日本語教育研究協議会 第1分科会

第1分科会 「教授法の応用について考える」
横溝 紳一郎(広島大学大学院教育学研究科助教授)


横溝 広島大学の横溝です。よろしくお願いします。まず初めに,皆さんが申し込まれたときの題目と変わっていることを申し上げておきます。この時間は,「How to」ものではなくて,理論的な説明もいたします。そこで,御自分の実践ということを考えながらいろいろ話し合っていただければと思います。
では,今日のテーマは,「『教師の発話』のあるべき姿とは?,『学習者中心の日本語教育』の観点から」ということで,いわゆるインタラクション*1を中心に考えていきたいと思います。
進め方ですが,否定的フィードバック*2,肯定的フィードバック,ティーチャー・トーク*3の順で理論的な紹介を私がいたします。そして,皆さんが,自分が教師としてどういうふうな行動をしているかというのを一人一人考えていただきます。それを共有していただく,そのためにグループを作っていただきます。
3番目が大切なんですが,「何でそういうことをするの」というのも考えていただきます。いわゆる,ビリーフ*4ですね。価値観,いいと思っていること,良くないと思っていること,それについて考えていただきます。そして,最後は,「学習者中心の日本語教育」というのをもう1度考えてみて,そして上で考えた自分の教師行動を再吟味してみようということで,皆さんにはこの時間,2時間弱になりましたけれども,頭の体操をしていただくという形になるかと思います。
それでは,早速始めます。
まずは否定的フィードバックです。定義は,「学習者からの発話・作文に誤りがあったときの教師の対応,誤りがあったときどうするのか」となります。例えば,「昨日何をしましたか?」,学習者が「公園を行きました。」,にこっと笑って言ったとしますね。そうすると,先生が,うん,これは違うぞというのに気づきます。そこでどういう反応をするか。これが否定的フィードバックです。否定的フィードバックと言うからには,ここでいう誤りって何だろうか,というのを1度考えないといけません。
調べてみると,非常にいろいろな意見があります。まず,誤りイコール*5不十分な学習のあらわれだからという考えがあります。つまり,悪い癖がついてしまうと,それがずっと残ってしまうから,悪いのが出てきたらそこで必ず直しなさいと。それは,学習者のレベル*6にかかわらず徹底的にやりなさいという考えがあります。
その一方で,誤りを犯すのは当たり前じゃないかという考えがあります。学習者のいわゆる中間言語を見ていると,そういうふうになっていくだろうと捉えるわけです。だとしたら,ここでまた意見が分かれるんですね。「誤りが出てくる。でも,誤りに気づかないんだったら直した方がいいんじゃないの」という意見と,それから「いや直したってもうしようがない,ほっとけほっとけ」という意見もあります。そう言われると,教師としては困るわけですね。では,どうしたらいいのか,私は何を信じたらいいのか,ということになります。
そこで,もうちょっと具体的に考えますと,間違いと誤りを区別して対処法も変えるべきだと言っている人がいます。間違いと誤りというのは,間違いというのは例えば不注意とかで,ちょっと,いわゆる間違ってしまったというようなものです。誤りというのは,発達していく途中で,例えば大きいの本,大きいの本というようなものが出てきた。それは,本人は気づかないで言っていたりする。しかも,何回も何回も同じことをする。これを誤りだとして,誤りの方を直すべきだという考えです。
それから,「全体的誤りは直し,局部的誤りは直さなくても良い」という考えがあります。意味が全然変わってしまうような誤りというのがあると思います。例えば,あげるとくれるを反対に使ってしまったとか,構文を間違ってしまったとか,それは意味が分からないから直した方がいいんじゃないかという考えです。
それから,「否定的な評価につながる誤りは直すべき」という考えもあります。これは学習者が,その誤りのために非常に悪い評価を受けてしまう。例えば,学習者が隣の人に,先生に書いてもらった推薦状か何かを見せていて,「それどうしたの?」と聞かれたとします。そこで,「これは先生が書きました。」と言ったとすると,この発話を受けた方は,この人は先生に感謝していないんじゃないかなとか,そういうふうに考えるわけですね。恩知らずだとか。そういうものは直した方がいいという考えです。
ここでまた考えていくと,ちょっと昨日の話ともつながってくるんですが,そういう不十分な日本語を話す人を目の前にして,日本人のように話すだろうと,こちらも期待するわけですね。だから,そうでないと,いわゆるむかつく状態になると。ここで言っているのは,そういう目に合わないためにも,そういったものは直した方がいいんじゃないかということです。
それから,発達の次の段階に関係のある誤りは直すべきだという考えもあります。これは上達していくときに,今ここなのに,上のレベルのものを直されてもプラスにならないから,ちょっと上ぐらいがいいんじゃないかという考えです。
こんな風に「何を直すべきか」についても,色んな意見があるのですが,どうやって区別したらいいのかな,というのが難しいわけです。授業は生きていますから,ぱっと誤りが出たときに,ちょっと待って,これは全体的かな,局部的かなと考えてやることはできないわけですね。
そこで,やはり先生方,一人一人が,何かこのときはこうするんだというようなポリシーを持っていないといけないということになります。それは,後でまた考えていただきますが。次の「どういうふうに誤りを直すのか」について見てみましょう。
さっきの「公園を行きました。」に対して,まず明示的フィードバックというのがあります。この明示的フィードバックの特徴は,話の流れを止めてしまうという点です。それだけはっきりとぴたっと出すので,「うっ」と話が止まってしまうようなところがあります。例えば,誤りがあったことの指摘です。「ちょっと変でしたよ。」とか言ったり,変な顔をするというようなものです。それから,誤りのタイプの指摘,「ちょっと助詞が変でしたよ。」というやり方です。それから,誤りの場所の指摘,「公園を,ですか?」とかの正し方ですね。「を」を大きく言っても言わなくてもいいんですが,「そこが間違っているよ」というのを指摘する。次に,誤り文と正解文を提示し,選択させる方法です。「『公園を,行きました』ですか?『公園に,行きました』ですか?」というような形です。それから,正解文の提示,「公園に,行きました,ですね。」というのがあります。最後に「説明」です。これは英語で,助詞の「を」というのは,前にある単語をこうやって強調するために何とかかんとかというような説明を指します。
暗示的フィードバックは,それとまた反対で,話の流れを途切れないようにしていくものです。ですから,教師は話の流れに沿ってばっと言っていきますから,繰り返しを要求しません。ですから,学習者が,「私は公園を行きました。」と言うと,「ああ,私も公園に行きましたよ。」と,さらっと「を」を「に」に変えるというようなやり方です。
明確化要求というのは,発話をし直したり言いかえたりする機会を学習者に与える。いわゆる「もう1度言ってください。」,「もう1ぺん言って。」というような形ですね。それから,非理解を示すフィードバックです。理解できた部分だけに反応したり,全然理解できていないことを示したりする。「公園,公園がどうかしたんですか?」とか,それから「えっ,何ですか?」とかいうやつです。英語だったら,私がこれを言われるとすごい傷つくんですけれども,「Huh?」というやつですね。ああ,通じていないというのがよく分かる。何か間違ってしまったという。それは,非理解を示しているわけです。こういうふうにいろいろな直し方があります。
次に,問題になるのが誰が直すのか。教師,誤りを犯した学習者本人,ほかの学習者の3種類があります。一番最終的な目標というのは,自分で直せればいいわけですね。自分で誤りに気づいて,自分でぱっと直せれば一番いいわけです。ただ,そこに至る過程で先生が直すことも必要だし,それからほかの学習者が直すことも必要となる場合も出てきます。そこで,誰が直すのが一番いいのかということも,ちょっと考えたいわけです。
では,日本語教師はどのようにしているのかなんですが,これは英語教育でも言われているんですが,先生方,一人一人,自らの個人的な信念というのがあるんですね。ただ,ケース・バイ・ケース*7でやることが多いようです。そこで何が生じるかというと,誤りを例えばクラスで直しているときは,ほかの学習者もそれを見ていますね。だから,さっきあれで直したのに,同じ誤りで何で今度は直さないんだというのを非常に疑問に思います。それから,自分の誤りにしても,「あっ,やってしまった」と思っても,先生がすっと流したら,「ああ,これでもいいのかな」とか考えるわけですね。ということで,首尾一貫性が欠如してしまうというところがちょっと怖いわけです,学習者サイド*8からすると。
そこで,何が必要かというと,自らの「誤り訂正行動」を認識し,その背後にある「個人的信念」を自覚することが重要だ,ということになります。
そこで,私のケースをちょっと見てみたいんですが,配布資料の右側,表2というのがありますね。教室活動別にこういうものを作ってみました。○が使うべきである。△は使ってもよい。×は使うべきではない。教室活動は,機械的ドリル,ペアワーク*9,ロール・プレイを考えました。

*1 インタラクション 相互作用。
*2 フィードバック 帰還。結果を参考に修正してより適切なものにしていく仕組み。結果を原因に反映させて自動的に調整していくこと。
*3 ティーチャー・トーク 学習者のために教師が話し方を調整すること。
*4 ビリーフ 信念。信条。
*5 イコール 等しいこと。
*6 レベル 水準。程度。
*7 ケース・バイ・ケース 個々の事情に即して適切な対応をすること。
*8 サイド 片方の側。一方の側。
*9 ペアワーク 2人一組で行う活動。

(第2表について説明)
 この表は私の考えに基づいて作ったんですが,このような表をつくるときに,ここを○とか,ここを×とか,ここを△とかいうのをどうして考えたんだろうか。そこをはっきりさせる,つまりビリーフをはっきりさせると,自分の行動パターンというのが見えてきます。そこで,私のビリーフがどういうふうにして形成されてきたかということで,私のお話をちょっとさせていただきます。
(教師としての個人誌について語る)
 ここまで長い話をしてきましたが,なぜこんな話をしてきたのか,次が大切なところですが,ここからがビリーフにかかわるところです。日本語教師として自分が大切にしてきたことって何だろうかなというのを考えます。
まずは,赤で書かれていますが,コミュニケーション能力の効率的向上。とにかく効率的に,早く上手になりたい,なって欲しい。それはどうしてかというと,留学を開始したときに,自分がとても大変な目にあった,分からなかった,言えなかった,つらかった。だから,それをもっともっとスピーディー*1にやって,例えばハワイの場合だったら,ハワイで2年間やったら日本に行っても大丈夫だよというようにしたかった。それから,すばらしい先生方のパフォーマンス*2を見て,わあすごいと思った,震えるような興奮があった,だからそれをやってみたいと思った,努力した。
それから,学習者の可能性を信じ「待つ」こと。これも大切だと思っています。そこのバックボーンにあるのは,CLLの考えがあり,それから養護学校での体験があるわけです。
他文化を受け入れる心,これはサンディエゴ留学したときの学びとか,ハワイでの生活。本当に外国に住んでいると,おもしろいことがいっぱいあります。私がハワイを離れる前に住んでいたところは,何かお隣さんとかが変な人ばっかり住むんですね。隣の部屋の人がミュージシャン*3で,別に仕事だからいいんですけれども,友達を呼んで,いわゆるジャムセッション*4と言って,ファッとこうやるんですよ。なぜか,夜の12:30から始めるんです。ちょっとそれはだめだろうということで,言いに行ったんですけれども。後から聞いたら,直接言いに行ってはいけないという決まりだったそうです。それは,どうしてかというと,当事者同士だと,例えばピストル*5が出てきて撃たれたらどうするんだとかということで,管理人さんを必ず通さないといけない,ということになっていたようです。そういう人が隣にいる上に,私の部屋の真上に新しく引っ越してきた人は,この人も夜の2:30になると,ぐるぐる回って木材を切るやつありますよね,ウィーンとやるやつ。あれで作業を始めるんです。ウィーン,ガガガガ,上からドドドドドドッという音がして,そこで大家さんに電話をかけて,どうも上に変な人がいると,だからちょっとやめさせてほしいと言ったら,今度は逆に「あの人がそんなことをするはずはない」とか言われるんです。そこで,かなりもめたこともあります。でも,そういういろいろな体験をしていると,何かそういうこともあるんだなって,だんだんこっちも強くなってくるというところがあるかなと思います。
これが,私が大切にしているところなんですが,ここから配布資料の表2にちょっともう1回戻りますね。
まず,私は尊敬している2人の先生の流れをくんでいますので,「誤り訂正というのは非常に厳しくしないとだめだ」という立場に立ってます。そこで,その影響があって,私は「機械的ドリルは明示的に全部びしびし直すべきだ」と考えています。○がほとんどついていますよね。しかも,「教師が」というところに,こだわりが見えます。つまり,私のこういうビリーフがこの表にあらわれているということです。
それから,次の影響ですが,養護学校でのCLL*6の影響があります。これは学習者の可能性を信じて待つ,それからCLLの第3段階,自分たちで何かやっているときは邪魔をしない。そういう気持ちがありますので,そこで「学習者同士が訂正する場合は離れて見守る」とか,それから「成長段階によって教師の役割を変えるんだ」とかいう考えがここで出てきます。
それから,またそのCLLの影響ですが,ロール・プレイで,お互い話をしているときは,「自分たちでやりたい」と思っているわけだから,入っていかない。それから,対話終了した後は,CLLでもそうですけれども,必ずフィードバックというのをしますね,それを全体でやっていこうと考えます。このように,CLLでいいと思っていることが,教室活動のロール・プレイのフィードバックでそのまま出ています。ここまでずっと私が話してきたんですが,ここからが皆さんです。いいですか。
配布資料の3ページ目を見てください。
御自分がなさっている各教室活動における発話訂正行動を記述してください。○がよく使う,△,時々使う,×,使わない。それをやっていただきたいんです。
それから,その次,何でそういうふうにするんだろうか,私はそういうふうに考えているんだろうかということを考えてください。
考える時間を5分とります。その後,グループでの話し合いにします。
では,始めてください。

*1 スピーディー 手早くものごとを進めていくさま。敏速なさま。
*2 パフォーマンス 実行。演技。表現形態。
*3 ミュージシャン 音楽家。演奏家。
*4 ジャムセッション ジャズの演奏家が,自由に集団即興演奏や競演をする形態。またはその集まり。
*5 ピストル 拳銃。短銃。
*6 CCL コミュニティ・ランゲージ・ラーニング。カウンセリングを応用した外国語教授法。


(タクス1 記述)

横溝 では,グループで話し合ってください。10分ぐらい時間をとりたいと思います。大切なのは,「私はこうする」,「なぜこうするのか」というところまで必ず話し合うということです。

(タクス1 話し合い)

横溝 話し合いをやめてください。すみません,まだ続いているかと思いますが。
やはり同じところと,違うところと随分あったかと思います。それは,これまで自分が日本語教師として,または学習者として,またいろいろな形でいろいろな体験をして,そこが自分のいわゆるビリーフに結びついているということを意味します。
では,ちょっとトピックを変えます。
肯定的フィードバックです。これは,発話・作文に誤りがなかったときの対応で,「昨日何をしましたか?」,「公園に行きました。」,正しい答えが返ってきた。先生は,「さあ,どうしよう」というものです。
肯定的フィードバックは大きく二つに分かれます。「正答の是認」というのは,正しかったということを伝える,というもの。もう一つは,正しかったんだから「褒める」。この二つのパターンがあります。
外国語の授業の中で,ちょっと特殊なフィードバックが行われます。開始,反応,フィードバックという流れです。教師が「昨日コンサートに行きましたか?」と言って,「はい,行きました。」と学習者が答えて,それに教師が「That's right.」と言うという流れです。これは多分,「Yes,I do.」とか,「I did.」とか,「I didn't」とか,何かそういう練習をしているところだと思うんですが,これよく考えると教室の外だと変ですよね。一々,「その通りだ」とか言われても,「だったら聞くな」という気持ちになると思うのですが,教室の中ではこれはよく行われます。これは内容的,形式的に正しいんだよということを,先生が伝えているわけですね。
では,伝え方にはいろいろあって,「何も言わないでうなずく」というのがあります。それから,「うん」とか「はい」とか,「そうですね」とか,それから「うん」,「はい」と言ってモデル文を言うとか,「うん」,「はい」,「そうですね」とかあります。ほかにも,うなずきながら「うんうん,うんうん」と言う人もいると思います。いろいろなパターンがあります。 いろいろ調べてみたんですが,「正答の是認」について研究されているものって,ほとんどないようです。それは,「正しいと伝えるのは当たり前だから,注目してもしようがない」ということなのか,必要不可欠だから別にそれはいいじゃんということで,余り研究の対象にはなっていないようです。
もう一つの褒めはどうか。日本語の場合,褒め言葉というのを探したんですが,結構難しいんですね。「よくできました」「偉い」「すばらしい」「すごい」等々。英会話の授業を受けた方にお聞きしたいのですが,英語の授業では褒め言葉って結構出てきませんか。私は,授業を受けたときに,何か私が言うと先生が,「Wonderful」とかを連発する先生だったので,「ああ,そういうふうに言うんだろうな」と思ってました。ただ,「日本語でそれをどういうふうに言ったらいいのか」というのと,また別の話になりそうですが。
褒めに関する先行研究をちょっと見ていきます。
補助資料,配布資料の4ページに細かいことを書いていますが,肯定的意見がまずあります。幾つか挙げましたが,肯定的意見はとにかく褒めることはプラスになるんだから,褒めよう,褒めよう,褒めようというものです。そこに三つ例をあげました。
ただ,否定的な意見もあります。それが真ん中のところのゴードン*1と書いてあるところですが,自分自身が問題を抱えているときというのは,褒められたって入っていかないと,耳ざわりだと言っています。今度は,先生がこうしてほしいよ,望ましいんだよというのを選ばせるテクニックとして褒め言葉を使う場合は見抜かれてしまうとも言ってます。それから,一部褒めると,どうして自分は褒められないんだと思うし,いつも褒められている人が褒められなかったら,何で今日は褒められないんだと思うとも言っています。だったら,やめてしまえという考えです。
次の意見は,いや条件によるんじゃないかというものです。「心からの純粋の褒めが適切に与えられれば,学習者は批判を入れ,それを活用するようになる」とか,「効果的なものとそうでないものがある」という考えがあります。でも,効果的なものって何なのでしょう?
状況と言葉の選択というのが大切なんだろうなと言われています。まずは,むやみに褒めたり,やたらに大げさに褒めてはいけない。それは,もともとよくできる人を褒めていても,こんなのできるよと反応してしまうからです。それから,「よくできました」というのが,どうも子供に対して上から下に使っているような感じがするからです。褒めというのは,よく考えると評価をしているわけですね,それでいいよと。ということは,褒め言葉を言った側はちょっと高い位置にいて,いいか悪いかというのを伝えているという考えもできるわけです。「よくできました」というのは,私は授業中には余り使いたくないなと思っている言葉です。詳しくは,また後でいいます。「偉いですね」というのも控えた方がいいとか,いろいろな意見があります。
ささいなことに対して,大げさなイントネーション*2で褒めるのも悪いとも言われています。ちょっと成功したときに,大げさに言われてもなというのです。適切な問題を課して,レベルがちょうどいいぐらいを課して,褒める機会をふんだんに用意するといい,という意見があります。
褒める際には三つの条件があるという考えもあります。まず,ある一定の条件下で行われること。例えば,難しいタスク*3をしたときは,うまくいったらそこを褒めるとか,機械的ドリル*4のときはそんなことは一々しないとか。それから,どこがよかったのかというのを特定すること。そして,信憑性があること。これらが条件だと言われています。
また,私がすごく大切だなと思っていることは,教師が各学習者の学びを正確に把握していることです。つまり,一人一人ちゃんと見ているから,その人に合った言葉が出るわけですね。
この褒めって,実はすごく,よくよく考えると難しいです。私自身が,実際,日本語の授業でどういうふうに褒めているのかなということを知りたかったので,アクション・リサーチ*5をしたことがあります。結果,褒めはゼロでした。90分授業を4回ですから,6時間ずっと自分の授業のビデオを見ていたんですが,1回も褒めません。そのかわり,正答の是認はものすごくしています。一番よくやったいたのがうなずく,次が「うん」,「はい」とか「うん,そうですね」です。「うん」プラスモデル文もあるにはあったんですが。「何で,こういうことになったのかな」と考えないといけないんですが,まず正答の是認が非常に多かった。褒めが皆無だった,そこをちょっと皆さん覚えておいてください。
これらの行動パターンは,尊敬している2人の影響が大きいんですね。ドリル活動というのはテンポ*6よくパッパッパッパッといきたいわけです。そうすると,「うん」とか「はい,はい」とかで,スピーディーなテンポをつくるために,自分は短いフィードバックを使っているんですね。褒めによる情意的サポートは特に必要ないと,私も先生方から教えられましたから,要らないんだなという気持ちもあったようです。
もう一つ,なんで「褒め」ないのかを考えてみたのですが,一つ原因らしきものに気づきました。中学校時代なんですけれども,私の友人はみんな,ワルソー*7だったんですね。そこは,「勉強をしている」というのを出してはいけない文化なんです。ですから,勉強を全然してないよというような形でみんな生活してました。本当にしていない友人がほとんどだったんですが,私は勉強は嫌いじゃなかったので,「いや,してないよ。」とか言いながら勉強していたんです。でも,ある日,英語のテストだったですかね,点数が非常によかったんですね。それを先生が,「おお,横溝,ようできとうぞ,今回は。ほら,何点。」とか言って,わっとみんなの前でばっと私に渡したんです。「よう頑張った。」と言ってくれたんですが,そこで私のうそがばれるわけですね。そこで,何が生じるかというと,「おまえ,勉強しよったっちゃね。嫌なやつやね。」という形になって,結局,私は友達を失うことになりました。
この前,同窓会があって,20年ぶりか25年ぶりぐらいに,その友達の何人かが同窓会に来ていたので,そのことをちょっと言ってみました。博多弁で,「おまえ,おれが褒められたけん,嫌なやつと思わんかった?」と言ったら,「おお,思った。おまえ最低。」とか言われました。25年,和解するのに時間がかかったんですよ。その後は,「ごめん,ごめん,でもね,あのときはね。」という話になって,今は良好な関係を保っているんですが,人前で褒めるということは,それぐらいデリケート*8なことなんですね。そういうこともあって,「何か簡単には褒められないな」という気持ちが,ちょっと私の中にあります。
「褒め」が苦手な人の理由というのを,ちょっと調べてみました。相手の短所ばかり目につくとか,「褒められるうれしさ」の体験が乏しいとか,「褒める」訓練ができていないとか,いろいろあるんですが,私はどれなのかなとちょっと考えてみたりもしました。実際に褒めるって,例えば会社とかでもすごく難しいことです。それをやるためには,さっきの条件じゃないんですけれども,その人のことをちゃんと見ていないとだめだし,それから褒める言葉というのを用意していないといけません。「よしチャンスだ,今,褒めよう」と思っているようじゃだめなんですね。つまり,本当にいいと思って褒めるときというのは,それが表情に出るし,タイミングもばっちりだということです。ただそれをするためには,毎日の生活をちゃんと工夫していないといけないんだなと最近は思いますが。
褒めについて,ちょっといろいろ言ってきましたが,ここからまた皆さんにやっていただきます。御自身の肯定的フィードバック行動を振り返ってみましょうということです。これが6ページですね。
タスク2,状況を三つちょっと設定しました。また,○がよく使う,時々使うが△,使わない,×ですが,状況1が,教師が言うことを学習者が正しく反復できたとき,繰り返し言えたとき。それから,その次は質問に,形式的にも内容的にも正しく答えられたとき。3番目は,学習者同士で質疑応答したりとかロール・プレイがうまくいったとき。だんだんだんだん,1,2,3といくにしたがって,ちょっと課題が難しくなってきています。それを正答の是認と褒めと,両方で考えてみてください。
また,考える時間は3分ぐらいで大丈夫ですか。その3分と,その後で話し合いの時間をとります。では,始めてください。理由についても,考えてください。

*1 ゴードン Thomas Gordon(トーマス・ゴードン)
*2 イントネーション 話し言葉で,話の内容や話しての感情の動きによって,フレーズごとに現れる声の挙がり下がり。文音調。抑揚。語調。
*3 タスク 課せられた仕事。課題。
*4 機械的ドリル 重要で基本的な知識などを機械的に反復学習することによって定着・強化すること。
*5 アクション・リサーチ 小集団で基礎的な研究で社会的な活動で生じる問題を解明し,得られた知見を社会生活に還元して現状を改善することを目的とした実践的研究。
*6 テンポ 進み具合の速さ。
*7 ワルソー 博多弁で不良のこと。
*8 デリケート 繊細なさま。


(タスク2 記述)

横溝 では,話し合いをします。
ちょっと時間が押していますので,5分間,話し合いをしてください。お願いします。

(タスク2 話し合い)

横溝 時間になりました。では,前を向いてください。
それでは,もう一つのトピックにいきます。ティーチャー・トークです。
ティーチャー・トークとは,学習者の理解を助けるための教師による発話の調整です。例えば,「昨日何をしましたか?」と言って,学習者が何も答えないで困った顔をしたら,「あっ,これは分かってなかったかな」ということで,何か調整をするというようなことがあります。もちろん初めから調整をするときもありますが。どんな種類があるかですが,ゆっくり話すとか,ポーズ*1を使う,間をあけながらですね。それから,発音を変える。はっきりと発音するとか。語彙を変える。文法を変える。それから,談話を変えるとか,いろいろなやり方があります。
では,私自身はどうか。自分にとって自然の速さでできるだけ話すようにしています。私は,日本語を教えていても,大体これぐらいのスピードで話します。では,理解できないときどうするのかですが,まずはそのまま繰り返して,少しゆっくり話してもとに戻ります。もとに戻るというのはもとのスピードに戻るということです。それから,視覚情報をふんだんに利用するとか,語彙や文法をより易しいものにする,というような調整をよくやります。
特にハワイで日本語を教えていたときは,絵カード*2をつくるのが本当に楽しくてしようがない時期で,ものすごい荷物を持って授業にいつも行っていました。「1度使ったものは,横に置いていく」という形をとらないと,テンポよく授業ができないので,同じ絵カードが数枚,1時間の授業で必要になります。こんあこともやっていると,本当に大きな袋二つぐらいこうやって抱えて,学生に「すみません,ドアをあけてください。」と言いながら授業に入っていっていたことを思い出します。視覚情報をいっぱい使って,理解できるように工夫をしていたということです。
では,これはどういうところに影響があるのでしょうか。一番影響があるのは,やはりこれも尊敬している2名の先生方の影響があるんですが,「不自然な日本語は聞かせるべきではない」と強くおっしゃっていました。だから,自然なスピードをできるだけキープ*3する。それから,既習の語彙や文法の中で,視覚情報の駆使により理解へとつなげるということを心がけていたと思います。
また,その先生方は,学生が学んできた語彙,それから文法というのを全部頭の中に入れて,その中だけで会話をしていました。ですから私たち教師同士は,「ではレッスン4で会話しようか」と言えば,ずっとできるような状態でした。それをずっとやっていました。その中で,やはり私のこのビリーフは生まれたのかなと思います。
それから,もう一つは,大学時代の先生がとってもゆっくりだったことです。こんな感じてす「What did you do yesterday Mr.Yokomizo?(とてもゆっくり発音)」。そんな中では,すごく楽しくやっていたのに,カリフォルニアに行って,ネイティブと話す時にはひどい目にあってしまいました。だから,ゆっくり話すのはやめようという考えを持っているようです。
これはやはり非常に自分のビリーフがよく出てくるところです。皆さんがどういうふうに話しているかをちょっと考えてみましょう。
まず,場所は教室の中とします。レベル別,初級,中級,上級以上で,どのティーチャー・トークを使うか,考えてみてください。視覚情報については,身ぶり,手ぶり,しぐさ,表情とか,下に書いてあるもののどれを使うか考えましょう。そして,どうしてそれを使うのか,または使わないのかを考えてください。
では,また個人作業に入ります。お願いします。

*1 ポーズ 間。休止。区切り。
*2 絵カード 授業で使用する絵が描かれたカード。
*3 キープ 確保・保持すること。


(タスク3 記述)

横溝 話し合いを始めてください。時間は5分間とします。

(タスク3 話し合い)

横溝 時間になりました。前の方を向いてください。
ここから少し話が変わりますが,このごろ考えていることについてお話しします。
私は,日本語教育学会の「日本語教育研究コース」という中で,「オンライン実践研究コース」のコーディネーターをやってきました。テーマは「学習者中心の日本語教育」ということで,形式としては学習者中心の日本語教育について,参加者,アシスタント*1,そして私がメーリングリスト*2を使って,自分の実体験をいろいろ共有しながら,それぞれのビリーフのようなものをどんどん,いろいろ発信して,言葉にしていくことによって,自分の一人一人の中での学習者中心って何だろうかというのを,4か月考えるというものです。では,なぜこのテーマを選んだかについてですが,「学習者中心の日本語教育」というのは,どうもみんなそれぞれ定義が違うような気がするからです。
そこで,突然ですが,御自分にとっての「学習者中心の日本語教育」を,ちょっとイメージをしてみてください。こういうのが学習者中心かなと。その定義だとすると,先生の役割というのはどういう役割をするのが先生なのか。ちょっと概念的になりますが,「学習者中心というのはこういうものだ」と自分はこう思うと。そして,そのためには先生はこういうことをする存在なんだということを,それをまたグループで,この二つについてちょっと話し合ってください。5分間ぐらいとりたいと思います。はい,どうぞ。

*1 アシスタント 補助的な役目をする人。助手。
*2 メーリングリスト 特定のグループの人に対して,電子メールを同時に送信する仕組み。


(話し合い)

横溝 時間になりました。話し合いをやめてください。
「学習者中心」には,いろいろな定義があります。それは,配布資料の9ページから10ページに載せておりますので,後で御覧ください。
パワーポイントを見てください。一応,こういうことが言われています。
教授内容・方法の決定において学習者を中心に据える概念が「学習者中心」。
その基本概念は,「言語学習者の多様性への注目」と「自己学習能力の向上を目標とする」。つまり,学習者といってもいろいろな人がいるから,そこに注目をするということ。それから,自分で,いわゆる「みずから学ぶ力を伸ばしていくように」というような基本概念があります。これが先行研究で言われていることです。うんうん,なるほどそうだな,そうだなと思うんですが,ただちょっと待てよ,という気持ちも私の中にあります。
「学習者中心」については,「特定の言語活動や練習方法と直接的に結びつくものではない」とも言われています。つまり,ペアワークをしたから学習者中心というわけではないんですね。でも,日本語教師だったら,「いや,具体的にはどういうものか」とイメージしたい。やはりいろいろ考えたいわけですね。すると,考えれば考えるほど,よく分からないというようなことにもなってきます。
例えば,学習者のリクエスト*1にすべて応じることが「学習者中心」なのでしょうか。学習者には,「先生なんだから,勉強する内容,方法は全部先生が決めてください」ということがよくありますね。「ああそうか,それがリクエストだから,それに従って,では全部教師が決めて学習者に与える」,これって何かすごく,その学習者一人一人のことを考えて行動しているようですが,ただ「教授内容・方法の決定において学習者を中心に据える」ということと矛盾します。
それから,「今は仕事が忙しくて勉強なんかできない!」,こういう多様性が出てきたとき。それに注目するから,「では,勉強しなくていいよ」というのはどうでしょう。でも,「自己学習能力の向上を目標とする」というところと矛盾してしまいます。難しいところですね,これ。
究極的には,教師のどういう言動が学習者のためになるのかということでしょうか。でも,この「ため」という言葉が非常にひっかかります。そこをどういうふうに規定するか,回答するかということが,具体的な日本語教師の行動というところを規定するのかな,と私は考えています。
そこで,時間がないのでちょっとこれは家でやってくださいと申し上げますが,タスク1・2・3で,今日やってきました「否定的フィードバック」行動,「肯定的フィードバック」行動,ティーチャー・トークというのが,本当に学習者のためになっているのかということを1度考えてみてください。どうしてためになっているのか,どうしてためになっていないのかということを,ちょっと考えてみる必要があるかなと思います。
「学習者中心」って,何かよく分からないけれども,ただ私なりにちょっと結論のようなものを少し今,持っています。それは,「目の前にいる学習者一人一人に対して,自分が正しいと思っていることが,この人のためになるかどうか,考え続ける」心意気。そういうことなんです。つまり,行動ではなくて,心意気の問題なんだと。ただ,それって学習者の協力を得られるときと得られないときがありますね。そうすると,だんだんだんだん無償の愛のようになっていきます。でも,それはもしかすると,学習者中心というのを考えるときに大切なことなのかなとは思いますが。
ただ,どうも自分には二つの面があるとも思っています。つまり,学習者のために何ができるのかなと一生懸命考える考える自分がいる一方で,「このときはこうしたらいいのよ」という答えを持っている自分がいるんですね。この二つが,自分の中でどういうふうに共存しているのか,非常に興味があります。特に興味があるのは,日本語の先生になりたい方々,例えば教育実習生とかを指導するときに,どっちの私が出ているのかなということです。どういうふうに自分の中で使い分けているのかなというところが非常に気になっているところなんですが,これについてはこれからも考え続けようと思っています。
結局,「学習者中心って何だろうな」ということを考え続けることは,非常に教師に力を与えるのかなとも考えています。それが幸せなのかどうかになると,話は別です。学習者のことを考えていると,何かもどかしく感じたりとか,どうしてこれできないのかなとかいろいろなことを考えて,いやもう全部一緒にしちゃえ,とにかくこのクラスの人たちはこういう人たちと言い切ってしまいたくなる。こうやった方が簡単なんですが,ただどうもそれじゃいけないような気がします。多様性,多様性と非常に言われますけれども,いろいろリストアップ*2するといいと思うんですね。例えば,国籍とか母語というふうに,本当にそれで一くくりにしていいんだろうか。
私は今,日本語教師を目指している人,国語教師を目指している人,英語教師を目指している人,それが一つまとまった広島大学の授業というのを担当しているんですけれども,そこの中ではある作業をしていただきます。「イラスト*3を描いてください」ということで描いてもらうんですが,まず「メキシコ人を描いてください。」と言って描かせると,ひげ生やして大きな帽子をかぶってというのを描く人が多いんですね。その次は,「そうですね,では韓国人を描いてください。」と言うと,割となんかキムチを食べさせたりといろいろ描いてきます。「アメリカ人を描いてください。」と言うと,みんなちょっと困るんですね。その次が,「宇宙人を描いてください。」と言うと,大体逆三角形で,焼きそばか何かチュチュッとすすりそうな,ああいうのを描くんですよ。最後の質問が,「日本人を描いてください。」という質問をします。そうすると,「えっ」となることが多いです。なぜですかということを質問してみると,「いや,いっぱい日本人周りにいるし,それぞれ違うから。」という答えをするわけです。これはどういうことかというと,その人たちのことをよく知らないから,いわゆるステレオタイプ*4を持って,こんなふうだと勝手に判断しているということです。教師もそれをやっていないだろうかということは考えなくてはいけないと思います。
そこを考え,そこから抜け出すためには,この学習者中心というのはすごく大切なことかなと私は思います。
私は先ほど「悩み続けている」と言いましたが,決して不幸ではないと思います。では私はいつ考えているのかということですが,実はジョギング*5をしているときに考えるんですね。毎日,仕事が終わって,大体17:00,18:00ぐらいから1時間,10キロぐらい走っています。走りながら,だんだんだんだん,ランニングハイ*6になってきます。汗も出てきて,ハッハッハッハッという状態です。そこから内省が始まります。ジョギング終了後,オフィスに戻ってきたら内省で出てきたものを,汗が引く前にタイプで一生懸命打ち込んでいます。そういうのをずっと悩みとしてまとめてきて,今日の話をさせていただきました。
まとめになりますけれども,今日お話ししたかったこと,トピックは三つです,否定的フィードバック,肯定的フィードバック,ティーチャー・トーク,これはいずれもインタラクションという観点から見ると,非常に重要なものです。また,ドリル活動をするときとか,いろいろな教室活動をするときに,この三つをどういうふうにするかによって,教室の中での動きが大きく変わります。ですから,教師は,自分はどういうふうにやっているのかということを,まず把握する必要があります。自分はこうやっていると思っていることと,実際やっていることって,違うことが少なくありません。そういう可能がありそうな方には,授業をビデオに撮ることをお勧めします。
最初は,恥ずかしいという人が多いです。私の同僚だった方ですけれども,「本当に恥ずかしい。」,「恥ずかしい,恥ずかしい。」と言っていました。翌日,「見ました?」と聞いたところ,「見ました。」と答えるので,「どうやって?」と聞くと,部屋の電気を全部消して,押し入れに隠れて見ていたそうです。でも,だんだんなれてきて,そうすると自分で気づいていなかった癖というのもよく分かってきた。それからは,できるようになったと言っていました。まずは,御自分の行動パターン*7の把握が大切だと思います。
それから,その次は,どうしてそういうことをやっているのかと考えてみるといいと思います。自分の心の中でいいと思っていること,だめだと思っていること,ビリーフを考えてみましょう。今日は,インタラクションの三つのトピックについて,考えていただきました。これはこれからの体験で,きっと変化していくと思います。そういったものなんですね。教師は,「自分がこういうことをするのは,これだからだな」ということを把握していくこと,ここが大切だと思います。
それから,もう一つ言いたかったことがあります。学習者中心というのは多様性へ注目するということなんですが,本当に自分は多様性に注目しているんだろうか,ということをもう1度考えてみてもいいのかなと思います。
最後にお伝えしたいことは,先生という仕事は,こうやって考え続けて,悩み続けて,ずっと続いていく仕事なんだろうなということです。でも,それをやっているうちは,実はすごく健全でいい先生だと,私は思いたいんですね。それをやめてしまったときが怖いです。こういう状態を,化石化状態と言います。私も化石化しそうになるときがあります,そういう誘惑に駆られるんですが,「いかん,いかん,いかん」と思いながら,また「やわらかくやわらかく」と自分を励ましながらやっているような状態です。
ということで,時間,ちょっと過ぎましたけれども,2時間,皆さんどうもありがとうございました。(拍手)

*1 リクエスト 希望すること。注文。
*2 リストアップ 条件に合うものを選び出すこと。また,それを一覧表にすること。
*3 イラスト (イラストレーション)挿し絵。図解。図・絵などによる解説。
*4 ステレオタイプ 先入観。
*5 ジョギング ゆっくり走ること。
*6 ランニングハイ 走っていて,頭の中が爽快になること。
*7 行動パターン 行動様式。

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