間の関係を大事にするというようなところに非常に強い価値観があるのではないかということですね。
ただ,そういうふうにいろいろ言っていくと,じゃ,日本で日本人のコミュニケーション,日本語のコミュニケーションはこうでないといけないということを学生に教えていくのかというと,やはりそれも問題があるんじゃないか。そうすると,日本人は,とにかく,あなたたちは日本にいるんだから,日本の基本を学んで同化しなさいと言ってることになりますよね。そうすると,本人たちが非常に息苦しくなってくる。それぞれの人たちが持っている自分のコミュニケーションの仕方と,そして日本人で,よく言われているコミュニケーションにおけるいろんな配慮とか価値観とか,そういうものを自分の中で統合しながら,自分の一番いいと思うコミュニケーションのスタイルがだんだんできていくのではないかなと思います。
いろんな主観表現の仕方が非常に文化によって違うとか,それから自己開示の仕方が違う,最初に何を言うか,さっきやりましたように,どこまで自分が話すのか,だれとだったらどこまで話すのかというところも非常に大事なことですよね。そういうことも,なかなか一言では言えないけれども,いろんなクラスの学習の過程でいろんなことを話し合いながら,こういう人ならどういう話をしますかというふうなことも学習していけるのかなと思います。
ちょっと時間が短いですが,ここでまたエクササイズをやっていただこうと思います。「誘いと断り」ということで,5分間で結構ですのでちょっと考えてみてください。なぜこれをやるかというと,私も実は苦い経験がありまして,まだ全然留学生に慣れていなかったころ,いろんな国の留学生を祇園祭に誘ったんですね。ある中国の人でしたが,「祇園祭に行きませんか」と言ったら,「行きません」と言ったんですね。その人は全然悪気はなく,「行きません」とただはっきり言ったんですね。私はすごいショックを受けました。行かないことにショックなんじゃなく,「行きません」とはっきり言われたことにすごいショック受けたんですね。二度と誘ってやるかと一瞬思ってしまったんですが,よく考えたら,その人は日本的なコミュニケーションというものをそのときはまだ知らなかった。そういうとき,中国の学生がみんなそのような言い方をするわけではありません。これもいろんな調査がされていますが,やっぱり親しい人には「何々ですから行きません」というふうに言う。一応,弁明するということはあります。ただ,「ごめんなさい,行けないんです」というふうに謝るかどうかというのはどうも場合によって違うみたいで,ある場合はかなりの人は謝らないというようなデータもあります。そういうわけでちょっとニュアンスが違う。それも親しい間柄の場合,教師とはまた違う。
また,そのかわりに何をするかというと,代案を出すんです。日本でも,断るとき「ごめんなさい。今度行けないんだけど,この次のときはきっと行くからね。また誘ってね」というふうに言うことがありますね。または,「今回だめですけど,次回は必ず」とか「次回,また誘ってください」と,何か関係を持続するような言葉を使う。中国も韓国もそういう方策を使うようで,何か別の代案を出すんです。「今度,こういうのがあるんだけど,一緒に行きませんか」というふうなことを提案をするということがあるようですね。代案を出すというのはなかなかおもしろいなと思ったんですが,もちろん,それが適切かどうかという判断がありますが,いろいろ考えてみるといろんな練習ができるかなと思います。
ということで,5分間,ちょっと考えてみてください。日本語のクラスでどんな練習をすればいいのか。「誘いと断り」,特に「断る」のところに焦点を当てて,皆さんが今,やっていらっしゃるようなクラスでどんな練習をすればいいか。ちょっと簡単なアドバイスですね。3分ぐらいで考えていただけるでしょうか。試験じゃありませんので,ちょっと自分の頭の体操ということでやってみてください。

<エクササイズ>

松田今,考えていただいている中で,さっきからいろいろお話している異文化コミュニケーションということの視点を,その練習の中にどういうふうに入れたらいいか,入れられるかというようなことを考えながら作成してみてください。
じゃ,よろしいでしょうか。今,ちょっとお考えいただいたことの中で,どういうふうなことが日本語学習の中で考えていかなければならない,または考えていけるかということで,何かお考えはありますでしょうか。こういう練習をするときにこういうことをやったらいいのではないか,また,こういう配慮をすればいいのではないかというふうな点です。どなたか,何か御意見ございますでしょうか。ちょっとなかなか難しい課題ではありますが。
いろいろなことが考えられると思いますので,とりあえず私が考えたことを,じゃ,ちょっとここで御紹介させていただきます。
実は,たくさんのことが日本語教育そのもので常日ごろ言われていることだと思います。特に最初のこと,学習者の状況やニーズというものを本当に配慮しているかどうかということを考えながら練習をつくっていくということですね。その人が本当にこういう場面で自分が使おうと思っていることなのかどうか。どういう場面でどういうことを誘う環境があって,どういう人とそういう関係があるのかということを考えながら練習をしてもらった方がいいということですね。当然,クラスの中に多様な人がいますから,みんなに合わせることはできませんが,大体のところをつかんでやっていくということは,一般的に日本語教育に必要なことだと思います。
そして,対人関係や状況が明確かどうか。どういう対人関係でこの話をしているのかということがわからなければ,当然,この練習は意味がないわけですよね。ですから,状況と対人関係というものをきちんと明確にした練習を設定しているかどうかということですね。
そして,学習者が主体的に誘う場面というのをつくっているかどうか。誘うという練習をする場合は,恐らくみんな誘うということになりますが,常に誘われる立場や断る立場だけ練習していたのでは本当のいい関係の構築はできませんから,当然,学習者が生活環境の中でどういう人を誘いたいかということを考えてもらって,その中で誘うという練習をしていく。そしたら,相手の人が断ったら,それに対してどう対応していくか。自分が断った場合,「今度行きますか」「行きません」で終わったら,それで関係が切れてしまうので,「今回は行けないけど,私のところでこんなのがあるけど来ませんか」とか,「いや,でも私はすごく残念です」,「すごく行きたいんだけど,すごく関心があるんだけど,どんなものですか。もっと教えてください」とか,「祇園祭って何ですか」というふうに何か質問するというふうな,話を続けるという練習までやれば,関係構築には非常に役に立ちますね。だから,ただ断る練習で終わってしまったら,関係構築というところの練習にはなっていかないのではないかなと思います。
「日本的」といわれる型にはめてないかということもあります。時々,自分でも気になるんですが,つい,こうですよとか言ってしまうんですね。日本ではこういうふうな言い方をして,もしこれを「私は行けません」と言うだけだったら,当然,相手の人は気を悪くしちゃうわけですから,こういうときは「ちょっとねえ」とか,ちょっと理由をつけ加えて「ごめんなさい」と言うというふうなことは,当然,必要なんですが,日本ではあいまいなんだからと,余りにもあいまいでいいですよというふうに教えてしまうと,本当にあいまいになったまま,全然,相手の人は何もわかってくれないということになってしまいますよね。必ずしも一つのパターンにあてはめないで,いろんなパターンがあることを考えます。そして,その人たちが自分だったらどう言うか,「あなたの国ではどういうふうに言うんですか」と聞いていくことで,自分たちはどう言うかなと考える。そうすると自分の文化に対してもだんだんと気付きができてきます。そして,先生の方も,他の文化ではこういうふうに言う,ここが違うんだからここのところをよく理解してもらえばいいんだとか,常に「日本はこうですよ」とただ言うだけではなくて,いろんな答え方,いろんな文化があるということをお互いに学習しながらやっていけば,相互の関係の中でいろんな学習知識ができていくのではないかなと思います。そのときに,どうしてそうなんだろうということまで考えているかどうか。これは練習から少し外れますが,なぜこういうふうに行動をするんだろう,なぜこういうふうに言うんだろうということを常に一緒に考えていく。先生の方が説明できれば説明していく,一緒に考えていくというプロセスが学習の中に入っていけば,日本語のクラスをやりながらいろんな異文化コミュニケーション能力の涵養ということができるというように思います。それは,学習者にとってのものでもあるし,教師の側にとっても学んでいくプロセスになっていくんですよね。そういうことが必要かなとも思います。
もっともっといろんなことがあると思いますし,皆さん,もっとすばらしい考えもお持ちで,もっとすばらしい授業をされているかもしれないので,またそういう意見があったら私に後で教えてください。
それから,やはり異文化コミュニケーションで問題になることというのは,どうしてもステレオタイプをつくってしまうということがあります。そこで,逆にいろんな人の多様性,日本の中のいろんな多様性を見落としてしまう。そういう多様性のことまでやってると時間がないというのもあるんですが,型にはめてしまうのではないか,そして差異というものを強調し過ぎてしまうのではないかということです。日本ではこうですね,韓国ではこうですね,インドではこうですねというふうにどうしても言ってしまう。そこのところで何かかえってステレオタイプを強調していってしまう。実は,共通性の部分というのに余り焦点が当たっていないところが問題かなと思います。
そして,パターン化してしまうこと。例えば,何でも「ちょっと」と言えばいいんで,つい私も「日本では,“どうも”と“ちょっと”を知ってると便利よ」と言うんですが,学習者は過剰反応しちゃうわけなんですね。何でもかんでも「ちょっと」でごまかしてしまうというようなこともありますが,その辺も気を付けながらこういうことを考えていかなければならないかなと思います。
最後ですが,学習場面ということで,学習者の心理とか社会的状況というものを常に頭の中に入れておくということが大事かなと思います。今朝の西口先生の話にもありましたが,やはり異文化を生きる学習者にとって一番大きいのは,パワー・ディスタンス(力関係における距離)であったり,自分がマイノリティーの立場にあるということでいろんなストレスや苦労があったり,いろいろ思うようにできないことがあったり,そういう状況の中で学習しているというんですね。私たちは,日本で教師としてホスト社会,マジョリティーの側に立っている。そういう中で教えているというこの力関係を常に頭の中に置いておかなければならないし,マイノリティーの側に立った場合に,どういう心理で,どういうことに苦労してということを本当に理解して日本語学習というのを支援していかなければならないと思います。
ですから,目指すところは学習者が本当にその社会の中で力を付けてほかの人たちと一緒に対等に生きていけるようなエンパワーメントを目指す。ということは,学習者の側だけではなくて,教師の側がそのことに気が付いて,ホスト社会の側も変わっていかなければならないわけで,自分とその学習者の間の距離というのは日本の主流社会とマイノリティーとの関係ということでもあるわけです。
そういうことまでいろいろお互いのことを考えながら授業をやっていく。そして,お互いの期待感というのに常にずれがあるというのを前提に考える。学習者の先生に対する期待感,先生というのはこうあるべきだという期待感ですね。日本人が日本の先生というのはこうあるべきだと思っている期待感とは,ずれもあります。だから,先生がいいと思って,こうしなさいというときの厳しい言葉などいろいろあると思いますが,学習者は自分の声を聞いてほしい,自分のことを見てほしいと思っていることがよくありますね。その辺の期待感のずれというようなことにも気付きながら,いろんな学習者の声を本当に聞きながら授業をやっていければいいのではないかと思います。
最後にまとめですが,要するに,教師の異文化コミュニケーション能力というのが一番大事であるというのが結論なんですが,その中で,異文化を理解していくことというのは,当然ですが,まず自分の文化を理解するということですね。自分の文化がわからなければ他の文化はわからない。逆に言うと,ほかの文化を理解しようと思うと,やっぱり自分の文化がわかってくるんだと思います。そういう意味で,自文化を認識していろんな文化を理解していく。ただ,理解するということが大事なのではなくて,理解するのはまず前提条件ですが,その上で,もっと違う文化を尊重していって,そしていろんな文化に敬意を持っていけるかどうか。そういう中で学習者との関係が構築できるかどうかというところが教師の異文化コミュニケーション能力にとって必要であると思います。
学習者の方も当然,同じような能力が必要になってくるわけですね。特に,地域社会の中でそういうことを,日本の社会に関して,文化に対して,私もこういうふうになってみたいという肯定的な気持ちを持っていくことで,やっぱりもっと学びたい,日本語を学習したいという気持ちが出てくるわけですし,その中で,自分がうまく機能していける,いろんな人といい関係を持っていけることで,その社会の中で力を付けていくことができるということでしょうね。
そして,私がいつも最後に言うのは,「想像力」と「創造力」ということです。「想像力」というのは,こういう異文化コミュニケーションの場合,違う文化の人に対してエンパシーを持つ,共感力を持つためには,相手の立場に立ってとよく言いますが,実際,立ったことないわけですから,なかなかわからないわけですよね。だから,そこには想像力が必要。いろんな経験も必要ですが,自分の中でイマジネーションを膨らまして,もし自分がそういう立場だったらどう思うんだろうということを頭の中である程度考えないといけないわけですので,そういう想像力,そのためにはいろんな経験,自分自身もいろんな経験をしていれば,当然,想像力が膨らむわけです。
その中で,もう一つ大事な「創造力」は,クリエイティビティーの方ですね。新しくいろんな文化の人と接触していく中で,何か新しいものができていく,新しい価値観,新しいやり方,新しい考え方というのがどんどんと自分の中につくっていけるということができれば,もっともっといいコミュニケーションができるようになるし,日本の社会そのものもいろんな刺激を受けて変わっていくのではないかなと思います。それを私も非常に強く期待しているわけですが,マイノリティーも変わっていかなければならないし,マジョリティーの側も変わっていかなければならない。先生も変わるし学習者も変わっていく,そして新しいものをつくっていけるようなプロセスができていけば,それは理想論でもあるんですが,そういう理想に向けて学習というものを支援していけたらいいのではないかなと思います。
ということで,以上でこの分科会を終わらせていただきます。
また後で,どうぞ御質問とか御意見とか,また,これはおかしいんじゃないかとか,こういうのがあるんじゃないですかと,皆さん,非常に経験豊かな方ばかりだと思いますので,ぜひお教えいただけたらと思います。どうもありがとうございました。
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