日本語教育研究協議会 第6分科会

日本語教育研究協議会
第6分科会 「日本語学習支援に役立つ言語技術教育の技法について」
三森 ゆりか(つくば言語技術教育研究所所長)

三森:では,始めさせていただきます。
 つくば言語技術教育研究所の三森です。よろしくお願いいたします。
 今日は,「家族単位の学習者を支える日本語教育の在り方」ということでテーマをいただいたのですが,私自身は特に日本語教育をしているわけではありません。ただ,中学から高校にかけて私自身がドイツで暮らした経験がありまして,そこで親子で現地語の学び方にギャップがあるということを経験しました。もう一つは,大人の学習者が中級以上の語学を身につけていくときに,ただ文法をやっているだけではおもしろくないでしょうということで,欧米の語学教育などで中級以上で一般的に行われている文章の分析を御紹介したいと思います。
 まず,私自身の経験で言えば,家族単位で外国語を学習するとどうしても親子関係が逆転します。私にもドイツ語のできなかった母をどうしても軽んじてしまったという経験があります。私たちが先にドイツ語を身につけてしまって,親を通訳する立場になってしまって,早い時点で親から自立を促されてしまったために,親に対して信頼がなくなってしまったのです。ドイツ語のできる父親はいいとして,できない母親は全く頼りにならないということを,中学2,3年生で経験しました。
 さらに,親子のコミュニケーションがうまくとれなくなっていくというのは,私が成長段階にありまして,二つ違いの妹がいたものですから,会話に中途半端にドイツ語の単語が混ざってしまうんですね。あちらで身につけたり,あちらで初めて知った言葉が外国語になってしまって,日本語の間にドイツ語が入っていってしまうと,いちいち母が「それはどういう意味」と聞くのが非常にわずらわしかったという記憶があります。そこで,親子関係がまずくなったという経験を持っております。逆に,母親の立場で考えてみると,母は子供にあてにされなくなり,つらい立場にあっただろうなと今思えばわかるのですが,中学,高校時代の私はそんなことにまでは思い至りませんから,ひたすら母親の扱いが面倒くさかったという思いがあります。
 このような経験から考えてみると,大人の方もある程度語学ができるようになった時点で,大人の方自身がその国の言葉を学ぶ楽しさがあってもいいのではないかと思いまして,今日は文章の分析というものを紹介させていただきます。片言の日本語が(私たちの場合はドイツ語だったのですけれども)できるようになってしまうと,いつまでも文法をやっていては楽しくはないのですね,大人の方の場合は。そういう方たちで,ある程度教養のある方たちにとっては,その方たち自身が外国語を学ぶ楽しさというものがなければいけないと思います。日常会話以外のところで。そうすることによって,辞書を引く気にもなるでしょうし,言葉を考えるきっかけにもなると思います。
 今日御紹介する「テクストの分析」というのは,欧米の中学,高校ではごく当たり前に行われている読解の方法です。ただ,日本とかなりやり方が違いまして,どこにそういうふうに書いてあるのか,どうしてそういうふうに考えられるのかという,根拠を突き詰めて考えていくというのが欧米式のテクストの読解です。
 私のスペイン人の友だちがイギリスに御主人と赴任して,中級以上の英語学校に通ったときに,テクストの分析が中級以上のクラスの英語の内容だったそうです。その後,彼女はしばらく日本にいて,今度はデンマークに御主人の赴任で行ったのですが,そこでも中級以上のデンマーク語のクラスに通ったところ,いつもテクストを中心に分析をするという授業で,非常に楽しかったそうです。というのは,彼女はスペインでスペイン語でテクストの分析の授業を受けて育っていますけれども,デンマークに行くとやはりスペイン人とはものの考え方が違う。デンマークの学校にはロシア人とか,日本人とか,いろいろな国の人たちが集まっていて,その人たちがデンマーク語という言葉を使って分析をすると,文化が違うため解釈の仕方が皆さん異なるので非常に楽しかったと言っていました。
 日本語教育の中にもこういうことが入ってきますと,いろいろな国の方たちが文章を読むことを通じて議論をして,お互いに異文化のコミュニケーションができるのではないかと思います。ここから先は,それがどういうものかについて簡単に説明をしますので,あとは皆さん一緒に参加してください。短い時間の中ですので,どこまでできるかはわからないですけれども,できるだけやってみたいと思います。
 まず,ここで「テクストの分析と解釈」あるいは「批判」という呼び方をしていますが,これはアメリカでは“クリティカル・リーディング>*1”と呼ばれているものです。ドイツ語では“インタープリテーション”という言葉が使われていますが,ドイツでも,フランスでも,スペインでも,デンマークでも,アメリカでも,やり方はほとんど変わりません。分析には項目があります。どういうところを手がかりに分析するかと言いますと,資料の32ページにざっと書いてありますが,まず物語の構造を分析するということをよくやります。
 皆さん,どこから事件が始まって,どこにクライマックスがあって,どのように結末があるかということを,日本の国語教育の中でも学んだと思いますが,ここでの構造分析の違いは,なぜこれがクライマックスになるのかということを論理的に根拠を求めて議論をするというところです。
 それから時制については,大きく分けて過去形と現在形などがありますが,どうしてその時制が使われるのかというのが分析の対象になります。
 文章の構成においては,視点も重要です。視点というのは,第一人称で語られているのか,第三人称で語られているのかということで,視点が変わると文章の内容が変わってきます。例えば,第三人称は,一般的には作家の視点というのですが,作家の視点は神様の視点なんですね。つまり,作家がその物語を創作していますから,すべてが見える立場です。だから,すべて書ける立場なのですが,これが物語の中の主人公の視点で語られると,主人公が見聞きできるものの範囲でしか物語が語れなくなりますから,主人公が認知できないことはすべて読んでいる側が推測することになります。
 それから,設定というのは,時代背景であるとか場所,時間,季節,内容によりますけれども,状況とか環境とかなどが,これにあたります。例えば「昔々,とある山奥に何々さんというおじいさんが住んでいて,そのおじいさんは貧しくて」というものが設定になります。
 それから,人物というのは,それに出てくる人物がどういう人物であるかを分析するのですが,手がかりとしては性別であるとか,年齢,出身,あるいは,階級,職業,容姿,言葉遣い,性格や服装,持ち物,名前,趣味やくせ,特徴,家族構成,経歴,人間関係,こんなものが分析の対象になりますし,あるいは,その人に付けられた名前も分析の対象になります。
 名前の分析というのは,皆さん,太宰治の『走れメロス』というのを御存じですね。この『走れメロス』はフリードリッヒ・シラーの『人質』という詩をもとにして書かれたものです。ドイツ語でも「メロス」となっているのですが,フリードリッヒ・シラーは古いシラクスあたりの古伝説をもとにこの『人質』という詩を書いているのですが,「メロス」という言葉をずっと探っていくと,元々「メロス」という名前には「城壁」という意味があるのです。「城壁」というのは守るということです。この「城壁」から「守る人,防ぐ人」という意味が出てくるのです。そうすると,『走れメロス』の「メロス」には初めから「守る人,防ぐ人」と意味が与えられていて,意味がわかっていると最初からメロスの役割が見えてくるということになります。児童書で『あのころはフリードリッヒがいた』*2というドイツの小説があるのですが,これも悲惨な目に遭って,最後は死に追いやられるユダヤ人の少年の話です。この「フリードリッヒ」には「フリーデン(平和)」という意味を内包しています。ドイツ人はフリードリッヒという名前を見るたびに,残酷な目に遭っている主人公が「平和」を訴えているということを意識させられながら読むということになりまして,名前の分析というのは非常に意味があります。それから,象徴が何であるかとか,キーワードが何であるかというふうに項目別に分析していきます。
 ところで,テクストを分析すると説明しますと,どこに行っても必ず質問が出るので,先にお答えしておきます。「分析をすると作家の思いをないがしろにするのではないか」という質問が必ず出るのですが,考え方が違うということを先に説明します。
 欧米での文学作品の分析においては,真ん中に文学作品があります,左側に作家がいます。作家が作品を生み出して,そして右側に読者がいます。
文学作品の分析図
 作家は作品を生み出したところで,作品から手を切ります。読者は読者で作家から切り離された作品を自分自身で解釈していいというのが分析の基本的な考え方です。これはしかし勝手に解釈していいという意味とは違います。勝手に解釈するのではなくて,解釈には責任が伴います。ですから,必ずどうしてそう解釈したのかということを文章を根拠にして説明するというのが分析の考え方です。これは,作家をないがしろにしているのではありません。作品自体が,作家の手を離れた時点で,読者の自由な解釈に委ねられるという立場に立っていますので,そこで分析という作業が出てくるわけです。
 読者は文学作品を解釈するに当たっては,作家の背景までずっと探っていかなければいけないのですが,ここで日本の国語との一番大きな違いは,作家はこのときどういう気持ちだったでしょうという質問は出てこないのです。作家がどういう気持ちであるかは,作家が亡くなっていれば絶対わからないわけですから,そういう質問は一切出てきません。作家が生きていようが亡くなっていようが,読者としては,「私はこの作品をどう読むのか」という立場で読んでいいということになります。
 時間がもったいないですので,今日は皆さんと実際に分析をしてみましょう。作品というほどではないかもしれないですけれども,時間が短いので,一番わかりやすいものを持ってきました。『たき火』という歌を御存じない方はいらっしゃいませんよね,大丈夫ですよね。これは童謡です。これを分析してみたいと思います。私たちは中学1年生に『たき火』の分析を行っています。この歌というか詞に関しては,場所と季節と天気,登場人物,この四つに絞って分析をしたいと思いますので,ここから先は皆さん御協力をお願いいたします。
 まず,場所ですが,これはどんな場所でしょうか。わかりますか。場所はどこでしょう。どうぞ。皆さん,遠慮せずに,前の人たちから,せっかく前に座ったのですから,手を挙げて参加してください。場所はどこでしょう。

*1 クリティカル・リーディング あるコースの中で,何を教えるかという学習項目をまとめたもの。
*2 『あのころはフリードリッヒがいた』リヒター著,岩波少年文庫


会場:垣根の曲がり角

三森:垣根の曲がり角ですね。垣根はどこにありますか,一般的に。どういうところにありますか。垣根というのは何の役割をするものですか。

会場:家の周りの囲いの木。

三森:家の周りの囲いの木ですね。そうすると,この場所はどこでしょう。どういうところでしょう。大通りですか。通学路ですか。あるいは,ビルが建ち並んでいる場所ですか。どういう場所ですか。これは昭和16年の歌ですが,昭和16年というと考え方がまた変わってきてしまうので,今でいいことにしましょう。垣根があるというのはどんな場所ですか。

会場:住宅街。

三森:住宅街ですね。場所は住宅街である。なぜかというと,「かきねの かきねの」と垣根がつながっているからです。しかも,垣根のどんな場所ですか。

会場:曲がり角。

三森:曲がり角ですね。それは文に「まがりかど」とあるからです。
 では,季節はいつでしょう。

会場:冬。

三森:どうして皆さんそう思いましたか。

会場:「きたかぜピープー」と書いてあるから。

三森:北風はいつ吹く風ですか。冬に吹く風ですね。こうやって確認していくのです,必ず。
 季節がわかるのはそこだけですか。

会場:木枯らし。

三森:「こがらし」ですね。木枯らしというのはいつ吹く風ですか。

会場:冬。

三森:ちなみに木枯らしというのはどんな風ですか。秋から初冬にかけて吹く強い風を木枯らしというんですが,これは冬の季語でもあります。さて,季節をあらわしているのはそこだけでしょうか。

会場:しもやけ。

三森:「しもやけ」とは何ですか。こうやって一つ一つ言葉に当たると,言葉の意味をきちんと知らないと説明ができないのですね。ですから,外国人にも勉強になっていくわけです。「しもやけ」って何ですか。何でしょう。

会場:軽い凍傷です。

三森:いつできますか。

会場:冬。

三森:冬ですね。ほかにありませんか。まだありますよ,季節をあらわしているもの。

会場:さざんか。

三森:「さざんか」って何ですか。

会場:花。

三森:どんな花ですか。

会場:冬に咲くツバキのような花。ツバキよりちょっと小さい花。

三森:そうすると,サザンカというのは写真を見て実際に当たることができますね。サザンカというのも冬の季語なのです。ほかにないですか,冬をあらわしているもの。

会場:たき火。

三森:たき火はどうして季節をあらわしていますか。

会場:木の葉を燃やすから。

三森:落ち葉焚きですね。落ち葉焚きはどうして春にはできないんですか。

会場:落ち葉焚きをするには落ち葉が必要だから。

三森:そうですね,落ち葉焚きをするには落ち葉が必要ですが,湿った落ち葉で落ち葉焚きはできるのでしょうか。落ち葉はどういう状態になっていなければいけないんでしょう。

会場:乾燥していなければいけない。

三森:では,落ち葉が乾燥するために何が必要なんでしょう。

会場:風。

三森:そう,風が必要なんですね。風で吹き飛ばされているうちに落ちた葉が乾燥していって,落ち葉焚きをするのに適した乾燥状態になるということになります。そして,これも冬の季語なのですね。ほかに気が付いたことはありますか。ほかに季節をあらわしている言葉はありませんか。

会場:きたかぜ。

三森:北風というのは何ですか。さっき聞きましたっけ,冬に吹く風ですね。
 まだありませんか,季節をあらわしている言葉。このように分析しようとすると文章をよくよく読み込むしかないのです。ほかにまだ出てきていない言葉がありますよ。

会場:あたろうか。

三森:どうして「あたろうか」というのが季節をあらわしているのですか。

会場:火に当たるというのは,気温が低くないと当たれないので,これも季節をあらわしている。

三森:ちみなに季節はいつですか。

会場:冬。

三森:冬ですね。ほかにまだないですか。もう一つ,まだ聞いていないような気がします。

会場:さむい。

三森:「さむい」というのは何をあらわしているのでしょう。どういうことをあらわしているのでしょう。

会場:気温が低いということをあらわしている。

三森:その気温が低いというところから,どういう季節だとわかりますか。冬であるということがわかりますね。これも辞書を引くと冬の季語なのだそうです,「寒い」という言葉自体が。これで季節が冬であるということは特定できたでしょうか。
 今度は,天気について考えてみましょう。どんな天気でしょうか。

会場:北風が吹いている。

三森:どのぐらいの強さで?「ピープー」というのはどんな強さだと思いますか。風が何となく吹いているのでしょうか。それともかなり強く吹いているのでしょうか。

会場:強く吹いている音,「ピープー」という音がするというのは,相当強く吹かないと音がしませんから,北風が結構強く吹いている。

三森:ほかに天気については何が言えますか?まだ天気がわかりますよ。

会場:雨ではない。

三森:どうしてですか。

会場:たき火ができるから。

三森:もし雨だったらたき火はできますか。もし雨だったらたき火はできないはずですね。
 天気についてはこんなところでしょうか。雨ではなくて,せいぜい曇りか晴れ。はっきりわからないですけれども,雨は降っていない。
 今度は登場人物です。登場人物は何人いますか。登場人物が何人いるか,この歌を聴いて考えたことのある方いらっしゃいますか。これが分析のおもしろさです。登場人物は何人いるでしょう。

会場:二人以上。

三森:どうしてですか。
 「あたろうか」「あたろうよ」というのは何でくくられていますか。かぎ括弧で括られていますね。かぎ括弧でくくられているということは何を示していますか。会話であるということを示しています。だから,最低二人以上いるはずです。でも,もう一人いるかもしれない,3人とどなたかおっしゃいませんでしたか。なぜ3人ですか。

会場:たき火を焚いている人が3人目。

三森:たき火を焚いている人がもう一人いるんじゃないだろうかということですね。確かに道路で火を焚いて,人がいなかったら危ないですね。そうすると,はっきり特定できないですけれども,二人以上は人がいて,最低3人はいるのではないかということになります。
 では,今度はこの「あたろうか」,「あたろうよ」と相談している二人ですね,最低二人。この人たちは子供ですか,大人ですか。

会場:子供。

三森:どうしてそのように思いましたか。

会場:「しもやけおてて」。

三森:「おてて」という言葉からどうして子供だとわかるのですか。

会場:それは幼児語だから。

三森:なるほど,では,今度はその「しもやけおてて」を使っている子供たちは何歳ぐらいですか。何歳ぐらいでしょう。

会場:小学校前。

三森:どうしてですか。小学校前,つまり3歳ですか。どうして皆さんは首を振るのでしょう。ちゃんと理由があるはずなのですね。どうして3歳ではないのでしょう。

会場:相談ができるぐらいの年齢でなくてはいけないから。

三森:3歳では相談できないということですね。そうですね,3歳ではちょっと相談できないですよね。3歳では相談ができないけれども,一方で「おてて」という言葉を使っているのですね。そうすると大体何歳ぐらいだと思われるでしょうか。3歳はあり得ない。それから,歩いているのは二人とも子供ですか。いかがでしょう。歩いているのは大人と子供かもしれないし,子供同士かもしれない。両方あり得ます。でも,子供同士だとすると,この子たちは何歳ぐらいなのでしょう。3歳は無理だけれども,4歳で大丈夫でしょうか。

会場:年長児。

三森:年長児というと5,6歳ということですか。4歳で相談をして,さらにたき火に当たるということが判断できるかどうか。いかがですか。どう思われますか。いかがでしょう。私が親だったら,4歳ではちょっと怖くて子供だけで外には出さないかなと思いますね。そうやって判断していくんですね。子供同士でも十分分析ができるのですが,大人でも自分で子育てを経験された方たちはおもしろく分析ができるのです。大体何歳ぐらいだと思いますか。
 10歳で「おてて」という言葉を使いますか。

会場:使わない。

三森:9歳はいかがですか。

会場:使わない。

三森:8歳はどうでしょう。使いますか。

会場:使うかもしれない,使う子もいるかもしれない。

三森:7歳はいかがでしょう。

会場:使う可能性が高い。

三森:そうすると,3歳はだめで,4歳もちょっと危ないというと,可能性のある年齢はどのぐらいですか。6,7歳前後ぐらいでしょうか。これで大体年齢が出てきますね。詞には全然書いてないですけれども,文章を分析して,厳密に何が書いてあるか,どういう言葉が使われているかを見ていくと,特に何も書いていない登場人物にも大体の輪郭が出てきます。ちなみに,この詞にはよく挿絵がついていますけれども,やっぱり5,6歳の子供の絵が描いてあるのですね。ですから,絵を描くためにも文章を分析しなければ絵が描けないということになります。
 時間がないので次にいきましょう。今度は『赤ずきん』の分析をしてみたいと思いますが,文章が長いですので,もう少し複雑で難しくなります。
 文章を用意はしてあるのですが,写すにはたくさんありすぎて難しいですね。『赤ずきん』に関してはまず人物を分析してみたいと思います。『赤ずきん』の物語を知らない方はいらっしゃいますか。大丈夫ですね。皆さん一通り読んでありますか,ざっとで結構ですが。大丈夫でしょうか。
 まず,『赤ずきん』の中で人物を分析してみます。赤ずきんとオオカミと狩人とおばあさん,大体この4人を分析するのですが,母も場合によっては分析することがあります。
 さてまず,赤ずきん。赤ずきんはどんな子供ですか。何歳ですか。赤ずきんは何歳ぐらいでしょう。どうぞ,大きい声で。

会場:7,8歳。

三森:7,8歳ですか。では,7,8歳と考えられる根拠は?どこから7,8歳とわかりますか。

会場:おばあさんのところへ行けるから。

三森:おばあさんのところにどうやって行くか。一人で歩いて行く。しかも,そのおばあさんの家はどのぐらいの距離なんでしたっけ。おばあさんの家が隣だったら3歳の子でも行けますよね。なぜ7,8歳なんでしょう。

会場:半時間かかる森の中におばあさんの家はある。

三森:そう,森の中に「半時間」と書いてあります。「ところで,おばあさんは村から半時間ほど離れた森の中に住んでいました。」。ということは,赤ずきんは一人で30分は森の中を歩いて行かなければいけません。さらに赤ずきんは手ぶらですか。

会場:ケーキとぶどう酒を持っている。

三森:これは軽いですか,あるいは,ある程度の重さがありますか。

会場:重さがある。

三森:そうすると,30分の道のりをたった一人で,しかもケーキとぶどう酒を持っていく腕力が必要なわけですね。そうすると,何歳ぐらいでしょう。

会場:7,8歳以上。

三森:今度は7,8歳以上なら何歳でもあり得ますけれども,また条件があるんですね。赤ずきんは14歳,15歳ということはあり得るでしょうか。なぜそれがあり得ないのでしょうか。

会場:「小さい」と書いてあるから。

三森:まず,「小さい」と書いてあること。「小さい」というのは,この場合,背丈ではないですね。「小さい」というのは多分年齢をあらわしています。ほかにこの子の小さな年齢をあらわしているところはないでしょうか。

会場:赤ずきんばかりをかぶりたがる。

三森:これは一種の幼児の固執性をあらわしていますね。お子さんを育てた方はわかると思うのですが,8歳ぐらいまでの子供は同じものを持ちたがる傾向にあります。いつも同じぬいぐるみを持っているとか,いつも同じクッションを放さないとか,毛布は絶対これじゃなくては嫌だとか,そういう傾向があります。「女の子はこればかりかぶりたがりました。」という文が5行目にあるのですけれども,そこにあらわれていますね。ほかに,この子が余り年齢が高くないとわかるところはどこでしょう,文章の中で。

会場:お母さんが赤ずきんにいろいろ注意している。

三森:そうですね。7行目ぐらいからお母さんが赤ずきんにいろいろ注意をしています。「外に出たらお行儀よく歩かなきゃいけませんよ」から,「おばあさんの家に行ったらきょろきょろ見回したりせずにお行儀よくしていなければいけませんよ」。おまけに「おはようございますと言いましょうね」とまで言われています。これは大きな子供ではなくて,大体何歳ぐらいですか。こんなことを親がこと細かに言う年齢とは?

会場:7,8歳。

三森:そうですね,7,8歳ですね。ほかにないですか。この子が大きな子ではないということがわかる条件が。

会場:「ちゃん」という言葉を使っている。

三森:ドイツ語では“ロートケプヒェン”と言いまして,“ヒェン”というのは「ちゃん」に近い言葉なんですけれども,小さい者をあらわすのです。「ちゃん」という言葉が使われている。だから,小さい子だと。ほかにありませんか。

会場:手を握って約束をしているところが小さい子の感じがする。

三森:ほかにないですか。もっと条件として大きいことはないですか?

会場:オオカミが悪い動物だと知らない。

三森:そうです,オオカミがどんなに悪い動物か知らないというのが34ページの2行目ぐらいに書いてあります。これは年齢をあらわしていませんか。いかがでしょうか。ちょっと年齢が高くなったら,常識としてオオカミがどんなに悪い動物かは知っているはずですね。知らないと困りますね。ということで,ここからも赤ずきんの年齢が低くて,まだ無邪気な子供だということがわかります。オオカミを怖いとは思わないのですね。ほかにないですか,赤ずきんの小さな子供らしさをあらわしているところは。いかがでしょう。お花畑のあたりではいかがですか。何となく気になりませんか。お花畑で赤ずきんは何をしていますか。花を摘んでいるのですが,花を摘んでいるうちに赤ずきんはどうなっているでしょう。赤ずきんは時間を気にしている様子がありますか。

会場:赤ずきんは花摘みに夢中になって時間を忘れている。

三森:赤ずきんは夢中になって,持ち切れないほど花を摘んで,ようやくおばあさんのところに行かなくてはと気が付いているんですね。ここからも子供の熱中するところがよく出ていますね。ほかにないですか,子供らしさ。最後の方におもしろい表現があると思うのですが。いかがでしょう。ちょっと飛ばして,この子の子供らしさをあらわしているところ。わかりますか。気が付いた方いらっしゃいますか。35ページの下から9行目ぐらいで,「ああ,驚いた。オオカミのお腹の中って真っ暗なんだもの」とあります。これはちょっと年齢のいった子供,あるいは,大人だったら,こんなのんきなこと言えますでしょうか。言えないですね。この辺からも子供らしさが出ているということで,大体いつも落ちつくのが赤ずきんは7,8歳ではないかということです。
 では,この子はどんな性格をしていますか。どんな性格だと思われますか。いかがでしょう。感じたことをおっしゃっていただいていいのですが,責任を持って,そう感じさせられた部分を指摘してください。どんな性格の子供でしょう。

会場:やさしい。

三森:どうしてやさしいと思われますか。

会場:病気のあばさんのお見舞いに行くから。

三森:そうですね,病気のおばあさんのところにお見舞いに行って,しかも,彼女にとっては結構重いワインとケーキを持っていって,元気になっていただこうとしている。そして,お花を摘んだきっかけもやさしさと関係ないですか。いかがでしょうか。「お花を摘んで行ったらきっとおばあさんが喜ぶわ」ということでお花を摘んでいますね。ほかに,赤ずきんの性格を読めそうなところってありますか。赤ずきんはどんな性格でしょう。いかがですか。

会場:無邪気。

三森:無邪気という性格は書いてありますか。無邪気というのはどこからわかりますか。

会場:オオカミを怖い動物だと知らず,全く怖がっていない。

三森:そうですね,オオカミがどんなに怖い動物か知らなくて,「こんにちは,オオカミさん」と無邪気に話しかける。こういうのを無邪気と言うのですね。「こんにちは,オオカミさん」とごあいさつをしている。このあたりから赤ずきんが無邪気であるということがわかります。この赤ずきんは反省から学べる子供でしょうか,違うでしょうか。いかがでしょう。この子は失敗を次に生かすことができるようなタイプの子供でしょうか。どうでしょうか。これはちゃんと最後に書いてありますね。そうです,「もうお母さんが駄目と言ったら絶対一人で森の中で道草をしないことにしよう」と,ちゃんと反省をしているのです。だから,本当に二度としないかどうかは別として,とりあえず目の前に起きた事態に関しては反省のできる子供であるということがわかります。
 では,今度はオオカミに移ってみましょう。オオカミはどんな人物ですか。オオカミは,この物語の中ではどんな役割をしていますか。どんな役割を与えられていますか。いかがですか。

会場:悪者。

三森:悪者ですね。「悪い動物」と書いてあります。34ページの上から2行目にはっきりと「悪い動物だ」と書いてあります。ほかに,オオカミはどんな悪い動物なのでしょう。あるいは,どんなタイプの人物なんでしょう。どんな性格なんでしょう。

会場:ずるい。

三森:どうしてずるいとわかりますか。

会場:ずる賢いから。

三森:そうですね,ずる賢い。というのは,赤ずきんをだまして,自分が赤ずきんとおばあさんの両方を食べようとしている。ずる賢いですね。ほかにないですか。ずる賢いけれども,こういうところもある。いかがですか。気が付いた方。35ページ目の真ん中よりちょっと上あたりを読んでみてください。何て書いてありますか。

会場:悪党。

三森:そう,「悪党」というのは狩人の言っている言葉ですね。それよりもうちょっと上です。悪党で,ずる賢い悪い動物なのに,別の面を持っていますね。どんな面でしょう。

会場:大いびきをかいて眠りこんだ。

三森:そうです,大きないびきをかいて寝てしまった。これはどういうことですか。本当に悪くてずる賢かったらどうしますか。寝ないですね,とっとと逃げますね。ここからオオカミはどんなところを持っている,どんな面を持っていると言えますか。

会場:楽天家。

三森:あるいは,間抜けという言葉がよく出てきますね。あるいは,自分は絶対にだれにも捕まらないといい気になっているというふうに読む子もいます。
 では,おばあさんはどんな人でしょう。おばあさんはどんな状態にありますか。

会場:病気で弱っています。

三森:病気で弱っているというのは,力があるということですか。

会場:弱い。

三森:力がなくて,身動きのとれない人物であるということがわかります。
 では,今度は狩人です。狩人というのはどういう人でしょう。まず,狩人というのは役割としては何を持っている人でしょう。

会場:鉄砲。

三森:鉄砲です。鉄砲や武器を持っている人です。35ページの真ん中辺に「鉄砲」という言葉が出てきますね。それから,この狩人はおばあさんと知り合いでしたか。いかがですか。

会場:知り合いだった。

三森:それはどこからわかりますか。何となくではだめですね。どこからはっきりとおばあさんと知り合いだったというのがわかりますか。

会場:大きないびきをかいているおばあさん・・・

三森:おばあさんが大きないびきをかいていると考えて,もしかしたら具合が悪いといけないと考えた。ということは,狩人はおばあさんがふだんどんな状態かを知っているということですか,知らないということですか。

会場:知っている。

三森:知っているということですね。それで,ちょっと様子を見てあげようと。ということは,この狩人とおばあさんはかなり親しかったのでしょうか。それとも,遠くからあいさつをするだけなのでしょうか。

会場:かなり親しい。

三森:かなり親しいということがわかりますね。そして,この狩人はどんな性格の人でしょう。

会場:思慮深い。

三森:それはどうしてわかりますか。

会場:オオカミを鉄砲で・・・

三森:おばあさんがもしかしたら食べられているかもしれないと判断して,鉄砲でねらいを定めようとしたけれども,それをやめてハサミに切り替えたというところから,思慮深さがわかりますね。
 それから,これは聞く場合と聞かない場合があるんですが,お母さんはどういう人でしょうか。これはおもしろいことに,大人と読むときと子供と読むときではお母さんの性格やお母さんの立場は違うんですね。わかりますか。女の方は笑っていらっしゃいますけれども。子供と読むと出てこないことが,大人の女性と読むと必ず出てくる言葉があるんです。このお母さんとおばあさんはどんな関係にあると思われますか。今日は皆さん大人なので。

会場:義理の母。

三森:必ずこれは出てくるんですね。どうしてでしょうね。なぜ義理の母,お姑さんだと思うのでしょう。

会場:自分で行かないから。

三森:年端もいかない娘を30分も,オオカミがいるかもしれない危険な森にお使いにやらせるとんでもない母親だというのが,大人の,特に女性の多い場所で読むと必ず出てきます。皆さんしーんとされて,私もやっているかもしれないなんてつぶやかれる方もいるんですけれども。子供と読むと,中学生あたりではその発想は出てきません。それは自分に経験がないからです。ですから,子供に聞く場合は,お母さんとおばあさんの関係はというのは聞かないのです。お母さんはどんな人かなというぐらいは聞いてもいいのですが,子供に無理によけいなことを教える必要はないので,関係については子供には聞きません。ただ,大人とやると,こちらから聞かなくても必ずお姑さんだと出てくるのです。これはやはり,相手によって読み方を変えなければいけないということです。そうやって読んでみると,作家はこのお母さんとおばあさんの関係を,姑と思って描いたかもしれないのですけれども,読み手の年齢や環境によって読み方は違うのです。お母さんとおばあさんの関係一つをとっても。こういうことは気を付けないといけないことです。
 これで大体人物が出ましたね。では,この中には人物の対立関係が見られますけれども,実際にはだれとだれが対立していますか。

会場:オオカミ対狩人。

三森:赤ずきんとおばあさんは?赤ずきんはどちらに入りますか。狩人の方ですね。物語は,必ず何かと何かの対立をめぐって生まれます。要するに,事件がないと物語は生まれませんので,物語には必ず事件があって,その事件というのは必ず何かと何かの対立なのです。ここでは具体的にオオカミ対人なのですけれども,これが心の中の葛藤であったり,天候であったり,環境であったり,あるいは,外国人にとっては日本人であったりということもあるかもしれないのですけれども,必ず何かが対立して物語が生まれる。ですから,物語を分析するときには,どこに対立構造があるのだろうということに意識を向けて読んでいく必要があります。
 それからもう一つは,この人物たちの力関係があります。この『赤ずきん』の物語において力関係を描き出すとすると,最終的な状態を考えるとオオカミが一番下になってしまうのでおもしろくないのですが,一番強いのはだれなのか考えてみましょう。お母さんは除外してください,お母さんを入れるとわからなくなってしまうので。お母さんを抜いて,だれが一番上だと思いますか。

会場:狩人。

三森:それはなぜですか。狩人がなぜ一番上なのでしょう。

会場:武器を持っているから。

三森:武器を持っているということですね。鉄砲を持っている。狩人は武器を持っているから。その狩人の下にくるのはだれだと思いますか。

会場:オオカミ。

三森:どうしてオオカミが上に来るのでしょうか?その前に,オオカミの下にくるのは?

会場:赤ずきん。

三森:では,一番下がおばあさん。どうしてこういう力関係になるんでしょう。最終段階を考えると,オオカミが一番下になりますけれども,殺されてしまうからという意味ではですね。でも,オオカミだと余りにもはっきりしておもしろくないので,オオカミが上から2番目という力関係で見てみたいのですが,どうしておばあさんが一番下なのですか。

会場:病気をしていて動けないから。

三森:それから,年をとっているということはどういう意味ですか。体力がない。あるいは,社会的に弱者だということも言えますね。赤ずきんはどうしておばあさんより上なんですか。

会場:動ける。

三森:そうですね。それから,おばあさんとの一番の違いは。

会場:元気。

三森:年齢で考えてみましょう。

会場:若い。

三森:そうです,若さがあるということです。これは重要なことです。赤ずきんは若い,おばあさんは年寄りということです。そして,赤ずきんは元気,おばあさんは動けない。病気ということです。
 オオカミはどうして赤ずきんたちの上にいくんでしょう。二人を食べちゃうからですね。こうやって力関係を検討していくと,読者によって読み方は違ってきます。世界史をやっていた高校生と「赤ずきん」を読んだときには,これは革命なんだという話が出てきました。どういう意味かわかりますか。悪者の王様が威張って好き放題をして,権力におごって寝てしまって,武器を持った民衆にやっつけられた。そういうふうに子供が読んだということです。ちょうどフランス革命かなにかをやっていたのですね。
 その後,中学1年生と「赤ずきん」を読んだときには,北海道で某議員が捕まって大騒ぎだったときだったのです。そうしたら,「ああっ」と中学生たちが叫んで,「オオカミはあれだったんだ」と。だれのことを言っているかわかりますか。そうやって読むとニュースがわかるわけです。オオカミを某議員にあてはめると,悪さをしすぎていい気になったためにひっくり返されてしまったと。これは民話ですから,その当時のいろいろな事件を物語の形に閉じ込めているので,いろいろな読み方ができて,読者の読み方に委ねられます。そのときどきの読者の持っている経験にあてはめていっていいということなのです。
 それではもう一回戻って,今度はどうしてこの人たちには名前がないんでしょうということを考えてみます。先ほどは,「メロス」に「守る人,防ぐ人」という意味があると説明しましたけれども,ではこの『赤ずきん』ではどうして名前がないんでしょう。どうして赤ずきんには名前がないんでしょうと,考える前に名前を実際にあてはめてみるとわかりやすくなります。赤ずきんが「アンナ」ちゃんで,おばあさんが「エルケ」さんで,オオカミが「ペーター」で,狩人が「ハンス」だとします。何か違いがありますか。いかがでしょう。名前があるのとないのではどんな違いがあるでしょうか。考えたことがありますか,名前があるのとないのと読み方が違うということを。いかがでしょう。置き換えてみるとわかりますね。「ある日,お母さんがアンナに言いました。『ちょっといらっしゃい,赤ずきん,ここにケーキとぶどう酒が1本あるから,これをエルケおばあさんに持っていってちょうだい。エルケは病気で弱っていらっしゃるけど』」というようになる。あるいは,「そこへペーターがやってきました。この若くてやわらかそうなやつ,こいつはうまいごちそうだ」と。こういうふうに置き換わっていたら,どんなふうに読めるでしょう。なぜこの赤ずきんには名前がないんでしょう。名前がついていると物語はどういうふうになるでしょう。名前がないことによって,物語はどのように受け取れるでしょう。オオカミに「ペーター」という名前がつくと男だという限定が生まれてきます。ほかにありますか。名前がはまるとどういうふうに物語は変わるでしょう。はい,なるほど。名前があるとフランス革命や議員の話にはつながりにくい。ということは,名前がないことによって話をどういうふうにしやすいかということです。一般化しやすいということになります。名前がないことはそういう意味を持っているのですね。名前がないことによって,物語を一般化させやすくなる。だれにでもあてはめやすくなる。名前に意味があったりすると,名前によってその人の性格とか役割まで限定してしまう可能性があるのです。ですから,こういう民話の話では名前がないか,つけたとしても,「アンナ」とか「ハンス」とか「ペーター」とか,「太郎」とか「花子」とか「次郎」というような,本当に一般的な名前しかつけないという特徴があります。
 もうちょっと複雑な物語を読んだときには,『名前辞典』というのがありますので,名前の意味を調べてみるとおもしろいです。英語でもドイツ語でもフランス語でも,『名前辞典』というのが出ています。日本語の場合は漢字で。日本語でも漢字で「静子」さんと言えばおとなしい人なのかと考えませんか。ちょっとそれは無理でしょうかね。作家が何の意味もなく名前をつけるということはあり得ないので,漢字にある程度意味を持たせているはずですから,この漢字にはどういう意味がありますよということを分析すれば,この人はこういう性格の可能性があるんじゃないかとか,こういう大志を抱く可能性があるんじゃないかということを,外国人に漢字を軸にしながら名前の意味を検討していただいて,物語の内容を推測してもらうということはできるはずですね。それは漢字の文化の特徴だと思います。
 今は人物を中心に分析したのですが,楽しみもあっていいと思います。一般的な議論です。この中で一番の悪者はだれですか。これは質問としてはお楽しみの質問です。だけれども,それぞれの考え方が違って一番おもしろくもあります。意見を述べるときには,どうして自分がそう思うのかという根拠が必要なんですが,この中で一番の悪者はだれだと思いますか。今日は人数が多いので,上から聞いてみます。赤ずきんだと思う方,手を挙げてみてください。
 珍しい。だれもいないですか。
 では,おばあさんだと思う人。
 いないですね。
 オオカミだと思う人。  オオカミだと思う方,理由をお願いします。

会場:人を食べちゃったから。

三森:ほかには。

会場:赤ずきんちゃんをだましたから。

三森:ほかには。オオカミだという方,いかがですか。ほかにオオカミが悪いという理由がありますか。

会場:自分の欲望に忠実だから。

三森:他を顧みずに自分の欲望にのみ従って動いていると。だから,一番悪い。
 今日は大人が多いので,お母さんが悪いと思われる方。いかがでしょう。
 お母さんが悪いと思う方,どうしてお母さんが悪いのですか。危険があるかもしれない,オオカミが出るということをこのお母さんは知らなかったと思いますか。その前に,このオオカミというのは初めて出てきたのでしょうか。それはちゃんと書いてありますね。このオオカミはこの森に初めて出てきたんでしょうか。違いますね,どこに書いてありましたか。35ページ目の真ん中辺に「こんなところにいやがったのか,この悪党め。ずいぶん長いこと探し回ったぞ。」と書いてあります。これはどういうことですか。前からうろうろしていて,悪さを散々しているという意味ですね。そうすると,お母さんがオオカミのことを一切注意しなかったというのはどんな意味を持つのでしょう。お母さんはただ抜けてたからで済むんでしょうかと,そういう話になるわけですね。
 これは文章ですから,あちこち関連させながらきちんと読んでいかなければいけないのですが,一番悪い人物はだれですかという質問は,だれと言わなくちゃいけないということではありません。それぞれが考えるところを,これが悪いんだというふうに自分で言えればいいわけです。でも,そのときにどうしてそういうふうに自分は考えるのかということがきちんと理由づけができれば十分なのです。ただ,赤ずきんはどんな人物なのか,おばあさんはどんな人なのかという分析だけではなくて,一番悪いのはだれなのかというフリーのディスカッションができるような質問を入れると,議論自体が活性化されておもしろくなります。
 それからもう一つ,この物語の中から道草を抜いたらこの物語はどんなふうになるでしょう。これもよくする質問です。道草というのがこの物語の中でキーワードになっているのですね。そのキーワードを抜いてみます。道草があることによって,この物語はどうなるのか,ないことによってどうなるのか,そういうことはいかがでしょう。赤ずきんから道草を抜き出すなんて考えたことありますか。だからおもしろいんですけれども。いかがですか。

会場:おもしろくない。

三森:どうしておもしろくないのでしょう。道草がなかったら,狩人が出てきようがない。どうしてですか。

会場:オオカミと会わないから。

三森:なるほど。オオカミとは会うかもしれないですね。いろいろな意見があるはずです。同じように道草を抜くと考えても。道草を抜いてもオオカミとは会うかもしれない。どうしてですか。道草を進言したのはオオカミであって,オオカミが勧めたことなんですね。それに従った赤ずきんの行為自体が道草ということになるんです。道草でも寄り道でもいいのですけれども。もしこのとき赤ずきんが道草しなかったら,この物語はどんな展開になるでしょう。

会場:先に赤ずきんが食べられている。

三森:どうしてですか。オオカミは赤ずきんになりすまして,おばあさんのところへ行く。そして,オオカミはおばあさんも食べられるのでしょうか。そうやって考えると,狩人は二人の救出に成功する可能性はあるのでしょうか。それをよく聞きます。皆さんはどう思いますか。オオカミはそこで寝込んでしまうかもしれないですけれども,時間がたちすぎているという考えがよく出てきます。おばあさんは救出できるかもしれないけれども,赤ずきんは既に消化されているんじゃないかと。それはよく出てきます。確かに時間がたつんですね,ある程度。そうやって可能性をいろいろ考えてみるのですね。
 もし赤ずきんが,オオカミが悪い動物だと知っていたら,この物語はどうなると思いますか。いかがでしょう。どうなると思いますか。赤ずきんは逃げようとするけれども,やっぱり食べられてしまう。どうして食べられてしまうのでしょうか。逃げようとするのに。

会場:小さいから。

三森:逃げようとするものをオオカミは追いかけるのでしょうか。どう思いますか。
 オオカミも食べないと生きていけないので,逃げようとすれば,自分のことがバレたということがわかるわけですから,追いかけていってその場で食べるだろうということです。
 今の御指摘はおもしろかったのですけれども,これも必ず出てきます。オオカミは本当に悪者だったんだろうかという質問に対して,今の答えがよく出てきます。わかりますか。オオカミは食べなくては生きていけない。オオカミは肉食だから,オオカミにとって人間を食べるのは自然な行為であって別に悪くはない。必ず出てきます。
 それは確かに否定しようがないのです,それはそれで一つの意見ですし,筋が通っていますから,そうだねと。子供とやると,この意見を出してくるのは必ず男の子ですね,おもしろいことに。女の子からは出てこないのです。こういう発言は。男の子の方が理系に強いというか,社会情勢に照らしあわせて物事を考える傾向にあるのかもしれないのですが,オオカミは肉食だからというのは女の子からは出てこずに,なぜかいつも男の子から出てきます。
 あと,できる質問としては,例えばお母さんが赤ずきんに必要な注意をきちんしていたらどうなったか。というか,その前にお母さんは赤ずきんにどんな注意を与えていなければいけなかったのでしょう。お母さんは赤ずきんに本来であったら何を一番先に注意しなければいけないのでしょう。いかがですか。お母さんは本当はどんな注意をしなければいけなかったについて会場から意見をいただきました。最初に言わなかったのですが,あるいは,去年も出席された方はよくわかっていらっしゃると思いますが,この分析は正解はないのです。たった一つの答えはないのです。複数の答えがあります。ただし,間違いはあります。赤ずきんが男の子だと言い張られたら,それは間違いとしか言いようがない。それはそうですよね。だから,明らかな間違いはあるのですが,考え方や根拠に基づいた答えは複数にあります。ですから,そういう意味で大人がやるとおもしろいのです。○,×でしたら,大人がやっても何の意味もないのですが,いろいろな考え方が出てくることで分析はおもしろいのです。外国人が入ると文化背景によって全く違う意見が出てきたりします。
 デンマークに行ったスペイン人の友だちが次のようなことを言っていました。オオカミが出てくる物語を分析したときに,デンマークではオオカミは悪者だそうです。ですから,ロシア人も含めて大半の人がオオカミは悪者だと言った中で,スペイン人の彼女は「スペインではオオカミは悪者ではない」と。絶対とは言えないけれども,必ずしもオオカミ,イコール悪者だという認識がスペイン人にはない。だから,自分はそういうふうには読めないという主張をして,そこでまたおもしろい文化交流ができたそうです。確かにそのとおりです。同じ物語を日本人同士で分析的に読んでもおもしろさはあるのですが,違う国の人たちと読むとそれぞれの解釈の仕方,あるいは,文化背景に基づく考え方の違いが非常にはっきり出てきて,解釈が違うことによって議論が活性化してます。例えばスペインでは何が悪者なのかとか,一般的には何が悪いのかとか,ロシアでは一般的には何が悪者なのかという話になって,非常におもしろかったそうです。
 もう一つおもしろかったのは,彼女が行っていたデンマークの語学学校で最も分析の得意な国の人々がいたと言う話です。それはどこの国の人たちだと思いますか。ロシア人,社会主義国の人たちです。それは体制と関係があって,例えば東ドイツと西ドイツの小説には違いがあると言われていました。それは,東ドイツの作家たちが,体制を直接批判できないので,分析して,分析して,やっと到達できるように,中に隠して言いたいことを書くのですね。もちろんロシアも長い間そういう体制にありました。スペインにもフランコの政権下がありました。フランコの政権下では分析が禁止されていたそうです。なぜだかわかりますか。それは体制の批判につながる文章が出回る可能性があるからです。友人は,家庭でと,フランコの体制が終わった後に,分析を徹底的に学んだと言っていました。学校ではおおっぴらな体制批判につながりかねない,『赤ずきん』を読んで,さっきの議員の話が出てきてしまうのと同じように発展してしまう可能性があるので,余り熱心に行われていなかったと言っていました。
 そういうふうに,東ドイツの方が分析にふさわしい,分析に向いたテクストが生産される。あるいは,ロシア人が最も分析に長けているというのは,そうしなければ本当に言いたいことが読み取れないからという,歴史的あるいは社会的な背景があります。ですから,例えば東ドイツの新聞なども,日本の戦時中の新聞もそうですね,いかにも日本が勝っているように書いてあり,よく読まないと,全然違う意味が隠されているということには気付きません。日本でこういう分析の文化が発達しなかったのは体制批判につながる可能性があるからだというのをどなたかが書いていらしたのを見たことがあります。それが本当なのかうそなのかわかりません。しかし,スペインではそういう時期があったそうです。東ドイツでは政府の人たちが分析してもわからないように,政府の体制批判を文章の中に入れるという書き方をしていた。ですから,逆にそれを読もうとして市民はますます分析力を磨いていくということになったわけです。
 そういうふうに,分析というのは,それぞれの国の人たちが持っている文化とか社会的な背景が反映されるので,特に中級以上のかなり日本語ができる人たちと,こういう物語でも何でもいいのですが,短い文章を使って分析的に読むというのはおもしろい作業になるのではないかと思います。『たき火』でさえあれだけ分析ができるのです。この『たき火』が出てきたときに,皆さんはこれで一体何をするんだろうと思われたのではないでしょうか。いかがでしょうか。こんなものが分析できるんだろうかと思われませんでしたか。それでもこれだけ内容があるのですね。ですから,もっと難しい詞を使ってやってもいいですし,何を使ってもいいのですが,「日本語に不自由な」ということが入るのであれば,なるべく単純なものを使って,言葉の勉強や意味を勉強しながら,何が書いてあるんだろうねと話す方が楽しいでしょう。ただ,文法とか単語の意味だけを調べて,訳して終わりでは,私たちにとって英語がつまらなかったのはまさにそこなんですけれども,ちっとも勉強する意欲につながらないのですね。ところで,私もドイツでドイツ語をやったときに,文法と言葉を一通り覚えた後は,こういう分析をやらされているのです。そうすると,分析がおもしろいから単語を引いてみようとか,この単語にはどんな意味があるんだろうと辞書を引いていくうちに,ラテン語にまでいきついたとか,いろいろな経験があるのです。漢字も,一つの漢字から違う意味の漢字とか仲間の言葉がいろいろ引き出せてくるでしょうし,分析を通してかなりいろいろな活用の仕方があるのではないかと思います。
 このあたりから皆さんの御質問を受けたいと思います。何か御質問はありませんか。はい,どうぞ。

参加者:札幌からまいりましたIと申します。ありがとうございました。
 2点ほどなんですけれども,クリティカル・リーディングということで,今のような分析のお話を受けたのですが,例えばこのような物語とか詩とは異なって,いわゆる論理的な文章と呼ばれている領域のものを分析する観点と,こういった物語のようなものを分析する観点というのは違うのではないかと。

三森:もちろん違います。

参加者:そういったときに,論理的な文章の場合にはどちらかというと。

三森:論旨の展開ですね。

参加者:そうですね,構成も含めて,答えとしてかなりかちっとしたものが出ざるを得ないのではないか。

三森:そうなんですよ。

参加者:そのときの教育のポイントを教えていただければというのが1点です。
 もう一つが,要約の問題とかパラグラフ*1の問題とか,日本の文章構成と欧米の文章構成の基本的なパラグラフのアイデアの違いです,こういったものが,学習者がこれまで積み重ねてきた文章構成の理解が,日本の文章に純粋に適用できないのではないかという危惧があるんですが,それに対する先生のお考えをお聞かせいただければと思います。

*1 パラグラフ 文章の節または段落。


三森:まず一つは,学習者が分析を始めるときには物語の方がやりやすいです。今おっしゃったようなコラムとか新聞の社説になると,内容自体がかなり難しくなって,単語を引くだけで大変になってきますから,分析の最初の手がかりとしては,こういう詩とか簡単な物語から出発した方がいいと思います。もちろん,コラムとか論文になると,論理がどのように展開しているかとか,どこに主張があって,どこがそれを支える根拠なのか,そういう読み方になってくるので,相当に日本語力がないとできないですし,この分析的な項目は,この中で活用できるとしたら,構造と時制と文章構成と文法と視点ぐらいですね。それ以外の部分は,使えるものもあるけれども,使えないものもあるということで,資料に書いてあるのはどちらかというと物語の分析のときに使うものです。
 ただ,クリティカル・リーディングという言葉を使った場合には,詩や物語,それから,脚本ですね,ドラマから論説的な文章まで全部含まれますので,基本的にはこの分析項目の中であてはめられそうなものを応用していくという形で使っていくのですが,それは大分先の話ですね。例えば,ドイツの学校教育で言えば,『たき火』とか『赤ずきん』の分析は6年生ぐらいから始めるのですが,論説文の分析は高1ぐらいからです。そうすると,外国人であれば相当後ということになってきますね。それから,文章の構成ですね。要約というのは何か具体的にお考えになった上でですか。

参加者:言葉が足りなくて申しわけありませんでした。ほとんどの留学生が1級を持っている状況を想定していただけるといいと思うんですけれども。

三森:かなりできるということですね。

参加者:はい。中には1級を目指すというレベルの者も混ざっているクラスなんですけれども,随筆程度のものです。

三森:随筆というのは要約できないんです。

参加者:非常に難しいですね。いわゆるコラムですね。これが教科書の中にもかなり入っていまして,そこに出ている問題がつかみ切れないものですから,こちらの方でこんな問題を出したらおもしろいかなと思ってつくったことがあったんです,アドリブで。そのときに,純粋な学生が多いものですから,文章の中から一生懸命探して,その部分を全くそのまま抜き出して答えようとすることを必死に行うわけです。
 ところが,質問の形式に合わせた答え方も我々は留学生に覚えてもらわなければならないので,質問に合わせた答え方をしてもらいたいために,文章をもうちょっとまとめてみようかというようなことを要求するわけなんです。ところが,そこになってしまうと困難を伴うもので,言い方を換えると技術的な読解を嫌いになっちゃう学生が出てきてしまうんですね。そういうことを何とか解消したいという気持ちでいるんです。

三森:随筆に関しては要約しようがないです,正直言って。何を言いたいかがよくわからないものが日本の随筆には多いので,日本人でも頭を抱えますね。これを外国人に教えるのは至難のわざなのですが,物語に関しては,要約は構造を教えれば簡単にできるようになります。物語の構造分析というのがあります。その物語の構造を教えてしまうと,どこにそれがあてはまるんだろうということで取り出していくと,比較的簡単なんですね。
 物語の要約でもいいでしょうか。その前に論説の場合は,パラグラフ・ライティングで書かれていれば簡単なのです。トピックセンテンスを取り出していって,その根拠になるものを取り出してつなげれば,それで要約になります。それにのっとって書かれていないものが多いというのが日本の論説文の要約を教えるときに非常にネックになっています。
 私は,中学生,高校生には書き方のおかしな論説文はいいから捨てなさいということで,書き方自体を教えています。ただ,試験がある場合はそうもいかないかと思いまして,こればかりは私も困っています。予備校の先生が一番詳しいかもしれないですね,一番苦労していますから。
 物語に関しては,はっきり構造があるのでわかりやすいのです。まず,冒頭というものがあって,発端というのがあって,ここがクライマックスで,この間が山場で,結末というふうに構成されています。
物語の構造の図
 日本の物語でも,『桃太郎』でも『赤ずきん』でも『ハリー・ポッター』でもほとんど一緒です。物語イコール事件ですけれども,この間に幾つかクライマックスに至るためのエピソードが繰り返されて,クライマックスに至るのです。物語には物語の文法がありまして,冒頭は状況の設定です。主人公がどういう場所に生きていて,どういう環境に生きていてということで,冒頭イコール設定が語られます。
 発端というのは,物語イコール事件で,事件というのはどういうことかというと,対立があるということなので,発端では必ず主人公の敵があらわれるのです。敵はだれでもいいんですけれども,主人公の敵があらわれる。この時点では主人公の力が下で,敵の力が上というのが一般的です。桃太郎の場合は,鬼の方が強くて桃太郎が下,あるいは,赤ずきんの場合は,オオカミの方が上で赤ずきんが下。ハリー・ポッターの場合は,悪役のベルデモードが上でハリー・ポッターが下と。これが逆転していると事件にならないですから,大体この構造なんですね。そうすると,主人公は敵をやっつけるための何からの冒険に出ますから,ここで一つ一つのエピソードを拾っていって,クラスマックスというのは勢力が逆転するところなんですね。主人公が敵に勝ち,主人公の力が敵より上になる部分,ここがクライマックスです。その後は急速に結末が訪れるというのが物語の構造になっています。『赤ずきん』を読んでいただいてもわかると思います。
 ですから,物語の要約を教えようと思ったら,まず構造の各部分の役割を教えて,あとは冒頭と発端と山場のいくつかのエピソードとクライマックスと結末をとれば,簡単に要約はできるようになります。日本の子供にもこれで教えています。日本の国語の授業では物語の要約は教えないのです。これを教えると,物語に関しては300ページの物語でも要約ができるようになります。
 まとめ方としては,この書き方以外にもう一つの書き方もあるんです。今度は,ここに冒頭と発端があるのはちょっと省略させていただいて,山場の部分で必ず対立関係が動くのですけれども,例えば『三匹の子豚』だったら,右にオオカミ,左に3匹目の子豚と入れたら,オオカミがAを仕掛けると,子豚がA'をする。それに対してまたオオカミがBを仕掛けると,子豚がB'をするというように考えていきます。例えば,オオカミが6:00にカブとりに誘うと,子豚は5:00にカブとりに行く。それを受けて,オオカミが4:00にリンゴとりに誘うと,子豚が3:00にリンゴとりに行く。さらにそれを受けて,3:00にお祭りに誘うと,子豚が2:00にお祭りに行くというエピソードが繰り返されます。物語の場合は繰り返しはほとんど3回です。どこの物語を読んでも見事に3回が多いのです。
 こういうふうに取り出してあるとまとめやすくなるので,この場合であると,オオカミが子豚を策略にはめようとするが,子豚はことごとく裏をかくとか,こういうふうにまとめられるようになるのです。図式化しないで,いきなり文章からまとめるのは非常に難しいのですがこのように図式化してしまうと,物語であればかなり楽にまとめられるようになります。論説も図式化ができるはずですね。
 物語の要約に関してはこういう教え方をしております。これでよろしいでしょうか。

参加者:ありがとうございました。

三森:あとはよろしいですか。
 はい,どうぞ。

参加者:私たちは起承転結ということを学んでいるんですけれども,あれは中国の漢詩の形態だと思うんです。それとおっしゃっている西洋の論理的文章の構築の仕方の違いといいますか,そういうものを端的に説明していただけないでしょうか。

三森:物語の構造と起承転結は違います。起,承までは一緒かもしれませんが,転は転換しちゃうんですね。物語は起承転結でと書かれている方がいるんですが,西洋の物語は起承転結とは関係ないですね。一般的には物語の構造にのっとっているのです。それを説明する必要がありますか,外国人に。

参加者:おかしいのは,論理的な文章は起承転結になっているという説明があるんですね。

三森:ああ,そうですか。

参加者:ところが,最後の「結」がたいていの場合,「起」に変えている。それが日本の論理的文章の形態だというのを学校の参考書なんかで書かれているものがあるんです。

三森:そうだと思います。起承転結で物語から論文まで説明してありますね。予備校の本でそのように説明してあるのがあったと思います。

参加者:そうですか。それが西洋の論理的文章の構築とはまた違うんでしょうか。

三森:違いますね。はっきり違いますね。物語は起承転結にはなっていませんし,論文だとパラグラフ・ライティングで,序論,本論,結論で構成しますので。

参加者:どういうものを読んだらわかりますでしょうか。

三森:物語の構造についてわかりやすく説明している本ですか。

参加者:論理的文章の方の構築というのが。

三森:どの論理的文章ですか。

参加者:説明的文章というか,論理的文章というか,物語でないものです。

三森:説明的文章ですか。物語でないと,例えばアカデミック・ライティングとか,作文の説明の方がわかりやすいと思いますね,文章自体よりも。例えば,慶応大学の出版社とか,そういうところから出ています。それを読まれた方がわかるかもしれないですね。日本のはそのあたりがぐちゃぐちゃのまま書かれている論説が多いので,何を言っているか最後までわからないものが多いですから,扱うのが非常に難しいですね。
 私がよく日本の高校生にやらせるのは,わかりにくい教科書の説明文を序論,本論,結論の形に書き改めてみようという作業です。そうしないと何を言っているかわからないものですから。

参加者:わかりました。ありがとうございました。

三森:はい,どうぞ。すべての質問にお答えできるかどうかわからないですけれども。

参加者:H県の社会教育センターで日本語教室を担当しておりますOと申します。
 本論とはちょっとそれた質問なんですけれども,先日,同じような昔話を教材で使ったときに,一番最初の入口の「昔々あるところに」というのが中国の方に理解していただけませんで,「何で時期や場所をぼかさなければいけないのか」というところから前に進まなかったことがあるんです。これをうまく理解していただくとか,中国では本当に理解してもらえないのかなと。

三森:中国ではそれが一般的じゃないんですか。

参加者:そんなふうに言われたんですよ。

三森:私も中国語がわからないので,英語では“Once upon a time”ですよね。ドイツ語も同じように始まります。「昔々あるところに」は当たり前なんですけれども,結局,それの説明のしようがあるとすれば,昔話は時代や場所を特定できないので,こういう始まり方をするんだという説明しかないですよね,それがわからないと言い張られても,それ以上は説明のしようがないので。
 物語というのは,いろいろな時代の人たちが読んで,自分たちなりの解釈ができるようにつくられているわけですから,時代や場所を特定してしまうと,その国のその時代のその場所の物語としてしか読めなくなります。でも,それが入っていなければ,さっきの名前と一緒で,時と場所を一般化できる。そういうふうに説明していただくしかないのではないかと思います。そういう質問は初めてなので何と答えていいのか。ただ,日本で子供たちと読むときには,いつもそのように説明しています。
 はい,どうぞ。

参加者:K高校で日本語の講師をやっていますFと申します。
 大変おもしろいやり方を教えていただいて,ぜひぜひやりたいと思っているんですが,日本語教育の世界でも,基本的に読解というと書かれていることしか問うてはいけないというのが日本語教育の常識なんですけれども。

三森:それは多分,国語教育の常識。

参加者:いえいえ,書かれていることしか問うてはいけないと。なぜそういうふうになるかということがちゃんと言えなければならないという,先生のお考えに基づいたものを日本語教育の世界では読解でやっているんですが,先生は中学,高校でも教えていらっしゃるので,もちろん御存じかと思うんですけれども,例えば都立高校の国語の入試問題がありますよね。私が1年生の生徒さんたちにそういうやり方で日本語教育をしていくと,彼らは2年生になったときに,本文に書かれていないことに答えなくちゃならないんですね,国語の授業で。大変悲しいことなんですけれども。
 そういう現状と,こういう上手なやり方を,私がずっとその人たちを教えられればよいのかもしれないんですけれども,現実はそうはいかないということもありますので,その辺をどうつなげていったらいいでしょうか。

三森:それは日本の国語における読解という考え方と,今,私がここでやった欧米式の読解という考え方の違いに根ざしていると思うのです。今ここでやったクリティカル・リーディングにしても,日本の読解にしても,到達しようとしているところは一緒なんですよ。つまり,行間を読むということです。最終的には,書かれていることではなくて,書かれていないことを読むというのが。ですから,東欧の人たち,社会主義の人たちが読めるというのはそういうことなんです。
 ところが,クリティカル・リーディングの手法の場合は,段階があるということですね。書かれていることだけに質問を絞って,まずは,「どうしてそう思うのか」といって,必ず文章に当たらせて,AとBとCと書いてあるからというふうに答えさせるんです。その次の段階は,AとBとCと書いてあって,ここから類推してDという答えが出てくる。
 日本の国語の問題はいきなりDを求めるのです。だから,国語のできない子はいつまでもできないのです。つまり,先生がいきなりDと読んで,四択の中から答えを1個選びなさいと言われると,先生と同じ考えができてDに至った子は読めるのですけれども,先生と違う考えの子は違う答えに至ってしまうので読めないのです。
 私が今まで教えてきて一つ言えるのは,国語が得意な子は放っておいても先生が求める解釈に至れるので余り問題がないのです。けれども,できない子には,最初に「赤ずきんは何歳なの」といったら,ここにこう書いてある,あちらにこう書いてあると当たらせます。そして,それができたら,そこから何が推測できるか,何が類推できるかという質問を投げかけていきます。するとそのうちに行間を読めてきて,最終的には読めるようになります。ですから,そのまま進めていただいても読めるようになるはずです。
 ただ,問題は,都立高校の入試にしろ何にしろ,本当にきちんと正解を求めているのかというところなんです。最初に申し上げたように,読解というのは複数の解釈が成り立つはずであって,たった1個の答えはないはずなのです。だけれども入試ではたった1個の答えを求めるために,ここで示した読み方をすると違う考えに至る可能性があるのです。そういう場合は,極端な話,入試の問題で子供たちに指導するときには最初から答えを見せる。そして,この答えに至るために何を根拠にしているのかというのを考えさせて,AとBとCを根拠にして,このAとBとCからDという考えを引っ張り出すと,Eという四択のうちの一つに至るんだなと,そういう教え方をしていました。そうすると結構子供はわかります。
 これは究極の試験指導の話になってしまうのですが,しようがないですね。どっちも必要なんですね。四択の中から一つ選ぶというのは,社会では全く役に立たないのですが,ただ,入試では仕方がないので,やらせなければいけないことですね。ですから,答えを先に見せてしまって,みんなでなぜその答えに至るか考える,これが一番わかりやすいかもしれないですね,私の経験では。
 では,どうもありがとうございました。

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