日本語教育研究協議会 第3分科会

日本語教育研究協議会
第3分科会 「異文化コミュニケーションの日本語教育への活用」
山本 志都(青森公立大学助教授)

山本:それでは,時間になりましたので始めさせていただきたいと思います。
 異文化感受性モデルの学習への応用ということで発表させていただきます。現在,青森公立大学でコミュニケーション科目を担当している山本志都と申します。よろしくお願いいたします。
 今日お話しする異文化感受性モデルというのは,ミルトン・ベネット(Milton Bennett)という,アメリカのコミュニケーション学者で,オレゴン州はポートランドというところにあります異文化コミュニケーション研究所(Intercultural Communication Institute)の所長をしておられる方が開発しました。私自身ポートランド州立大学の大学院で異文化コミュニケーションを学びまして,そのときに教えていただいていた先生がミルトン・ベネットであったという,そういう関係もございます。
 ベネット先生は,アメリカでもいろいろなところで活躍されていまして,日本でも1年に1回程東京でセミナーを行っておられたりもしますので,御存じの方もいらっしゃるのではないかと思います。
 それで今日は,どういったお話をするのが一番お役に立てるだろうか,いろいろ迷ったんですね。『異文化コミュニケーションワークブック』という本を八代先生,荒木先生らと一緒に書きましたものを,日本語教育の方の現場でもよく使っていただいているとお聞きしましたので,何かそういう異文化コミュニケーションのスキルトレーニングがいいかとも考えました。しかしながら,参加者数が大変多いと伺い,また,それぞれ日本語教育といってもいろんなレベルの方に教えておられていたり,それから学習者も,欧米人の場合もあればアジア人の場合もあったり,いろんな立場もあると思います。また,都心で教えておられる方もいれば,各地方,農漁村の地域で教えておられる方もいらっしゃる。いろんな方がいらっしゃるので,どういうことをお話しすればいいか,それを考えまして,それで少し理論的なお話になってしまうのですけれども,異文化感受性モデルのお話をするのが何か役に立つことがあるのではないだろうか,そう考えまして,今日の異文化感受性モデルというものを皆さんに御紹介することにいたしました。
 お手元の方の資料は,19ページです。私自身アメリカに留学していましたし,その間にいろんな体験もいたしました。そもそも異文化に興味を持ったといいますのは,やはり「言語」が私もきっかけだったんですね。昨日,開会のあいさつのときに文化庁の方が,「日本語を学ぶということは,日本の文化を学ぶ入り口なのである」とおっしゃっていましたよね。「日本の文化を知ってもらう」,そういった意味では日本語の教師をなさっておられる皆さんというのが,一番のフロントラインに立っておられる,そういう存在なのだと思います。
 私自身も,異文化に興味を持ったのは,英語を勉強していたことがきっかけでした。やはり,最初のころに出会う外国人というのが,英語の先生です。そういった方とのやりとりというのは,非常に思い出深いものになりました。皆さんもきっと,外国人の方にとって最初に出会う日本人であられるのではないかなと思います。そういった意味で,本当に日本を知ってもらう「入り口の案内役」なんだなというふうに感じています。
 今日の目的ですが,まず異文化感受性モデルとは何かということを,私の方から簡単に御紹介させていただきたいと思います。実は,私自身は日本語教育の知識は余りございませんで,そういった面では皆さんに逆に教えていただきたいなと思っております。この異文化感受性モデルを,日本語教育でのカリキュラムですとか教材開発,教材選び,教授法それから学習者の方への支援,そういった場面においてどんなふうに応用することが可能だろうか。このことについて,後ほど皆様からアイデアを伺いたいと思っていますので,どんなふうに活用できるかなということを心の中にとめながら,異文化感受性モデルの説明をお聞きになっていただければと思っています。
 ベネットのモデルですので,文化にはいろんな定義があるのですが,ベネットの定義を引用します。ベネットによると,ある集団において人々が互いに相互作用する,お互いにかかわりあう中で,学習して共有している価値観や信念や行動,規範などのパターン,これを文化というふうに呼んでいます。ですから,特に国ということには限らないのですね。そういった意味では,今日御紹介する異文化感受性モデルは,国の文化だけに適用されるものではありません。例えば学校という組織でも,他の学校に行けばそれまで当たり前だと思われているような常識,行動の基準となる物差し,そういったものが違ってきます。そういう意味では例えば家族一つをとっても,ある家庭では常識のこと,その家族の集団の中でお父さん,お母さん,子供たちがお互いに相互作用していて当たり前になった行動のルールや価値観が,よその家庭では全く通じない。そういった意味にもとられます。そういった意味で,文化ということがあるというふうに思っておいてください。
 そして,ベネットはカルチャーを二つに分けて説明しています。ビッグシーカルチャー(Culture),大文字のCのカルチャーと呼んでいるもの,これは客観文化とも言っていますが,例えば歴史や政治,経済,お祭りですね,それから音楽やダンス,そういったもの,一般に文化の日といったときに,文化だと私たちがイメージするようなものですよね。書道とか生け花とか,そういったことも入ると思います。そういうふうに,学校とか教室などで教えることができるような,そういった文化を客観文化と呼んでいます。
 それに対して,スモールシーカルチャー(culture),小文字のcのカルチャーがあるとベネットは言っているんですね。主観文化と呼ぶことができます。文化心理学者のトリアンディス(Triandis)が主観文化ということを論じており,それと同じ考え方なのですが,行動や信念,価値観などが,私たちが集団の中で一緒に物事をやっていく上でパターン化され,目に見えない不文律のカルチャー,文化となっているのです。
 異文化間接触において問題になるというのは,客観文化の方ではでなくて実はスモールシー(小文字のc),主観文化の方が問題になることが多いんですよね。人間関係で衝突が生まれるときというのは,大抵,自分が常識だと思っていたことを相手が守ってくれない。自分はこうしたらいいだろうと思って行動したのに相手には全く自分が意図したように解釈してもらえなかった。誤解を与えてしまった,等のことが問題になって,文化間で衝突が起きるかと思います。
 では,異文化感受性というのは何なのだろうかということなんですが,感受性と言うと,何か繊細な気持ちで相手をやさしく受け止めるような,そういうふうなイメージがわきますけれども,そういったものというよりは,個人が何を文化的違いととらえ,それにどんな意味を与えるのか,文化をセンサー,すなわち感受する,センサリングするというような意味合いでとらえています。何が文化的に違っているものなのか,何が共通項なのか,そういったものを見分けるような,感じ取るようなものとして文化感受性というものがあります。これは,構成主義的な考え方から発生していて,さまざまな出来事や物事等起こった事柄や,周りの環境などから,自分にとって意味をなすように私たちは物事を解釈し理解しており,そうやって自分にとって意味をなす現実というものを構成しているんだ,という立場です。
 では,異文化体験を考えてみますと,19ページのモデルでは「自文化中心的段階」,「文化相対的段階」の大きく二つあって,そこにそれぞれ三つずつのステージがあります。特に,「自文化中心的段階」では,違いを「否定」するとか,違いから「防衛」をするとか,違いを「最少化」してしまいます。その辺が自文化中心的段階,すなわち自分自身の物差ししか適用していないという状態ですね。自分自身の現実のあり方のみを座標軸としているような,そういう物事のとらえ方,理解の仕方です。例えば異文化の何か違いがあったとしても,それを見過ごしてしまったり,見えないものとする。もしくは,自分が慣れ親しんだ範囲内でしか見ないような状態。これが最初の状態のこの「否定」に当たります。
 異文化感受性の最初の段階にあたる,「違いの否定」というところなのですけれども,ベネットの挙げている例でいいますと,例えばニューヨークから東京に旅行で行っていた高校生たちが,ニューヨークに戻ってきたらこう言ったそうなんです。「東京って,ニューヨークと余り変わらなかったよ。すごい人込みで,ビルがたくさんあって,車がいっぱいあってマクドナルドもあったよ」と,言っていたそうなんですね。こういった状態ですね。旅行者として,短期間どこかの外国に行ったとしても,それが目立つものでもない限り日頃見慣れていないものが目に飛び込んでくるということは余りないのですね。知覚するカテゴリーを持っていなければ,自分が既に知っているような見慣れたものしか目に入ってこない。そういう認知の仕方をしてしまう。そうなってくると,そのニューヨークの高校生は,「東京を体験した」と果たして言えるだろうか。「東京での体験」はしたのですけれども,実際の東京を体験したということではどうだろうか,ということになります。異文化感受性の「否定」の段階は,見えないということですので,「否定」と命名されていますが特に否定的な気持ちとは違うんですね。見えないものに対して脅威はわきません。見えてくるから怖くなるのであって,見えないので何とも思わないんですね。例えば,日本は単一民族国家であるというようなことをいまだにおっしゃる方がいらっしゃるかもしれないのですけれども,それもこの一つですよね。実は,いろんな多様性が日本の中にはあるのですが,それを見ていない,見えていない。そういう状態,見えていない状態というのが「否定」になります。見えていないので実感がわいていない,実感がわかないので特に文化的な違いというものに対して,悪いものだともいいものだとも思っていない。そういう状態です。
 次に,「違いからの防衛」ですが,この段階では違いに気付きます。気付くと今まで自分が「これが正しい」と思っていたものが,ほかの人たちが「いやこちらが正しいのだ」というような主張をしているのが見えてくるわけです。そうなってきたときに,「自分の物差しが正しいんだよ」ということを防衛しよう,何とか自分のこれまで信じていたものを守ろうという気持ちが私たちには働いてしまいます。自分がこれまで正しいと思ってきたものを脅かすようなものに出会ったとき,いや自分の方がもっと優位性が高いのだ,そう思おうとすることで自分を守ることがあるかと思います。
 例えば,日本人とアメリカ人のコミュニケーション・スタイルが異なっていることに対し,「日本人は行間が読めるけれども,アメリカ人はだめだね。全く気持ちというものについての察しがないんだね」等,自分の方が優越感を感じることで守ろうとする。ないしは,相手のことを否定的に,悪く言うことで,自分の方を守ったり,正しいと感じたりするような,そういう防衛ストラテジーを持ってしまいます。いずれにせよ,「我々 対 彼ら」というふうに,線引きがものすごくはっきりしている状態なんですね。私たちの物差しが正しくて,ほかの人の物差しは間違っているんだとそういう見方をしようとする。
 これが逆に「憧れ」ということで「逆転」することもあるんですね。これをベネットは,「逆転」と呼んでいるのですが,例えば,「日本はだめよね。日本人は全然だめ。やっぱりアメリカの方が進んでいるわよ」,というように,何でもかんでもアメリカやヨーロッパのやり方を神聖視して,日本の方をこきおろすようなそういった場合でも,「我々 対 彼ら」の二項対立の構図は変わらないんですね。「我々」と「彼ら」が入れ替わっただけなんです。どっちからどっちを見るかに変わっただけなんですね。時々,日本にいらっしゃっている外国人の中でも,余りにも日本びいきになってしまって自国のことをこきおろす方がたまにいらっしゃいますね。そういった場合も,この逆転というようなことが起こっているのかもしれません。
 その次に,違いに気付くのですが気付いたけれどもそれを「いや,些細なことなんだよ」と「最少化」するというステージがあります。この「最少化」では,例えば,御飯を食べるにしても,お箸を使うのとフォークとナイフを使うので違うということや,あいさつの仕方でも握手とお辞儀をするのでは違うということ等,表面的な違いやある程度の慣習的な違いには気が付きます。しかし,違いに気が付いていても,「違いというのはあくまで表面的なものであって,人間として根本的に我々は一緒であることの方がもっと大事なのだ」と,そこに重点を置くような,そういうものの見方ですね。それを「違いの最少化」というふうに呼んでいます。
 これには,自分の考え方,いろいろな宗教,経済,科学的根拠ですね,そういったものを根拠にして普遍性を唱える場合もあります。例えば,「我々は皆神の子である」という発言や,「我々は皆,衣食住を必要としている」という発言です。人間として衣食住が必要だけど,その方法にいろんなバリエーションがあるだけなんだよと。「住居のスタイル,食事のスタイル,そういったものみんな人間として必要なものは同じじゃないか。スタイルがちょっと違うだけなんだよ」,というとらえ方ですね。
 今,私は異文化感受性の段階を御紹介していますが,全て特にこの段階だからいいとか悪いとかそういう話ではないんですね。そういう話ではなくて,日本語学習者の方がどのような形で異文化をとらえている可能性があるか我々が知っておくべきだということです。学習者が現在どういう視点で異文化に向き合っているだろうかということを,日本語教育にしても異文化コミュニケーション教育にしても,こちらがわかって接するのとわからないで接するのとで,かなり違ってきます。そういう見方でこのお話をとらえていただければなと思います。これは特に,どの段階だからいいとか悪いではありません。
 「最少化」というのは異文化感受性のレベルでいうと,「否定」や「防衛」よりもベネットによると高いレベルにあります。「防衛」の段階にあって,相手のことを悪く見たり自分の方を優越的に感じたりしていた人たちが,「それぞれの文化にいい人も悪い人もいるではないか」や「親として子供を思う気持ちは一緒ではないか」や「戦争で悲しい気持ちになるのは一緒ではないか」など,ある意味「相手も自分と同じ」というとらえ方をするのは,「防衛」より異文化感受性レベルとしては高いと位置付けられています。
 ただ,この状態は,居心地のよい状態なのではないだろうか,という点が問題なんですね。「私たち人間だからみんな一緒なんだよ,違いはないんだよ,差別はいけない,みんな一緒」と言うときに,「みんな一緒」というのはだれと一緒なのかというと,それは「私と一緒」ということになりかねないところに,この「最少化」のレベルにある学習者の落とし穴があるんですね。あくまでも自分と一緒という意味での一緒になってしまう危険性があるということなんです。
 今まで紹介したところが,「自文化中心的な段階」です。自分の物差しで測ってしまう段階なのですけれども,次に「文化相対的段階」です。「人にはいろんな物事の見方があって,それぞれこれが現実だと思っているとらえ方自体が違うんだ」という文化のとらえ方です。「自分の信じているもの。自分がこうでなくてはいけないと思っているもの,そういうものを他の文化の人たちもその人たちなりに持っていて,その集団,文化内でこれが正しいというふうに共通的に信じている,そういう物差しが各文化によってあるんだよ」,という認識が「文化相対的段階」になります。
 「文化相対的段階」の初めのステージが「違いの受容」です。みんなが自分たちなりに正しいと信じているシステム内のやり方に沿って生きているだけなんだ,すなわち,価値観が異なるんだよと,そういうふうなことを受け入れていく段階です。ですから,考え方,価値観など,大事にしているものがそれぞれの文化で違うということを認めるような段階なんですね。
 それから,その次の「適応」なのですけれども,認めるだけではなくて,自分もそこの文化のやり方に合わせた行動ができるようになる,というのがこの適応ですね。日本語の学習をしている方でも,例えば,日本人のあいさつではこういうことが大事なんだというようなことを,頭で理解するだけでなく自分もそれができるようになるというような,自分で実際に実践できるようになるような,それもただ単に表面的にやっているのではなく,その心というか気持ちというものを理解した上で,その文化の方がこういう気持ちでやっているんだ,こういう考え方でこういう物事の言い方をするんだと,そのようなことを理解して実践できるようになる段階を,「適応」と呼んでいます。ですから,そこの文化の世界観というものに自分がいったん感情移入して,そこから何か行動を起こすというような段階が「適応」です。バイカルチュラル*1な状態というのも「適応」の段階です。
 最後に「統合」という段階があるのですが,これはアイデンティティと非常に大きくかかわっています。バイカルチュラル,「適応」の段階ですと,自分が現実というものを構成する一つの物差し,日本でしたら日本なりの物差しを持っていて,例えばアメリカでしたら,アメリカって全部ひとくくりにもちろんできないのですけれども,アメリカなりの物差しがあって,両方の物差しを適切に使えるということです。「統合」の場合は,その場のシチュエーションやだれがプレーヤーかなど,その文脈に限った場合においての正しいやり方や一番適したやり方はあるかもしれないが,すべては相対的な判断であり状況に依存しているので絶対基準がないのだ,という見方ですね。
 よくアメリカ人は個人主義で日本人は集団主義と言われますが,それも,だれからだれを見たときどう見えるのかというような,相対的なものでしかあり得ないと言えます。「統合」では,二つ以上の文化的な枠組みに対して自分自身が常に気が付いて(aware)いて,絶対基準というよりはいろんな見方を持つ自分という在り方自体が自分の基準であり,同時に基準を構成しているのもまた自分であるというような,アイデンティティの在り方,そういうふうなものを「統合」と呼んでいるんですね。
 では,異文化感受性モデルは学習に対してどのようなインプリケーション*2があるのでしょうか。これは,異文化コミュニケーション,異文化間教育においてのインプリケーションなのですけれども,例えば一番最初の「違いの否定」の段階にあって,よくわからず大ざっぱなステレオタイプしか持っていない学習者に対して,どうやったら次の段階にステップアップしていく支援ができるだろうかと考えます。そのときに,例えば,まず客観文化の紹介を考えることができます。主観文化ではなく客観文化から入っていくのはどうだろうかということなんですね。例えば,音楽や映画やドラマやアニメ,食事そういったものを通じてほかの文化を知ってもらう。また,祝日の意味ですとかお祭りといったものですね。または,旅行のヒントですね。よく,「Dos and Don'ts」と言いますが,「こういうことしてもいい,やってはいけない」というような非常に表面的ではありますが,そういう表面的なものから入ることが考えられます。いきなり主観文化から入って,学習者を脅かすのではなく,まずは客観文化のようなものから紹介していこうと考えられます。
 それで私,非常に成功しているなと感じたのが,「冬のソナタ」現象ですね。韓国の「冬のソナタ」というドラマが非常に去年大ヒットして,ぺ・ヨンジュンという役者がブレイクしました。それに対して異文化コミュニケーションで調査をした方がいらっしゃるのですね。何がわかったかといいますと,韓国に対して否定的な気持ちや差別的な気持ちを持っている人が多いのではというこれまでの見方とは逆に,現在の日本ではむしろ「韓国のことを知らなかった,関心や興味がなかった,韓国の存在自体を実感しなかった」,いわゆる異文化感受性レベルで言うと「否定」のレベルであった人たちが,「冬のソナタ」を見たことによって,韓国にも自分たちと同じように恋愛をして悩んで,同じように生活している人たちがいるんだということを認識するようになったそうです。そういうふうにドラマなどを見てまず関心を持つ,メディアを使った文化紹介も「否定」から次の段階にステップアップしていくのにいい方法なのではないかということです。
 ですから,大事なこととしましては,関心や好奇心を学習者の方に持っていただくということです。そのためには,ドラマや映画や本などを通じて間接的な文化接触から入っていくということなんですね。例えば「否定」の段階にいる方が,いきなりほかの文化の方と実際に接触したり,ほかの文化の方のお話を伺ったりしても,自分の知っている範囲内でしか理解をしない,すなわち,そこまで認知カテゴリーが発達していないので,自分の認識できるものの部分でしか認識できないということになってしまいますから,直接接触が文化理解や文化学習に役立つとは限りません。表面的な部分からまずは入っていくというのが一つの方法なのではないだろうかと思います。
 例えば,私も,せっかく今,青森にいて八甲田も近くて山歩きができる立場なのですけれども,山を歩いてもその辺に草とか木があるなということしか認識できず,地元の方の認知カテゴリーには及びもつかないですね。地元の方は歩いていらっしゃっても,「ここに,あのきのこが生えている,あの山草が生えている。この木はブナの木だ,ナラの木だ。今,鳴いている鳥は何々だ」とかいうふうに,認知カテゴリーを複雑に発達させていると,同じ道を歩いても全く違う体験ができるんですね。
 異文化のことも同じで,いろんな知識をまず持っていると複雑な体験,豊かな体験ができるのですが,そのカテゴリーさえ持っていないと,非常に表面的な理解しかできない。そういった意味で,「違いの否定」の状態にある人にいきなり複雑な事柄を体験させようと思っても,表面的な体験しかできないので,まずは入り口としてメディアなどを使ってやっていくということです。
 そして,ステレオタイプということに気を付けなければいけないのですが,この段階にある学習者の方,理解が表面的にとどまりやすいんですね。そのことをこちらの立場としては責めないような雰囲気で,とにかく好奇心を持たせていくようなのがいいのではないかということです。
 次に,「違いからの防衛」の段階なのですが,「我々−彼ら」という二項対立,「内集団−外集団」というふうな構図ができ上がっていますので,この段階における方に有効なのは,人間として同じ部分に訴えていくことなんですね。職場の場面でしたら,共有している達成すべき目標は何なのか。一緒にやり遂げなければいけないことは何なのかという,そちらの課題に目を向けていくようなこと。それから,一緒に作業をする中でチームビルディングをしていくような,そういうエクササイズといったものも大事です。更に,非常に大事なのが「自文化内での多様性への注目」なんですね。
 「自文化を知る」,自分の文化を知るこということが異文化感受性の発達においても非常に大事なんですけれども,日本に来られているアメリカ人のビジネスパーソンの方でも「アメリカの文化って何?」と言っても,マクドナルドとかハリウッドとか,客観文化のレベルに言及することはできても,主観文化,その背後にある考え方,どうしてそういうふうにするのがいいと思っているのか,そういったことについては自分でも意識していないことが多いです。なぜならば,余りにも当たり前すぎて,自分で言うことができないのです。
 自分の文化の中に多様性があるということですが,アメリカといっても,アメリカの中にもいろんな人たちがいて,民族の違いもありますし,地域によっても違います。アメリカの中で,社会的なレベルによっても人々の暮らしは違いますし,職業によっても違います。医者の文化と,例えば,ものづくりの現場にいらっしゃる方の文化。これは日本でも違いますしアメリカでも違います。日本のお医者さんとアメリカ人のお医者さん。日本のものづくりしている人とアメリカのものづくりしている人。職業に関係なく同国人同士である場合と比較して,どちらの方が話がよく通じるかというと,もしかしたら医者同士,職人同士の方がお互い共有している価値観が多いかもしれないんです。
 ですから,そういうふうに自文化内でもいろんな多様性があるではないか,というふうに「我々対彼ら」という二項対立を複雑にしていくために,いろんな切り口や,いろんな角度から見ると,多様性というのが実は自分の「文化」の中でもいっぱいあることに気付かせます。そうなると,例えば「日本人」や「アメリカ人」という切り口はその中の一つなのではないか,そういうことに気付いていってもらうような働きかけが考えられます。
 「違いからの防衛」では,まず,学習者が「『我々対彼ら』という構図をつくってしまっている」ということに対して気付きを促すことです。ただ,この段階にある学習者の場合,気を付けなければいけないことがあります。それは,文化比較です。文化比較というものがこの段階におられる方には不適切になる可能性が非常にあるんです。例えば,授業の中で日本と韓国のことを単純に比較をしているだけであっても,日本人の学習者ならば「何で先生はいつも日本のことを批判するのですか。日本を悪く言っている」と批判したり,韓国人の学習者ならば「日本人の肩を持っているんじゃないか」と批判することです。「防衛」の段階では,頭の認知構図が「正しいか,間違っているか」となっているので,一方の物差しが正しければ,他方は間違っているというレッテルを貼ることになるんですね。ですから,幾ら教員側が相対的な立場に立って話をしていたとしても,私の文化が責めらているとか,相手に肩入れしているとか,というような解釈をされる可能性がありますので,気を付けたいところではないかと思います。
 恐らく皆さんも,日本に来られてからまだまだすごく複雑な気持ちを抱えていらっしゃる学習者の方を対象にしていると思います。そういったときに「日本はこうだよ」とかと言っても,それがすぐには受け入れられない学習者の方もいらっしゃるかと思います。そういったときには,もしかしたらこういうふうな気持ちが働いているかもしれません。
 そして,「学習者の自文化に対する誇りや立場を傷付けない」という配慮が大事ではないかと思います。一生懸命新しいほかの文化に触れている中で,防衛機能が働いたり,怖い気持ち,おそれというものがある段階ですので,その学習者の方の御自分の文化に対するプライドを傷つけないように配慮しなくていけません。
 その次に,「違いの最少化」なんですけれども,「違うと思っていたけど,みんな一緒なんだね」というので,日本人で多いのは,日本語が話せる外国人の方がいらっしゃったら,急に,もう相手を日本人のように思ってしまって,親しみがわいて,日本人と接するときとつい同じ行動をとって,相手がわかっていなくてもそれに気付かないでやってしまう,というようなことが起こり得る。「違いの最少化」ですね。
 こういうことが起こる可能性があるのですが,実はそれでは相手の背後にある考え方,価値観におけるニュアンス,そういったものがわかりません。人間として同じな部分は確かにたくさんあります。例えば,「親を大事にしよう」ということは,きっと日本人でもアメリカ人でも韓国人でも同じですよね。また,「子供がかわいい」というのも万国共通。だから人間みんな一緒なんだよと考えることは,何も問題がないときはそれでいいのですけれども,違う価値観を持った人間が一緒に接触することで問題になるのは,例えば,「では親を大事にというのは何をすることが親を大事にすることなのか」,これが価値観によって違うときなのです。
 親と同居せずに,親がナーシングホーム―福祉施設のようなところに入る場合,日本では親がかわいそうという見方を当人も周囲もすることがあります。しかしアメリカで留学していたときに,ナーシングホームでおじいちゃん,おばあちゃんに「寂しくないの?」って聞いたんですよ。「うん,寂しいね,だけれども,自分はこうやって自立していたいんだ」,「自立した自分の生活を送っているということが誇りなんだ」,というふうに教えてもらったことがありました。親を大事にするといっても,施設に預けるとかわいそうという感覚ではなく,親も自立をしていたいと考え,子供の方も,親のところに頻繁に何だかんだ会いに行ったりして,交流を続けていく。そういった形での「親を大事にする」やり方もあるのだなと思いました。
 そうすると,「親を大事にしよう」ということが同じなんだと言っても,背後にある考え方とか,どう行動するのがいいのかが違ってきます。そういうふうな主観文化を「最少化」の段階にいる人には紹介していく,ということが必要になってきます。
 それから何より,自文化を分析,検討することが大事です。「日本ではこうなのだけれども,ではアメリカではこんな場合はどうすることが正しいことなの?どうすることがいいことなの?こういうときどう行動するの?」と,自分や相手の文化を分析してもらう。そのことで,よりカテゴリーを増やしていってもらうようなことが大事になってきます。
 それから,文化やステレオタイプに対する考え方も,この段階で学んでもらったらいいのではないかというふうにされています。ただし,気を付けることとしては文化比較に頼りすぎないことなんですね。ただ単に,「こういうときこうだよね」と話をしても,「最少化」の段階にある人は,「そんなの私たちの文化でも同じですよ」,というふうに何でも同じと考えやすいからです。例えば,さっきの「親を大事にする」とかだったら,「うちも親を大事にしているよ」というふうに,何でもそうとらえがちですので,文化比較に頼り過ぎないということ。
 それから,この段階の方には「判断留保」する訓練,「決めつけないで,物事を理解するような態度の育成」,こういったエクササイズが有効になってきます。ここで,「D・I・E」と「エポケー実習」というのを書いているのですが(パワーポイント上),今日は時間がないので紹介できないのですけれども,DIEというのは「Description Interpretation Evaluation」の略で,「物事を描写する,それを解釈する,判断する」,その3段階に分けて認識するような訓練のエクササイズなんですね。もし,関心ある方いらっしゃいましたら,『異文化トレーニング(三修社)』という本の中で詳しいやり方が紹介されています。
 それから,「エポケー実習」ですが,上智大学の渡辺文夫先生が考案なさった方法で,日本語地域コーディネータ研修の方でもよく講習されていますし,私自身も地域のボランティアコーディネータ研修で何回かさせていただいたことがあります。
 大事なことはすぐに判断してしまわないということです。「親を大事にするのって大事だよね」「うん,そうだよね」,という会話だけだったらどうでしょう?その背後に何の考えがあるのかわからないですよね。だから,それってどういうことなんだろう,といったん留保して,相手の見方というものを聴いていくような,そういうふうな訓練ですね。そのほかには,ほかの文化での主観文化には違いがあるんだということに目を向けさせるような,そういうふうな学習が必要になってきます。
 次に,「違いの受容」ですね。異文化コミュニケーションのトレーナーも文化比較の題材を使うことが多いのですが,それが一番効果的なのはこの「受容」の段階にある方たちですね。いろんな国の事例,ケーススタディ,そういったものを持ち出してきて,ここではこういう考え方があるね,こういう価値観があるね。そういうことを見ていくのが,受容の段階にある方には非常に効果的です。とにかく,そういうものがあるのだということを受け入れる姿勢になっていますので,どんなものがあるのかという知識をいろいろと学んで吸収していくことが一番効果的にできるのは,この「受容」の段階なんですね。
 この段階に来ましたら,文化相対主義というのはどういう考え方なのか。それからコンテキスト,その場の文脈,状況,そういったものというのは,何なのか,こういうことを学んでいくことで,さらに次の段階に向かって自分の学習を発展していくことができます。この段階では,学習者が違いに関心を持てるように,より幅広く学べるように支援していくことが大事です。
 ただ,注意をしたいことは,「文化相対主義では何でもありではない」ということなんですね。相対主義というと,彼らにとってそれは正しいのだからしようがないんじゃない,そういう態度としてとらえられてしまうことがありますが,そうではないのです。相対主義であることと,道徳や倫理的な自分の主軸,自分の中心をしっかり持つことが,両方大切であることを強調することが必要になってきます。あと,「ほかの文化を好きにならなければいけない」とか「何でも賛成しなければいけない」というのとも意味が違うんだよということです。彼らなりのシステムの中で,彼らなりの価値観の中で正しいと思うことがあって,それを私も受け入れなければいけないとか,賛成しなければいけないということとは,また違います。それを尊重することと,自分の主軸を失ってまで迎合することとは違う,ということを強調してあげなくてはいけません。
 次の「違いへの適応」ですと,今度は「視点転換」,物事を見るときの目の置き所を転換していくことです。日本語学習者の方でしたら,自分の出身国なりの文化での判断の仕方というのがあると思いますが,ではそれを同じ状況で日本人だったらばこれをどうとらえるだろうか,そういうものを想像してもらいます。相手の枠組みから,相手の目,相手の立場から見たときには,どう解釈が変わるか,そういうエクササイズをしていただいたりすること。ケーススタディなどを用いると,そういったことができるかと思います。
 それから,コミュニケーションスタイルの習得ですね。例えば,婉曲的な表現。婉曲的というのは何も言葉使いだけでなく,そのときの表情や言葉のトーンとかいったもの全て含めて,コミュニケーションのスタイルがあると思います。そういったものを実際に,練習しながら習得していく。そして更に,問題解決行動を学ぶことです。いろんなシチュエーションにおいて,どういうふうな問題解決ができるだろうかということを学んでいくことも,このレベルの方でしたら非常に有効にできると思います。
 この段階では学習者の方の抱えるアイデンティティの問題といったものが出てくるかと思います。日本にも大分なじんで日本語もできて生活も落ち着いて,だけれども,では私は一体だれということが問題になってくる可能性があるんですね。私は一体だれなんだろう,どの文化に所属しているのか,自分は居所がないのではないか,ということを感じ始めたりすることもあり得ますし,完全に私は日本人にならなければいけないのか,自分の母国の文化とはどう付き合えばいいのか,そういう疑問を持ったりすることもあるかとも思います。そういうアイデンティティ問題への配慮が必要となってくると思います。
 「統合」に関しては,ベネットも「統合」というのはかなり長い間のそこの文化での生活や経験が必要になると言っていますので,ここでは「統合」のところは省いて「適応」まででとめておこうと思います。
 今日紹介したベネットのモデルというものは完璧ではないのですね。特に,欧米人の考えに基づいてつくられているモデルですので,必ずしも日本人にしっくりこない部分もあると思うんです。実際に,私自身が研究をしたときにもこういう結果が出たのですけれども,日本人の場合というのは日本が逆にユニークだと思いすぎて,ほかの外国人の方とは絶対に違うのだという,相手は違うのだという前提が出発点なんです。欧米人の方,特にアメリカ人ですね。相手は同じなんだという出発点の方も意外と多くいらっしゃいます。日本人の場合,相手は違うんだという出発点がありますから,何か最初から文化相対主義的なイメージを持つんですが,では相手は違うんだと認めているから相対主義的かというと実はそうではなくて,日本人には経験が足りないんですね。ですから,違うとわかっているのですが,いざお付き合いするとなったときには日本のやり方そのままで,日本人の解釈の仕方で相手の言動を解釈して傷付いてしまったりということがよく起こり得ます。そういう日本人とアメリカ人の違いの問題があるのではないかということが私が行っていた研究でもわかっています。ですから,このモデルが絶対的だということではありません。
 しかしながら,こういったモデルを知ることによって学習者の方が違いに対して持っている自分の中の気持ちとか,何か防衛的になってしまっていたり,ないしはすごく表面的になっていたりとか,みんな一緒なんだというところでとどまっていたりとか,そういったものを手助けするようなことができるのではないでしょうか。もしくは,「防衛」の状態にいる人に「文化比較をしなさい」ということで授業をしても,「そんなの,日本とアメリカ違うじゃないか。アメリカなんて住めないよ」というふうに,逆にいやだという気持ちを強めてしまうという望まない結果を招いてしまうこともあり得ますので,そういう意味で私たち教育者の立場では異文化感受性について知っておいて,何らかのケアができた方がいいのではないだろうかというのが私の立場です。
 今,私一方的にお話させていただいていたのですけれども,今まで皆さんお聞きになられていて,いろんなことが心の中に浮かんでいたと思うのですね。コミュニケーション学では,そのことを個人内コミュニケーションと呼んでいるのですが,ですからこのように1対大勢の場であっても,実は私が一方的にしゃべっている一方通行のコミュニケーションでなく,皆さんの心の中でいろんな思いや考え,アイデアがいろいろ浮かんでいらっしゃると思うんです。その中で最初に申し上げたテーマ,「日本語教育の中で,教材選び,教材開発,カリキュラム,学習者への支援といったことで応用できることはないだろうか」というのを,きっと心にとめていらっしゃったと思うので,何か浮かばれたことがありましたら,会場の皆さんと共有していただけたらなと思うんですけれども。何か,こういうことを考えましたというようなのがございましたらお願いいたします。
 また,御質問などもございましたら。日本語教育だったらこんなことが言えるのではないだろうかというようなことがあったら,ぜひ私自身もお伺いしたいなというふうに思うんですが。
 よろしければ,お名前とどちらからいらっしゃったのか,おっしゃっていただければ。

*1 バイカルチュラル (bicultural)二文化併存。
*2 インプリケーション (implication)かかわり合い。からみ合い。暗示。含蓄。


参加者:Sと申します。S日本語クラブという外国人と帰国生徒の子供たちに日本語を教えています。一つ,伺いたいことがあるのですが,とても今日は興味深く拝見させていただきましたが,子供の場合,特に小学生なんですが,この異文化のモデルというのはどのように当てはまるか,先生のお考えを教えていただけますでしょうか。

山本:このモデル自体が,恐らく子供向けにつくられたものではなく,成人教育向けにつくられたものだと思います。ですから,特に子供の位置づけというのをベネット自身も研究していないので,私自身もどういうふうにとらえたらいいのかと思うんですが,やはり子供の場合ですとまだ発達段階にありますので,ちょっとこれをそのままどうあてはめるか,私の方もいい案が今すぐ浮かばないのですけれども,申し訳ありません。

参加者:ありがとうございました。

参加者:Mと申します。現在,M大学というところで留学生を相手に日本語を教えております。一方で,今,R大学院で異文化コミュニケーションの勉強もしておりまして,何か生かせるものはないかなということで考えておりまして,一つポイントとしては敬語教育というのをキーワードにして,特に留学生が一番やはり敬語でつまずくものですので,日本語の敬語というものを通して何かコミュニケーションできたらなと。一つはポライトネス(pokiteness)*1という観点から英語コミュニケーションの利点を逆に日本語の敬語に取り入れていく中で,留学生にうまく教えていければなということを今,研究しております。一方で,幼児教育が実は専門でして,子供の幼児教育の中にも敬語を通した何かコミュニケーションということで,うまく生かしていけないかなということを模索中でございます。まだ,答えは出ていないのですけれども一つキーワードとして敬語とポライトネスというのを考えているところでございます。

*1 ポライトネス(politeness) 丁寧さ,礼儀正しさ


山本:ありがとうございます。そうですね,礼儀正しさと敬語という部分ですよね。礼儀正しさという概念自体は,これは日本だけにあるわけではなく,もちろん海外にもあって,よく例えば私が英語を勉強したときには英語では敬語がないんだよというふうに習ったんですが,実はそんなことはなくて礼儀正しさを声のトーンなどで英語話者の方は表わしているんです。礼儀正しさという共通する部分,概念というはあるんですけれども,そこでどういうふうに違っているのかとか,そういったものを具体化していく中での敬語教育の可能性というものが一つあるのかなというふうに感じながら聞いていました。
 あと,非言語コミュニケーション,言葉以外の部分のコミュニケーションもですが,「コード・スイッチング」ってありますよね。例えば,日本語を話しているときと英語を話しているときで,自分の頭の中の枠組み自体もスイッチして切り換えるものなんですけれども,よく日本人で英語を話すと急に人が変わるという人いるじゃないですか。それを良く見る人も悪く見る人もいますけれども,やはり英語で話すと私もちょっとだけ人が変わるんですね。
 私,実は大阪の出身なんですけれども,もし私がこの講演を大阪弁でやっとったら全然違ったものになると思うんですね。もっと,笑いもとろうとすると思いますし,全然違うでしょう。キャラクターも変わって見えると思うんですよ。本当は大阪弁の方が素の自分という感じが自分でもしているんですけれども,標準語になったら何かちょっとこぎれいになってしまうんですね。でも,表現できないんですよ。なぜか,標準語では。そういう自分の部分が。そういった部分ももちろんあって,その非言語の部分,日本語を学んでいらっしゃる方で,例えば帰国子女の方にもありますが,日本語をしゃべっている時の語調がやけに荒く聞こえたり,言葉がきついと受け取られる。それらは,非言語の部分なんですね。「パラ言語」というふうにコミュニケーション学では呼んでいます。パラというのは周辺という意味ですので,言語周辺です。その辺もこういった異文化の感受性の部分とあわせてどういうふうに変えていくのか。帰国子女の方の例にあるような,日本語をしゃべっていても主張的に聞こえるトーンですとか間合い,すごくテンポの早い間合いですとか,そういったものは非常に文化的なものだと思うんですね。敬語教育というものも単なる言葉ではなくその裏にある思いみたいのものをあわせて,何かできるのが確かにありそうだなというふうに私も感じます。ありがとうございます。

参加者:どうもありがとうございました。

山本:何か皆さんが,実際現場で教えていらっしゃっていて,今日のお話とリンクさせて,ああ,こういうことかなというふうにお感じになられたようなことでも結構ですので,何かございましたらぜひこの機会にお伺いしたいのですが,いかがでしょうか。

参加者:専門学校の日本語科で日本語を教えておりますIと申します。年少者への指導というのは全然経験がないんですが,今の異文化というところで思い当たるのは,学習者が謝ったりとか誘ったりとか断ったりとかいうところで,日本の文化がわからないために結構衝突するところがありまして,日本の場合はこういうことだ。じゃあ,あなたの国ではこういう場合はどうなんですかというようなことを,教室の中でよく話し合うことがあります。そういうところに使えるのかなというふうにちょっと思いました。以上です。

山本:なるほど。今,おっしゃっていただいたように,もしかしたら誘い方,断り方,謝り方とか,そういったのでこういう場合どうしたらいいのかなということを日本語教育の中で話し合う機会は多いのかもしれないですね。
 では,その場合にどうでしょう。一種の文化比較,文化分析をしていくのですけれども,学習者の方が「防衛」の段階にあった場合,学習者の方が「最少化」の段階にある場合,学習者が「受容」の段階にある場合,誘い方や断り方について,どう言っていいだろうと話し合いを持たれるときにも,やはりなんらかの注意が必要になってくるような気がいたします。断り方ですと日本人の場合だと,よく「いやそれは,ちょっと」とか,「うん,ちょっとよくわからないけれども,できたら行くね」とか言って,行かないというのがすごくありますよね。これは韓国の方から見ると「本音と建前があるのがなかなか理解しにくい」というふうにおっしゃるのですが,文化的にも違っている点だそうで,それで寂しい思いをなさることがあるということなんですね。
 そのとき,「防衛」の段階にあったら,もしかすると,「だから日本人って信頼できない」,そういうふうにつながってしまう可能性をどう日本語教育の中で防いでいくのか。そうではなくてという部分をどういうふうにしていったらいいのでしょうか。「最少化」の段階にある場合だったら,「いや,韓国人も,だめなのにいいと言うことがあるから,それと同じでしょう」というふうに考えるかもしれません。しかし,韓国人が本当はだめなのにいいと言うときには,日本人がそう言うのとは違うかもしれないんですよね。それをどういうふうにとらえていったらいいだろうか。そういうふうに考えていくだけでも,すごくいろんな示唆があるような気がいたしますが,どうでしょうか?皆さんの方が,御経験が豊かだと思うので何かあったらお聞かせいただきたいと思います。

参加者:T大学のMといいます。私は大学で,多文化とか日本語教育とか日本語とかを教えているんですが,今の話とは共通するかどうかわかりませんけれども,多文化というところで,教えていて相手は一般の―私,日本人という言葉が嫌いなんですけれども,一般の学生,たまに留学生がいたりするんですね。今の話ですと,同じ教室の中では多分違ったレベルにいる学習者なり学生なりがいるということになっていくと思います。個人的には,一番最後のレベル,今日の話に余り触れられていないんですけれども,そこの日本語教育でも上級レベルの教育ですとか,このレベルにいる学習者に向けての題材が余り整っていないようには,私は個人的に思っています。皆さんに,いい題材とかがあれば教えていただきたいと思うのが1点。
 さっきの話に戻りますと,そのさまざまなレベルにいる学習者に対しては,教員あるいは指導者,あるいはその教室の中で教える立場にいる,ともに学ぶというのは多文化の姿勢なんですけれども,その学びを何らかの形で引っ張っていく役を補っている人間が一人一人のニーズに合わせて,そこに目を向けていくような努力が欠かせないのではないかなと思います。講義などの場合ですと,コメントカードを利用して百何人の学生に向けてコメントをもらって,みんな同じだということに関してコメントを書いたり,いや,それはいやだというような表現を使っている学生に対して,ちょっとこれを考えようというようなことをやっているんですけれども,教室の中では皆さんはそういうことをどうなさっているのかということ,非常に興味があるんですね。もし,講義ですと紙を介してコメントカードという形でできるのですけれども,少人数の5人の中で,例えばこのレベルそれぞれ一人ずついた場合にはどうすればいいのか,皆さんはどう考えているのか,ぜひ聞きたいと思います。

山本:ありがとうございます。一つ目として,上級者向けの題材でどんなものを皆さんが使っていらっしゃるかということと,それから教えているグループの一人一人の異文化感受性のニーズに合わせるフォローを入れてあげるために,どんなことを皆さんがしているかという御質問だったかと思うのですが,何かその辺で御体験がおありの方いらっしゃらないでしょうか?
 私は日本語教育のことをよく知らないのであれなんですけれども,上級レベルの方ですと,Contents Basedの教材はどうかなというふうに私は今ちょっと思ったんですけれども。ですから上級者ですと,異文化コミュニケーションのようなものを題材にした本を教科書として読むような,何かそういう内容中心のものって考えられないだろうかというふうに思いました。
 特に,非常に文化的にマージナル*1な存在の場合ですと,それ自体そういう自分というものが受け入れられない寂しさとかそういうものを抱えている学習者の方もいらっしゃるんですね。そういう方が一番心地よく感じられるのが,やはり自分と同じように文化的にマージナルな自分と同じような立場にいらっしゃる方とネットワークができることで,お互いにサポートできるようなそういったこともあるそうなんです。自分だけがそうなんじゃないんだというようなことへの気付きとか,そういった部分で異文化関係の教材を使われるというのはどうかなというふうに,私はよくわからないなりに今思ったのですけれども。
 もう一つの御質問は,一人一人に対して,ニーズの違う学習者に対してですよね。その辺,今コメントカードを使っていらっしゃって,それでそれぞれ個別にケアをするというようなアイデアでしたよね。それもあると思いますし,少人数の場合でしたらどうなのだろうかという今の御質問について,そのあたりのこととか,皆さんでしたらどうなさっていますか?

*1 マージナル (marginal)周辺にあるさま。また,限界であるさま。


参加者:その答えになるかどうかわからないんですけれども,今,聞いていると日本人側がほとんど教えるという立場で考えていますよね。学習者は,日本語は私たちよりできないけれども,知的レベルとかそういうのは上だったりするわけですよね。そうすると,日本人が教えるのではなくて日本語能力が同じでも異文化に対する感受性がばらばらですよね。そうするときに,日本人が主導権を握らなくて違う取り方をしたときに,外国人同士をほったらかしておいて話をさせていると,その中で日本人が「こうよ,こうよ」と言うよりは外国人同士の方がわかりあって自然と自分の中での落としどころが出てくるのではないでしょうか。それとはまた違いますけれども,この異文化感受性モデルというのを今,聞いていて,ああ,こういう分類があるんだ,面白いな。自分はどうかなと思うように,何か1回特に上のレベルの人なのですけれども,こういうものがあるんだよということを外国人にも授業というかそういう中で,こういう題材を1回取り上げると,外国人たちはその中で自分の分析ができるのではないでしょうか。

山本:ありがとうございます。今のお答え,先ほどの質問者の方にどうでしょうか。
 まず,日本語教育をしている者が情報のリソースと考えるのではなく,教室全体を情報のリソースとして考えて,そのインタラクション*1の中で互いに学び合えるのをむしろファシリテート*2するだけのような立場,そういう立場というものが一つの在り方という御意見かと受け止めました。先ほどの質問者の方,いかがですか。

*1 インタラクション (interraction)相互作用。
*2 ファシリテート (facilitate)容易にする。促進する。


参加者:ありがとうございます。さっき言っていた学びの場というのは,私は外国籍の人間として授業をする側にまわっていくことが多いんですけれども,あくまでもそれは私たち全員,力合わせてやっているような授業はやっておりますので,その中ではこの異文化適応レベルの話は大分古くからあるんですけれども,違ったニーズの人たちを本当にその空間において,お互いがお互いを指摘し合うということも実際はやると思うんですけれどもその落とし穴もあるのではないかというふうにちょっと思って,それに出会ったときには皆さんはどう切り抜けていっているのかなということもちょっと考えていたのでありがとうございました。

山本:ありがとうございます。今,お話の中で,では日本語教育なり異文化教育に携わっている私たち自身はどうなんだろうかというようなことがちょっと出てきましたので,御紹介したいなと思うのですが『IDI(Intercultural Development Inventory)』というものが開発されています。これはミルトン・ベネットとミッチ・ハマー(Mitch Hammer)という二人の学者がかなりの年月をかけて開発した心理テストなんですけれども,これは自分自身や学習者の異文化感受性の段階を測定する心理テストです。御興味がある方いらっしゃいましたら『Intercultural Development Inventory』というものがあるということを御紹介したいと思います。ホームページを御覧になるのが一番わかりやすいかと思います。Intercultural Communication Instituteという,ミルトン・ベネットが所長をされているところですが,そこのホームページ(http://www.intercultural.org/)の中に詳しく出ています。
 今,お話にも出てきましたように,外国人の方というのが本当に情報のリソースであり,知的レベルには我々より全く上のことも本当にありますよね。実際,そういったことをもっと活用していくということが大事なのではないかなということも考えられると思うんですね。皆さんの方では,そういうふうに外国人の方を,もっと知識や情報のインフォメーションのリソースパーソンとして活用なさっているというような例もほかにもございますか?
 あとは,異文化感受性のことで言いますと何も外国人の方だけのことではなくて,日本人側の受け入れ側の方の異文化感受性というのもすごく大きいと思うのですね。それで,私が現在研究していますJETプログラムの国際交流員(CIR, Coordinator of International Relations)の場合は,地方自治体で働いているのですがやはりいろいろと悩みが多いんですね。確かに英語指導助手(ALT, Assistant Language Teacher)をしているJETの青年たちは日本語が話せない方が多いですので,その面で苦労が大きい,そこももちろんわかるんですけれども,日本語が話せる国際交流員であっても仕事やコミュニケーションで異文化ということで困難がたくさんあるという部分について,今後受け入れ側になる日本人の方の異文化感受性というものもを,どういうふうにしていったらいいのだろうかということも,私は非常に感じているところです。
 特に,これまでですと異文化コミュニケーションの研究でもそうだったんですが,海外に出て行く日本人の適応問題が中心だったんですね。ないしは,日本に来られた外国人のマネージャーと一緒に働く外資系企業の日本人のように,外国人がマジョリティで日本人がマイノリティになるような状況が多かったんですが,これからはやはり日本人が多数派である集団の中にマイノリティとして入ってくる外国人の方と一緒に生活したり,一緒に働いていくために我々はどうあるべきなのか,そういったことも非常に重要だと考えています。そういった意味では,日本語の地域コーディネータをなさっておられる皆さんの役割というのは,外国人の方への日本語教育を超えて,地域の日本人の方の異文化の学びというものをもっと啓発していくような役割というのが,今後はもっと重要になってくるかもしれないなと感じます。
 皆さんはそういったこと,いかがでしょうか。特に,今日は首都圏だけではなくていろんな地域から,いろんな方が来られていると伺っているんですけれども,皆さんの住んでいらっしゃるところではいかがでしょうか。

参加者:N教育委員会からまいりましたTと申します。私は25年ほどカナダに住んでおりまして,昨年,教育委員会で雇われまして,87校ほどの県立高校のAET*1の一人一人の授業方法とか学校の対応方法,調べさせていただいたんですね。
 国際交流員の方で非常に有能な方とめぐり合いまして,何とかこの人を活用しようじゃないかと思ったわけなんです。それで,一緒に昨年の夏,AETの研修をしたりとか,または英語の先生方の研修を今,計画したり,いろいろとさせていただいているんですが,そのときに気付いたことで,まず県内のAETの方の中には非常に有能な方もいらっしゃいますが,御存じのようにJETプログラムは4年生大学卒ならだれでもという感じで,外務省の方の窓口で採用されていまして,いわゆるスクリーン*2されていないわけなんですよ。
 それで,当たりもあればはずれもあるという社会でして,実は先ほど私は非常に興味深いなと思って聞いていたんですが,脅威から憧れに変わるという異文化体験のところですね。今の日本が,特に当自治体の場合,今でも外国人コンプレックスがそのまま生きていると。特に白人に対してです。非常にその外国人コンプレックスがあって,初めにぽっと出のお兄さんやお姉さんが来ているのにもかかわらず,日本人の迎え入れに来る先生は東京でその辺の宿屋さんに泊まるのに,外国人には非常にすばらしいホテルに泊めたり,昔はちょっと前まではファーストクラスで招待していたと,非常に驚くようなことが起こっているわけなんですよ。彼らも目をむいて,ええ,こんなに待遇いいのという感じで,一月30万円ももらっているわけです。
 地元では先生方はきっとすばらしいAETの先生なのだという感覚で迎え入れて,1年目はまだ日本の文化知らないから,いろいろと働きづらいのだろうと,大目に見るわけですよ。2年目ぐらいから,ちょっとこれは違うんじゃないか。教え方もわかっていないんじゃないか。この先生が3年目の契約を更新しますと,もう堪忍袋の尾が切れたように先生方の態度が一変するんですね。非常に冷たくなるのです。もうこれ以上,我慢できないと。それに対して,外国から来ているAETの方たちは,何でこんなに変わってしまったの。あんなに優しかった周りの目が,非常に冷たくなる。これが日本人がやっていることじゃないかなと私は思うんです。
 先ほどお話しましたように国際交流員ですばらしい方とめぐり合って,国際部の方に,彼は非常にすばらしい人ですし,博士号も今やっていらっしゃるし,スーパーティーチャーと言われている人だから,研修とかいろいろ使ってくださいと,私が彼を推薦して,周りの彼に対する尊敬とか意識を高めてあげようとしたんですね。ところが,それが今度は逆に働いてしまいまして,彼が何を言っても日本人がはっきりノーと言わないので,自分の言うことを全て押し通そうという感じになってしまっていて,今,非常に責任を感じております。ですから,対外国人,異文化交流にしても異文化理解にしても,両方立てようと思うと非常な苦労が伴うなということを身をもって経験しております。

*1 AET(Assistant English Teacher) 英語指導助手。
*2 スクリーン (screen)審査する。選別(選抜)する。ふるい落とす。


山本:ありがとうございます。今のお話の中に出てきた関連することで,ちょっと一つ追加させていただきたいと思うのですけれども,先ほども外国人の方をリソースパーソンにというお話をしたんですが,そのときにその方の文化感受性がどうなのかというのを見落としてしまうと,とんでもないことになってしまうんですね。その方自体が,客観的に自分の文化も日本の文化も見ながら語れる人であれば,非常に有能なリソースパーソンになれます。しかし,その方が「防衛」の段階にあって,日本に対して敵意というか何か嫌な思いをされた体験と向き合っている段階の場合,この同じ方でも後にいろんな経験をして受容時期を過ぎていくといろんな経験を語れるのですけれども,とにかくやっぱりまだ来日してから嫌な経験ばかりという方は,やはりその視点でしか日本を語れないです。それに,自分の文化自体に対しても余り理解がなく,客観的に話せない方も大勢いらっしゃるんですね。それは,AETやCIR*1の方でも同じことが言えるのですけれど。ですからリソースパーソンとして外国人の方に何か日本で話していただくときに,その方の異文化感受性はどうなのかというのを見落とさないということが一つです。
 それから,日本人側からの異文化コミュニケーションということで,最初お客様扱いしていたのに,途中から手のひらを返したように,というお話がありました。我々の方からもちゃんと情報を発信していくことが必要ということですよね。現在,JETプログラムの国際交流員を受け入れている地方自治体の職員を対象とした調査をしていく中でわかってきたことなのですが,CIRと一緒に仕事をしていく上で,やはり相手は自分と違うんだというふうなものの見方をする場合に二通りあって,「違うからだめだ」という人と「違うからこそ説明が必要だ」ととらえる方がいらっしゃるんですね。
 ですから,日本語教育のこととも絡めましても,日本人にとって何が良いのか悪いのか,日本の文脈の中での判断基準というものを持っていない人に対して,私たちの方が発信する責任があるということではないでしょうか。相手がそれを知らないのに勝手に放っておいて,後から,「お前ちゃんとできていないじゃないか」とだめ出しをしてしまうと,非常に外国人の方も傷付いてしまうのですね。だから,われわれの方も,「お客様扱い」とか「特別扱い」ではなくて,また,「違うんだ,だからだめ」ではなく,「違うんだ,だから我々が発信するんだ」というような,そういうふうな態度を持つ必要があると言えます。
 お時間の方がきているみたいなのですけれども,日本語での発信に関しては,どのような立場に立ってどういうふうに考えて相手に説明をしていくのか,メッセージやコンテンツを考える必要がありそうです。恐らくこの辺りは,我々としても自分自身の能力を高めていかなければいけない部分でしょう。また,異文化感受性については,相手と自分が違うんだということ,違うというと悪いというように思いがちですが,違うからこそ学ぶ部分もありますし,違うからこそ,だからもっとちゃんと言葉を尽くして説明しなければいけない部分もあるかと思います。互いの違いゆえに衝突もあるでしょう。ですけれども,衝突というのは悪いものでは必ずしもなくて,衝突を恐れていたらこの「否定」の段階,物事が見えない,いい悪いも見えない段階のままで終わってしまいます。衝突したからこそ,お互いが大事にしているものが見えてくる。そこから折り合いをつけていくことができるということもありますので,そういったことも何か日本語教育の中で皆さんが生かしていくヒントになれればなというふうに思います。
 異文化感受性のお話で私がうまく日本語教育とつなげるということができなかったので,皆さんの方にそれをお任せしてしまう形になりましたが,何か今日のことがヒントになって,皆さんの教育の現場の方で生かしていただけたらなというふうに思います。
 御清聴ありがとうございました。

*1 CIR (Coodinator of International Relations)国際交流員


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