地域日本語教育シンポジウム

司会(貴志):それでは時間になりましたので,ただいまから日本語教育大会二日目を始めたいと思います。私は文化庁国語課の貴志と申します。よろしくお願いいたします。
 これから,社団法人国際日本語普及協会によります地域日本語教育シンポジウムを開会いたします。このシンポジウムにつきましては,文化庁より地域の日本語教育の充実のために国際日本語普及協会にその開催を委嘱し,実施していただいているものでございます。今年度のテーマといたしましては,「日本語が必要な子供たちへ私たちができること」と題しまして開催していただきます。
 それでは,以後の進行につきましては,国際日本語普及協会の関口常務理事にお願いをいたしたいと存じます。よろしくお願いいたします。

関口::皆様おはようございます。今日は朝早くからお集まりいただきましてありがとうございます。ただいま御紹介いただきました,社団法人国際日本語普及協会の関口明子と申します。本日のシンポジウムの進行係をさせていただきますので,どうぞよろしくお願いいたします。
 それでは,簡単に御説明したいと思いますが,その前に大変申しわけございませんが,この文化庁からのピンクの冊子の39ページを開けていただけますでしょうか。私どものミスで,五十嵐さんのプロフィールのお名前が「ていしん」となっていますが,片仮名で「チョンシム」さんでございます。そして,このお名前につきましては後ほどチョンシムさんが自己紹介をなさるときに,それにまつわるお話もしていただけるかと思います。
 それでは,簡単に趣旨説明とシンポジウムの進め方についてお話をいたします。先ほど御紹介いただきましたように,文化庁の地域日本語教育推進事業の中のシンポジウムの開催は今回で5回目になります。これまで,地域日本語学習活動の充実,地域日本語支援のコーディネータの役割,ネットワークの構築,それから昨年は外国人在住者の地域参加と共生社会のあり方をテーマにシンポジウムを行ってまいりました。今回は,「日本語が必要な子供たちに私たちができること−周囲の大人の連携の実現に向けて−」というテーマで行いたいと思います。
 現在,日本の各地に日本語支援を必要とする子供たちが公立小・中学校または高等学校で日本の子供たちと一緒に学んでいます。平成16年9月1日現在の文部科学省の調査によりますと,日本全国の公立小・中,高等学校に在籍する日本語教育が必要な外国人児童・生徒は,1万9,678人。盲・聾・養護学校も含めてということでございます。約2万人という数字になっております。このような子供たちの多くは子供自身が望んでというより,大人の諸事情によって日本に連れてこられたというのが実情です。
 今,日本全国にこのような子供たちが懸命に生きています。日本語がわからず,クラスで孤立している子供,同級生や先生と普通に話しているのに教科学習の日本語になると全然ついていけない,そしてやる気をなくしている子供。そのような状況で学校に居場所が見付けられず学校に行かなくなっている子供。うっせきした状態から抜け出したくて非行化していった子供。たくさんの困難,問題を抱え挫折した子供,挫折しかかっている子供。必死でSOSを送っている子供。このような子供たちは,今,そこここに確実に存在しています。周囲の私たち大人がなすべきことをきちんとしていないからではないかと強く思います。私もそのような困難に直面している子供たちの日本語習得の現場にかかわりを持っている人間の一人として,責任を強く感じております。もちろん困難を乗り越えてたくましく生きている子供たちもたくさんいることも事実です。
 今日は日本の社会で生き生きと活動していらっしゃる日本語を母語としていない方々をパネリストとしてお迎えしました。来日時やその後のいろいろな経験を語っていただきまして,そこから私たちの日本語支援や周囲の大人の連携のあり方を会場の皆様とパネリストの皆様と一緒に考えていきたいと思っています。
 それでは,今回のシンポジウムの流れを簡単に説明させていただきます。まず初めに,パネリストの方から自己紹介をしていただきます。その後,お一人ずつ御自身の日本語習得についてや日本語支援をしていらっしゃる方々に訴えたいこと,お考えになっていることなどをお話しいただき,それに関して質疑,応答,コメント等を会場の皆様からいただき,双方の意見交換をしていただければと思っております。どうぞ皆様,積極的に御参加くださいますようお願い申し上げます。
 それでは,パネリストの皆様を御紹介します。本日お迎えしたパネリストは日本の社会にしっかり根を下ろし,学生として,あるいは社会人として積極的に活動していらっしゃる方々です。
 私の隣から,カンボジアからインドシナ難民として御家族でいらっしゃって,現在工学院大学4年生のチュープ・ソッコーンさんです。
 そのお隣は御家族でブラジルからいらっしゃって,現在ティ・エステック株式会社に御勤務のダ・フォンセカ丹羽タチアナ恵美さんでいらっしゃいます。
 そして,最後になりましたが,韓国から農村花嫁として山形市の農家に嫁がれて,現在,市の教育委員会派遣日本語指導員として小・中学生,主として日本語が必要な韓国の子供たちに生活指導や日本語指導をしていらっしゃる五十嵐チョンシムさんです。
 パネリストの皆様のお話がフロアにいらっしゃる皆様の新たな活動へのヒントになりましたら大変うれしく思います。
 それでは,自己紹介をお願いします。

ソッコーン:皆さん,チュムリープスーア。「チュムリープスーア」はカンボジア語で「おはようございます」という意味です。皆さん一緒に「チュムリープスーア」。そうです。これは一つの文化のコミュニケーションだと思っています。本当は「チュムリープスーア」は「こんにちは」で,「アルンスースタイ」の方が「おはようございます」と言うのですけれども,ちょっと長いので,「チュムリープスーア」の方が一般的に使われています。もし,覚えていたらカンボジアに来てチュムリープスーアと言ったら絶対みなさん喜びます。カンボジアの一つのコミュニケーションです。
 すごく緊張しています。どんな話をしていればいいのかわからない,パニックのような状態なんですね。50代60代の方がいて,僕にとっては安心感があります。すごく好きなんですね,50代60代の方に結構人気があります。でも決して僕はペ・ヨンジュンではありません。よろしくお願いします。
 僕はカンボジア人で,今,大学4年生で勉強していますが,大学行けるまで,小学校,中学校というのがすごく苦労していました。それで,今日はちょっと,先生とか学校というのについて訴えたいと思っています。短い時間ですけれども,よろしくお願いします。楽しんでください。

丹羽:皆さんおはようございます。ダ・フォンセカ丹羽タチアナ恵美と申します。ちょっと長いんですけれども,タチアナで結構です。13歳のときに家族と一緒に来日しました。その後,中学校,高校を卒業して専門学校を今年卒業して,いよいよ社会人になりました。現在は今までの勉強と経験を生かしながらとても充実した日々を送っています。今日は皆さんと一緒に有意義な時間を過ごせたらと思っています。どうぞよろしくお願いします。

五十嵐:ヨロブンアニョハセヨ。「アニョハセヨ」はなじみがあるのかなと思ったんですけれども,カンボジア語より受けてないみたいでちょっと寂しいです。
 詳しい内容は後ほど発表でしますので,今日は最初から自分の名前の訂正がありましたので名前についてちょっとだけお話をしたいと思います。私の名前は正確に言うと五十嵐チョンシムという名前なんです。苗字は日本に嫁いで来ているので,日本の習慣に従って苗字は五十嵐になったんですけれども,名前のチョンシムというのは私の本名なんですね。
 日本の農村に,14年前,初めて,私は来たんですが,その当時なぜかわからないんですけれども,日本に来ると日本人に呼びやすい名前に名前を変えられちゃうんです。私も日本に初めて来たときに,ここで日本ではあなたの名前はジュンコなんだよというふうにしてジュンコという名前でずっと呼ばれたんです。
 来て1年後にボランティアの方々と出会って,そのボランティアの方々と一緒に1回韓国にスタディツアーで行ったことがあるんです。そのときに私の実家の姉がどうしてもおもてなしをしたいと言って会ったときに,姉が私の名前を本名でずっと言っていたんです。チョンシムという本名でずっと言っていたのが気になったらしくて,日本に戻ってきて,ボランティアの方からあなたは本当はどんな名前で呼ばれたいのというふうに聞かれたんですね。で,自分の名前で呼ばれたいんだけれども,なぜか変わっていると言ったら,自分の名前で呼ばれたいんだったら,せめて家庭の中でそういうふうに呼ばれないんだったら私たちだけでも本名で呼んでもいいというふうに言われたんです。で,それからずっと本名でボランティアの方とか仕事をするときは呼ばれているんですけれども。まだ親戚とか近所の人の間ではジュンコという名前で呼ばれています。
 名前というのはすごく大切なことなんですけれども,やっぱり自分の名前でお仕事をしたりとかすると,すごく心強いところと安心感があるんですね。だから,そういうところに気付かせてくれたボランティアの方々に感謝する気持ちで,今も本名を使っています。
 ほかの内容は後で発表するときに詳しく話しますので,どうぞよろしくお願いします。

関口::五十嵐さんは来日なさったときに既にジュンコさんという名前が本人の意志と関係なく付いていたということなんですね。それで,今はチョンシムとおっしゃっているその大切な部分を間違えていました。本当に失礼いたしました。
 皆様,ありがとうございました。これからのシンポジウムの間お呼びするお名前としては,みなさん長いので,五十嵐さん,タチアナさん,チュープさんでよろしいですか。では,そういう形で呼ばさせていただきます。
 それでは,再びチュープさんから,御自身が今までの生活の中での日本語習得の状況,そしてそれについてのお考え,また訴えたいこと,あるいは後輩たちに向けてなどをお話ししていただきたいと思います。
 では,チュープさんよろしくお願いします。

ソッコーン:実は文章をつくってあるんですけれども。僕はここに来ている目的は,一つは学校教育について訴えたいのです。ここにいる皆さんは多分学校の先生,それかボランティアの方と思っています。では,先生についてどういうふうに思っていますか。ただ教えるだけですか,それとも何でしょうか。僕は小学校,中学校では先生というものを全く知りません。実際に先生はいました。黒板の前はただ透明でチョークしか動いていない,文字だけが写っているだけのものです。学校の先生の存在は透明人間でした。なぜかはこれからお話しします。
 僕は1989年にUNCRという国際連合難民高等弁務官という日本の受け入れがあって日本に来ました。大和定住センターで約4カ月間の日本語の勉強をしました。それは例えば絵を使っての単語の読み書きとか,こんにちはとかあいさつや基礎的なことを,ずっと勉強していました。僕は4カ月勉強してすごく楽しかったです。先生もすごく優しくて,とても親切で,今,隣にいるのが実は先生なんです。すごく面白い先生でとても楽しく勉強していました。4カ月間でしたけれども,父の仕事が決まり,大和促進センターから引越ししました。
 小学校の3年の3学期に入り,僕は,まあ聞き取ることはできますけれども,読みとか書きというのがまだあまりできませんでした。すごく自分でも心配し,何をすればいいのかわからなくて,授業は全くついていけなかったんですね。けれども,すごく担任の先生が優しくて,毎週の(土),放課後,僕だけの時間をつくって小学校の1年から2年,3年までの自分がついていけない科目まで勉強してもらったんです。2時間でしたけれども,すごく楽しいいい先生でした。そして,友達もたくさん,日本語も話せませんでしたけれども,遊びとかそういうのは楽しくて,クラス全員が友達でした。自分にとってはいまだに覚えていて,すごく楽しい学校生活でした。
 4年になって僕は新しい家に引っ越しました。その学校というのはカンボジア,ラオス,ベトナム,そしてペルーとかいろんなさまざまな国籍を持っている子供たちがたくさんいました。その学校には大体1クラスに約二人から四人ぐらい。想像できますか。今はもっと増えています。僕はそのときはまだクラスで外国人は一人でした。1年から6年まで大体一人は確実にいました。
 そこで僕は勉強していましたけれども,全く授業についていけなくて,日本語はそんなにうまくはないので,先生の話とかよくわからない。漢字も読めないし,テストもできない。特に国語なんて毎日が0点でした。苦しいですよ。毎日が不安でどうすればいいのかわからなくて。どうすればいいんだろう,毎日考えて考えてどうすればいいか,もう泣きたいくらい。父や母は仕事から帰るととても疲れていました。父も日本語ができない。自分が学校に行っているのにすごく自分で思います。すごく情けないな,学校に行って勉強できる場があるのに。父や母は勉強はそんなにできません。だけれども,仕事をして。
 そんなこと想像できますか。皆さんどう思いますか。母のように,もし自分が外国にいて自分が全く言語を知らない,言葉を知らない,それで仕事ができますか。父からよく聞きます。会社のことですけれども,全くわからないけれども,みんながやっていることはついていけるように頑張っている。でもドライバー取ってくれとか言われたら,はさみを取ってしまう,そんな毎日です。父は泣いていました,会社で。けれど,家に帰ってもそんなことは子供たちには絶対見せません。ものすごく僕は自分が情けない,なんて情けないんだとすごく思いました。
 父が学校のお金を払って,給食のお金を払ってそこへ自分を行かせてくれたので,一つでも単語でも漢字でも覚えて家に帰ろうという意志を持つようになりました。そして,新しい学習室,僕が住んでいるところには高座渋谷学習室というところがあって,学習室には毎週(土)に日本語や学校の科目とかも教えてくれました。そこを知ったのは友達の知り合いで,ボランティアの活動している人から教えてもらいました。
 そこで,ボランティアとの出会いがあって,すごく自分の人生というものを変えてくれました。学校の先生は自分のことは全く知らなくて,ただ放ったらかしと言うのはちょっと変ですけれども,ついていけない子は知らんぷりみたいな,すごく僕は小さいとき傷つきました。子供というのはやっぱり大人を見て成長するものではないですか。それなのに,先生はそんなことも知らない。ただ科目だけ教科書の1ページ,1ページだけを教えているだけ,ついていけないものは放っておく,そういうことで先生と言えますか。先生ではありません,僕には。透明人間です。小学校の4年生,5年生は,もう全く先生というものは知りません。
 僕がいい先生に出会えたのはボランティアの先生です。僕の人生を変えました。その先生はいろいろなことを教えてくれました。僕はカンボジア人ですけれども,カンボジアのことは全くわかりません。カンボジアの現状とかニュースとか,何があるのか全くわかりません。僕はカンボジア人ですけれども,タイに生まれて,カンボジアも全く知らないで日本に来ました。その先生はそのことを知っていて,カンボジアには何があるのか,そういうことを教えてくれました。その先生は僕を一人の人間として見てくれました。外国人ではなくて一人の生徒,外国人という目で見ない,カンボジアのチュープ・ソッコーンとして見てくれていろいろなことを教えてくれました。先生は,ちょっと病気で来られません,残念ですけれども。僕の話すことが,いつか僕は先生に応えられるような人間になっていきたい。今僕の尊敬している人です。自分が目的,目標を持てるようになったのはその先生のおかげだと思います。名前は与座先生と言います。自分の人生を変えてくれました。
 僕は中学校に入り,全く勉強はできなかったんですけれども,算数,数学とかはすごい好きだったので,それだけは伸びていて,クラスでは大体1位をとるようになったんです。高校も数学はオール5です。これだけ今でも自慢ができます。
 自分がやる気があったものとなると,自分の目的というのが見つかる,自信をつけてもらったのはボランティアの先生です。自分の目標を持てて,自分の夢を持てるようになりました。それで今現在の僕があると思っています。ここで話すこともいることもできたのは先生のおかげだと思っています。
 今はもう,そこに住んでいる外国人は増えています。そこだけではありません。日本全国に増えつつあります。これからどうすればいいのか,すごく考えます。自分は居場所というのを見つけてほしい,彼らの。自分の居場所が見つかったんですね,自分が。ボランティアの先生の心の中の居場所が,教えてくれたことが,そこが自分の居場所だと思った。何でも頼りにできたし,高校に入ったのも先生のおかげで,入試試験とかも。中学の先生は全くそういうことも考えなく,ただ行けるような学校しか選んでくれませんでした。その行ける学校というのは電車で約2時間半,片道です。往復で6時間になります。そんなところへ行けるというのはあり得ないです。しかも3年間というのは考えられません。ボランティアの先生はそんなところへ行かなくても近くの学校がある,自分が見つけた学校が,先生が見つけてくれたんですね。たったの45分で行けて,僕の偏差値はその学校を受けるにはちょっと低いんですね,でもボランティアの先生は行けると言われたんです。僕は数学がすごく上がっていたんです。それで推薦をもらって行けたんです。自分は機械科です。機械科やりたいのは自分がやりたいことが夢があって,目標もあって,それで今大学4年生になっているんですね。
 やっぱり子供たちには不安がいっぱいあります。その一人一人の目が訴えているんですね。僕はわかります。彼らが苦しいことは,僕は経験しているからです。どうすればいいんだろうと,毎日毎日考えたことはあります。僕は高座渋谷学習室で今は教えていませんけれども,母国語で数学とか算数とか,あとは国語は苦手ですけれども,読み書きとか教えたり。数学が得意なのでそれを母国語で彼らを教えていました。それで彼らもちょっと勇気があってやるようになったんですね。不安というものもなく。今,学校の授業についていけるようになったんです。最初は全く全然ついていけなくて,どうすればいいのかというのが。だけれど今はもうすっかりついていけるようになって安心感が。自分が彼らの面倒を見られたのかな,それで先生にちょっと恩返しができたかと思いました。
 学校というのは夢を与えるところだと思います。奪うところではありません。今の学校というのはそういうことが多いです。日本人の人,一人じゃないです。外国人も日本人も同じように考えるべきだと思います。
 これで僕の言いたいことは終わります。

関口::チュープさん,ありがとうございました。前にちょっとお伺いしたときに,与座さんとの出会いのときに地雷除去の話をしていましたが,それとチュープさんの夢がつながったということ,そこの部分もぜひ皆さんにお話をしてください。

ソッコーン:僕の夢は地雷撤去です。すごい大きな夢ですけれども,かなえられるかどうかわかりません。だけれど,こつこつ頑張ってその夢をかなえていければいいかなと思います。
 ボランティアの与座先生というのは,IBMの関係で,技術者でもあって,専門はコンピューター関係ですね。僕は,カンボジアの現状,ニュースとかも全く知らなかったんです。地雷があることも知らなかったんですね。たまたまテレビをつけてカンボジア地雷撤去というのがあって,カンボジアって地雷があるんだ。アンコールワットだけと思っていたんですけれども,地雷があるんだ。すごく鳥肌が立ちました。その彼らは農村の方で貧しいんですね。片足がなくなっても頑張って畑を耕して,それで地雷を踏んでしまったり。被害者は大人だけではなくて子供もたくさんいます。
 自分がこの夢を持てたのは先生のおかげだと。そして自分がここにいる環境が大事だと思ったんですね。日本にいる自分ができることは何だと考えるようになりました。だから,今,自分は地雷撤去という夢を持っています。

関口::はい,ありがとうございました。
 それでは,続いて,タチアナさんお願いします。

タチアナ:改めまして,皆さん,今度はこんにちは。先ほども紹介していただいたけれども,今回文化庁の日本語教育大会のパネリストとして参加させていただくことになりました。とても光栄に思っております。短い間ですけれども,皆さんと一緒に日本の学習とともに私が歩んできた人生について少しお話していきたいと思っています。よろしくお願いします。
 私は1998年3月末,両親の都合で来日することになりました。そして,当時まだ3歳だった妹の入園が決まるまでの6カ月間,家で世話をすることになりました。両親が働きに出ている間は家事をしながら妹の世話をして,知り合いにもらったテキストなどで少しずつひらがなや勉強を始めて,たまに近くの近所の方にも少し教えてもらいながらひらがなや日本語での簡単なあいさつを独学していきました。そのころが一番家族全員がブラジルでの生活とのさまざまなギャップを感じていまして,本当につらい日々を送っていました。
 そして,ずっと楽しみにしていたのが入学だったんですね。ブラジルでも学校が本当に楽しかったので,早く日本の学校に入りたいなという気持ちでいっぱいだったんですけれども,やっとその日が来て,9月1日だったのです。2学期から入学をして,ちょうど14歳の誕生日だったんですけれども,本当に胸をいっぱいにして行ったんです。最初の2週間ぐらいは本当にみんなに歓迎してもらえているような感じで,本当に本当にうれしかったんです。言葉が通じなくてもみんながやはりお互いに何でも新鮮ですよね。私にとってもみんながおもしろいですし,学校が新しくて新鮮ですし,みんなにとっても私もブラジル人ですからみんなもわくわくしていたわけなんです。その後はやはりコミュニケーションができないというところが一番のバリアだったと思うんですけれども,仲間はずれなどのいじめが続いてしまって,そこがやはり悩みが本当に始まったころだと思うんです。
 そのころの自分には何で仲間に入れてくれないのだろうと理由がわからないわけですね。やはり日本の文化についても全く詳しくないわけですし,何でだろう,何でだろうと思ってばかりだったんですけれども。とりあえず自分で思いついた解決方法というのは,一日でも早くコミュニケーションがうまくとれるようになれたら少しはお互いの勘違いもなくなるでしょうと思っていましたので,日本語を一生懸命勉強するんだと決心しました。それが自分にとっての解決方法だったのです。
 そこからは勉強が始まりました。後になって日本語をマスターして,そのころの友達に仲間に入れてもらえなかった理由などを少し聞いてみました。いろいろな人にも聞きましたけれども,一番近い最初の女の子の友達だったんですが,さっちゃんといいますけれども。彼女が教えてくれたのは,自分にとっては,私はブラジルじゃないですか,ブラジルは男女とても仲がいんです。学校でもとても仲がいいんです。お互いに一緒にいろんな活動をしますし,余り男女差別もないですし。ですから,私はそういうふうな環境で生まれて,13年間そこで生きましたから,何となく男の子と話がしやすかったんですね。男子と話しやすい感じで,どうも男の子との方が仲良しになりやすいなと感じたわけなんです。そこで女の子たちは多分自分たちとよりも男の子たちと仲良くするのが好きなんだなと思ったようです。あとは一生懸命勉強を始めようと思ったときにはもう勉強ばっかりしていたので,昼休みでも何でも勉強ばかりしていたから,逆に近づきにくい印象を与えてしまったとか,そういうこともあったようです。友達から聞いた話ですと。
 そして,そのころは勉強を始めようと思って決心したときなんですが,毎日夜中ずっと,とても小さいお部屋の中で私が電気をつけていると,家族全員が眠れない状況なんですけれども,私は勉強をするんだと言ってずっと夜中まで勉強をしていて,それでも自信がない,日本語が話せない,ブラジルではそれなりに学校では成績がよかったのが,日本に来て突然「おはよう」も言えなくなってしまったわけですから。本当に自信がなくなります。元気もなかったわけです。わからないことが多くて不安だらけで,いろんな不安を抱えていましたね。
 そんなときに一番自分を支えてくれたのは,自分にとっては言うまでもないんですけれども,いつでも神様を信じながら頑張り続けてあきらめないことを教えてくれた家族ですね。そして,私の初めての担任の先生です。今日いらっしゃっていますけれども。本当に感謝しています。
 それから週に3回来てくれていた,正式な日本語指導員の先生ではないんですけれども,学校が準備してくれたというか,そこを私のために考慮してくれて準備してくれた日本語の指導員の先生です。彼女とは日本語を勉強するというよりも,いろいろな話をして泣いたり笑ったりしてほっとする時間を与えてもらえました。本当に感情がとても不安定だった私をいつでも理解してあげようと努力してくれたことには本当に感謝しています。
 そこの取り出し授業が3年生になってからなくなりました。なくなったと聞いたときには,ずっと授業に出ていなければいけませんし,6カ月間ではそんなにすべての教科の説明がわかるわけでもないですし,みんなともそんなには仲良くできているわけではなかったので,不安はありましたけれども。後になって,取り出し授業がずっと続いていて,日本語がそれなりに上達していても,ほかの科目にはついていけなくてそこで問題が生じてしまうというケースがやはり多いんですね。ですから,担任の先生が判断してくれて,その判断が自分に本当に一番よかったんだなと思っています。
 入学して間もないころは担任の先生は英語を使って私とコミュニケーションをとろうとする感じでした。私は英語はしゃべれなかったんですが,英語だけの小さい辞書を持っていましたので,その辞書で引いて先生の言っていることを何とか理解しようとして,一応,ラテン語から来ている二つの言語ですから,多少は共通のある言葉があったりしまして,そんなときはうれしかったんですね。わかった,先生の言っていることがわかったんだとほっとしますよね,一つの言葉だけでも。そういうふうにしていってくれましたので,英語に対しての興味も自然にわいてきましたし,英語を通じて日本語を習う,そういうふうに説明しますととても複雑に感じるかもしれないんですけれども,先生が上手で自然に英語も日本語も一緒に習っていったような感じなんですね。そのときは先生に勧められて英検の4級なども受けてみまして,自分では英検の意味がよくわからなかったんですけれども。
 3年生になって,担任の先生は変わりましたけれども,そのときも英語の担任の先生でしたし,少しでも仲よくしていただいた2年生のときの友達もクラスが一緒でしたし。幸いにも新しく入学したブラジルの女の子もいたわけなんです,同じ学年で。その子とも同じクラスだったんですね。ですから,学校側はいろんなことを考慮してくれたんだなと思います。担任の先生も英語だし,新しく入ってきた女の子ともお互いに手伝い合えるように助け合えるように一緒にしてくれましたし,本当にうれしかったです。ほっとしますね。担任の先生が変わるってパニックになっていましたから。えー,新井先生がいない,どうしようどうしよう,みんなわかってくれるのかなと,そういう不安もありましたけれども,実際は3年生でも勉強がよくできる環境に入れてくれました。
 そこで,3年生になってからは日本語での会話は少しずつできるようになってきましたし,少しは新しく入ってきた女の子の世話もできるようになりましたし,英語が得意になって受験前には英検準2級まで取得することができたので,そのおかげで推薦で高校に入学することができたのです。ですから,本当にここでは先生の指導が本当に上手だったので私が高校に入れたんだなというのがよくわかります。
 私も両親も日本の教育システムについて余りわからなかったので,教育者として自分のことを本当に心から考えてくれていた中学の先生にすべて高校選びなどを任せました。そのことが本当にその後すばらしい高校生活を送ることにつながったのではないかと深く感じています。
 今でも担任の先生,今度は女の先生だったんですけれども,合否発表って,同じ日にみんな知らされるんですね,公立ですと。順番に行くんですけれども,一人ずつお部屋に入って先生が読んでくれるんですね,封筒の中から紙を出して。「合格です」と言ってくれたときのうれしさ,もう本当に今でもすごく覚えています。本当に,「へえ,合格したんだ」って。あんなに推薦の面接の練習をたくさんして,いろんなことも暗記も入っていましたけれども,前もって答えを覚えて,覚えなくちゃいけない部分もあるんですね,日本語がそんなに自由ではないわけですから。大体は覚えて練習して,何回も何回も校長先生にも練習させていただいて,その成果が得られたんだなと,本当に高校に入れたんだと半信半疑ですね。えっ,入れた,という感じですね。
 高校ではやはりそこでは英語以外の科目についていくのは必死でしたね。英語以外は本当に必死に勉強しないとついていけないという状況でした。けれども,そこでは中学校のときよりはたくさん友達もできましたし,勉強会などを開いてお互いの得意科目を教え合ったりして本当に楽しく勉強するようになりました。それでもテストがあるわけですから,テストに合格しないと進級できないわけじゃないですか,高校では。ですから,科目によっては私はみんなの3倍ぐらい勉強しているんじゃないかなと,それでも平均点もやっと取れるという状況でしたから。勉強が大変で体を壊したことも何度かありました。
 また,そこでのALTの先生,南アフリカのミッシェル先生だったんですけれども,2年間にわたって指導してもらって,英語のスピーチコンテストや英作文コンテストに何度も参加して本当に大切な経験をして,優勝することもあって,最も語学の力がついたのが高校で過ごした3年間ではないかと思います。
 それで高校からさらに進学しようと考えたときには,最初の大きな壁はやはり非常に高い授業料ですね。とても高いので。そして,まだ自分にとっては難しかった入学試験でした。先生たちは語学ができるということがわかっていましたので,一生懸命大学の入学を勧めてくれたんですね。一生懸命考えてくれましたけれども。情報は高校ではみんな自分でいろいろ資料を請求して自分でいろんな情報を得ないとわからないわけですから。先生の気持ちもよくわかります。大学に行って自分の好きなことをもっと勉強してもらいたいという気持ちは本当にわかったんですが,学費的な面での問題もありましたし,入試の無理なところもありましたから,最終的には特待生として受け入れてくれる語学専門学校に決めました。
 その専門学校は通訳・翻訳家の専門学校なんですけれども,通訳と翻訳以外の授業では正直言って易しかったんです。通訳と翻訳は英語と日本語を使うわけなので,母国語は使っていないわけですね。ですから,母国語でない言語を母国語でない言語にかえることを習っていましたので,本当に大変でしたし,プロの先生に教えてもらって,ああ,私こんなにいい経験,いい先生に教えてもらっているんだから一生懸命勉強しなければいけない。ですから,その二つは本当にとても大変だったんですけれども,それ以外はやっぱり易しかったので,自分で勉強を進めなければ余り成長しないんだろうなと思いました。専門学校で通った2年間ではやっと英検1級を取得することができました。去年のことなんですけれども。日本語能力試験の存在も知って,1級を合格して。
 そして,留学生がとても多かったので,そこではまた新しい勉強ができたんですね。ほかの文化の方がたくさんいましたから。トルコですとか,ロシアの方もいましたし,中国や韓国の方もいました。ですから,みんな共通言語が日本語なわけなんですけれども,日本語で言えないことは英語で言ってみたりして,とてもいい2年間を過ごしました。
 就職の時期になり,私は進学しようかな就職をしようかなと思って,今度は社会人として,また違う新しい勉強をしたいなと思っていましたので,就職を決めました。日本の学校に通ってからずっと夢だった先生の道に進もうと思っていました。ですから,公務員にはなれなくても,せめて塾の先生でもと思いました。アルバイトとしては1年半ぐらい英語の先生をやっていましたので,本当にその楽しさと,充実しますよね,みんなよくできるようになると,ああ,これはいいなあという気持ちもよくしていましたので。だけれども,残念ながらどこも決まらなかったんです。
 その理由というのは,やはり若いというのが逆に欠点になったりしますね。塾ですと。経験が余りないとか,そういうことがやっぱり欠点になってしまったり,あとは大学卒でないとか,英語以外に得意な科目がない,そういう問題があったわけなんです。頑張ってきた成果が得られないかなって本当に心配で元気もなかった12月のことなんですけれども,突然中学2年生の担任の先生から連絡がありました。初めての担任の先生から連絡が来て,その先生の紹介で,会社役員の方々に3ヶ月にわたって週に2回ポルトガル語の講師をやらせていただくことになったのです。その間はまだ私,学生だったんですけれども,12月から3月ぐらいまでの間だったんですが。
 そこで頑張ったことを認めてもらえて,私は5月9日,その会社の総務課の一員になりました。嘱託という形ですが,すばらしい会社に就職が決まり,努力する人は本当に見捨てられないんだなと最終的に思いました。仕事はポルトガル語や英語の通訳,翻訳を含めた管理業務です。とても充実した日々を送っています。まだ入って3カ月もたっていないわけなんですけれども,一生懸命仕事をしています。今日だけは休みをいただいて,会社の人からは頑張ってきてと言ってもらいました。
 また新たな挑戦が始まると思っています。もう,始まりましたけれども。今までの経験や勉強してきたことを生かして,そして社会人として,人間として成長していこうと思っています。
 外国人のための家庭教師を今もやっていて,外国人に日本語と英語しか教えていないんですけれども,それも続けていこうと思っています。先生にはなれなかったんですけれども,そんな形でも私はうれしいですし,教えるというのは本当にすばらしいことですね。そして,特に教育関係のボランティアもこれからも続けていこうと思っています。  そして,最後になりますが,ここにいる皆さんにお願いをしたいことがあるのです。お父さんやお母さんはいらっしゃいますよね。先生の方々もいらっしゃるかと思います。まずはお父さんやお母さんに子供の将来をやはり真剣に考えてほしいですね。特にブラジルの,外国人にとっては日本で学校に通うというのがすごく難しいことなんですね。大変なことが,バリアがたくさんあって,そこで途中であきらめてしまうことが多いんですよ。ですから,子供たちには両親のサポートがすごく大切です。私がここまで来られたのは,何よりも両親のサポートがあったからです。ですから,お父さんやお母さんたちには子供たちが勉強を続けるための支援,そして精神的なサポートが必要ですから,その辺のことはやはり真剣に考えてあげたらいいと思います。
 先生やボランティアの方々にはいじめを無視しないことをお願いしたいのです。外国人だけでなくても,日本人でもいじめを乗り越えられなくて,仲間に入れてもらえない,心が痛いといって不登校になってしまうケースが少なくないわけですね。先生の存在というのは本当に大きいのです,私の話からも多分わかってくれたと思いますけれども。生徒一人一人の長所が絶対にあるわけですから,そこを伸ばしていくような指導をしてあげたら,絶対にすばらしい生徒さんになるのではないかと思っています。
 生徒の皆さんには,多分今日はそんなにいらっしゃらないと思うんですけれども,やはり大変なときには明るい将来が見えなくなってしまうときがあるんですね。ああ,私ずっとこんな大変な日々を過ごすんだなと,これはいつ終わるんでしょうと思いがちなんですけれども,本当に明るい将来を信じて自分の可能性を目指してあきらめずに前へと進んでくださいと言いたいです。皆さん小さな可能性を現実にしていく力がありますから,一緒に頑張ることが大切だと思います。
 そして,最後に忘れないでほしいことは,努力すれば必ず何らかの形で報われますから。頑張ればいいことありますよ,本当に。
 では,ありがとうございました。

関口::タチアナさんありがとうございました。一つだけ,タチアナさんは,今,埼玉の方の進学ガイダンスで副代表をなさっていると聞きましたが,それについてちょっとだけお話いただけますか。時間が押していますので手短にお願いします。

タチアナ:埼玉の日本語を母語としない子供たちのための進学ガイダンスがあるのです。そこの北部の副代表をやらせていただいているわけなんですけれども,とてもいい経験をしています。子供たちにはやっぱり中学校を卒業して高校へ行く気持ちを持つためには,先生たちとお母さんたちの,お父さんたちもそうなんですけれども,支援がないとその気持ちになれないわけですね。
 これからもみんなで一緒に頑張っていきましょう。

関口:はい,ありがとうございました。

関口:それでは,五十嵐さん,お待たせいたしました。よろしくお願いします。

五十嵐:改めて,こんにちは。二人の話を聞きながら,私も日本語指導員をして12人ぐらいの子供に教えているんですけれども,この二人のように優秀で一生懸命頑張る気持ちがみんなにあればどんなにいいだろうと思いながら,今,聞いていました。
 私は,さっきも申し上げたように,韓国のソウルからいわゆる,今,農村の花嫁という言葉は余り使わないんですけれども,農村に嫁いできました。来た当時は日本語は全然話せない状態で日本の習慣もよくわからないし,ただ韓国の歴史の時間に習った日本は小さな島国なんだよというので,小さな島国だからどこにいても海が見えるだろうというのを思ってきたんですけれども,山形から海はとても遠いです。
 ここに来てもう14年間暮らしているんですけれども,一番最初に来たときは,本当に日本語が何もわからない状態でしたので,1年近くは家でテレビを見たり,近所の方々,そして,親戚とのつき合いが生活のすべてでした。私は来てすぐ子供ができまして,翌年に子供が生まれたんですけれども,そのときはだれとも近所の方とかそういう日本語のボランティアの方とかとも全然知らない状態で,日本語の勉強も全然できない状態で子供を生みましたので,子供を生んでからはすごく気持ちが不安定になったんですね。あと親としての自分自身がすごく情けないと,こんなに無責任に言葉もわからないのに子供を生んでもいいのかというところですごく悩む時期でした。
 そのときにちょうど国際ボランティアセンター山形,IVYと言うんですけれども,その国際ボランティアセンターが私が住んでいる上山に,日本語の教室を開いてくれました。1カ月3回しかない教室でしたが,私は5年間1回も休まず,ある意味では先生に負担をかけたかもしれませんが,本当に1回も休まず5年間通いました。
 5年ぐらい通ったらある程度日本語がわかるようになったんですけれども,IVYで,外国から来て病院に行ったりとかすると言葉がわからなくてすごく困る人たちがどんどん増えてきたので,そのIVYで医療通訳養成講座というものを開いて医療用語を教えてその人たちをボランティアとして病院に派遣するという事業があったんですね。そのときに5年ぐらいたったから日本語もある程度できるので,そのボランティアをしてくれないかというふうに声がかかりました。私も言葉には自信がなかったんですけれども,勉強すればできるだろうという気持ちで医療通訳養成講座に参加して,医療知識を学んで医療通訳ボランティアとして活動するようになりました。
 その活動を初めて発見したもの,医療通訳として行ったのが,保健所の外国人健康相談というところだったんですけれども,その1回目の通訳をしてすごくうれしかったんです。なぜかと言うと,5年間ずっと世話になりっぱなしだった日本語のボランティアの方々にようやく小さいながらも恩返しができるという気持ちがすごく強くありました。強くありましたので,一生懸命医療通訳ボランティアをすることにしたんですね。そういうふうにボランティア活動をして外に出たら,いろんなところからいろんな声がかかりまして,今現在は山形市教育委員会で日本語指導員をしています。
 今,山形にはたくさんの外国籍の子供たちがいます。ほかの都会とは違って山形の場合は連れ子さん,呼び寄せ家族とも言うんですけれども,連れ子さんが多いんですね。山形市教育委員会には4人の日本語指導員という枠があるんですけれども,教育委員会嘱託職員になっているんです。中国語を担当している人が3人いましたが,たくさん入ってくることによって,韓国語ができる人を一人増やしたという状況です。私は韓国語ができるので,主に私が見ている子供たちはみんな韓国の子供たちです。
 子供たちを指導しながら感じたことは,大人とは違って精神的なケアがとても大事であることに気づきました。私が指導している子供たちはほとんど母親の再婚で来日した子供たちなんですね。ですから,子供たちは普通にお母さんとかお父さんとか家族がみんな一緒に来た家庭とは違って,お父さんが違います。何の血のつながりもなく何のかかわりもないんですね。大人はある程度結婚するときには自分の意志で決めて結婚して来るんですが,子供たちはただ親に養ってもらうために来るので,学校でも家でも自分の居場所がないように感じているようです,子供自身が。特に中学生,思春期とか反抗期になって入ってくる子供は,知らない人と同じ部屋で過ごす母親に対して不信感を感じるように思います。ですから,母親を信頼していないんですね。そういう子供は学校での適応もかなり難しいような気がします。
 一つの例として,私が一番最初に日本語指導員としてかかわった子で,小学校6年の3学期から私がかかわり始めたんですけれども。彼女は一つ年下の弟と2人兄弟でお母さんの連れ子として日本に来ました。私が指導する前にも1年ほどほかの指導員が指導したと聞いたんですが,かなり手を焼いたという話を聞いていました。
 初めて私が彼女と会ったのは保健室でした。彼女に会ってびっくりしたのは,小学校6年生なのに顔の表情が子供ではなく,まるで疲れ果てた大人のような顔でした。ですから,毎日保健室通いらしくて。私を見た瞬間,教科書をぱっと投げるんですね。投げて,「これ翻訳して。」という一言で自分はまた寝ようとしているんです。かなり荒れた状態だったんです。しかし,私はそんな彼女が嫌いにはなれなかったのです。かえってこの子をどうすればこの子のために私が役に立つだろうというふうに考えるようになりました。
 それからは,私が保健室通いでした。保健室に行っていろいろな話を聞く,話をするうちに少しずつ心を開いてくれて,徐々に保健室ではなく,教室で指導するようになったんです。お母さんの話だと韓国ではすごく成績もよくて生き生きしていい子だったという話だったんですけれども,余りにも日本の文字とか漢字とかが多すぎて,文字を読もうとしない習慣がついてしまったんですね。数学と理科などは絵が書いてあったり,問題を解ければいいものなので,少しはやる気が出てきたんですけれども,国語と社会などはもう読む気にもならないようで,かなり大変でした。しかし,どうしても日本で暮らす以上,日本の活字を読んでちゃんと理解しなきゃいけない,勉強もできないとという気持ちが私に強くありましたので,中学生の子供たちが好きな雑誌などを持っていって,見せて一緒に読みました。ところどころ自分が気になるところはどうしても,これどういう意味と言って聞いてくるんですけれども,そういうときは辞書とかを出して,じゃあ,単語だけでも調べてというふうにして子供にやらせました。
 雑誌を持って行ったときに星占いとか,性格判断というものにすごく興味を示して,そこはどうしても読みたいんだけれども,先生は翻訳はしてくれないので,自分の力で辞書を使ってよく翻訳していました。
 そういうふうにだんだん文字,活字に親しむように仕向けていったんです。彼女が唯一,「先生,本好きになった。ほかの本も貸して。」と言ってくれた本があります。何かというと「蛇にピアス」という本,皆さんご存じですか。すごく過激な本なんですけれども,中学校2年生,3年生に読ませるのにはちょっと勇気が必要だったんですけれども,有名な賞をとったものだし,高校生の人が書いたものなので1回読んでみなさいと言って貸したんですね。それを読んで本が好きになったと,ほかの本も貸してというふうに言われて,それからはハングル,韓国語の本とか日本の本とかも活字をたくさん読めるようになりました。
 今は自分の力で高校入試に合格して高校生活を楽しんでいます。いろいろな発表会があったりとかすると,「来て。花束持ってきて。」といつも花束を私にせがんでいます。ほかの人はおじいちゃんおばあちゃんとかいろんな人から花束をもらっているのに,自分はただお母さんに一つだけもらうのがすごく寂しいらしいんですね。ですから,二つ持ってきてもいいよと,いつもせがまれています。
 私は彼女を通してたくさんのことを学びました。指導員という仕事は大変な仕事だと思います。しかし,その頑張る分,大変な分やりがいもある仕事です。子供と一緒に悩み,励まし合い,やさしく包み慰めてあげることもとても大切なことだと思います。しかし,時には親になりかわり,叱ったり,わがままになりがちなところを少し離れて見守ることも大切だと思います。
 彼女とこんなことがありました。韓国人はものごとをはっきり言うんですね。だから,相手の気持ちをそれほど考えないで,自分が言いたい放題言うというのが韓国人の特徴です。私もそうなんです。ですから,真っ直ぐしか見えないので,あちこちぶつかったりして,本当に傷だらけなんですけれども。子供もすごくそういうところが目立ちます。私はある程度日本に住んでいたので少しは控えめになっているんですけれども,子供は本当に何も考えないで,周りの友達とか気に入らないと「気に入らない。」とか言ってしまいます。でも,今,学校に入っている韓国の子供を見るとリーダーシップがあるんです。何かの委員会の委員長になったりとか,結構いろんなことを言葉もわからないのに,ちゃんと読めないのに,そんな大事な役目やっていいのと思うほど,引き受けてきているんですね。すごく積極的なんです。
 彼女も韓国の子供の中でも特に元気な子で,何でもずばずば言っている子供だったんです。ですから,けんかも多いですね。周りの女の子の友達とけんかも多い。すごく仲よくしていた友達とけんかをしたらしくて。そのときはある程度言葉ができているのにもかかわらず,「先生,その友達と話がしたいんだけれども,私が外国人なので話をするときに言葉がわからないことがあるかもしれないから,通訳して。」というふうに言ったんです。そういう甘えるというところが結構ありまして,外国人だから,言葉がわからないからみんな理解してとか,みんな助けてとかいうふうなことが多かったんですね。ある程度言葉が上手になるとやっぱり自立させなくてはいけないし,友達関係は特に自立させなくてはいけないので,この日も,「けんかができるほどなら仲直りもできるはずだから,自分で解決して。」というふうに言ったんですね。「そのかわりに,あなたがその友達と話し合う場が必要ならその場は私が提供してあげる。今日の勉強はしなくてもいいから,その友達,仲直りしたい友達をここに連れて来なさい。ここで話をしなさい。」と言ったんですね。私は外で待っていました。それで話がうまくいったようで,その次の日からはもう生き生きして友達とまた仲よくなったんです。
 子供たちにとって日本語指導員というのは一番自分の味方だと思うんですね。味方でもありますし,理解者だとも思っているんです。私もその理解者になりたいと思ってかかわっています。確かにそうではありますけれども,わがままなところを許してしまうとますます適応が難しくなるので,できるだけ自立をさせて自分で解決するようにサポートをするのも大切なことだと思います。
 そして,支援の仕方としてはいろいろな方法が言われていますし,考えられますが,私は指導員が学校に出向いて指導する方がベストだと思っています。家庭でも学校でも居場所がない子供たちは適応も難しいです。指導員が学校へ行き,子供の学校での様子を見ながら指導員が担任やほかの先生方と交流をする姿を見ると,子供たちはとても安心するようです。ですから,学校はもっとボランティアや指導員を受け入れてほしいし,行政に対しては指導員の質を高める努力をしてほしいです。初めは心のケアが主になるので,母語ができる指導員,私のように母語ができる指導員が望ましいと思います。しかし,中学生を指導するのにはやはり日本で教育を受け,教科指導ができる人の指導が必要だと思います。母語ができて,自分の子供のように愛情を持ち,教科指導までできる指導員の養成が一番必要ではないかと,今,思っています。できれば子供と同じ文化背景を持った指導員の方がよいと思いますが,もしそれが無理であれば,母語ができる指導員と教科指導ができる指導員がチームになり,常に情報交換をしながら指導することも方法としてはあるのではないかと思っています。
 そして,外国人にかかわる方は何よりも外国人の気持ちを心から理解し,あるいは理解しようという気持ちがある人でないと上手に進まないのではないかと思っています。
 最後に私が言いたいことは,高校での,さっきも進路ガイダンスの仕事をなさっているという話だったんですけれども,私が,今,例として出した子は小学校6年生のときに来たので,ある程度勉強は,荒れたりしたとしても中学校3年間の期間がありましたので,自分の力で高校に入ることができたんですけれども,大体中学校2年とか1年に入って1年,2年で自分の力で高校に入るというのはとても難しいんですね。難しいんですけれども,親とか子供自身,学校側とよく相談してどういうふうなルートで高校に進学するかということについて,本当に真剣に考えてほしいです。学校の先生方もわからない方がすごく多いんです,この内容,特別に外国人に対してはこういう枠があるということがわからない方が多いので,進路ガイダンスというのはすごく大事なことだと思うんです。
 親も外国人として来ているので言葉がよくわからないんです。日本の学校制度もよくわからないんです。情報がわからないんですね。情報がたくさんあるとしても言葉がわからないから,自力でその情報を調べるのはとても難しいです。ですから,そういうガイダンスみたいなものを定期的に開くような支援が最も必要な支援ではないかなと思います。そのときはやっぱり言葉がわからないから通訳をつけて開くのが大切なことだと思います。
 これからも,山形ももちろん全国でもそうだと思うんですけれども,外国国籍の子供は増えると思います。そして,彼らも日本で,日本の市民の一人として,この日本で共に生きていくと思います。彼らがこの国で生きていくことを誇りに思うような支援をしてほしいと思います。
 以上です。長い話につき合っていただいてありがとうございます。

関口:チョンシムさんありがとうございました。いろいろな示唆を与えていただきました。
 それでは会場とそれからパネリストの方との意見交換に移りたいと思います。今日はこの会場に,このパネリストの方々のゆかりのある,例えばタチアナさんの英語の先生,最初の担任の先生,現在鴻巣市教育委員会の指導主事でいらっしゃいます新井裕則先生,それからチュープさんの大きなきっかけとなった日本語ボランティア,与座さんの所属していらっしゃるかながわ難民定住援助協会会長の櫻井ひろ子さん,それから,五十嵐さんにとって大きな助けとなった国際ボランティアセンター山形,IVYの横沢由美様,お三方がいらっしゃってくださっていますので,ぜひお話を伺いたいと思います。よろしくお願いいたします。
 ではまず,チュープさんのかかわりとして,櫻井さん。どちらにいらっしゃいますでしょうか。櫻井さんの方にマイクをお願いします。

櫻井:改めまして,3度目ですが,かながわ難民定住援助協会の櫻井でございます。今日は大変すばらしいお三方のスピーチを伺いまして,とても感動いたしております。私はチュープ・ソッコーンさんという,いつもコーン君というふうに呼ばせていただいて親しくさせていただいております。今,ソッコーン君は我々の仲間でありますボランティアの与座につきまして,長年とても感謝の気持ちを持ち続けていたということを,ここでずっとスピーチの中を全部というほどに感謝の気持ちを述べておりました。今日は与座は病院の検診がありまして残念ながらこの席には列することができませんでした。でも大変喜んでいることと思います。
 そして,また一方,与座の方もこの間とてもコーン君から大きな大きなことを学ばせてもらったと感謝していると思います。それは私は確信しております。ただし,どんなにボランティアが頑張りましても,やはり,今,ここにこうやってコーン君がいるということは本人の努力のたまものだと思います。
 そしてまた,彼はとてもボランティア心もありまして,私どもの協会には,よく地域の中学校や大学から異文化理解の講座の講師を紹介してほしいというような依頼があります。そういうときに彼は先ほども言っていたと思いますが。二つの文化をあわせ持ったことをプラスにして,そして祖国カンボジアのすばらしい文化やカンボジア人をみなさんに理解してもらうために紹介していきたいという気持ちを持ち続けております。そこで彼に話しますと,喜んでそういうところに出向いてくれまして,すばらしいカンボジアの文化をみなさんにご紹介して,年々異文化理解の講師の紹介の数も増えております。そのように大変皆様の中にカンボジアという国をよりよく紹介している,本当に架け橋になっていると思います。
 また,コーン君というのは信念の人でもあるんです。最近私がとても印象に残ったことがありました。それは,「僕はアルバイトをして,働いても働いてもそのお金は全部授業料になってしまう。僕にとって1万円という金額はとても大きな負担を伴う金額なんだ,おろそかに1万円をだらだらと使うことはできない。」ということを切々と述べておりました。何をするんだろう,1万円って,と思ったんです。貯金するなと思いましたけれども,どうも私が察するところ,これは本人は多分言っていいのかどうかわからないんですけれども,私は言ってしまうんですが,彼の母親はこの4年間腎臓病に苦しまされております。そして,もしかしたら,人工透析になる確率もないではないというところまでその状態がきております。そこで彼は,多分近いうちにお母さんを一度カンボジアに連れて行きたいと思っているのではないか。でも彼はきっと信念の人ですから,これをやり遂げるというふうに思っています。
 これからもいろんな大変なことがあると思いますけれども,今までもいろいろな苦労を乗り越えてきております。そういう力を持っている人です。
 最後になりましたけれども,先ほどから話をしている中で,一つみなさんに長年インドシナ難民,ラオス,ベトナム,カンボジアに携わった者として一言お伝えしたいなということがあります。というのはカンボジア語,ラオス語,ベトナム語には日本語の音がないというのは皆様ご存じかもしれません。また,私たち日本人にとってカンボジア語の音というのが持ち合わせていないということがあると思います。どういうことかというふうに申しますと,カ行,サ行,タ行の発音が非常に難しいと思います。
 具体例を申し上げますと,自己紹介のときに,「初めまして,何々です。どうぞよろしく」と,カンボジア,ラオス,ベトナムの人たちは正確に発話しているはずです。でも,日本人の耳に聞こえてくるのは「ハンメマ,ドウ,ヨロ」と,極端に言いますとそこまでなんですね。やはり双方にとって言葉というのは非常に発声というのが大変難しく,それはとても負担になっているだろうなと思いました。
 お三人の方々,本当にすばらしいスピーチありがとうございました。皆さんありがとうございました。失礼いたします。

関口:櫻井さん,大変ありがとうございました。
 それでは,タチアナさんの大きな支えとなった新井先生はどちらにいらっしゃっていますか。
 新井先生よろしくお願いいたします。

新井:みなさん,こんにちは。ただいま御紹介いただきました埼玉県鴻巣市教育委員会の新井裕則と申します。本日,丹羽さんには,私,丹羽さんと呼んでいるんですが,すばらしい発表ありがとうございました。また3人の方,ありがとうございました。
 タチアナさんがチュープ君の発表された後の自分の順番のときに「改めましてみなさんこんにちは」と言いました。いつ習ったんだろうこんな言葉,そう思いながら聞かせていただきました。7年前のことを懐かしく思い出しております。
 最初にちょっと鴻巣市の紹介をしてこいという上司からの命令もございまして,ちょっと紹介させていただきます。埼玉県鴻巣市というのは東京から約50キロ北の方に位置する人口約8万4,000人の町でございます。この10月1日には近隣2町と合併いたしまして12万人になります。雛人形と花の町。ちょっと岩槻の方に押されているんですが,一応雛人形と花の町ということで売り出しておりまして,東日本最大の花卉センター,花の市場ですね,それを持っておりまして。また,鴻巣には埼玉県の免許センターがあることでも有名です。
 外国人登録者数というのも昨日確認したんですが,約1,800人おります。タチアナさんの今日の発表でありましたとおり,日本語指導員,本校,鴻巣北中学校というところだったんですが,学年でも4人かな,ほかに4,5人の外国籍の生徒がいたことを思い出します。そういった意味で,鴻巣というのは比較的真ん中にあることから,ブラジルの方とか,チリ,ペルーとかそちらの方からの方が多く来られているところでございます。
 申しわけなかったなということで,まずタチアナさんのことで心を今痛めていることは,いじめのことを今日聞きまして改めて申しわけなかったなということを思いながら聞かせていただきました。とにかくタチアナさんというのは努力家でありました。1カ月ぐらいで日本語,ひらがな,片仮名を学んでいたことを思い出します。
 学年,学校としても外国籍の子がいることから,どのように試験問題などを考えていこうかということがありました。私たまたま教科が英語だったものですから,授業のときはもちろんそうですが,試験のときにはなるたけ試験監督について,答えを教えることはできなかったんですが,試験問題を英語で言いながらこれはこういう意味だよ,こういう意味だよ,頑張ってごらんということで取り組んだり。あるいは社会の先生など,学年主任の先生だったんですが,子供たちのことをよく考えて,来て半年ぐらいですよね,半年で鎌倉幕府のことなどわかるはずがない。日本の歴史について考えなさいといっても無理なので,前もって課題を,ブラジルの文化や歴史についてポルトガル語でいいから答えなさいということでわら半紙を渡して,授業,ほかの子は一生懸命鎌倉幕府がどうだこうだと答えているところへ,ブラジルについてポルトガル語で書いていった。それも一つの手だと思うんですが,実際社会の先生がそれをどう評価したかはこの場では聞かないでほしいと思っております。
 そういったことで学校,学年としてもその子だけ,外国籍だからということではなくて,とにかく困っている子があれば一生懸命それについて当たっていこうじゃないかということで,校長先生もタチアナさんの希望する高校の校長先生のところには頻繁に出かけていって売り込んでくれました。そう売り込んだからどうということではないんですが,やっぱり全然知らないで受験するよりも,少しでも良さをPRをしてという思いがあって取り組んでくれたことと思います。
 それで,今,私は市教委という立場にいるんですが,できることは県や文科省でやっている授業など,できることはなるたけ手を挙げてそういったものに極力事業に参加できればという思いでいます。例えば一昨年だったんですが,文科省だったと思うんですが,外国人児童・生徒保護者等教育相談派遣事業というのがございました。たまたま当たったという言葉は失礼なんですが,それを鴻巣市で受けることができまして,2名のポルトガル語,スペイン語のわかる方をボランティアでお願いをして,小学生,中学生のお子さん及び保護者の方に学校や教育委員会等で場所を設定して,悩みや勉強面のこととかあるいは普段の生活での悩み,そういった相談を行ったことが今でも効果的だったなと思います。本当に教育委員会というのは,そういったいろんなことで,できることを学校の方に下ろしていくのが仕事だと思ってやっております。
 埼玉県でいい事業の一つとして,先ほどちらっと出た日本語指導加配教員というのがございまして,今年度確認したところ34校に35人の加配がつきまして,取り出し授業とかあるいは学級の中でのTT*1指導を行っております。そういった形で効果的に外国籍の子供たちを支援していく,あるいは一定の外国籍の人数のいない学校については各市町村で日本語指導員とかボランティア指導員を募ってやっているのが現状でございます。
 教育委員会というのは,使えば使うほどただでやっていただけるところですから,学校というのは本当に困ったときにはそういったところをうまく使うといいと思います。また埼玉県の宣伝になってしまうんですが,ポルトガル語,スペイン語の国際交流員という方が県におられます。その方にも申請をすれば保護者会とかあるいは悩み相談等のときに,あるいは通訳とか翻訳業務等もやっていただけますので。そういったところをうまく使うといいのかなと思います。
 いずれにいたしましても,どういう形で連携ということを考えたときに,やっぱり学校,家庭,地域というのが手を取り合って,月並みですけれども,手を取り合ってというのが横に手をつなぐのではなくて,丸くなって手をつないでその中に困っている子供,外国籍の子供を含めて子供を見守り育てていくしかないのかなと思いながら日々取り組んでおります。
 ありがとうございました。

*1 TT (team teaching)複数の教師が指導計画の作成,授業の実施,教育評価などに協力してあたること。


関口:新井先生,ありがとうございました。多分タチアナさんは当時先生の今日のような温かい雰囲気のお話の中でほっとして助けてもらえるという安心感をもって先生についていったんだろうなと感じました。鴻巣市のこともいろいろありがとうございました。
 それでは,五十嵐さんが大きな助けとなりましたIVYの横沢さんはどちらに。あちらですね,マイクをお願いします。

横沢:山形の国際ボランティアセンター山形で13年ぐらい五十嵐チョンシムさんと一緒に活動しております横沢と申します。
 関口先生が私のことをチョンシムさんの大きな助けになったというふうに今紹介してくださったんですけれども,実は全然私とチョンシムさんの関係は逆で,チョンシムさんは私の「チョンシムオンニ」,韓国語の「お姉さん」なんですけれども,そうやって人生の,結婚も先ですし,子育ての先輩でお料理も上手でということで,いつもいつも私とチョンシムさんの関係は私のお姉さんという感じで十数年一緒にいます。
 一番チョンシムさんの助けになった人の話をちょっとここでしたいと思います。チョンシムさんがここまで日本語が上手になって,そして私たち,というのはIVYの仲間なんですけれども,一緒にこんなふうに仕事をしたり,いろいろ楽しいことなどをできているのは,五十嵐京子さんという方がいらっしゃったからです。10年以上チョンシムさんにずっと日本に来たときから日本語をずっと教えて寄り添ってくれた人でした。ちょうど去年の今頃,がんで亡くなってしまって,ちょうどあさってで1年になるんですけれども。チョンシムさんも私も,あと,今日山形のIVY関係者の方数人来ているんですが,本当に本当にこの1年間,大きな大きな穴が空いていろいろと大変な気持ちを持ったまま活動をしてまいりました。ですので,それを考えると,五十嵐京子さんと一緒に頑張ってきたチョンシムさんがステージに乗って話すのを聞いてすごくうれしいです。
 話は戻りますが,IVYの日本語教室ではチョンシムオンニは,子育てとか遊び,料理の先輩で,キムチ漬けの先生でやっと2年ぐらい前に,これで今から韓国にお嫁に行けるよというぐらい,やっと褒められるぐらい私もキムチ漬けが上手になりました。
 チョンシムさんは本当にフットワークが軽くて勉強しようとか何かしようと思ったときに,本当に行動力があってすごかったです。初めて教室に行って彼女を見たときに1歳ぐらいかな,上の長男の男の子を,歩行器って皆さんご存じですか。最近見ないんですけれども,赤ちゃんを入れて動かす,丸い,あれに子供を入れて,足でゆらゆら揺らしながら,自分は,畳の部屋なんですね,それで揺らして子供をあやしながらずっと勉強していました。その姿を見て,ああ,子供がいても子供がいることを理由に勉強を続けられないというのはうそというか,ちゃんとできるんだなという姿勢がとても私にとっては衝撃的で。ちょうどその後私も子供を出産したんですけれども,子供がいるからボランティアするとかしないとかというのはチョンシムさんの姿勢を見ていて,ああ,そういうんじゃないなと思って。私も子供を連れて一緒に学習者の子供と一緒に遊ばせながら毎週上山の教室に通っておりました。
 だから,本当に教育というふうな枠組みから見ると,昨日の話ではないですけれども,かなり雑多な条件で,女しかいなければ服をめくっておっぱいやってわきで子供のうんちをとりかえてみたいな,そんなことが結構日常茶飯事繰り広げられているような場所でずっとチョンシムさんは学んできました。私もそういう彼女の学びの姿勢とか,生きる姿勢とか,いろいろな人のつながり,もちろん亡くなった五十嵐京子さんの姿勢なんかを見ていて,多くのことに刺激を受けました。
 今日,実はこのIVYの上山教室にルーツを持つ人が何人かここに来ております。隣にいるのが,長藤さんといって,今,山形市の国際交流協会の子供の日本語関係のコーディネータをしていらっしゃる方です。それから,向こうの端に今広島の福山市にいらっしゃる有広さんがいらしているんですけれども,彼女も前は山形に住んでいらっしゃいまして,一緒にIVYの教室でそれこそ直接チョンシムさんに日本語を教えて一級合格を一緒に頑張って教えてくださった方です。
 このように今も私たちは,やっている場所がチョンシムさんは教育委員会,こちらは市の協会という形で違うことをしているんですけれども,やはりIVYの教室をルーツに子供のことなどについて,情報交換や思っていることを本音で語り合える仲間です。
 ですから,子供を取り巻くという,今日のタイトルなんですけれども,大人の連携という部分については,仕事ではない,オフな部分でもいろいろと情報交換ができて,結構いい人間関係をずっと保っていけるのではと思っています。
 ときどき考え方の違いで私たちもけんかといいますか,口論といいますか,いろいろあるんですが,そのときにチョンシムさんがときどき言うんですね。私のこと,外国人だと思っていないでしょうって。それは日本語的な部分もそうですし,態度とか,当たり具合というのが本当に人間対人間で,少なくとも私は外国人だと思って日本語的にも行動的にも手加減してチョンシムさんに向き合ったことはないので,それは本当です。
 これ以外にもチョンシムさん自身が韓国人の配偶者のグループの中でリーダー的な役割,コーディネータ的な役割を担っています。その中での人間関係が,家族のことでうまくいかないことや,最近本当に再婚で連れ子さんが来るケースが多いので,地域の教室の中で起こったいろいろなことというのは,そのままチョンシムさんの仕事,つまり,子供が学校に入るということに直結しているので,そのあたりが本当に地域の日本語教室のアンテナのような役割を果たして,そこからことが動いていくということが最近本当に多いなと思っています。
 学校に入ってしまうと,子供は中心が学校になってしまうんですが,入るまでの親とか地域とか周りの人たちの支え合いの積み重ねが本当に大切だと思います。指導員としてまた協会のコーディネーターとして働いている,つまりこれは社会的な立場の仕事としてきちんと二つの意味合いを同じチョンシムさん自身が担っているというのは本当にすごいなと思って感心しています。こういうふうな形がもっと山形で広がって,もっとルールとして仕組みとしてきちっとつくっていけたらうれしいなと思っています。
 今日はいろいろありがとうございました。

関口:横沢さん,ありがとうございました。いろいろな提案もいただきました。
 それでは,これから皆様と意見交換をしていきたいと思います。パネリストの方に何か御意見なり,御質問なり,何でも結構です。できましたら,今日はこのテーマに沿った御質問をお願いします。全く違う内容というのはまたここを降りたところで個人的になさっていただきたいと思います。
 それでは,御意見おありになる方,挙手をお願いしたいと思います。

参加者:失礼します。先ほどちょっと話題になりましたF市から来ました,Tセンターで日本語教室を担当しておりますOと申します。
 私,以前,中学校現場におりまして,そのときに私は社会科だったんですが,ブラジル籍の女の子がいたことがありました。社会科の歴史の授業とかをやっていまして,これが一体この子にとって何の役に立つんだろうかということを本当に悶々と考えながら,ただ字の練習だけ,その教科をやっても日本人としてのアイデンティティを高めることはできても,それ以外何の役にも立たないなということを思いながら悶々と授業をしていたことを思い出しました。
 さて,私の意見と質問なんですけれども,今,日本語教室は実は中国帰国者の方を対象にした授業なんですが,ただ教室は小学生クラス,中学生クラス,大人クラスとありまして,私はとりわけ中学生クラスを中心にかかわっているんですが。やはり語学,日本語力の問題と教科の問題ということを非常に悩んでいまして,日本語を日常会話が話せるようになっても決して教科の力に結びつかない,そのことがやはり進路の時期になって決定的なその子の進路を左右してしまうと。今まで送り出していった子供たちを見ても,希望通りのところに進むことはなかなかできなかったし,どうにか高校に入っても早い段階でやめてしまうということに毎年出会ってしまっています。先日もある男の子が定時制の高校にやっと入れたんですけれども,夏を前にしてやめたということを聞いてしまいまして,非常に残念です。
 ただ,学校現場と違いまして,社会教育現場では卒業したその子とも今かかわれるなというふうに今思っています。その子が住んでいる地域に出向いて話していくことで,何かその子の支えになれないかなというふうに思っています。
 今一つお伺いしたいなと思うのは,子供の立場からして,ソッコーンさんとタチアナさん,お二人は本当に集中力があって粘り強い勉強をしてこられたなというふうに思ったんですが,でもその中でもくじけそうになったり,ああ,もうだめだとか思ったりしたことがあると思うんです。そんなときに周囲の大人からどんなことに気付いてもらってどんな声をかけてもらったことが大きな力になったのかなと。今,苦しんでいる子供たちを前にしながらどうしようもすることができない場面がときどきあって,本当に役に立たない自分がいるなというふうに思うことがあります。そんなシーンを紹介していただけたらなというふうに思います。よろしくお願いします。

関口:Oさん,ありがとうございました。それではタチアナさん,それからチュープさん。では,チュープさんから。
 今,Oさんの御質問は,恐らく具体的にどのようなシーンとかどのような言葉でということも含めてということだと思います。

ソッコーン:そうですね,ちょっと難しい。やっぱりぶつかることはありますね。僕は数学が好きなんですけれども,やっぱり解けないものに,ぶつかってしまうんですね。だから,そのボランティアの先生は,まず公式的なことを教えて,それから直接ではなくてほかの例えとして教えてくれたことがすごく印象的で,それでその自分の壁を乗り越えたんじゃないかと思います。ちょっと数学的なことなんですけれども,そういう感じで。
 やっぱり支えは必要ですね,先生があきらめないということが。それがなければ生徒もついていけないし,あきらめてしまう。そこは大事だと思います。
 あと,自分から言うことも大事だと思います。彼らは何をというのではなくて,自分から言うのは本当は大事なんですけれども,言えない部分,表現できない部分もあるんですけれども。それを先生が見抜いてあげること。彼らが訴えたいものは何だろうかと探すことが必要です。
 僕は高校入学というのはやっぱり受験科目が5科目とか3科目とかあるじゃないですか。僕は数学が好きだったのでそれでなんとなく伸びてそれで受かったんですけれども,やっぱり今の彼らも多分何も得意科目がないと思うんですよね。それでどうすればいいのか。科目の中で何が好きなのかというのを見抜くこと。科目としての「社会」ですが,僕は最初嫌いだったんですけれども,なんで「日本の歴史」なんかするんだよみたいな。だけれど,日本で生きるためには地域にかかわるためには就職するには社会がどうなっているのかも必要ですね。今僕は好きになったんですけれども,こういうことがわかるように説明して勉強することが大切なんだなということをわからせることだと思います。
 彼らの得意科目を見つけてやって,それを集中的にやらせることは一つの目的だと思います。それによってまたほかの科目に挑戦してまた伸びると思います。それに平均点を足して高校入学に対抗できるんじゃないかなと思います。

タチアナ:先ほど言ったとおり,くじけそうになったことは何回もあります。でも一番最近が12月で,今も社会人になって本当に幸せな日々を送っていますけれども,これからも必ずまた壁が来るんですね。ああ,どうしようって。私も特に細かいことを気にしがちなんですよ。ですから,勉強ができないということだけでなくて,文化に合わないところですごく傷つきやすかったんですね。
 そしてまず,私はとりあえずみんなをまねしていましたけれども,まず先生に教えてもらったことがあるのです。そのときは日本語が通じなかったので,英語で貼ってくれたんですね,成績表に。日本語では多分ちゃんとした言葉があると思いますけれども,「ローマにいるならばローマ人のようにしていなさい」という言葉がありました。その先生はその言葉を通じて私に日本人みたいにやりなさい,100パーセント日本人になりなさいということを伝えたいわけではないと思います。まずはみんなに受け入れてもらえるように,日本の中学校というのは団体行動が多い,日本人全体的に団体行動が多いので,まず受け入れてもらえるように,少しはお化粧して日本人に見えるようにして,化粧ではないんですけれども,白いソックスを使うならみんな白いソックスを使いましょう,髪の毛を染めてはいけないなら,私は染めていなかったんですけれども,染めないようにしておきましょう。ちゃんとルールを守って周りに認めてもらう,受け入れてもらうというのがそれが先生が私に教えたかったことだと思っています。
 で,それをまずやったらやはり少しは私たちと一緒だなという感じが伝わるみたいですね。ですから,黙想とかあるじゃないですか,「黙想しましょう」と先生に言われても「黙想」は何でしょうと思って隣の女の子を見たらハンカチで目を隠してみんな目を閉じて考えているんですよ。はあ,と思って。その次の日,自分でハンカチを買ってきてハンカチで目を隠して自分なりの考え事をしていたわけなんですね。ですから,形だけでもいいというところがあるんですね。
 そして先ほどチュープさんが言ったとおり,長所を伸ばす,そこが大事ですね,私もブラジルでは一つの教科として英語があったんですが,先生と余り仲が良くなかったというか,あんまり英語がそんなに好きではなかったんですけれども,逆に社会とかポルトガル語とかそっちの方が好きだったんですけれども。日本に来て,全く,私,英語が得意になって,先生がそれを使って,どうやって見抜いたかわからないんですけれども,じゃあ,英語を伸ばしていこうという,そこがすごく上手だったんですね。子供たちには自分が何が得意なのかわからないときが多いと思うんですね。
 もう最初から絵が上手なんだ,音楽が上手なんだってすぐにわかる子供もいれば,全くなかなか見えてこない子供たちもいるので,そこは先生の働くところだと思いますね。ああ,この子はこれが得意なのかなと。そうして,また文化のところですね,どうやって日本人の子供たちと仲良くしていけるのかということも少しずつ教えていけたらどうでしょうか。

関口:チュープさん,タチアナさん,ありがとうございました。
 O先生,二人の若者の意見でございます。私も子供たちへの日本語支援を今でもいろいろやっておりますけれども,今先生がおっしゃった,本当にどうしたらいいんだろう,この子たちをどうしたらいいのかというふうに御覧になって心配してくださるということは,私としましては,そういう心配をして一生懸命その子を見つめる人がいるということ,それがその子にとってはとてもすばらしいことだなと思います。
 ですから,そこの中でそんなに100パーセント解決というものはありませんが,彼らが言っていたように,この子が好きなもの,あるいはこれだったら伸びるかもしれないというのを周りの大人が探すということは本当に大切なことなんだなと思いますし,それが自信につながりますね。自信がつくと,これは不思議に嫌いだといっていたものが好きになり,意欲も出てきます。どうぞ先生,あきらめないで頑張っていただきたいと思います。ありがとうございました。
 それでは,何か御質問,御意見,アドバイス,何でも結構ですが,お手を挙げていただけますでしょうか。

参加者:のHセンターから来ましたNといいます。
 先ほどチュープさんが自分が夢を持てるようになったのは,生きる目的が持てるようになったのは,ボランティアの先生のおかげですというようなことを言われました。学校の先生ではなくてボランティアの先生のおかげですということだったものですから,元教員として私は愕然としたんですけれども。しかし,思い当たるというか,そういうふうにも思うんです。
 実はSにも日本語こどもクラブというのがありまして,これをやっておられるのが,ボランティアの方々なんです。女性のボランティアの方々が中心です。中には退職した学校の先生,元教員もいるようですけれども。このボランティアの方々が,ちょうど学校でうまくいかないとか,ついていけないとか,そういうような子供たちを非常にうまくカバーしているんですね。そして,ついこの間も,ちょうど今中学3年で受験にあたる子供たち,中3でなくても,中2でも中1でも,小学生でもいいんですが,その親子を集めて進路相談,いろんな方の先輩の方の経験を聞くとか,あるいは教育委員会の方のいろいろな詳しい進学の手続きや何かを聞くとか,非常に直接役に立つような,そういう懇談会というか,説明会というか,そういう機会をつくってくれたのもそういうボランティアの方なんです。
 このテーマにもありますように,ただ,学校だけでなくて,地域社会が協力して日本語を必要とする子供たちをカバーするというのは非常に大事なことだと,私も改めて思っているんですけれども。しかし,実際に子供たちが長い時間過ごすのは学校ですよね。チュープさんもタチアナさんも日本の小・中学校,高校の経験があるわけですが,学校をそういう日本語を必要とする子供のためになるように変えていく必要が私はあると思うんですね。学校というのは教育委員会のためにあるのではなくて,子供たちのためにあるわけですから,そういうふうに変えていくためにはそういう日本語の学校の経験があるチュープさんやタチアナさんはどういうふうにすればいいと思っておられるのか,ちょっとお聞きしたいと思うんです。
 学校を変える,組織を変えるというのは大変なことかもしれませんけれども,学校の教育内容とか,あるいは先生方がそういう日本語を十分わかっていない子供に接する接し方とか,そういうことについて,御意見などをお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

関口:Nさん,ありがとうございました。
 学校を変えていく,大変です。でも大事なことですよね。それでは,今度はタチアナさんの方からお話を。

タチアナ:難しいですね。でも,やはり私のスピーチの中でも言いましたが,小さな可能性を現実に変えていくというのが大切ですものね。私はやはりいろんなことを考慮してくれた学校にいたわけなので,本当に自分は恵まれていたなと思います。今ボランティア活動を始めて,ほかのケースもたくさんあるということがわかってきました。
 ですから,まず,先生だけが必要なんじゃなくて,五十嵐さんも言いましたけれども,母国語がしゃべれる方はまず必要だと思いますね。母国語をしゃべらないと多分心のサポートが伝わらない部分があると思うんですね。同じ国同士の方が,習慣もよくわかりますし,気持ち的な問題も多少は違いがあるんですよね。ですから,韓国人の指導者が韓国人を指導するというところはプラス点はあると思います。学校側はやはり外国人の生徒たちには,もちろんみんながそうなんですけれども,限界はあるんですよね。ですから,私の場合は中学2年生の2学期に入学したんですけれども,先生の言ったとおり,社会の勉強なんて,鎌倉幕府,今でも私も100パーセントわからないので,その限界をわかってあげた方がいいと思います。何か違う工夫をして特別扱いをするのではなくて,一人一人の生徒のリズムというか,なるべくですけれども,尊重していくことが大事なのではないかと思います。

五十嵐:学校を変えていくのにはどうしたらいいのかということですよね。学校を変えていくのは本当にとても難しいことだと思うんです。私たちも今山形で学校を変えていこうとして頑張っているんですけれども,やっぱり学校が変わるためには,学校が困らないといけないんですよね。でも,学校は本当に困っているんですけれども,困っていることに気が付かないというところが結構あるような気がします。
 外国から来たので,それは当たり前に自己責任でしてくれという感じでやっているところもありますし。山形県内でも,私のように母語ができる指導員を派遣して指導しているというところは余り多くありません。市町村としては二つくらいです。私は山形市なんですけれども,すぐ隣町の上山市,私が住んでいるところもそういう指導員を派遣して何かをするということはないんですね。
 学校を変えるためには,まず子供たちを助けようと頑張っている皆さんが,ボランティアをなさっている皆さんが教育委員会を変えていくということだと思います。ボランティアの方々が頑張るしかないと思うんです,これは。行政の方がもしいらっしゃったら,ぜひ耳を傾けて聞いて下さって,現場は困っているんだというふうに思ってくださればいいんですけれども。
 外国人のクラスを担当している学校の先生方のための研修会とかも私たちのボランティアセンターでいろいろ頑張って実施しています。その際に先生方に来て下さいとお願いをするんですけれども,余りいらっしゃらないんですね,数が少ない。
 子供たちは日常会話は覚えるのは本当に早いんです。日常会話を覚えて,そのまま学校と連絡がとれればそれでいいやというふうに,あと成績は自己責任でやってくれというふうに考えている学校が結構多いような気がして,すごく心配でもあるんですけれども。
 ボランティアをなさっている皆さんが頑張って学校,教育委員会というように声かけを一生懸命なさってくださればいいんじゃないかなと思うんですけれども。

関口:はい,ありがとうございました。ボランティアの皆様が教育委員会や学校に声かけをする。やればできるということですよね。皆様の中にはもうそういう行動をなさっていらっしゃる方がたくさんいらっしゃると思うんですが。
 それでは,チュープ君。

ソッコーン 学校を変えるのはちょっと時間がかかると思います。生徒を変えるのは早いと思うんです。それは,校長先生とか大人です。学校の先生です。僕は講師としてある中学校にカンボジアの文化というようなことを教えたことがあります。2年間,毎年1回なんですけれども。そこの生徒は目がすごくキラキラしているんです。あとオーラをすごく感じるんです,沸いてくるものが。その校長先生は国際的なことを子供たちに教えてあげようという,それはみんなが感じているんですね。やっぱり生徒は見ているんです,大人を。だから,違うんだなというのがわかります。
 2年過ぎて僕はまた行ったんです。校長先生がかわっちゃったんですよね。なんか行ったら,死んでるな,この学校はという感じで,目がもう輝きがなくなっちゃって。普通にあぐらをしているし,ちょっかいを出している。何だここはと思って。全くがらっと変わっちゃったんですよね,ああこれはやっぱり大人だなと,学校を変えるよりも大人を変えるほうが心を変えた方がいいやと。やっぱり生徒は大人を見て成長するものなんですよね。生徒は種なんですよ。水をまいてあげればきれいな花も咲く。ちゃんとまかなければ死にますよ。それと一緒です。大切にすることが大事だと思います。学校を変えるよりも自分から何を変えていくのかを見つけることが大事です。

関口:チュープ君,ありがとうございました。私たちと文化背景の違う方のいろいろ厳しい御意見を聞くことができて,これはとても参考になるかなと思いますが。
 今,いみじくも校長先生という言葉が出ました。今,学校は校長先生によって変わりますね。学校を変えていくというふうにNさんがおっしゃいましたが,校長先生によって変わる,そのくらい学校によって違っているのが今の現状です。ですから今日のパネリストも,偶然ですが,学校教育あるいは学校によって非常にいろいろな教育をしてもらい,感謝をしているタチアナさんと,学校の先生は透明人間に見えるというチュープさん。それは,その前の先生はすばらしかったという話の後に移った学校の先生は全く自分の方を見てくれなかった,自分の困っていることに目を向けてくれなかったという意見を最初からおっしゃっていました。そのくらいに,今すばらしい学校もありますし,まだまだそうではない学校もあると思います。
 ですから,学校を変えていくのは校長先生ですし,そして校長先生がいろいろ大きく変わるのは国や自治体や教育委員会の力もあるのかと思います。そして地域のボランティアの方々の声も大切ですね。それでそれはすべて大人ですから,今日のタイトルの子供たちを取り囲んでいる私たち大人がどう変われるのか。そして,この子供たちは宝ですね,21世紀を支えてくれる子供たちです。その子供たちのためにみんなどんなことができるのだろうかということで,それぞれの違う立場を考えながら同じ目的を持っている大人同士が連携していくということが大変必要なんじゃないかと思います。
 それでは御意見がございましたら,あるいは御質問,アドバイス,よろしくお願いいたします。挙手をお願いいたしますが,いかがですか。

参加者:Tと申します。今日はすばらしいお話を聞けて大変勉強になりました。
 先ほど学校を変えていくにはどうしたらいいかというお話に関連して,ちょっと自分の意見といいますか。現在,小学校で学生ボランティアをしているんですけれども,その小学校というのが本当に外国人につながる生徒が非常に多くて,日々先生方からいろんなことを教えていただけるんですが。そこの学生ボランティアになるまで,関西の小学校の方で中国帰国者に対して日本語の支援とかそういうことをさせていただいたんですけれども,その小学校と現在いる小学校のその違いというのが本当に歴然で,学校を変えていくという要素が非常に多い小学校だと思うんですね。
 一番に言えることというのが,外部との連携というか,開かれた学校づくりということを非常に大きくやっている小学校で,例えば学生支援ボランティアという外部人材であるとか,あと地域の方々であるとか,そういう人々のつながりを持って子供たちを教育していくという,そういうことをやっている小学校なんですね。だから,学校を変えていくということは本当にそれぞれの地域によっていろんな小学校とか学校がありますし,私も関西から今年東京に出てきて小学校の違いであるとか人々の違いであるとか,すごいいろんなことを今勉強させていただいているんですけれども。すごく閉鎖的な学校といいますか,外部の人材を学校教育に取り入れていくということがやっぱり非常に難しい中で,校長先生とか管理職の方々,あるいは教育委員会の方々が一体となって外部人材をいかに学校教育の中に取り入れていくかが重要なんじゃないかなと最近思っています。ですから,そのことをちょっと意見として申し上げました。

関口:Tさん,どうもありがとうございました。
 今,学校の取り組みとして外部との連携を積極的にしている学校の紹介がございました。多分そういう学校はまだほかにもたくさんあると思うんですけれども。反対の閉鎖的な,なかなか外の者が入ることを拒否する,そういう姿勢の学校もまだあるかと思いますね。
 ですから,そういう学校がどんどん変わっていくことが必要なんだと思いますし,それにはボランティアの方がどこどこの何というところでは,こういうことをやっています,○○学校はこういうことをやっていますよというような,そういう事例に弱いんですよね,結構学校は。あそこもやっていてここもやっていて,この学校だけやらないのということは,やっぱりこれはちょっとプライドが許さないという部分がありますので,その手を使うということも必要なのかなというふうに思います。
 ありがとうございました。
 あとお一方,御質問ございましたらどうぞお手を挙げてください。よろしいですか。

参加者:F市の青少年協会からまいりましたHと申します。ソッコーンさんとタチアナさん,チョンシムさん,本当に心に残るお話ありがとうございました。
 チョンシムさんにちょっとお伺いしたいんですけれども。私たちの青少年協会では国際推進事業という一環で日本語講座をボランティアの方々のお力によりましてやっております。まるで話せない方から話せる方まで8クラスやっているんですけれども,今は70人ぐらいの20カ国ぐらいの外国の方たちが日本語を勉強にいらしています。それで無料で30歳ぐらいまでのボランティアの方が教えているんですけれども。このごろ,日本語を勉強にいらしている方の子供さんがついてきているんですね。
 それでチョンシムさんも先ほどお話ありましたように,まだ小さい赤ちゃんをこう揺らしながら学習して。それから,きっとタチアナさんとかソッコーンさんも小学校ぐらいのときに地域の中でまた違う形で学ぶようなこともあったのではないかと思いますが,今,本当に狭い中で8クラスに分かれて日本語を学んでいる大人の集団の中に子供たちが入ってきているんですね。
 それで,その中でボランティアの方たちが子供たちに,本当にいろんな母語の子供たちが入っていますし,年齢もまだ赤ちゃんの子供たちもいる,そういう子供たちとのかかわり方,それからボランティアの人たちがその子供たちにどういう形で大人と違う教材を使いながらその時間を教えていってあげるかというのを非常に悩んでいる部分というのはあるんですね。
 それで,チョンシムさんが先ほど赤ちゃんを抱えながら日本語を学んだというお話ありましたけれども,そういう中で子供を抱えながら日本語を学ぶときの周りの方たちの温かい援助ですとか支えとかあったと思うんですけれども,そういったところ。それから,タチアナさんとかソッコーンさんも大人たちの学んでいる中で例えば,子供が入って横についているとき,そうすると子供たちもちょろちょろしますよね。そういったときの日本語講座を私たちもボランティアでやっている中で子供たちのかかわり方,それから,赤ちゃんを抱えているようなお母さんに対する支援みたいなやり方をちょっと教えていただけたら,また違う形で広がっていくかなと思っています。お願いいたします。

関口:Hさん,ありがとうございました。
 それでは,赤ちゃんを抱えて,乳飲み子を抱えて勉強していらっしゃったというお話が先ほどありましたが,チョンシムさん,ぜひお話をして差し上げてください。それから今日いらっしゃっている皆さんの中で小さい赤ちゃん連れのお母さんたちへの支援,その周りがどのようなことをなさっているかということに関して,ぜひお話を伺いたいと思いますので。まずチョンシムさんから。

五十嵐:私は長男が生まれて3カ月ぐらいからずっと,私が子供が生まれる前に始めればよかったものを,子供が生まれて3カ月ぐらいから日本語教室が始まったんですね。で,連れていったんですけれども,3カ月,小さいときは母乳を飲ませながら勉強したりとかしたんですけれども。幸いに私が通っている教室ではそれほど人数が多くなかったんです。70人もいるというのはすごく大変だろうなと思うんですけれども。幸いに私は恵まれていて,スタッフの方も大勢いらっしゃいまして,私が勉強するときは,スタッフの方がだれもいないときはそのまま抱っこしてやったりとかしたんですけれども,スタッフがいらっしゃったときは勉強する間ほかのスタッフが外に連れ出して遊んでくださったりとかしたんですけれども。そのくらいにだんだんIVYの日本語教室にも子供を連れてくる人たちが増えてきたんですね。そういうときは子供を別な人が見てくれるという,ほかの部屋で,子供を別の人が見てくれて,それでお母さんたちは勉強に集中するというふうにやっていたんですけれども,それも結構手間が必要なんですよね。

関口:はい,結構周りに気を使いながらいろいろやらなければいけないということですね。ありがとうございました。
 仙台から子育て支援の田所さんいらっしゃっていますか。ぜひお話をお願いします。非常に時間がないものですから,数分で。あと連絡方法とそのあとの御連絡をしていただけたらと思います。

田所:わかりました。ちょうどチョンシムさんが以前私たち秋田でシンポジウムをやったときに,そこに来てくださったんですけれども。結局子供がいると勉強できないということが今まで多かったんですね。今の流れとしてはすごく感じられるのが,子供がいてもやっちゃいましょうという教室がとても増えてきています。それでそれを実現していくためには,やっぱり今は子供を見る人,それから日本語を教える人というのを分けないで,みんながそれを分担してやっていこうという,そういう気持ちを持ってやっていく教室でそれがどんどん実現されていくような感じがしています。
 なぜそうなるかと言いますと,子供を見る人というのを分けて考えると,動機付けがとても難しくなってくるんです。子供を見るだけで終わってしまうということがなかなか活動を続けられなくなってしまうので,そうではなくて,今日は私は子供を見ましょう,今日は日本語やりましょうという形でやっていくとすごくうまく回転していくようです。
 そして,あとおもしろいのは,全く子供と親を分けないで一緒にそこにみんながいて,親も子供と一緒に学習をしていきながら子供がそこで親を見ている,子供もそこに何らかの形で見ながら参加して,ある意味で子供がそこで学習もするしボランティアもするしという,奇妙な形態のところが最近できてきているんですね。
 だから,関係を分けないで,みんながそこでいろんな関係をつくりながら,親子とそれから日本人と外国人がそこでいろいろな形をつくっていくという,それはすごくこれからおもしろいんじゃないかと思っています。
 あと,今私たちのところで宮城県で始めたのが,地域で一人で子供をサポートしている方というのがいるんですね。教室でサポートではなくて,点々とした外国人の子供たちを地域の点々とした人が支えていくという,それを何とか今つなげていこうとしているんですけれども。今,私がちょっと困っているのは一体どういうふうに情報を得て,どういう情報をその方たちに届けていけばいいんだろうか,そういうこともとても困っています。
 ですから,私は今二つのことをちょっと言ってしまったんですけれども,一つは親子の学習のことに関しまして,今仙台の事務局を持っております乳幼児を連れた学習者に開かれた日本語教室を考える会というのをやっております。

関口:ありがとうございます。
 ぜひ,Hさん,子育て支援をなさっている仙台の田所さん,それから今私のすぐ斜め前には秋田の北川さんも子育て支援をなさっています。そういう先輩,苦労なさった先輩からいろいろな情報を得られたらいいと思います。それに関しましては,皆さんの連絡先を御許可を得てお教えいたしますので,ぜひ具体的に御相談なさったらよろしいかと思います。
 まだまだたくさん質問もおありかと思いますが,与えられた時間がもう終わろうとしております。本当に午前早い時間から皆様御協力いただきまして,実りのある時間を過ごさせていただきました。
 チュープさん,タチアナさんのように生き生きと活動しているのは大切な時期に出会いがあったということですね。頑張ったのは御本人なんですけれども,その頑張ろうという意欲を引き出した,そういうやればできるという強い意志を引き出したのは周りの大人ですね。ですから,本当に私たちもそういう大人になることが必要かと思います。
 そして,チョンシムさんが日々なさっている先ほどのお話で,この頑張ろうとするお子さんの力を引き出しているのだと思います。けんかができるなら仲直りだってできるでしょうという,本当にそのお子さんの方を見て,そしてそのお子さんのために何ができるかということを実行し,頑張っているチョンシムさんでございました。
 私たち,明日からでも今までかかわっている子供たちの,本当に何がこの子にとって得意なんだろう,好きなのは何なんだろうか,タチアナさんは英語でした。そして,チュープ君は数学でしたね。そういう何かその子にとって得意なものを見つけ出して自信をつける,それが私たちの役割だと思います。そしてまた,大きな意味で先ほど学校を変えるという話が出ました。でも,学校だけではなくて国も変えたいですね。そういう意味では,これからは今日のパネリストのような方々が日本を背負ってくれる,新しい形の日本になっていくことを皆で認識しなければいけないと思います。自然な意味でいろいろな文化を背負った子供たちが学んでいるのが当たり前のそういう環境づくりをしていかなければいけないかと思います。その意味で今日のテーマの「子供たちの周囲の大人の連携」が必要なのかと思います。
 長い間本当にありがとうございました。
 最後に恐れ入ります,3人のパネリストの方に拍手をお願いいたします。
 どうもありがとうございました。

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