日本語教育研究協議会 第5分科会

第5分科会 「生活日本語教育の実践−多様な年齢層への対応(年少者,青年層,高齢者クラスへのカリキュラム)」
西尾珪子(社団法人国際日本語普及協会理事長)
鈴木雅子(国際教育センター日本語主任講師)
内藤真知子(社団法人国際日本語普及協会)


西尾第5分科会においでいただきましてありがとうございます。この分科会は,インドシナ難民の日本語教育から地域の日本語支援へとレール*1が敷かれて行ったことにつきまして,その沿革を私が初めに総論のような形で御説明したいと思います。西尾珪子と書いてある方のA3の横開きのレジュメをお開きいただきたいと思います。
なぜこういうタイトルをつけたかと申しますと,今,御承知のように地域日本語支援が非常に盛んになって,そのプログラムや教授,すべてシラバス*2というところまで言ってよろしいかと思いますが,それらの発祥が,インドシナ難民教育と中国帰国者への日本語教育にあったということ,この二つの社会的な事象が起こりましたときから始まったということをお話ししたいのです。
まず,少し古いところを思い出していただいて,1975年のベトナム戦争が終わったときのころに戻っていただきます。ここにインドシナ半島があります。ここにベトナム,右側の細長い国です。それから,ここに人が書いてある,見にくいですが,これがラオスです。ここがカンボジアです。ベトナムのサイゴンが北ベトナムによって陥落した,その時をもってベトナムは新しい国になったわけです。ベトナムがそのようになってから,インドシナ半島の他の2国,ラオス及びカンボジアもその体制に巻き込まれて大きな変革が起こりました。それが1975年です。
このレジュメの一番初めに書いてあることと同じことですが,年号と経緯が今ここに出ます。1975年に,今,言いましたベトナムのサイゴンが陥落して,そのすぐ後で難民が大量に出てきました。共産主義国になりました時に,その前の政府の高官及びその家族,あるいは関係者は,迫害を受ける可能性があるというので,できるだけ海外に出ようとしたわけです。あるいは,ほかの国に避難しようとしたわけです。ベトナムは南シナ海から東シナ海に面しています。このベトナムからはボートピープル*3といって,大勢の人が海へ脱出したわけです。それから,カンボジアの人は,海に出る人もあったけれども,ほとんどの人がタイへ,国境を越えて逃げたわけです。ラオスの人は,海がありませんから,メコン川を渡って陸路タイへ逃げたわけです。陸地を避難していった人ですからランドピープルといい,海へ逃げた人,海へ脱出した人をボートピープルといいました。
ボートピープルは,国連の協定ができまして,東シナ海なり南シナ海なりで,他国の船が見つけたときは必ず救助する。そしてその救助した船の船籍を持っている国へ,難民として連れていかれたわけです。ですから,日本国籍の船ならもちろんですけれども,ただ日本の場合には海でベトナムとは隣接していますから,ほかの国の船が救ってもその船が日本へ向かっている船である限り日本に上陸させたのです。そうやってボートピープルを日本は受け入れることになりました。 ランドピープルとしてタイに逃げた人たちはどうなったのかと言いますと,ここで国連がキャンプ*4を何か所かにつくりまして,そのキャンプに一時的に収容し,そこで希望する第三国はあるか,どこへ行きたいかということを調べて,そしてアメリカだといえばアメリカへ行く手続き,昔仏領ですから,フランスだと言う人にはフランスへというふうに,調査しました。そのときに日本に来たいと言った人は書類で申請ししばらくの間待機して,そして審査が通ってから正式に難民として日本へ連れてこられた。これは飛行機で連れてきたのです。そういうふうにして,難民は祖国からいろいろなところに散りました。1979年までで150万人出国したということですから,非常に急激に,亡命というより,本当に避難民の形で難民が出たわけです。

*1 レール 軌道。
*2 シラバス 講義などの要旨。授業細目。
*3 ボートピープル 十分な準備を欠いたまま小舟で脱出した難民。
*4 キャンプ 収容所。

  日本では,1978年に,閣議了解という形で,難民の本邦の受け入れを決定したのです。そして,1979年に,初めはベトナム難民だけ入れようということで閣議了解が成立したのですが,その次の年に,同じくラオス,カンボジアからも難民を本邦に受け入れることを決めたのです。そうして,そのときに,1979年,今,2003年ですから逆算してください,20数年前です。財団法人アジア福祉教育財団に難民事業本部というものを設置して,この受け入れ業務を一切行うということが決定しました。
アジア福祉教育財団というのは,若干名前が違いますけれども,ベトナム戦争中に,ベトナムの領土内でたくさん戦争の孤児が出る。日本はその孤児を収容する施設を作り,ケアをしていたのです。しかし,ベトナムの国自体が崩壊しましたから,その業務を変えて,本邦へ受け入れる難民の受け入れ業務を一切引き受ける期間となったのです。そして,すぐに兵庫県の姫路市にあったカリタスジャパンの敷地を拝借して,姫路定住促進センターをつくって,1979年12月から,難民の受け入れを開始しました。それから,1980年に神奈川県の大和市に,大和定住促進センターを置きまして,関東地方でも受け入れを開始しました。
そうして,この難民に対する日本語教育をどうするか,という研究がはじまりました。つまり,難民は日本社会に定住するということが大体決まっているわけです。というのは,本国を脱出してきているのですから,帰ったら迫害を受けます。ですから帰れない。難民は人道的な形で,特別の法的な措置が行われているのです。しかし,ずっと日本にいるということは,日本で学校に行ったり,日本で働いたり,日本でほぼ永住するということを意味します。これは大変だ,社会に適応するために日本語教育を何としてもしなければいけない。では,どういう日本語教育をしたらいいのかということがまず問題になりました。姫路定住促進センターで受け入れるときは,当時の大阪外国語大学の教授であった吉田弥寿夫先生が責任を持たれまして,大和で受け入れる難民の方は私が責任を持つ形でスタートしました。
それから,流れだけ先に申しますと,大和定住促進センターは1980年の2月29日に開所されまして,3月1日には初めての第1期生が入ってきました。日本語教育の準備を始めたのは2月です。私が責任者としての委嘱をいただきましたのは2月7日です。ともかく1か月もないという,非常にあわただしい準備期間で開所しまして,日本語教育が始まりました。
後で4か月になりますけれども,初めは3か月の座学と生活指導を受けて卒業して行きました。難民ですから,国が就職の世話もします。子供たちは親が生活する土地で学校に行きます。しかし,日本語を勉強している時期には,まだどこの土地で就職するか,どこの学校へ行くかは分かりません。したがって,どこで暮らすことになっても,基本的に生活ができるための日本語を限られた時間の中で効率よく勉強し,身につけることを目的とするカリキュラムを組みました。このようにして,生活のための日本語を学ぶ,専門家による新しい日本語教育がスタートしたわけです。しかし3・4か月ではまだまだ基礎的なことしか分からない,日本語の不自由な,そういう外国人が日本のさまざまな地域に直接居住するということになりました。
ただ,難民たちは,本当にいろいろな意味で苦労して日本までたどり着いているのです。非常に悲惨な戦争をくぐってきています。本当に着の身着のまま,いろいろな精神的な打撃を受けたまま,日本語教育をともかく受けて,社会に出ますから,社会に出てからもまだ大変なわけです。いろいろと困難が待っている。そこで隣人となった方たちが手を差し伸べられた。「困っている事はないか」「何か隣人としてできることはないか」これが外国人の居住地域における日本語の支援の始まりです。ボランティアの支援の始まりなのです。
このように日本語支援が始まって,それでその後,ボランティアで支援をする善意の方たちがたくさん増えていって,今日の原形ができたわけです。そして,3年たちましてから,東京の品川に,今度国際救援センターが設立されました。なぜ定住促進センターという名前にしなかったかというと,もう少し幅広く,定住しない人も,つまり日本は一時的に上陸したけれども,本当はアメリカに行きたい,本当はオーストラリアに行きたい,あるいは弟がカナダに行っている,そういうことまで分かっているような人は海外へ出たかったのです。そのために一時的に日本にいられるという意味で,そういうセンターもつくらなければならないということだったので,国際救援センターという名前で,3年たってから品川に新しいセンターができました。今もあります。
そして,その次の年に,1984年に,所沢に,中国帰国者の日本定着センターができました。これは中国と日本の戦後処理の2国間関係の問題です。中国の東北部に,いろいろな事情で置いてきた子供たちが引き揚げるという問題ですから,インドシナ難民のように国際的に難民として脱出するということではなくて,親の国,日本に帰るに当たっての問題ですから,厚生省の引き揚げ援護局というところがずっと扱っていたことで,突然ここで始まったことではないのです。なぜ,ここで定着センターを建てたかというと,日本にいる親が高齢化していくということがあって,中国で日本国籍の者だと分かりながら暮らしている人たちが,もう40歳ぐらいになっているわけですから,できるだけ早く親と再会するということを目的に,このときから急に集団で帰還するという運動が起こったわけです。
そして,ずっとここのところ1行もあいていないのでまるですぐ次の年みたいに思われますが,1996年という,12年たっています。そうしているうちに,今度インドシナ難民国際会議がジュネーブで行われて,一時庇護難民というものに対する新たな支援,難民としての各国の支援,それを終了しようということが採択されました。始まってから10数年たちまして,もうインドシナ難民の流出というのも一段落したし,それから,カンボジアが独立していくとか,いろいろなそれぞれの国の体制が整っていくので,もう難民という形での扱いでなくていいというようなことが採択されまして,一応難民の受け入れという形は終わりました。この難民の認定ということが新しく行われなくなっても,家族の呼び寄せというのはいまだにずっと続いております。日本に定住した難民の人たちの家族を,申告すると呼び寄せることができるようになって,今まだ国際救援センターにはどんどん家族の人が入ってきております。
それで,新しい認定がなくなったことによって,姫路の定住促進センターが閉所されました。それから,続いて大和の定住促進センターも閉所されました。今,残っているのは,国際救援センターだけです。
ここに書いておきましたけれども,上記のセンターに入所した人の累計,そして日本語教育をその中で受けた人の累計が出ています。これはなぜこんな日本語教育を受けた人が少ないかというと,日本語教育を受ける対象としたのは6歳から上,つまり学齢児童です。学齢期の児童の年齢から70歳までとしました。ところが次第に高齢者が増えてきて,今日では大体ですけれども,80歳以上ぐらいの人までは来ております。そういう人は働くというよりも,家族の世話に来る人が多く,外で働く機会はないのですが,一生懸命日本語を勉強しているのです。
さて,このような流れで難民に対する日本語教育は行われましたが,特筆すべきことはそこで,生活指導を加えた日本語教育というものが発足したことです。一体全体,生活指導を加えた日本語教育というのはどういうものなのかということが大いに議論されました。先ほど述べましたように3週間後には難民センターに入ってくるというのに,教科書まで書かなければならないかもしれない。が,とてもその時間がありませんでした。文部省の方から言われました492時間,それがそのうちに少ないというので4か月にしようということになって572時間になりましたけれども,この中で,生活指導という項目を入れ込んでどういうカリキュラムをつくっていくかということは大変に問題でした。
私は,今,大きな表題ぐらいしかお話しできませんで,後ほど御質問を受けた形でお答えしようと思いますので,どんどん飛ばします。一番困ったことは,日本語教育の専門家はいるのですが,生活指導をする専門家というのは一体だれだろう,社会慣習を教えるとか,生活習慣を教える,そういう専門家という人はいるのだろうか。いないわけです。それで,どうしても日本語教育の中で行ってほしいということになりまして,それが従来の構造言語学に基礎を置いて,日本語を一つの言語体系として分析し,初級から段階を踏んで教える従来型日本語教育の中に,日本での生活の言葉というものを,入れていく発端となりました。
そうやって,3月には大和定住促進センターでも第1期生を迎えました。もちろん難民ですから,先ほど言いましたように非常に困難なものを乗り越えて来た精神状態の人が,やっと戦争のない国に着いて,空襲もない,何もないというところに着いて,ほっとする間もなく,すぐ日本語の教室に出てもらうということは,教師側もその心理状態をよく理解し,学習しやすい環境をつくることに細心の配慮をしました。朝の9:30から15:30までですから,習う方も教える方も大変な作業でした。
さて,ここで一言加えておきます,第2言語教育という言葉についてです。これは今JSL。
Japanese as a second language というふうに言いますけれども,ESLというのは御存じだと思います。English as a second language,移民をたくさん受け入れている国では,この教育がもうほとんど確立されています。アメリカ及びオーストラリア,カナダ,そのあたりも随分研究しまして,私たちなりに第2言語としての日本語教育というものを打ち立てたつもりです。それは,今までの日本語教育が外国語としての日本語を構造的に分析して勉強するためのシラバスであり,カリキュラムであった。それに,別に加えて,第2言語として,生活言語としての日本語を教えるカリキュラムを立ち上げた。したがって,ここで外国語としての日本語教育と,第2言語としての日本語教育というのがはっきりと定義が分かれたわけです。そのことは,今日の日本語支援に影響していることなので,御記憶いただきたいと思います。
そして,生活指導すなわち社会適応指導というものを行わなければいけない。そもそも,日本への同化なのか,それとも共生なのかということを随分議論いたしました。当時の政治家の人たちは同化という言葉をよく使っていましたけれども,私どもは,どんなに永久に,それこそずっと国に帰れずに日本にいるかもしれないけれども,いわゆる単純に同化と考えない。ベトナム人はあくまでベトナム人というアイデンティティーを持って日本になじんで生きてもらうということを考えて,共生ということを考えました。今,地域支援で共生社会をつくっていくということが言われますが,実は1980年代のインドシナ難民と中国帰国者の日本語教育が始まったこのときに既に共生のための教育ということを打ち出していたのです。
そして,社会的適応指導というものを別途に確立してまいりましたけれども,今,その最後の最後のところで,地域支援のためのリソース型生活日本語という名称で,教材素材集ともいうべきものを開発いたしました。裏側にあります。AJALTが著作権は持っておりますけれども,インターネットでフリー*1で使っていただき,教材化していただきたいという目的で整理しました。これはほんのその一部,目次ですけれども,日本に外国人が来たときにこういう場面に遭遇するということを調べ上げまして,2年間かけて制作いたしたものです。
インドシナ難民の受け入れということがきっかけになりまして,私どもが第2言語教育としての日本語,生活言語としての日本語をいかに身につけていってもらうかということを,直接現場で,若干の試行錯誤も繰り返しながらやって参りました。そして生活指導,社会適応指導ということを含めた日本語教育が,現在も国際救援センターで行われているということを御報告しておきます。大変急ぎましたけれども,また後でいろいろ補足する時間があるということを前提として,ここで私の話を一応終わります。では,国際救援センターの主任講師の鈴木雅子にかわります。

*1 フリー 無料。


鈴木鈴木と申します。国際救援センターで行われている日本語教育について,報告します。
2003年8月現在,ベトナム・カンボジア難民の呼び寄せ家族を中心として,77名が学んでいます。年齢は6歳から85歳まで,出身地はホーチミンなどの大都会,地方の農村,漁村と様々です。学習経験がない方もありますし,大学を卒業した人もいます。外国語学習の経験がない方も多く,多様な学習者が学んでいます。日本語教育と社会生活適応指導を修了する6か月後には地域の生活者として巣立っていきます。
クラス分けですが,1クラスは大体10人前後で編成します。年齢や日本語能力別にクラス分けをしています。今期は,成人クラスは高齢者クラスも含めて6クラス,児童,中学に進学を希望する受講者の2クラス,全8クラスが成立しました。
国際救援センターの日本語教育の目標は,一つに,日本で生きていくために必要な日本語の基礎的な力をつける,生涯にわたって続く日本語学習の基礎をつくること。そして,センターを出るとすぐ成人は社会や職場生活,子供は学校生活に入っていくわけですが,そこで必要となる知識を得て,日本語の運用力をつけることです。これが生活指導を組み込んだ日本語指導ということになります。
実社会で生活しながらではなく学習に専念できますから,日本語の文の形や語彙を体系的かつ集中的に学習し,日本語の基礎を固めることができます。主教材に『新日本語の基礎』,副教材に職場生活のために技術研修生用の『じっせんにほんご』等を使っています。
学習者は,呼び寄せの人がいるのですが,日本の情報を全くといっていいほど持っていません。生活指導を組み込むということは,教室で学んでいる言葉が実際の社会や生活でどのように言葉が使われているのか理解するうえでも必要です。教室で学んだ言葉で何ができるようになるのか,それを具体的に言葉の学びの中で示しながら日本語指導を行っています。
日本語の学習期間は4か月半です。その後は日本語の海の中へ出ていかなければなりません。4か月半集中的に学習するといっても,実際に使えるまでに獲得できる言葉は限られています。その限られた言葉で,職を得て,周囲の人と関係を築き,そして自分の力でさらに言葉を獲得していかなければなりません。彼らが身につけた日本語で,周囲の人に働きかけて積極的にコミュニケーションがとれるような,そのような力をつけることを大切なことと考えています。
実際の日本語授業の流れを説明します。成人クラスの授業ですが,それぞれのクラスによって学習の到達目標は異なります。学習者の習得度によって,柔軟に対応します。言葉そのものの指導については,ゆっくり進むクラスでは,普通体まで,標準的なクラスで仮定など複合的な文が理解できるところまで学習します。生活指導項目に関しては,言葉の指導に組み込んで学習する項目が決まっています。例えば,往来動詞文に入った際には,交通機関の利用,ここでは時刻表の読み方,電車の路線図の見方など学習します。
児童クラスについても,学習する基本的な文型の流れがあります。そして,児童の年齢や受け入れ能力によって進めるところまで進めています。子供が話したくなるような状況をつくったり,その機会をとらえたりして指導します。文の構造や文字の学習と並行して,学校生活にスムーズに入っていけるように,教科の言葉や学校で行われているようなうがい手洗いなどの生活指導も行います。
具体的な例をいくつか紹介します。
救援センターでは,どのクラスも日本語の聞き取りを優先するTPRから始めます。外国語学習の経験が少ない人たちのために,授業への適応期間を設けるという意味もあります。TPRは,全身反応教授方といって,教師がどんどん指示を出し,学習者がそれに反応して動く。たくさんの日本語を聞き,反応していくうちに,日本語の音や調子になれ,そして音が意味を持ってきます。発話を強制されないのでリラックスして外国語の学習に入っていくメリットがあります。TPRの授業の内容に,生活指導項目を入れています。掃除,教室活動に必要な「教科書をあけて」のような教室用語,日常生活について,例えば冬の生活など理解しにくいところはビデオで紹介しながらやっています。暑い国から来た人たちなので,重ね着の仕方なども,まず「シャツを着て,セーターを着て,それから,コートを着て」とTPRで習得していきます。クラスによって,1週間から4週間ぐらいかけて進めます。オリエンテーション時に,学習の目的や,何のためにこのようなやり方で学習するのかをよく説明します。これに並行して,平仮名の文字指導と発音指導を行っています。
第1段階の学習項目に紹介があります。自己紹介だけでなく,家族の写真を使ったり教室の外へ移動して,家族を紹介したり他の人に級友を紹介,できるだけ多くの名前を覚えます。名前を覚えて,呼びかけてあいさつを交わす。これは人との関係をつくっていく基本的なこと,しかしながら,日本の人たちが繰り返せるように自分の子供の名前や友達の名前を発音するというのは,最後に近くなるまで難しいものですが。挨拶は,センター内だけではなくて,センターを出た後隣人のうちをノックしてあいさつする,職場であいさつをする,学校で先生に紹介をするなど,いろいろな場面を作って練習をします。
存在文を学習するころから,まとまりのある文を書く作文指導をはじめます。難民本部が出す「希望」という作文集に載ることもあるという動機づけがあります。学習した言葉で自分の表現したいことを,だれでも分かる言葉で表現する。また,私達も経験がありますが,会話のなかではとっさに言葉が出ないこと,上手に伝えられないことがあります,そのような場合,後で落ち着いて文に書いて伝えることができる,その手段でもあります。
禁止形や可能形を学習するときには,職場の指示を理解することを組み入れます。依頼や禁止の表現は入門期のTPRで聞いていますが,職場の会話を想定しての練習ではありません。これは職場の会話を想定して練習するものです。「タンさん,このペンチをとって」「はい,これですか」と確認する。「ホイさん,それ外に置いて」「はい,どこですか」と聞き返す。分からないことは分からないと言う。このように,職場のルールを学びながら日本語を学んでいきます。認識漢字という項目がありますが,これは,整理整頓,火気厳禁,立入禁止,禁煙など,職場や社会生活において危険回避などに必要な漢字を,理解する漢字として指導するものです。どのレベルの学習者でも学びます。地域・職場のルールを知るという学習項目があります。例えば,ごみの問題は,地域の外国人にとっては難しく大きい問題です。センター入所当初からごみの分別は指導しますが,彼らにとって実際に必要なのは,定住先で正しくごみが捨てられること。「すみません,これは燃えるごみですか」「この大きいごみはどこに出せばいいですか」と隣人に聞けるような指導しています。電話連絡の大切さも,「伝言する」という学習項目が教科書で提出されているときなどに伝えています。休暇や事故で仕事に遅れる場合,学校への連絡など,具体的な場面をつくって指導します。
クラスを越えた活動ですが,これはセンターの職員や外部からの参加のある活動です。例えば,「会話の日」があります。これは,授業見学で訪問のあった学生やボランティアの方々,施設の職員が参加して,教師以外のいろいろな方との自由会話の時間を持つものです。学習した日本語でどんなことが伝えられるのかを体験します。そして,普通の日本の人が話す自然な日本語に触れるいい機会になっています。
期の最後には学習発表会をします。ともに学んできたクラスの仲間と,日本語学習の成果を多くの人の前で発表する。前期では,母国の教育制度などのグループ発表やスピーチ,劇,母国の昔話を紙芝居にしたクラスなどがありました。高齢者クラスもバスの場面での劇を発表しました。発表の結果で得た自信とともに,仲間とやり遂げたという過程も大切なものとなっています。
全クラスそろっての唯一の外出に,戸外学習があります。実際にいろいろなことを体験しながら日本語学習をします。標識などを確認しながら交通機関を利用したり,レストランで自分の言葉で注文をして食事をとったりします。全員が一つの共通体験を持つこと,そのこと自体も貴重な経験です。
最後に,日本語教育終了後に行う社会生活適応指導との連携ですが,日本語教育に組み込まれた生活指導は,基本的に病院や郵便局といった生活場面でのコミュニケーション活動に重点があります。社会生活適応指導では,病院の利用にかかわる保険制度,郵便局が持ついろいろな機能などを必要に応じて通訳をつけて説明します。日本語教育で学習したことを継続しながら,日本社会へのスムーズな適応を支援しています。成人が社会生活適応指導を受講している間,子供たちは,学区の小学校,中学校に通います。この時期に,難民師弟への理解があり長く協力いただいている学校で学校生活を経験できることは貴重です。
以上が私の報告です。

内藤内藤と申します。私は,国際救援センターの高齢者クラスでの実践内容を,できるだけ具体的にお話しするようにしたいと思っています。
国際救援センターでは,ここ数年,高齢の学習者が本当に増えています。それは,先ほどの話にありましたように,「家族呼び寄せ制度」を利用して,定住している子供世代に呼び寄せられて来日する親世代がすごく増えているからです。そこで平成11年9月に開講いたしました87期から,高齢者を意識した新しいカリキュラムを実施することになりました。その後,期によって少しずつ調整をしていますが,この時期に始まった高齢者用のカリキュラムが現在も続いています。
ハンドアウトを御覧いただけますか。ハンドアウトの始めに,87期から91期までのクラス構成を表にいたしました。上から順に,1クラスの学習者数,年齢,国籍,そして「なし」とありますのは,日本語学習歴のことです。その下に「ゼロから7年」と書いてあるのは,母国での教育年数です。そして,一番下に,聴力障害,白内障,歩行困難等と書いてありますのは,これは高齢の方ですので,必ずと言っては何ですが,どこかに身体上,健康上問題を抱えていらっしゃる方が非常に多くて,ほかにも心臓病とか,高血圧とか,本当に元気な方が少ないんじゃないかという期もあるくらいです。
ちなみに,現在は94期が開校中です。今期はまた特に高齢者が多くて,今47歳から85歳までの学習者が全部で29名,シルバー,準シルバーと,2クラスに分かれて学習しています。
具体的に高齢者クラスがどんなクラスかと申しますと,高齢者クラスには,毎期,クラスの中に母語の読み書きもできない方が数人含まれています。国での職業は,大体が農業,漁業,それから,市場で商売をしていたという方が多いです。出身地域ですが,最近はホーチミン等の都市部から来る方は少なくなって,むしろ地方からやって来る方が多くなっています。
これが高齢者クラスですが,皆様いかがでしょうか。こういうクラスで日本語教育をしているわけなんです。正直申しまして,4か月日本語教育いたしましても,たくさん覚えていただくということは本当にとてもとても難しいことです。例えば,4か月日本語教育が終わった時点で平仮名を全部きちんと覚えてくださる方というのは,むしろ少ない。覚えられないです。ですから,こういうクラスで,例えば文型は幾つまでとか,文字はこれだけというような到達目標を決めて,積み上げていくということはできない。そういうやり方はできません。そこで私たちがどうしたかと言いますと,結局,従来ありましたシラバス(指導細目)から,削ぎ落とせるものはどんどん削ぎ落して,削ぎ落して,削ぎ落しました。もうこれは取ろう,これは取ろうとどんどんそぎ落としていって,あらかじめ決めておくのは最後に残った本当にわずかな言葉だけ。そのわずかな言葉で,でも,高齢者の学習者たちと私たち教師,クラス中みんなが力を合わせて,何とか本当のコミュニケーションを成立させようではないかと,そういったやり方にいたしました。
高齢者クラスの教師陣の合い言葉は,「厳選された少しのことをしみ込むように教えよう,やっていこう」です。ですから,繰り返し,繰り返し,ゆっくり,ゆっくりやっていきます。何回も何回も,元に戻って,元に戻って,でも,あら気がついてみたら少し進んだね,というような,そういうやり方でやっております。
シラバスは,高齢者クラスではいわゆる「構造シラバス」というのはやめまして,テーマ中心の「テーマシラバス」にいたしました。ハンドアウトの裏側に,そのテーマシラバス,テーマ一覧を載せました。太字で書いてある部分がテーマです。例えば「身の回りの名詞」とか,「自己紹介」とか,「ふるさと」「家族」「天気・人・物」等,こういったテーマに関して,とにかく何とかコミュニケーションをしていこう,そういうやり方です。
それで学習目標は一体どこにあるのかということですが,この方たちは高齢になって,好むと好まざるとにかかわらずなんですけれども,初めて日本という異国にやって来ることになったわけです。呼び寄せの子供たちは昼間はみんな働きに出ています。するとこのお年寄りたちは,ともするとアパートの狭い部屋の中に,ずっととじこもって過ごしてしまうんですね。できればそういうことがないようにしたい。高齢の方でもせめて近所をリラックスして歩いてもらいたい。そして,もし隣り近所の日本人に会ったら,あいさつを交わして,そして安心して,プライドを持って暮らしていける,そういうことができるように何とかお手伝いするということ,それを私たちの目標にすればいいんじゃないかと思いました。目で見え,量で数えられる形でどれだけの日本語を覚えたかとか,そういったことはこの際いいんじゃないか,そういった気持ちで高齢者クラスを担当しております。
本当にお年を召してからいらっしゃったわけですから,お一人お一人の,これまで背負ってこられた人生のことを考えましたら,それを最大限尊重したいという気持ちがあります。一人一人のこれまでの生活を最大限尊重しながら,そして何とかこの日本での生活に適応していっていただく,それをお手伝いしたいという,そういう気持ちです。
具体的にどういうふうにやっているかと言いますと,初めて教室にいらっしゃったころは,「もう先生今さら日本語覚えられません,もう無理です」という,そういう表情の方もいらっしゃいます。でも,私たちが伝えたいことは,「コミュニケーションにはいろいろな方法があるんだ」ということ,そういうことに気がついていただきたい。ですから,私たち教師自身が,ジェスチャー*1をまじえたり,絵を描いたり,そういった言語以外の面を精いっぱい使ってみせて,そして言葉に関していえば,あいさつ,それから,ちょっとした機能表現をぜひ身につけていただきたいと思っています。

*1 ジェスチャー 身振り。手振り。

  どういうことかと言いますと,表現の中には非常に汎用性が高い便利な表現がたくさんあります。例えば「どうぞ」という言い方がありますね。「どうぞ」はいろいろな場面で使えます。ドアをあけて迎え入れるとき,それから,飲み物や食べ物を振る舞うとき,物を渡すとき,それから,「いいですか」と聞かれて,許可を求められて「はい,どうぞ」というような,そういう,一つ覚えればいろいろに使える表現,最初のテーマで自己紹介の練習をします。そこで「よろしくお願いします」とせっかく練習したわけですから,今度は「お願いします」が言えればいろいろなふうに使えるということを伝えます。お店で物を買うときには,「これ,お願いします」と言えばいいわけです。「先生,はさみ,お願いします」は,「はさみを貸してください」という意味にもなります。それから,「書いてください」だったら,動作プラス(書くまねをして)「お願いします」と言えば,それは「〜てください」が使えなくても人にものを依頼する表現になります。そういうように,一つ覚えればいろいろに使える,そういう汎用性の高い表現をぜひたくさん覚えていただきたいと思いまして,ハンドアウトの資料3で,表現一覧表(発話目標)として書き出しましたものを,それこそ「しみ込むように」繰り返し繰り返し扱っています。これは予定にかかわらず,ある表現が使えそうな状況が生まれたら,機を逸さないように即その場で練習をするようにしています。
教師は5人で1クラスを担当しておりますが,教師間で申し合わせていますのは,全員が参加できる教室活動を目指すということです。先ほど申しましたように,耳が遠かったり,目が余り見えないという方もいらっしゃいます。どうやってそういう方が日本語を覚えていくんだとお思いになるかもしれませんが,そういう方でもあっても,私たちはクラスからはじき出さないように,みんな一緒に活動ができるということを目指しています。もちろん一緒にやるといっても無理はさせないように,そこのところを本当にすごく気をつけて,十分注意しながら,それでもともかく全員で力をあわせて一つのコミュニケーションが成り立つということを目指しています。
そういう場合に,教師の発話というのは,とにかく分かりやすさが第一だと思っています。ですから,学習者に正確な文法を要求しないのはもちろんのことですが,教師の方も,例えば助詞抜け文もありということで,分かりやすさ第一の話し方をしています。
もうひとつ例を挙げますと教師自身がとことん学習者に寄り添った日本語を話すようにしていますから,例えばこの点は皆様がどうお思いになるか分かりませんが,「ついたち」,「ふつか」,「みっか」などと,そういうのは教えないんです。1日(いちにち),2日(ににち),3日(さんにち)と,そうやって教えています。最初これをやろうかと思ったときは,日本語教師としては非常に気持ちの悪い部分もあったんですけれども,極端な話,カレンダーを指して数字が言えれば,日本人の方が分かる。日本人が分かればいいということで,「今日は7月7日(なながつななにち)です」というような,そういうようなこともあります。
そして,教師が今何をしてもらいたがっているのか,今,クラスで何をしているのかということを学習者が理解できること,学習者を置いてきぼりにして教師が何かを一生懸命するということはないように気をつけています。
だんだん人間関係ができてきて,信頼されてくると,ベトナム語でいろいろ話しかけてきてくださるんです。本当に申しわけないんですが,ベトナム語が分かる教師が少なくて,私も分からないんですが,それなのにベトナム語で一生懸命何か言ってくださるんです。そういうときでも意思疎通が本当に難しいんですが,たとえ難しくても,教師の方から先には決してあきらめない。あきらめないで,絵を描いてもらったり,辞書をひいたり,できる生徒を引っ張ってきたり,とにかく何とか相手の言おうとしていることは理解しようと一生懸命努めます。そういう姿を見せることが,大事なんじゃないかなと思っています。
そういうような,本当に悪戦苦闘しながらのクラスみんなでのコミュニケーション活動なんですが,そこで得られた新しい情報というのが確実にあるんです。クラスで今日〜さんはああいうことを言ったよとか,あれが言えたよとか,〜さんはベトナムにいたときこういうことをやっていたそうよ,家はこうだったそうよというのが分かるんです。分かった情報というのは本当に私たち教師にとっては宝のような貴重な情報ですので,それは授業ノートに詳しく書いて,教師間で共有をして,そして翌日の教師がその話題を引き継いでまた練習をする,発展させていくというようにしております。
ちょっとこちらを御覧ください。これは「私の家族」という題で,ある男性が描いてくださった絵です。絵を描く作業を通して,とてもいろいろなことを伝え合うことができますので,クラスの活動の中に絵を描くことを多く取り入れています。例えば,この「私の家族」という絵ですが,「おくさん」「わたし」,それから,真ん中の段には「こども」と書いてありまして,「男,男,男,男,女,女」その上に「センター,ベトナム,ベトナム,ベトナム,日本」とあります。一番下の段は孫です。「まご,男,日本,男,ベトナム,女,女,女…」といろいろ書いてあるんです。ここには「ひめじ」とありますが,これは姫路の呼び寄せ先の,多分県営住宅だと思います,5階建てなんです。こちらがベトナムのうちです。家族をテーマに学習をするときに絵を描き,描いている途中で「これはだれですか」,「子供?男ですか,女ですか,どこにいますか」というような会話をいろいろしながら,最終的にこういう絵を完成していくわけです。
教師もこの絵を参考にいろいろ質問ができますし,学習者も絵を指しながら自分の家族についていろいろなことを言ってくれます。家族のことは,高齢のこの方たちにとっては最大の関心事ですから,本当に一生懸命言ってくださいます。「〜さん,家族,何人ですか」に,「15」とか,「子供,何人ですか」に,「5,まご10,ぜんぶ20」とか,「ベトナム3,カナダ2…」とか,本当にいろいろな話をしてくださいます。
こういう絵,ほかにも例えば「ふるさと」とか,「ベトナムの私のうち」とか,戸外学習に行けば水族館の魚の絵を描いたりします。絵のほかに切り絵とか,貼り絵とか,そういったこともします。そして作品をたくさんつくって,期の最後,先ほど鈴木の方から紹介がありました学習発表会のときには展示をしまして,センター中の職員の方たちに来ていただいて,それをまた教師以外の日本人に,自分の絵として本当に晴れがましい顔で皆さんが説明してくださるんです。職員が来たときは,お茶を振る舞う練習もありますので,お茶を生徒たちが振る舞いながら自分の絵を説明する。自分について,絵を頼りにしながら話すというようなことをやっております。
例えば,母語での読み書きができない方が日本に来て初めて片仮名で自分の名前を書くことができるようになったりすると,本当に喜んでくださる。絵を描いたりすると,最初は鉛筆を持つのも怖がっていたそういう方が,片仮名で名前が書けるようになった。絵を描いた,すると教師が言わなくても毎回ちゃんと名前を書いて,これは誰の絵ですかというと,「私の」と言って,出てきてくださるんです。
これは書道です。好きな言葉を書いてくださいとお願いしましたら,こういうことになりました。「さかな」と書いた方は,漁師さんです。それから,「ごはん」と書いた方はベトナムで農業に従事していらした方で,「〜さん,ベトナム,仕事,何ですか」と聞きますと,「ごはん」と答えて稲を刈る動作をする。それで米のことを言っているんだな,仕事のことを言っているんだということが教師の方にも分かりました。こういう好きな言葉,「さかな」「ごはん」「ふね」というのは本当によく入ります。それから,高齢の方は必ずあちこち痛いですから,身体部位の,「頭,腰,痛い,血圧,高い,低い」というのは本当に入る。普通の成人の学習者で血圧という言葉は分からない人がいっぱいいると思いますけれども,「血圧高い,低い」の方がよく分かるクラスもあるんです。彼ら自身が自分にとって必要だと思う言葉はしっかり入ります。そのかわり要らないと思えばもう教師が何回繰り返しても決して覚えません。その辺は本当にはっきりしています。
そのほか,絵入り語彙表とか,ハンドアウトで紹介しました実践例等々,いろいろやっております。もしよろしければ,雑誌「AJALT」26号に,今日ここにも来ておりますが,AJALTの藤野治子と私とで,高齢者クラスでの実践報告を詳しく書きましたので,お読みいただければと思います。
結局,思いますに,高齢者クラスにおいては,将来のために何々をする,将来のために今日本語を勉強するということではなくて,その教室で今その時間をとにかく最高に豊かに過ごす,それを目指してやっていると私自身は思っています。つくづく思いますのは,読めなくても,書けなくても,覚えられなくても,とにかく高齢の学習者の方を私たちが丸ごと受けとめ,受け入れれば,向こうも心を開いてくださる。無条件に受け入れられていると感じてくださったら,初めて向こうの高齢者の方たちが心を開いて発信をしてくださるんです。ですから,本当に教師にとっても高齢者クラスというのはいろいろなことを学ばせていただいているいい場だとつくづく感じております。
もう少し作品を御覧ください。これが貼り絵です。これは自画像,この自画像を動かしながら,行きますとか,来ますとか,いろいろな話をします。これは作品展示会でのふるさとの絵,これは船です。漁師さんですから船を描いたらもう本当に詳しく大漁の様子を描いてくださいました。
以上です。早口になりましてすみません,これで終わります。

西尾今,地域でも年少者クラスのことは非常に話題に出ております。特に学校に行っている小学生,中学生の生活言語あるいは学習言語,教科言語,そういうものに対しての指導ということは出ておりますが,高齢者に対する日本語教育というのは,国際救援センターの藤野もここにおりますけれども,この二人で研究を積み重ねてきております。そして,地域にきっとお役に立つこともあるのではないか。特に学校に行った経験がなく,鉛筆を持つのが初めてだというような高齢者もありまして,そういう方たちにも日本語が一言でも入っていることによって,近隣の日本人とのコミュニケーション,あるいは,日本での安定した生活が求められるならば,これにこしたことはない。高齢者は最近親を呼びたいという方が多くなりましてから,非常に数が増したものですから,このような発表ができるようになった次第です。さて,休憩と思いましたけれども,あと35分ですから,ちょっと我慢していただこうかと思いますが,よろしいですか。御質問など,何でも,私どもが分かります限り……。

参加者今のお話を伺っていると,その方々が本当に宝物という感じがするんです。昨日から話が出ていた地域の交流というか,地域の人たちは,その宝物をどんなふうに恩恵をこうむっているのか,その辺をお聞きしたい。大分長い期間にわたっているので,もうその間はどうなっているのか,あるいはなれっこになってしまのうか,そうではなくて,どうなのかという。

西尾それは,例えば,こうやってこういう教育を受けて,センターを退所して,実生活に入ってからということでしょうか,それとも長いことかかってというのは,私どもの経験が長いということでしょうか。

参加者随分長い期間やっておられるようで,その間ずっとまちの人たちはそういう宝物がそばにあるのに触れられないのか,触れているのか,その辺をお聞きしたい。私たちもできないでいることなので。

西尾例えば一人の難民の人を考えたとします。Aさんという人,そのAさんが国を出てから,ずっといろいろな経路をたどって困難をとして日本に来て,そして日本でこの4か月,あと社会適応指導が1か月ございますけれども,それから就職していくわけです。実はセンターにいるときにどこに住むことになるか分からないんです。全部日本語など終わってから就職活動が始まりますので,どういう仕事につくかも,どこの土地に住むかも分からないまま,基本のところは,汎用性のあることをしております。センターを出てから実社会で生活するようになりますと,ボランティアの方たちがその後をフォロー*1してくださるわけです。
大和定住促進センターと国際救援センターの卒業生は大体京浜工業地帯です。それから,姫路定住促進センターの場合は京阪工業地帯を中心に仕事についていきます。アジア福祉教育財団の難民事業本部からは,そういう難民の人が行っている日本語教室には本を寄贈することになっています。そして,ボランティアの方たちがその後続けて,まさに本当の実社会での日本語,それから,実際に職業についてからの,そこで必要な日本語のケア*2をしてくださる。そういうふうに支援をしてくださる方と連携をとっております。

*1 フォロー 補い助けること。
*2 ケア 援助。


参加者日本語救援センターにおける日本語指導の流れなんですが,実際に6か月の日本語では使えることは限られているという,鈴木さんがおっしゃいましたけれども,実際シラバスを編成していく上で,学習ストラテジー*1に基づいた編成とか,6か月終わった後,学習者がみずから日本語を獲得していく,獲得しやすいようなシラバスの編成なんかは考えられて行われているんでしょうか。

*1 学習ストラテジー(strategy) 学習戦略・方略。


鈴木(学習者自らが日本語を獲得していく)シラバスづくりについての御質問でした。日本語の基本を獲得するということで,『新日本語の基礎』という構造シラバスを基本にしたテキストを使っています。(これで日本語の文の形,例えばベトナム語では,「先生鈴木」ですが,「鈴木先生」に慣れるまでにも時間がかかる。)日本語の基本的な文の形を構造シラバスに添って指導しています。その中で,生活指導の中にもありますように,いろいろな場面をつくって,学習したことがそのなかでどのように使えるかということを,教室の中でシミュレーションのような形で練習します。(その中で,獲得した日本語でどう対応していくかを学び,学習ストラテジーを身につけていくことを期待している)
例えば,学習が進んだクラスなどでは,先ほどのリソース,ちょっと紹介がありましたけれども,そこに状況説明という読むところがあります。それを読んで,今まで獲得してきた日本語がどのようにして使えるか(分からないときはどう対応すればいいか)ということを,実際に試してみるといったようなこともしています。

参加者私は,今日公民館の日本語教室のスタッフとして来ているんですけれども,教科書は新基礎をもとにした「みんなの日本語」を使っているんですけれども,週2回の学習ではとても追いつかないので,その辺どういう工夫がなされているのかなと思ってお聞きしたんです。

鈴木私どものところは,学習者が生活の心配がない,本当に集中的に日本語を学習できるという,恵まれた条件がありますので,こういう形がとれます。

西尾センターを退所して地域に住んでから,地元での日本語支援を担当していらっしゃるボランティアの方がいらっしゃいますから,その方に,週何回,どのような指導をしていらっしゃるか,伺いましょう。大和定住促進センターと国際救援センターを卒業した人をずっと支援していらっしゃる方があちらにいらっしゃるようですから伺ってみましょう。

参加者週に1回ですから,そう大したことはできません。そして,救援センターでもクラス分けがありまして,若い能力のある人なんかは上のクラスにいたとか,それから,こちらが学校みたいに生徒を選ぶ,クラス分けするわけではありませんから,進歩していらっしゃるのかどうかという,そういう方もいらっしゃいます。
難民事業本部の方からは,いろいろな教材を提供していただきまして,例えば教科書やワーク*1のほかに,漢字の一覧表があるんです。それは上級にいって,大学進学を志すくらいの方でも,部屋に入って,随分有効に使っていらっしゃいました。それとか,いろいろな便宜を図っていただいたのはありがたいと思います。
私たちは,そういうことのほかに,例えば小学校入学のときに,区役所の学務課に行くとか,それから,病院に必要があれば連れていくとか,そういう生活の支援も行いましたけれども,その見返りというわけではないですけれども,利用度というか,報いが大きいわけです。例えば,物の考え方です。アジアには日本ではちょっとすたれてしまったと思うんですけれども,少なくなりましたけれども,高齢者を尊重する,尊敬する文化があります。それは難民だけではないのですけれども,ボランティア一般に違った環境の方に日本語を教えて,そういうものの考え方,金,金という生徒さんもいらっしゃいますけれども,お金でははかれない,貴重なものがあるということを気づかせていただいたり,料理を教えてもらうだけではなくて,いろいろいただくものが多かったということも申し添えたいと思います。

*1 ワーク ワークブックの略。


西尾センターを退所してから,そのグループで,あるいはそのクラスで続くということはあり得ないわけです。家族単位にいろいろなところに住みますので,一応そこで終わってしまうわけです。それからは,地域の日本語教室に出られる人は出て,地域の日本語教室に通うほかのいろいろな外国の方と一緒に学ぶわけです。環境はがらっと変わります。それに,境遇としても,就職していますから,職場の言葉が急に必要になっていることもあるし,学校へ行っていれば学校の言葉が必要になっていることもあるし,難民センターでの集中教育とはまた違う必要性,ニーズ*1がそこに出てきていますので,もうそこからは地域の日本語教室の普通の在り方というふうに思っていただいた方がよろしいかと思います。

*1 ニーズ 要求。


参加者私は1982年からかかわっておりまして,実は,私ども藤沢に修道院がありましたので,カリタスジャパンで最初に日本に上がってきて,本当に腰に布をまいているベトナムの人たちのときから20数年かかわっております。先ほどおっしゃっていらした方のようなことももちろんなんですが,大村のセンターもそのころまだありました。センターから出て藤沢にいらした方については,まずどのようなテキストを使っていたかというところからスタートしました。それで,やはり一応日本語の基礎が1,2終わったということでも,実際にそれはなかなか終わっていないということもありました。
それと,一番苦労しましたのは,子供たちが学齢期になって日本の教育を受けるというときに,当初の政治難民は非常に教育熱心でした。ですから,当初の政治難民で来た師弟は慶応義塾大学とか,いろいろないわゆる一流大学に入っていきましたけれども,2次的な経済難民と,ODP*1については非常に問題があるのではないかというふうに思っております。
当初,私どもとのところは中国の帰国者で,国費の場合は定住センターに入れましたが,私費で来た人は国で日本語を教えてもらえませんでしたので,当初は中国の私費帰国者とベトナム難民でした。ところが,日本の経済が変わると同時に,だんだんベトナムの人たちが減ってきて,イミグレーションで就労の問題がかかってくる,日系の人が増えました。今は非常に技術的に優秀なインドの方,ドイツの方,いろいろな国の技術研修生というのが増えてきました。それに伴って,ベトナムの人たちが藤沢にかなり勉強に来ていたんですが,さっきおっしゃったように,やはり同国人がたくさんいるというところは,精神的に安定ということもあるのではないかと思いますが,大和とか,高座渋谷の方のベトナムの方たちが多いところの教室に行くようになって,私ども藤沢の教室は,今まで難民事業本部の方から教科書を毎年いただいていたんですが,今お一人か二人になりましたし,教科書のストック*2もたくさんありますので,それは私どもの方は今は御遠慮している状態です。

*1 ODP Orderly Departure Program合法出国計画。
*2 ストック 蓄えたもの。在庫品。


西尾確かに難民23年と申しましても,その中にずっといろいろな変化が起こってきております。インドシナ難民の人たちの変化もあれば,日本の社会の変化もございます。日々,新しく対応することが起こってきております。先ほどの年表で申しませんでしたけれども,ここにも書いてありますが,今年からはいわゆる条約難民,今いろいろ言われております,日本は難民の認定が少ない,条約難民といいまして,これで認定された人も国際救援センターに入ってくるようになりました。正式に入るようになりますと,条約難民の人たちとインドシナ難民の人たちとが一緒に勉強するようになりますし,そのように,社会的な背景を極端に反映しながら行っている状況でございますので,それに対応することはなかなか,言語の問題以外にもいろいろございますということを,御報告しておきましょう。

参加者先ほど内藤さんの方から,AJALTでベトナム語が分かる教師が少ないということと,内藤さんも分からないというお話があったので,そこでちょっと気がついたんですけれども,ハイチという国ですけれども,ハイチも難民としてアメリカにかなり渡っていて,ボストンという地域が全米で第3位のハイチ人の難民移民の居住区になっています。そこでの取り組みなんですが,アメリカも移民の制限を出したときに,家族の再結合ということで,家族に限っては来てもいいという形になったんです。それ以外は制限をかけたときに,やっぱり高齢の方々もかなり来ることになって,その方々も,先ほどと同様に,ESLどころか,母語での,第一言語での識字力もないということで,ESL by literacy*1というような取り組みがされていて,そのときに,先に来た難民の方々が,やはり政治難民の方もかなり多かったということと,先に来た難民の子供たちが大学に行ったりして,実際に英語力をつけても十分な仕事につけない。国にいたときのような仕事につけないということで,そういう方々が難民センターとか,地域の毎日カルチャーセンター*2に行っている,その人たちを活用しようという考え方が出てきて,そうすると,そこの国の言語ができなくても,その彼らの背景も分かっている人がいるんじゃないかということで,その人たちをトレーニングするような,そして内藤さんたちのような方が助言者という形で寄り添いながらやっていくような仕組みを90年代前半にやっていたんです。実際にこの87期からいらしているということですので,まだ数年ですのでなかなか難しいかとは思いますけれども,日本でもそういう可能性,ベトナムの方でも大学に行った子供たちもいますし,そういう方もいるんじゃないかなと思いました。
もう一つ,そのプログラムを組んだ方がここのフィリピンのバターンのキャンプでWHO*3のプログラムで派遣されていた人と一緒に教材開発をやっている人たちだったので,その二つを見てちょっと思い出したので,紹介させてもらいました。

*1 ESL by literacy 英語での識字能力をつけるための言語教育。
*2 カルチャーセンター 新聞社などが開講する教養講座。
*3 WHO World Health Organization世界保健機構。


西尾今,フィリピンのバターンという話が出ましたけれども,私もフィリピンのバターンに実態の視察に行きました。バターンには1万人ぐらいのアメリカ行きのベトナム難民の人たちが訓練を受けていました。もちろん英語の訓練もですけれども,職業訓練もある,それから,カウンセリングが大変に進んでいまして,一人一人のブース*1が60何個ありまして,精神的なケア,そういうことをしていました。
それから,いろいろな社会慣習などなど,やはりアメリカ人の社会というものを教えるために,訓練カリキュラムができておりまして,さすがに移民受け入れ先進国だと思いました。
それから,今,おっしゃった,既に日本で大学も出た人もいます。
国立大学を出て,大学院も出て,今,コンピュータでプログラマー*2としてばりばり活躍している人もいるし,ほかの国の場合,もう帰れるようになっておりますので,帰ってからあちらで起業して,社長さんになっている人もいます。それから,カンボジアの人では,一人党の議長になっていました。こちらで,埼玉県の鋳物のところで10年間ずっと働いた人が,母国に帰れて,カンボジアで,第三党の党主になって,議員になっていました。そういう人もおります。それから,大学で教えている人もいました。またベトナム人協会とか,カンボジア協会とかでは,同胞を救うという大きな運動をしていらっしゃいまして,そこで指導的な立場になれる人には役を与えて,例えばもう全く話せなくなっている,知らなくなっているベトナム語を子供たちにもう1回,自分の祖国の文化を教える,言語を教えるという運動を同胞の中でしていらっしゃいます。
私どもは,そういう人たちに日本語を教える教え方も含めて,指導法,教授法のようなものを習ってほしいというようなことを言いましたけれども,これはなかなか予算措置ができず,あとはボランティアでいろいろなところでやっている人もおります。

*1 ブース 展示会場。間仕切りをした小さな空間。
*2 プログラマー コンピュータのプログラムを作成する人。


参加者大和でボランティア活動をやっております宮台と申します。大和の定住センターにも日本語教室を2,3回見学させていただきまして,大変参考になりました。
一番最初にいただきました文化庁のご案内では,多様な年齢層への対応とありましたので,一つの教室の中で多様な年齢層に対応なさっているのかと思いましたら,先ほどいただいた資料では,カリキュラムは別々になっているということが分かりました。それにしましても,一定期間,同じレベルの人が,同じにスタートしましても,ある日時がたちますと,大変なレベル差が出てまいりまして,今のこの教え方では易し過ぎる,一方では難し過ぎるという,そういう人が5人以上のグループですと必ず出てまいりまして,どこに焦点を合わせるのか。両方とも退屈させないように,私としてはなるべく対話形式でやるものですから,難し過ぎる人には易しいことを質問したり,答えてもらったり,それから,難しい人には,易しい人が分からないかもしれないけれども,やはり難しいレベルの人がある程度満足するように心がけてはいるんですが,専門家の先生方の御意見をお伺いしたいんです。

鈴木先ほどの地域の教室の話もありましたけれども,クラス分けをしていますけれども,
10人いれば10人それなりにレベル差が出てきます。おっしゃったように,この人にとってはこれができればいい,この人にはもう少しやってもいいかなと,やはり一人ずつを見ながら対応をしています。(先ほども申しましたように),教科書は使っていますけれども,その教科書を使いながらも,実際の生活で何ができるようになるかということが大切なことですので,できるようになることは,その人その人によって違っていいわけです。

西尾地域の日本語教室を随分拝見しておりますが,それこそ先ほどシンポジウム*1で,私需要と供給という,余り似つかわしくない言葉を言ってしまったかと思いますけれども,半分ぐらいの日本語教室は,ほとんどマン・ツー・マン,1対1,あるいは1対2ぐらいで,本当になるべく同じような目的を持って,あるいは同じような学習歴があるとか,あるいは日本語力がある人を区別して,そしてそれぞれにボランティアの方がついてやっていらっしゃるというところが多いのです。大きな教室をボランティア教室でしておりますと,どうしても目的の違う人もいます。ただ,日本語のレベルの問題だけではないですから,日本語教室というのは,例えば運転免許を取りたい,職場の言葉を覚えたいとか,いろいろな人が来るわけですから,そういう目的から全く外れたことを一生懸命指導していても難しいです。目的別,あるいはレベル別,そういうことを考えますと,結局できるだけ要望に沿うようにしよう,こたえようとすると,1対1になってしまうんです。そういうふうな教室が多く見られます。

*1 シンポジウム 公開討論会。


参加者日本語についてお聞きしたいんですが,リソース型生活日本語をおつくりになって,大変すばらしいと思っているんですが,これを国際救援センターにおいても使っていらっしゃるんでしょうか。その場合は,どういうふうに使っていらっしゃるのか,教えていただきたいと思います。

鈴木国際救援センターでは,リソース型生活日本語にのる以前に,既に必要な事柄として,この内容を扱っていた部分もあります。例えば,災害に備えるとか,ごみの問題とか,いろいろありますけれども,現在この中で具体的に使っているというのは,例えば日本語教室,(リソースの)地域の情報を得るというところですが,どうやって通訳を頼むかとか,日本語教室の有無を聞くかとか,そういった項目があります。状況説明というのがありまして,そこを読む教材に使って,今まで学習した言葉で,伝えられることを言ってごらんといった形で使ったりしています。そういった使い方をしていることが一番多いです。

参加者春日部の方のボランティア関係をやっているんですが,実は今日の趣旨の中で,ベトナム難民ということで興味を持って参りました。今日のお話を伺っているんですが,実は私どものところにベトナム難民だったという50歳ぐらいの方が見えて,私も2,3回携わっております。その中でどういう指導をされたのか,いろいろお話を聞いている中で,なるほど,こういう指導をされるから,社会人として生活,最低限のことは指導されているんだなと,非常に礼儀正しいです。理解力も非常によくて,私たちと話しして,日本人と話す,私の友達みたいな形で非常にいい教育をされたんだなと思って,それを今日は御披露させていただこうかと,お話を聞いたついでに立派に春日部で職人として生活しているということを御紹介させてもらいました。今後とも頑張ってください。

西尾このように,今の地域支援の現場というものを考えてみますと,別にこれがあったからこうと,そう因果関係を無理に考えないでいただいてもよろしいんですが,20数年前からこういう問題が起こって,ともかくインドシナ難民が来る。さてどうする。本当に数週間でカリキュラムをつくり,それをどんどん修正,修正,修正しながら,時間も3か月では足りないから4か月ということにもなりましたし,どこに困難点があるということもやりながら現場でどんどん,実践研究のような,研究と言っては失礼ですけれども,実践的にどんどん構築していったわけです。そうしているうちに,ボランティアの方たちがそのフォローを始めてくださり,それがコア*1となって,今度はいろいろな外国人が地域日本語教室に来るようになって,その対応もますます盛んになっていったということは言えるだろうと思うのです。ただ,本当に地域日本語支援というものは,日本語教室というものは,そこに行けば,例えば母語がしゃべれるから,友達に会えるからというような動機で来る方もあるかと思えば,先ほどのもうすぐ何級試験が迫っているからといって来る方もあり,いろいろな人がいるわけです。それにどう対応していくかというのは,この中にも随分支援者の方たちがいらっしゃいますけれども,日に日にいろいろと工夫していらっしゃるところだと思います。その情報交換ができたらすばらしいと思います。ネットワーク,ネットワークと言っておりますけれども,私ども例えばメルマガ*2もしました。相談室もありますと言いますけれども,お互いに情報の交換の場がこういう日にますます深まっていくのがありがたいことだなと思います。
日本語教師必ずしも日本語支援の専門家ではないわけです。そこのところをぜひ日本語教師側が今度はよく認識,自己確知と秋山先生はおっしゃっていました。していかなければならないことだと思いますし,それから,日本語支援の専門家という方たちが,非常に広い知識を持ちながら,今,どんどん育っていかれて,コーディネータをやっていらっしゃいます。その方たちにも教えられながら,日本語教師は地域支援の現状というものを知るべきだと思います。
先ほどちょっと私は残念だなと思ったことがあって,中さんへの質問で終わってしまったんですけれども,短期研修はどうしたらいいかという,松下先生からの質問がありました。そういう固まったカリキュラムをつくるのこそ,もともとの教師が,従来型の日本語教師が専門的にできる部分です。だから,従来型の日本語教室,地域支援者というのを余りダブらせて考えると,一人の中に全部可能だと考えると,絶対的に無理が来るような気がいたします。支援の現場でそういう短期研修のプログラムをつくらなければならないとしたら,例えばほかのことを弁護士に相談したり,いろいろ専門家に相談するように,従来からやっている日本語教師に相談してくだされば,短期研修何時間でどういう目的でどうしたらいいということ,どういう教科書を使ったらいいかということは,すぐお答えができると思うんです。その辺のコンビネーション*3をはっきりと分けてしていく方が,効果が上がるというか,成果があるのではないかと私は思っております。
では,17:28になりました。朝10:00から,本当に長い間,皆様お疲れだと思いますが,御熱心に聞いてくださいまして,ありがとうございました。また今後ともよろしくお願いいたします。(拍手)

*1 コア 核。
*2 メルマガ メールマガジンの略。
*3 コンビネーション 組合せ。配合。チームワークのこと。

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